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子供のときの夢を一つずつ実現していくのが人生だ

「言葉にすれば夢が叶う」と何度も言われたけれど逆だ。言葉にすればするほど夢は薄まる。一般化されて、わかりやすくなって、人ウケする夢になっていく。だって聞かれたからには相手にわかるように話さなきゃいけないし、叶わなかったときに夢破れたと思われたら嫌だし。

幼稚園のとき、順番に将来の夢を発表する会があった。私がみかん屋さんと答えたあと、次の子がゼニガメって言って、そこから猫とかセーラームーンとか別生物を答える流れになり、子どもながらになんかミスったなと思った。夢にもトーンがあって、おんなじくらいにしといた方が後で書かされるお絵描きとか短冊がやりやすくなる。

小学校の卒業文集の夢はお嫁さんだった。隣接してる幼稚園の先生が照れながら「先生の将来の夢はね、お嫁さんだったの」って答えててかわいかったから真似をした。

中学の総合の時間(あれ何だったんだろう)に、自分の長所から適職を見つけようみたいな課題があった。長所の欄と適職の欄があって、長所に粘り強いこと、適職に納豆と書いた子がいた。
先生に読み上げられてクラス中爆笑だったのだけど、あんなの真面目に書けないよな。宇宙の図鑑が好きでも天文学者にはなれないし、部員10人中のスピードスターはスポーツ選手になれない。最大の長所をもってしても誰かの下位互換なら、納豆になった方がマシだ。机の間をゆっくり歩く先生が自分の横に来る前に、プロ野球選手はスポーツトレーナーに、冒険家はツアーコンダクターに、小説家は国語の塾講師に転職していった。

高校受験の準備で将来の夢の作文を書かされたとき、言葉に関わって生きたいみたいなことを書いたら、「出版社で働きたい」にしたら?ってコメントされた。私の言葉が伝わるところに自分を連れて行かなきゃいけないと思った。

高3の倫理の授業で、先生がクラス全員の将来の夢を端から聞いていった。私は声が裏返らないように「言葉を大切に生きる」って答えて、先生は何も聞かず、一言一句変えず、チョークで「言葉を大切に生きる」って書いてくれた。その先生のことが大好きになった。先生が教えてくれた倫理は受験で使わなかったけど、先生に合格通知を見せに行った。「わざわざ休みの日に学校に来て、これ見せて周ってるの?」ってちょっと鼻で笑われたけど、先生が本当に良い大人だって知ってたから、どんな言葉でも祝われてるってわかってた。

そういえば、最後の1人の夢が黒板に書き切られたとき、1人の生徒が「撮っても良いですか」って立ち上がって、写真に残してくれた。その子は今高校の先生になってる。
このことを思い返すたびに、主語なしの「好きだな」「きれいだな」「有るんだな」が浮かんできて泣きそうになる。

ただ、あの教室のような安全地帯はそう多くない。

だから「夢は言葉にしよう!」なんて絶対人に言いたくない。言葉にさせる行為は輪郭を与えるってことで、その場に誰が居るのか、どこに貼り出されるのかに影響され、形をゆがめてしまうから。

今大人をやってる私たちは、子どもの頃の夢を薄めて、望まれる形に整えて生きてきた。

けど、大人にも夢を話せる瞬間があって、例えば次の日の仕事が休みで、終電を気にしなくてよくて、アルコール分解が追いつかなくなって、お互いがお互いの安全地帯なとき。「本当はこんなことしたいんだよね」ってポロッと出てきたりする。大人がこぼす夢は、なぜか子どものそれより守りたいなって思うし、守ってほしいなって思う。

言葉も表情も強制力を持っているから、肯定の概念だけテレパシーで送りたい。黙って黒板に書いた先生の行為は、究極の肯定だったな。

私の知る限り最も夢を守ってくれる言葉は、森博嗣の『夢の叶え方を知っていますか?』にある。

子供のときの夢を一つずつ実現していくのが人生だ、と僕は考えている。だから、そんな忘れていた古い小さな夢であっても、思い出したらやはり最低限誠実に応えようと思う。
森博嗣 2017『夢の叶え方を知っていますか?』朝日新聞出版

子どもの頃の夢を思い出して叶えようとしている大人が好き。子どもの頃のその人と、友達になれたような感じがする。

音大に進学するか迷って、普通の大学に入学した同級生が、最近ストリートピアノを始めた。買い物中に「ご自由にお弾きください」と書かれたピアノを見つけて、その子の妹が背中を押したらしい。確か高2のとき、その子のピアノの発表会に行った。教室では誰にでも親切でやわらかな笑顔を絶やさない彼女が、髪を振って弾く激しい音に、生まれて初めてピアノで泣きそうになって、隣に座ってた友達がこの曲はベートーベンの『熱情』だよって教えてくれた。

私はあらゆる物事を言葉で表せるようになりたいのだけど、熱情だけは彼女のピアノを上回る表現が見つからない。

小さい頃、絵本の表紙裏の無地のページに、架空の1ページ目を書くのが好きだった。言葉を書くのが好きだったし、それを発表したかった。その頃の自分に最低限誠実に応えたくて、ここのとこ土日はnoteを書いている。

私は仕事でも文を書いているのだけど、どうしても「みんなが知りたいと思っていることにわかりやすく答える」必要がある。ニーズドリブンってやつだ。

けど、子どもの頃好きだったのは、自分が感じたことを自分なりの切り口で書くことだ。ニーズなんて関係なかった。だからここでは、古典とかSFとか短歌とか詩とか、私の宝物の話しかしない。

夢の叶え方を知っていますか?』には、引用した一説以外にも、自分が「見たい夢」と人に「見せたい夢」の違いとか、現代人は楽しさを作ることをしなくなり、楽しさは誰かが作ってくれて自分は商品を探せば良いと漠然と感じているなど、頷きが止まらないことがたくさん書いてある。

読んでいると、子どもの頃の夢に混じった不純物が取り除かれている。不純物っていうのは「こういえば親と先生が喜ぶ」「この夢なら叶う見込みがあるから恥をかかない」「この夢なら会社の理念と通じるから面接に受かる」みたいなやつ。なんか一種のお祓いだ。良い読書ってお祓いなのだ。

伝わらなそうな人達に、夢を正直に教える必要なんてない。外圧に編集されてしまうから。十回口にすると"叶う"なんて言うけど、十回も危険に晒さなくて良いよ。

ちゃんと子どもの頃の夢を思い出す毎日のスキマとか、できるだけ誠実に叶えてあげようとする自己愛とか。夢を叶えてくれるのは、そういう内側の変革だ。


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