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天皇家に協力した朝鮮人

北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)総書記の妹、キム・ヨジョン(金与正)氏は、
岸田総理大臣ができるだけ早い時期にキム総書記と会談したいという意向を伝えてきたとする談話を発表しました。

談話は「心から日本が両国の関係を改善したいのならば、政治的勇断を下すことが必要だ。自分が望んだからといって、わが国の指導部に会えるものではない」として、岸田総理大臣の政治的決断を求めていて、日本側に譲歩を迫るねらいがあるとみられます。

相変わらず上から目線で滑稽ですね。
犯罪国家でありながら、上から目線でものを言っている間は、身勝手な要求は通らないんですよ。

岸田総理大臣は記者団に対し、「キム・ヨジョン氏の談話については承知している。私は、これまでも北朝鮮との間の諸懸案を解決するためには、キム・ジョンウン総書記とのトップ会談が重要であると申し上げてきた。そのために私直轄のレベルで、さまざまな働きかけを行うと申し上げてきた」と述べました。

林官房長官は午後の記者会見で、「北朝鮮側の発表の一つ一つにコメントすることは差し控えるが、拉致問題がすでに解決されたとの主張は全く受け入れられない。日朝ピョンヤン宣言に基づき、拉致・核・ミサイルといった諸懸案を包括的に解決する方針に変わりはない」と述べました。

https://www.youtube.com/watch?v=JlLZQRpo9A4

国賓訪米は、不人気トップ会談ですな
北朝鮮の談話発表のタイミングは、韓国と米国へのメッセージも含まれているのかも知れませんね。


河野洋平氏が証拠もないのに韓国の言い分を呑んで譲歩し『河野談話』を発表した時に
政界・官僚・財界は韓国汚染が進んでるんだなと言われたものです。

その関係は、今に始まったことじゃない(悪い意味じゃなくてね)

古代、朝鮮人の渡来人は日本の天皇家とは交わっていないが、官職にはついていたとされる
現代の役人に朝鮮民族が多いこともその辺が影響しているのでしょうかね。

秦氏
秦氏(はたうじ)は、日本古代に朝鮮半島から渡来した渡来系氏族です。
秦始皇帝の子孫を称し、後漢霊帝の子孫という漢氏(あやうじ)と勢力を二分しました。

秦氏は、秦の始皇帝(中国の初代皇帝)の末裔という触れ込みで日本に渡来したようだが、
のちの中国での研究では血縁関係が否定されている。
秦の始皇帝の苗字は秦氏では無い。

東漢氏は、日本古代に朝鮮半島から帰化した氏族です。
5世紀に朝鮮半島から渡来したと考えられており、中国・後漢の霊帝の子孫を自称しました。

朝鮮半島からは「中国皇帝の子孫を自称」する人が2人やってきていたようです。

秦氏は、6世紀頃から断続的に倭国へ渡来してきました。
秦氏は、朝鮮半島の百済から帰化した中国系の人々で、弓月君(ゆづきのきみ)に連れられて5世紀の応神天皇の時代に来日したと『日本書紀』にて伝えられています。
弓月君は百済の120県の人民を率いて帰化したとある。

鉱山技術、鍛冶技術、養蚕、機織、酒造などの中国大陸の技術を倭国に伝播させたという事になっています。諸説あり
朝鮮半島で発明された技術はほとんど無いので、宗主国だった中国から伝わった技術というのが本当のところでしょう。

弓月君の子孫は葛野秦氏などを中心に各地の秦氏の流れへと繋がる。
天皇家に貢献(朝廷設立に協力)したとされる。
秦氏の子孫は氏姓に登呂志公、秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。

『日本三代実録』に、秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本らは惟宗朝臣の氏姓を賜ることとなった。

秦氏は、京都盆地を中心に勢力を持つようになった。

6世紀以降は大和政権の財政事務を担当し、長岡京・平安京造営にも活躍したことになっている。

7世紀始めに財力を蓄えた「秦河勝」は、聖徳太子から仏像を賜って、太秦に「蜂岡寺」(はちおかでら、現広隆寺)大酒神社(おおさけじんじゃ)を建立しました。

「大酒神社」
祭神は始皇・弓月君・秦酒公です。つまり、大避神社は、秦氏の氏神です。

京都は西に秦氏(松尾大社)、東に賀茂氏がいました。

賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区下鴨泉川町にある神社。
通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。

神魂命(かみむすびのみこと)の系譜に建角身命(たけつぬみのみこと)=八咫烏
がおられ、伊賀古夜姫(いかこやひめ)下鴨神社の祭神であり玉依姫命(たまよりひめ)の母神です。
玉依姫は神武天皇(初代天皇)の母として知られる。

玉依姫については最後に書きます。

また、上賀茂神社では、賀茂建角身命、伊可古夜日売(いかこやひめ)、玉依日売の三柱の神が祀られています。

東漢氏
東漢氏(やまとのあやうじ)は、大和国桧隈(現在の奈良県明日香村)を中心に居住し、大和朝廷の外交・財務などを担当しました。
蘇我氏の門衛や宮廷の警護なども担当していました。
蘇我氏と親密で仏教興隆に貢献しましたが、「大化改新」で一時勢力が衰えました。
「壬申の乱」で大海人皇子を助けたことで勢力を回復し、7世紀後半に忌寸(いみき)へと改姓しました。
官僚氏族では、坂上氏や史(ふみと)氏がいる。

玉依姫=鬼道のシャーマン?
日本各地に同様の名前を持つ女性がいたとも言われる。
古代日本で最初のシャーマンといえば、、、

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