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【ひめじ】ローカルネタ 神姫バス1

姫路のバスネタ2本の1本目
姫路地区では戦前から神姫合同自動車(現在の神姫バス)がバス事業を展開していた。
戦後、民間事業者の従業員によるストライキが多発、公共交通網が麻痺した。

1946年11月に、当時の姫路市長・石見元秀による戦災復興事業の一環として、
姫路市経済部に輸送課を設置し姫路市営バスが開業した。

姫路市交通局

姫路合同貨物から譲渡された木炭車5台を幌バスに転用し、
網干線、野里線、白浜線で営業運転を開始した。
22路線44系統、営業距離 105.74kmの路線を運行していた。
姫路駅の南北にターミナルを設けており、飾磨駅・網干駅発着の路線もあった。

木炭車

日本製鉄→富士製鐵→新日鐵広畑製鐵所 1993年(平成5年)に高炉を休止し姫路は鉄冷えとなる
市営バスも乗客が激減して赤字路線となり、平成18年度決算で約11億5千万円の累積欠損額になっていた。

石見利勝 市長
父は元姫路市長の石見元秀。(親が「市営バス」開業、息子が廃止)
四十数年前に庶民も車社会へ、バス不要に。

姫路市の合理化により、2010年(平成22年)3月26日 姫路市営バスが無くなり、
神姫バスの独占となりました。(神姫バスに移管)

近隣の市にあるようなコミューターバスに比べると倍程運賃が高いので、
鉄道駅が有る地域では神姫バスはあまり利用されていない。
逆に言えば、鉄道がない地域では市民の足となっています。

2003年の姫路市長選挙に無所属で立候補。現職の堀川和洋を破り、初当選を果たした。
2007年の姫路市長選では、石見の他に立候補者がいなかったため、無投票再選。
2011年の姫路市長選挙では、新人3候補を大差で破り、3選を果たした。

JR姫路駅の高架化事業の実現に尽力。
国宝姫路城の保存事業「平成の修理」に取り組んだ。
父・石見元秀が市長在任の時には「昭和の大修理」が行われた。

忘れたのは、若者が集まれる(遊べる)楽しい場所を作ら無かった
(祭りと史跡以外に)常日頃から遊べる場所を作るべきでした。
それが若い世代の人口増加に繋がるかも知れない。
歳を取ると、姫路城や圓教寺などの良さが分かるので、それ以外で年寄が思いつかないのは若者が集まれる魅力的な場所の提供でしょう。
姫路市は、ベイエリアの活用を完全に失念していましたね。

利勝市長は、政令指定都市への昇格を目指した

政令指定都市は、県から保健・福祉や都市計画・土木、教育などの各分野で、数多くの 権限が移譲されるとともに、財政面でも、中核市にない各種財源が移譲されるなど、現 在の地方自治制度上、最も主体的・自立的な行財政運営ができる制度です。

姫路市の人口は52万人
地方自治法第 252条の19 において、「人口50万人 以上で政令で指定する市」と規定されていますが、事実上100万人を超える可能性がある都市が昇格しているので無理でした。現在は中核都市

姫路市には大規模な祭りが有るので、人口流出を食い止めてくれている。

飾磨県だった播磨国

廃藩置県により1871年(明治4年)4月に旧姫路藩に設置された姫路県を母体として同年11月に播磨国内の各県が統合されて新しい「姫路県」が成立したが、統合から1週間で県庁所在地(現在のイオンモール姫路リバーシティー東側あたり)となっていた「飾磨県」に改称した。
県庁(仮)建物は最初、姫路城の三の丸広場にあったが、陸軍施設になった。

姫路城は駅から徒歩圏内、歩く人が多い

姫路城のループバス

姫路藩→姫路県が消えた
通説・姫路は佐幕(学説ではない)
旧姫路藩は幕末、尊攘・倒幕に反対し、幕府を支持した。
姫路城は徳川江戸幕府の西のおさえ

宮武外骨は著書『府藩県制史』において、旧姫路藩は譜代の佐幕藩であったために、県名として姫路の名称を使うことが明治政府(薩長)によって嫌われたためであるとしている。
逆に、姫路の人間は長州を嫌う江戸より。

姫路城も明治新政府の薩長バカによって取り壊されようとしていた経緯がある。

大久保利通(旧薩摩藩士)登場
内務卿・大久保利通は、国家的見地から、兵庫港を国際貿易港としての中心的な役割に発展させるため、当時まだ規模の小さい兵庫県に、物産豊かな飾磨県を編入することを考え、小に大が吸収されてしまった。

飾磨県消滅

飾磨県(旧 播磨国)地図は右読み

播磨国は、記紀にも頻繁に登場する畿内に接する大国でした。
大久保(薩摩)が仕切っていなければ、現在の兵庫県は無かったか、有っても飾磨県だったかも知れない。山陰の豊岡も兵庫県にした謎もある。
大河「光の君へ」でもよく登場する「播磨の国」。

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