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手から牛乳石鹸のにおいがする

クリエイターになりたい。自分の内側から湧き出る創作意欲に突き動かされて寝食を忘れ作品作りに没頭したい。誰も気づかないようなディティールにこだわって"分かってる人"に発見されたい。生まれる前に戻ってひとつスペックをいじれるとしたら、クリエイター気質の値をMAXにするのに。

クリエイターはその名前の通り「作る人」なので、作品を作って勝手に名乗れば良いじゃないかと思われるかもしれない。そんなことはとっくに実践済みで、Instagramの職業欄はクリエイターどころかアーティストである。それでも違うのだ。そういうことじゃないのです。

(私の憧れる)クリエイターを言語化してみると、「強い創作意欲を持っており、世界のあらゆる事象・物を自分なりに解釈し作品に昇華し続ける人」である。私が絵なり文なりを作る動機には、創作意欲が6割くらい、「こうすればクリエイターっぽい」が4割くらい入ってしまうので、どうしてもクリエイターのコスプレにしかならない。気にしすぎかもしれないが、自分に嘘はつけない。

自分はクリエイターだ、アーティスト気質だ、職人肌だと自分に刷り込み続けたけれど、28歳にして「やっぱ違うわ」と認めざるを得なくなってきた。なので今日は、私のクリエイター終戦記念日として、いかにクリエイターがかっこいいか、いかに私がクリエイターになり得なかったかを書き留めておこうと思う。土曜の夜の過ごし方としては陰気かもしれないけど、結構楽しい。

思うに、クリエイターは"持たざる者"であると同時に"持っている者"だ。

"持たざる"というのは、創作や表現でしか埋まらない心の穴のようなもの。生まれつきの人もいるだろうし、幼少〜思春期くらいまでの間に感じた不足感、焦燥感が元になっている人が多いように思う。

"持っている"というのは、好奇心やセンスや才能。審美眼であり、観察眼であり、直感力、発想力、根気。「これは作品(アート)だ」という説得力を作り出すのに必要な諸々。

この2つの車輪が揃うとクリエイターは走り出す。独自の切り口で世界を解釈し、常識や打算をデスクの上から床に落とし、無我夢中で作品を作り上げる。クリエイターの作品は、それが物であれ絵であれ文であれ、だから同じ世界を共有する私たちを揺さぶる。作品を通じて頭にぶち込まれる他人の世界観は「そんな風に考えたことなかった」し、「誰もこうまでして私に伝えてこなかった」ものだからだ。

2022年の2月か3月、Amazon Primeで『ライ麦畑の反逆児』を観た。『ライ麦畑でつかまえて』の作者J.D.サリンジャーの生涯を描いた映画だ。映画の話に入る前に、書籍『ライ麦畑でつかまえて』について簡単に紹介したい。

村上春樹訳(2003年)と野崎孝訳(1964年)がある

主人公ホールデンは16歳の少年で、成績が悪く退学処分を受けるが、処分が決まった後に老教師に説教をされたり級友と喧嘩をしたりして何もかもがイヤになり、退学よりも先に自ら学校を出ていく。この「何もかもがイヤ」はホールデンの基本スタンスだ。

本編はほとんどホールデンが家出をしている間の話で、同級生の母親と話してみたり、女友達に会いに行ったり、ナンパをしてみたり、娼婦を部屋に呼んで何もしなかったのに倍額をぼったくられたりする。

ホールデンの人物像はというと、自信のない批評家だ。一対一のコミュニケーションでは、わざとらしいくらい謙虚に振る舞ったり、会話をはぐらかしたり、相手を喜ばせようと嘘のストーリーをペラペラ喋ったりする。

一方で、心の中は他人の批評であふれかえっている。人の田舎っぽさ、俗っぽさ、野暮ったさをめざとく見つけ、「見ているだけで嫌になっちゃうよな」とうんざりしてみせる。

悪い子ではないけれど、ちょっと皮肉っぽくて批評家。いざ対面で会話をするとヘラヘラとかわして本音を話さない。「あれはダメ、これはダメ」は言うけれど意見の主張はない。こういう人って学生時代に誰もが遭遇しているんじゃないかと思う。

『ライ麦畑でつかまえて』のタイトルは、彼の次のセリフに由来する。妹のフィービーにこっそり会いに行って、お兄ちゃんはなんで何もかもが気に入らないのよ。好きなことはひとつもないんじゃない?将来何になりたいの?と問い詰められたときの答えだ。

「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね」
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 株式会社白水社

ホールデンに、共感するだろうか、腹が立つだろうか。就職面接でこんなことを言ったら人事が青筋立てて貧乏ゆすりをはじめそうだ。

科学者は弱いからイヤ。弁護士は人を救いたいのか名声を得たいのかわからなくなっちゃいそうだからイヤ。ライ麦畑で崖から落ちちゃう子どもを、助けてあげる仕事くらいしかやりたくない。

こんなことを言われたら、多分大人はみんなムカつくのだ。なぜかって、そりゃあ私だって8時から5時まで幸せ100%みたいな仕事があればやりたい。けれど現実はそうじゃない。みんな世間と折り合いをつけて、清濁併せ飲みながら会社や家族を守ってるんだから。

でもこれって要するに、私たちも我慢してるんだからお前も我慢しろってことだ。ホールデンに「いい加減現実を見ろよ」と吐き捨てると同時に思い知る。私が「あ、人生ってさっさと現実に折り合いつけた奴から上がれるゲームだ」と軍門に下ったのはいつだったんだろう?将来の夢をみかん屋さんから銀行員に変えたときか。先生好みの絵柄に寄せてみたあの絵からか。自暴自棄な海外一人旅を無理やり志望動機にこじつけてエントリーシートに縫い付けたあのファミレスか。

初めて『ライ麦畑でつかまえて』を読んだのは彼と同い年の16歳。10年以上経った今になって、偶然モニターに表示された映画『ライ麦畑の反逆児』に強烈に興味をそそられた。どんな人生を送った人が、ホールデンを生み出したのか。

自分の世界に異物を見つけて追い出そうとするような目線。「ライ麦畑で崖から落ちそうな子どもを助けてあげたい」彼にとって、このポスターを見る私たちは、彼と子ども達のライ麦畑に侵入しようとする異物だ。 © 2016 REBEL MOVIE, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

映画のサリンジャー役はニコラス・ホルトが演じていた。彼の映画を見るのは初めてだったが頬が高く眼差しが強い。

サリンジャーは物書きを志すが、どの出版社も作品を掲載してくれない。出版が決まるかと思われたときに第二次世界大戦が始まり、戦地に送られる。サリンジャーの執筆の炎は消えることなく、極寒の地で雪ざらしになりながらも、口頭でホールデンの物語を書き続ける。

サリンジャーは生還し、一時はPTSDで執筆困難に陥るが、遂に『ライ麦畑でつかまえて』を出版。世界中の若者から支持され、一大ベストセラーとなる。

映画はその後サリンジャーが隠遁生活を送るところまで描かれるのだけれど、私が特に話したいのはサリンジャーが『ライ麦畑でつかまえて』を出版社に持ち込むシーンだ。

ちょっとサリンジャー世界から帰ってきて、令和4年2月、お風呂上がりに座椅子に座り、映画を観る自分を想像してほしい。

画面の中には、過酷な戦場でも脳内で執筆を続けたサリンジャーが、編集者に会いにいくシーン。

編集者の男は原稿からゆっくりと顔をあげ、満足と賞賛の笑みを浮かべる。

わぁ、遂に本を出版できる!興奮で思わず画面に近づき、両手で口を抑えた。その瞬間、

「あ、牛乳石鹸の匂いがする」

何を言っているかわからないと思うが、私は頭でわかる前に心でわかってしまった。

「あ、私、何かを生み出せる特別な人間じゃないや」

手がふやけるまでお風呂に浸かり、牛乳石鹸(ベビー)で顔を洗い、サブスクで映画を観ている、普通すぎるくらい普通の人間だ。この毎日に、作らずにはいられない衝動や執念を感じたことは一度もない。お腹いっぱいで清潔で、空き時間は映画観て満足である。

クリエイターを気取ってみても、プロフィールをアーティストにしてみても、毎日生きているこの日常だけが真実だ。「時間があればクリエイティブなことしてみたい」と言うだけの人、自分はそうじゃないと思っていた。むしろ、そんな奴のど真ん中だった。

世界的作家と自分を比較するなんて烏滸がましいと思われるかもしれない。けれど、サリンジャーと自分を比べたわけではない。「もしかして自分はクリエイター気質なんて持っていないのかも」と思うたびに傾く天秤に、決定的な錘が乗せられたというだけ。

さて、「勘違いしてたけど、私クリエイターじゃありませんでした」なんて親も聞いてくれなそうな告白をなぜわざわざ文に起こしているかというと、28年も自分をクリエイターと刷り込んでいると、それなりに感じたことを作品として残したい気持ちが芽生えてくるからだ。

芽生えると言うのもちょっと大仰で、どちらかというと色移りに近い。友達に自慢するために、綺麗なお花を通学路いっぱい握って来たら、手のシワの間に緑の汁がついちゃって取れない。お花は大した自慢にもならなかったけれど、青臭さだけは残った。これからも「あ〜クリエイターってかっこいいな〜」と憧れながら、365日中360日を何も作らずに過ごすのだ。

最近、『ライ麦畑でつかまえて』を村上春樹訳で読み直すことにした。ホールデンにイラッとしたり、わかるよわかるよと頷いたり。読んだことのある人がいたらぜひ感想を言い合いたい。そしてぜひ映画『ライ麦畑の反逆児』をおすすめしたい。主人公=作者という見方は安直すぎることは承知だが、サリンジャーはあまりにも意志が強く苛烈で、ホールデンと似ても似つかないのだ。


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