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幕末の志士

平安時代の記事を書いたり、近代の記事を書いたり、言ったり来たりですみません。

日本と西洋の貿易とキリスト教
1514年にポルトガル人がマラッカから中国と貿易を行って以来、ポルトガル人が初めて日本に上陸した翌年には、マラッカ、中国、日本の間で貿易が始まった。
1550年にポルトガル国王が日本との貿易の権利を独占した。

1587年(天正15年)6月18日、豊臣秀吉は九州平定の途上で、当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョとの夕食後、重臣達の御前会議で「施薬院全宗が寺社破壊や奴隷貿易等を行っている」とし高山右近に棄教を迫ったが殉教を選ぶと拒否されたため、コエリョを詰問した。翌6月19日、キリスト教の布教を禁じる『吉利支丹伴天連追放令』(バテレン追放令)を発布した。

右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。たとえば牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高(秀吉の軍師 勘兵衛で知られる。如水)・織田信秀・大友宗麟・小西行長・毛利秀包・蒲生氏郷などがそうである。
細川忠興・前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。

秀吉が言ったことを出鱈目のように説明している人(キリスト教徒?)もいるが事実である。
飛騨守の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。
領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」「領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった」などの記述がある。

1614年、右近は徳川家康によるキリシタン国外追放令の対象となる。

今も昔も大地震が・・・
1615年、慶長江戸地震(M6.5)
1637年に島原の乱が起こると、幕府は徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりを行いました。
江戸幕府はキリスト教を禁圧・根絶するために、宗門改めと呼ばれる制度を実施しました。この制度では、すべての人を寺の檀家として町村ごとに宗門人別改帳を作成させました。
1649年、慶安江戸地震(M7.0)
1703年、元禄地震(M8.2)
1855年、安政江戸地震(M6.9)
幕末、開国が始まると禁教令の緩和が取られ始めました。
1859年(安政6年)、幕府は開港場居留地において、外国人の信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可しました。
1894年、明治東京地震(M7.0)
1923年、大正関東地震(M7.9)死者約7万人

大災害を繰り返し経験している国だからこそ強いという国民性もあるようです。
地震、水害、火事(落雷)などの大規模災害からの復旧を考慮した日本の建造物も見られますね。
防災という意味では、瓦屋根やうだつ、町火消の登場があります。
大規模火災の時には家を引き倒して延焼を食い止める消防技術も有ったようで、家を壊しやすいように建てられていたとも考えられます。
壊しやすい家は建てやすい家、耐震構造と言うよりは壊れて建てての繰り返しですね。
災害で家を失うのは仕方がない、皆で協力し合って建て直せばいいという考え方。

雄藩
参勤交代で外様大名の資金力を奪っていましたが、幕末ころには欧米の資金も流入して(貸付)武器や防具などを購入するようになりました。

藩政改革に成功し、軍事力の近代化を行って、幕府の政局に発言力を持った大藩を「雄藩」と呼びました。
代表的な雄藩には、江戸幕府から遠い西日本・九州の薩摩藩(鹿児島県)、長州藩(山口県)、土佐藩(高知県)、肥前藩(佐賀県)の4藩があります。これらの藩は明治維新において大きな役割を担った人物を輩出しました。
江戸時代末期には、主に西日本の諸藩が財政改革に成功し、長崎を通じてヨーロッパ諸国の金融・武器商人とも貿易をするようになって経済力をつけ、軍備拡充と人材登用で国政における発言力を増し、「雄藩」と呼ばれるようになりました。歴史的にキリシタン大名も多かった地域ですね。
加賀藩(100万石)、薩摩藩(77万石)、仙台藩(62万石)などが代表例です。
歴史的な問題から倒幕論と征韓論があった。

公武合体(こうぶがったい)とは、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動です。公武合体策、公武合体論、公武合体運動、公武一和(こうぶいちわ)とも呼ばれます。

当時、江戸幕府の権威は低下の一途を辿っており、幕府を倒して天皇中心の政治に戻そうという機運(尊王論)が高まりつつありました。そこで、幕府は再び権威を回復させるため、公武合体政策を推進しました。
公武合体は、大老・井伊直弼が、孝明天皇の妹に当たる和宮親子内親王と、14代将軍徳川家茂との政略結婚によって、朝廷(公)と幕府(武)を合体させようとする「公武合体」を目指したことで知られています。
しかし、公武合体派も、あくまで幕府中心での政治をめざす考えと、福井・薩摩・土佐など大名たちが会議をおこして共同で政治をおこなうという考えが対立し、やがて薩摩藩が公武合体での改革をあきらめて、武力での倒幕(幕府をたおす)をめざす長州藩と盟約をむすんだことで、倒幕の流れが強まりました。

島津久光は「公武合体運動」の中心的な存在として活躍し、「寺田屋事件」、「生麦事件」、「薩英戦争」など、歴史上の重要な出来事にも大きくかかわり、倒幕開国派として明治維新につながる社会のうねりを作り上げた人物の1人です。

島津家は鎌倉時代に誕生した。
西郷隆盛は、13歳のとき、仲間のけんかを止めに入り、そのときの傷が元で刀を自由に振れなくなってしまいました。武道を諦め、学問に励み、薩摩の「郷中(ごうちゅう)」仲間のリーダーとして、信頼を得るようになりました。

薩摩藩の役人として働きながら提出した藩政に関わる意見書が認められ、1854年、27歳で藩主島津斉彬の江戸行きに従うことができました。その後も斉彬の側近として活躍します。

主君である薩摩藩主・島津斉彬の急死
3年間にわたって奄美大島で幽閉生活を送りました。
その後、鹿児島に召喚されましたが、斉彬の弟である久光の命に背いたとして、徳之島と沖永良部島への流刑を言い渡されました。西郷は過酷な格子牢で生死の淵に立たされました。

1862年(文久2年)8月に「生麦事件」がおこる。
イギリス人商人リチャードソンら4人が騎乗したまま島津久光の大名行列の中に入ってきたことにより発生しました。
薩摩藩士がイギリス人を殺害しました。
イギリスは薩摩藩に対して犯人の処刑と賠償金25,000ポンドの支払いを要求しましたが、薩摩藩はこれを拒否しました。

西郷は、1862年に徳之島に最初に流されました。しかし、島津久光からさらなる沖永良部島への遠島命令が下り、再び家族との別れることになります。

薩英戦争は、1863年(文久3年)7月2日から4日にかけて、鹿児島で薩摩藩とイギリス艦隊の間で行われた戦争です。日本では合法な無礼討ちでしたが、イギリス側は認めず戦争となった。

この戦争で薩摩藩はイギリスの力を実感し、イギリスも薩摩藩の実力を認識しました。このことは、幕末維新期における政局の展開に重大な影響を及ぼしました。

イギリスのジャーディン=マセソン商会は横浜に支店を出し(日本初の外資。建物は「英一番館」と言われていた)、幕末の日本でも活動した。
1863年、長州藩が井上聞多、伊藤博文、薩摩藩が五代友厚、森有礼らをロンドンに留学させたときはそれを支援した。
坂本竜馬もジャーディン=マセソン商会から支援を受けている。

話が前後しますが、死の武器商人について書きます
幕末には、火縄銃(日本で改良された銃も)と後装式の近代銃が混在します。

長州藩など討幕派に協力する一方、幕府に対してアームストロング砲などの武器を提供し、利益を上げている。

中国では怡和洋行(いわようこう)という。
1832年に広州(の近くのマカオ)で支店を開き、中国の茶や生糸の買い付け、アヘンの密貿易などに従事し、いわゆる三角貿易で大きな利益を得た。
1834年、東インド会社の中国貿易独占権廃止によって、民間の商社として急速に活動範囲を広げ、船舶を所有して運輸業を行い、建設や銀行業にも進出した。

ジャーディン・マセソン・ホールディングス(英語: Jardine Matheson Holdings Limited, 中国語: 怡和控股有限公司)は、香港にヘッドオフィス(登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン)を置くイギリス系企業グループ

清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。

ジャーディン・マセソン商会が創業した6年後の1838年、英ロスチャイルド家は同社とエージェント契約を交わした。

幕府を支援したのはフランスでした。
しかし、欧米諸国に広くロスチャイルド家の会社があり、リスク管理は万全でした。

1864年3月28日(元治元年2月21日)、吉井友実、三弟の従道(信吾)らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に迎えに来ました。途中で大島龍郷に寄って妻子と別れ、喜界島に遠島中の村田新八を伴って帰還の途につきました。

坂本龍馬と西郷隆盛は、1864年8月中旬頃に初めて会ったと言われています。
龍馬は師の勝海舟から紹介を受けて西郷と会っており、その感想を「釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。 もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろうと思います」と語っています。

土佐藩出身の坂本龍馬が西郷隆盛を頼り、薩長同盟「薩長連合密約六ヶ条」を実現したというのは作り話です。
実際は、薩摩藩の家老 小松帯刀という人物が島津久光を何日もかけて説得して薩長同盟を成し遂げましたが、小説では坂本の手柄に書き換えられました。西郷と大久保は小松の部下でした。

薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の桂小五郎とも交友関係にあったとされ、そこから作られた話。
薩長同盟は、江戸時代後期(幕末)の1866年3月7日に京都で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的・軍事的同盟です。

薩長+イギリス中心の倒幕が行われることになる。(薩長はイギリスの強さを知り手を組む)
そこへアメリカの黒船がやってきて不平等条約に至る。 >桜田門外の変

薩長同盟とイギリス、アメリカは日本経済に百害をなすこととなるが、薩長同盟が無くても江戸幕府の運命に大差はなかったでしょう。

関税の自主権を奪われる(~1911年まで)
幕末の関税引き下げは、1866年6月25日に英・米・仏・蘭の4か国と調印された「改税約書」によって行われました。

尊王攘夷
万世一系の皇室の存在を絶対視することから外国を夷狄とさげすみ、外国船を打ち払うという対外政略です。尊王攘夷運動は水戸藩が広めました。

新選組は、会津藩預かりの非正規組織として発足しました。
江戸時代末期(幕末)に京都の治安を守るために活動していた浪士隊です。
当時の京都では、尊王攘夷運動が激化し、過激な志士たちが親幕府的な立場の人々を惨殺する「天誅」が横行していました。
討幕派の動きを制圧し、尊王攘夷派志士の弾圧活動に従事し、1867年(慶応3年)6月に幕臣に取り立てられた。

坂本龍馬は、1867年12月10日(慶応3年11月15日)に京都の近江屋で暗殺されました。この事件は「近江屋事件」と呼ばれています。

事件の黒幕については幕府説、薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説などがあり、未だに謎です。

新選組は、1868年(慶応4年)1月3日から1月6日にかけて京都南郊で行われた鳥羽・伏見の戦いに参戦しました。この戦いは戊辰戦争(ぼしん)の初戦で、新政府軍が勝利しました。

当時伏見奉行所に駐屯していた新選組の人数は、150~160名と言われています。会津藩も含めて、劣勢な銃火器で西軍に対抗することは困難であり、刀剣による白兵攻撃に頼らざるを得ませんでした。
近藤勇の愛刀「長曽祢虎徹」、土方歳三は「和泉守兼定」、沖田総司は「菊一文字則宗」。戊辰戦争で敗北した新選組は、新政府軍に降伏しました。

甲陽鎮撫隊を率いて甲州勝沼で西軍と戦い破れ、その後上総国流山で捕らえられました。
近藤の処分に関しては、薩摩藩と土佐藩の間で意見が対立しましたが、土佐藩は新選組が坂本龍馬の暗殺に関与していたとみなし、厳罰を求めました。(土佐藩の私怨で武士として(切腹)ではなく斬首刑で処刑された)
1868年4月25日に近藤勇局長が板橋で斬首刑に処されたことで、組織としての新選組は事実上崩壊しました。
近藤の首は京都まで運ばれ、三条河原で梟首(晒されること)されました。
近藤の菩提を弔った最後の隊士は池田七三郎でした。

島津久光は「公武合体運動」の中心的な存在として活躍し、「寺田屋事件」、「生麦事件」、「薩英戦争」など、歴史上の重要な出来事にも大きくかかわり、明治維新につながる社会のうねりを作り上げた人物の1人です。島津久光は「公武合体運動」の中心的な存在として活躍し、「寺田屋事件」、「生麦事件」、「薩英戦争」など、歴史上の重要な出来事にも大きくかかわった人物の1人です。

明治新政府は、1868年(慶応4年)1月に天皇を中心として成立した

明治政府は、「富国強兵」をスローガンに、中央集権国家をめざし、版籍奉還によって藩の土地と民衆を政府に返すようにしました。
政治の基本方針を「五箇条の御誓文」は坂本龍馬の「船中八策」を元にしていると言う逸話がありますが、
これも間違い(司馬遼太郎『竜馬がゆく』の誇張=架空の竜馬が独り歩きしている)で、実際は勝海舟や佐久間象山や横井小楠から教わった事を坂本が要役したにすぎませんでした。

また、1871年(明治4年)には地方制度を見直して、廃藩置県を行ない、各県に県知事を任命して治めるようにしました。

明治政府のメンバーは、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の特に枢要な「維新の三傑」の他、薩摩藩の小松帯刀(小松清廉)、長州藩の大村益次郎、前原一誠、広沢真臣、肥前藩の江藤新平、肥後藩の横井小楠、公家の岩倉具視から成ります。

西郷隆盛は表舞台で活躍し、大久保利通は裏で権謀術策を巡らせ、西郷の活躍を陰で支えたと言います。

しかし、西郷は倒幕を果たした後に近代化の波に乗り遅れ、征韓論を唱えるがかなわず、西南戦争を起こし、大久保を最高責任者とする明治新政府軍に敗れた。1877年9月24日城山で戦死。享年51歳

大久保は幼馴染の西郷の死を冷静に報告しましたが、妹のみね子によると、西郷が西南戦争に関与していることを最後まで信じていなかったようです。

靖国神社が設立されたのは1869年(明治2年)で、維新後の政府のために戦って戦士した人々を合祀しています。
日本最後の内戦で賊軍となった西郷隆盛、江藤新平、会津藩の白虎隊は合祀されず。

2017年8月、無所属衆議院議員の亀井静香氏が靖国神社に合祀するように主張した。この話は余談、実現しませんでしたから。

欧米では戦争で使って旧式化した武器をユダヤ人が回収して途上国に高く売りまくりました。

1871年、薩摩藩出身の川路利良が、フランス警察にならった制度改革を提案し、現代の警察組織の基礎が築かれた。
1874年、首都警察として東京警視庁が設立され初代大警視(現・警視総監)に就任する。
巡査制や交番制度を採用し、巡査の身分を証明する警察手帳の交付をおこなう。

軍・警察の設置が岩倉具視・大久保利通によって計画される。邏卒(らそつ)は警察官

警察庁長官は全国の警察組織のトップの役職で、警視総監は東京都を管轄する警視庁のトップです。

火縄銃の終わり >後装式の小銃へ
戊辰戦争が始まる直前の1865年から各国の後装式の銃が輸入され、本格的に導入が始まったのです。
イギリスから輸入した「スナイドル銃」とがよく知られています。大砲も後装式になる時代でした。

修学旅行などでお馴染みの長崎のグラバー商会は、中国アヘン戦争で悪名高いアヘン貿易で巨万の富を得たジャーディン・マセソン商会が日本に作った代理店でした。
グラバー商会が坂本龍馬を介して薩長同盟に対して武器販売を行い、倒幕運動を成功させました。
薩摩も長州も英国などと戦争をして軍資金が底をついていましたが、武器の輸入資金は信用貸しによって輸入されていたようです。倒幕が成功して新政府が出来ればグラバー商会は日本政府から回収できますからね。

長崎での小銃の輸入量
慶応元年 2万5850丁(16万ドル)
慶応2 年 2万1620丁(27万ドル)
慶応3 年 6万5367丁(98万ドル)
明治元年 3万6511丁(62万ドル)
明治4 年 1万9163丁(29万ドル)

横浜での小銃の輸入量
慶応3 年 10万2330丁(133万ドル)
明治元年 10万5036丁(160万ドル)
明治2 年 5万8813丁(64万ドル)

スペンサーカーバイン(スペンサーカービン)
アメリカの南北戦争が終わり、回収された世界初の後装式連発銃「スペンサー銃」は日本などに持ち込まれて売られました。主に佐賀藩や黒羽藩がスペンサー銃を輸入しました。
スペンサー銃は当時人気で、藩で輸入しなくても領主一族が個人的に買っていたケースもあり会津藩藩士のヤンチャ姫だった山本八重には、兄の山本覚馬が長崎で買ったものを贈られていました。

1868年に大村益次郎が横浜で入手した際の価格は一挺37ドル80セントと記録されており、当時の官軍主力銃であったスナイドル銃の一挺9ドル30セントと比べ、4倍の価格でした。

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