見出し画像

<石原慎太郎氏追悼> 水道橋博士著「藝人春秋3」第4章 【エライ人・対決編】石原慎太郎VS三浦雄一郎 公開

水道橋博士が、「威張りんぼうは面白い!」という視点で、あえて相手の懐に飛び込んで観察。エライ人は茶化したい。さて博士からみた慎太郎の姿とは――。


【エライ人・対決編】

石原慎太郎 vs 三浦雄一郎

その1

「石原慎太郎をやるんですか!?」

 2014年3月6日──。

 この日も清水谷坂を登って文藝春秋の本館に入り、守衛の目を避けるように1階奥のサロンへと直行した。ボクの眼前には新谷学編集長が座っている。

「あ、ハカセさんは、いつものブラックでいいですね」

 このところの頻繁な呼び出しは正直、億劫だったが、そのたびに出される淹れたての珈琲の薫りは悪くなかった。

「いやぁ、お呼びたてして申し訳ないです。「週刊藝人春秋」の連載、約束の50回までカウントダウンに入りましたし、ここらで取り上げる人物について御相談が……」

「なんでしょうか? 人選についてはボクに一任するという約束だったかと」

「もちろん! ただ一言だけ……。雑魚はもういいのでは?」

「雑魚……?」

「雑魚はちょっと失礼でしたナ。しかし、今こそ冒険すべきです! 主人公は冒険に出て、敵に向かっていく、そして苦難の末、敵に打ち勝ち、そこにまた新たなる強敵が現れる……」

「ん? 『少年ジャンプ』の話ですか?」

「フンッ!」

 新谷編集長が鼻を鳴らして笑った。

「もちろん『週刊文春』の話ですよ。いや、ズバリ言いましょう! そろそろ連載の終盤にふさわしい、誰か大物を取り上げてみては?」

 口調こそ穏やかだが、眼鏡の奥の切れ長の目は微塵みじんも笑っていない。 

「なるほど。では、お言葉に甘えて……」

「ん? もう仕掛けはできている、と?」

「標的がひとり……」

 新谷編集長が息を呑む。

「石原慎太郎を!」

 ボクの出した名前が予想外だったのだろう。さすがの百戦錬磨の「M」も血の気が引いたのか、冒頭の言葉を吐き、声を上げて驚いてみせた。

「うーん、それはマズいですな……。文藝春秋と石原慎太郎には長い関係性があります。歴代の担当編集者は皆、弊社の上のほうにいますから」

「でも、慎太郎は芥川賞の選考委員を辞任しましたよね? もはや作家としてタブーな存在ではないのかと……」

「さすがに裏事情までよくご存じで。そういうところで出版社と作家の力学が変わって来ることは事実です」

「ボクがずっと関心を持っているのは、石原慎太郎と三浦雄一郎の関係なんです」

「みうらゆういちろう、と言いますと、あのプロスキーヤーの?」

「ええ、あの三浦雄一郎さんです。80歳でのエベレスト登頂の世界記録を巡っては、先日の『週刊文春』でも、その快挙に疑義を呈していましたよね?」

「ほー、よく読まれてますなー。しかし、そこをさらに掘りますか?」

「いえ、今回の一件とは全く別の話です。実は去年から引っかかっていることがあって……」

「ほほ~ぅ。引っかかっていることとは?」

 新谷編集長が訝しげな表情でこちらを凝視している。その視線を外すように、ボクは珈琲カップを手にした。右手で静かにカップを揺らすと、ひときわ強く珈琲の薫りが匂い立った。

 詳しく語ろうとしないボクに痺れを切らしたのか、新谷編集長が先に口を開いた。

「改めてお聞きしたい。なぜに今、そのふたりを?」

「そこに山があるからです!」

 

イラスト:江口寿史

 2013年7月10日、昼──。

 ボクは浅草・雷門前で行われる「日本維新の会」の街頭演説会を見に来ていた。参議院選挙の投票日を11日後に控えたこの日、党勢を広げるために電撃的タッグを組んだ石原慎太郎と橋下徹の両代表が、此処浅草で揃い踏みするとの情報を入手したからだ。

 実は、ボクがこの行動に至る手引きがあった。石原慎太郎の『わが人生の時の会話』の一節だ。石原慎太郎は「仕事柄町で車の上に立って演説などしていると、あれだけの高みからだが周りがとてもよく見える」と綴り、続けて過去の体験について語った。

 ある時、同じ札幌の公園通りで誰かのための応援演説をしていたら、向こうからこれまたとんでもなく派手な緑のジャケットを着、真っ赤なズボンをはいた男がやってきた。遠目にもその目つきが常人ではない。と思ったら件の男が遠くから親しげに、あきらかにこの私に向かって手を振ってみせるので目を凝らしたら、三浦だった。

 

 この「三浦」とは「三浦雄一郎」のことだ。

 なるほど。石原慎太郎は応援演説の壇上からでも観衆のひとりひとりを識別できるのか。

 閃いた! それならば、漫才師のボクは、この行動で韻を踏むべきだ!

 そして、チャンスは今日しかないだろう!

 ボクはすぐに長年、心の隅に淀んだままの疑問を晴らすため、質問趣意書のような箇条書きにして手紙にしたためた。

 

 7月の強すぎる陽射しの下、浅草寺の雷門の前には観光客だけでなく、明らかに石原慎太郎と橋下徹の二枚看板が目当てであろう群衆が多く詰め掛けていた。

 周囲にのぼりが立った街宣車をめがけて、人波をかき分け、前へ前へ向かっていく。

「オイッ、水道橋博士がいるぞ! アイツ何しに来たんだ!?」

 街宣車の真正面に陣取り、仁王立ちするボクに対して、警護の担当者や陣営のSPがにわかに色めき立った。胸につけた無線機で、しきりに行動確認と連携を呼びかけており確実にマークされた。

 それはそうだろう。こちらの面は割れている。しかも、約1ヶ月前に「小銭稼ぎのコメンテーター」事件で生放送中に番組を降板して以来、橋下代表とは初めての対面となるのだ。

 全国に名の知れた政党の代表が、炎天下、群衆を前に街頭演説を繰り広げる現場に、因縁のある男が現れ、手が届くほど間近に相対している──要人の身辺警備を担当するSPであるならば、決して正体不明の危険人物ではないにしても、何かしらの行動を起こすのではないかと、極小の可能性ですらも警戒すべき光景だろう。

 おまけにその日のボクは、直接的行動を取ると思われても仕方のない、ある種のテロリストの妖気のようなものを纏っていたはずだ。

 事実、自分でも直訴状を胸ポケットに隠し持ち、機会を待って身を震わせている自らの姿に、沢木耕太郎の名著『テロルの決算』で描かれた、日本社会党の委員長・浅沼稲次郎を狙う若きテロリスト・山口二矢おとやの心情を重ねていたのだから……正直、自意識過剰だ。

 いや、これからボクが相対するのは無意識過剰の人だ!

 自分にそう言い聞かす。

 かつて評論家の江藤淳は、石原慎太郎が1999年に都知事に就任した際に、その人格を「無意識過剰」と定義したことがある。少々長くなるが、以下に引用する。

石原慎太郎は、かつて参議院全国区に出馬したとたんに三百万票を獲得し、衆議院に移ってからも二十五年間、国政選挙で敗れたことがなかった。美濃部元都知事に惜敗したときですら、二百三十三万票は取っていたはずである。その石原が、今度はあとから出て来て、「NO」といいながら百六十六万票をカッさらって行った。明石康、鳩山邦夫以下の「政党候補」の顔色がんしょくもあらばこそである。

 とはいうものの、三月のこの欄にも記したように、私はかならずしも「無党派層」なるものの存在を信じているわけではない。しかし、選挙民の、はっきりとは言葉にすることのできない喜怒哀楽を信じている。その点で石原慎太郎は、他のすべての候補者とひと味もふた味も違っていたのである。

 何故なぜならこの「必要条件の天才」は、同時にまた「無意識過剰」の人だからである。「無意識過剰」であるがゆえに、他人からああ思われはしないか、こう言われるのではないかと顧慮こりょすることがない。したがって、凡百ぼんひゃくの人間ならいつも抑制せざるを得ない喜怒哀楽を、惜しげもなくあらわにしてはばかろうともしない。

 その点で石原慎太郎は、一方では「この野郎、いいたいことをいいやがって」という反感をかき立てながら、その半面「よくぞいってくれた。その通りじゃないか」という熱い共感を、いつも深く掘り起こすことができた。そういう共鳴者が百六十六万人もいたからこそ、石原新都知事はあたかも凱旋がいせん将軍のごとく、東京都庁の主になったのである。

(『産経新聞』1999年5月10日) 

 そんな前都知事であり、無意識過剰の凱旋将軍様に直訴するのだ。

 しかし、真打登場の前に街宣車の壇上から長広舌を続けていたのは橋下徹だった。

 橋下徹が言葉ひとつひとつを張り上げ、大見得を切りながら、投げかけた視線を手元に落とした、その先、大群衆の最前列にボクの存在を見つけ、ハッと顔色を変えた。

 眼が交わる。と、すぐにその認識を飲み込み、反射的に笑顔を作った。

 ボクも橋下徹を目で捉え、小さく会釈を返したが、今日のボクの目的は選挙戦真っ最中を狙ったテロではないのだ。

 そして、ボクの標的が汗だくになった橋下徹の指名を受け登壇した。

 夏の太陽がジリジリと照りつける街宣車の上で、80歳という年齢を微塵も感じさせず、鷹揚にマイクを握る石原慎太郎。演説を始めると、街宣車の目の前、気づかないはずがない場所に陣取っているボクに、石原慎太郎も当然の如く気がついた。

 しかし、いつものようにパチパチとまばたきを繰り返すのみで、視線を交わすまでには至らない。そして、演説をひとくだり終え、石原慎太郎がマイクを置いた瞬間、直筆の手紙を胸から取り出し、それを振りながら叫んだ。

「石原さんッ! 5分だけお話を!」

 石原慎太郎はボクを一瞥すると、無表情のまま街宣車から降りようとした。

 すぐに後を追いかけ、街宣車の裏側に廻って、石原慎太郎の視線の届く場所に移動し、その視野の中で手紙を掲げて声をかけた。

「スイマセン! 知事! 水道橋です。お時間はとらせません。お願いがあります。これを読んでください!」

 直線距離にして、およそ2m。遮るものは何もない。

 屈強なSPに付き添われた石原慎太郎は、そこでようやくボクをしかと認識したようで、やや驚いたように仰け反り、まばたきを繰り返すと「ヨォ!」と右手を挙げた。

「石原さん、手紙を読んでください!」

 再び声をかけたが、一切受け取ろうとはせず、側近が開けたドアにスーッと吸い込まれるように黒い送迎車に乗り込み、そのまま、一顧だにすることなく走り去った。

 無念──。

 この日の直訴は失敗したが、もはや正攻法では石原慎太郎には会えないのだから仕方ない。

 ボクが追っている“石原慎太郎ミステリー”とは何か?

 それは2013年5月23日、国会議事堂のぶら下がり取材で、石原慎太郎が記者団に向けて述べた発言に端を発する。

この日、石原慎太郎は記者団から、同日に史上最高齢の80歳でエベレスト登頂を成し遂げた冒険家・三浦雄一郎の世界的快挙について尋ねられた。

「素晴らしいねぇ。うらやましいね。とにかく80歳で世界の一番の屋根まで登ったんだから。俺は今、こんなところでくすぶっているけど、やっぱり彼は日本、世界中の高齢者の希望の星だよ。彼は人間の本当の生き様をあの年齢で明かしてくれた。参院選に出ないかなぁ……、あいつ!」

 石原慎太郎はアイゼンのようないつもの鋭い舌鋒を引っ込め、三浦雄一郎の不屈の精神を手放しで賞賛したのだった。なにしろ、悪化する持病の不整脈に加え、76歳の時にスキー場で負った骨盤と大腿骨を折る大怪我を乗り越えての人類史に残る偉業達成なのだから。

 しかも、本人が目の前に居て仲間に呼びかけるように“あいつ”と呼んでみせた。

 さらに記者団から「80歳で叶えたい夢は?」と問われると、やや苛ついたように「憲法を変えること。そのために暴走しているんだ!」と即答。そして、念を押すように「憲法改正はエベレストより難しい!」と語った。

 今、ここに「俺=石原慎太郎」と「あいつ=三浦雄一郎」の80年間を振り返ろう。

 慎太郎と雄一郎──。

 1932年生まれの同い年。

 80代の今も世に高名を知られるが、どちらも若くして斯界しかいの頂点を極め、日本を代表するヒーローであり続けた。

 片や、一橋大学在学中の22歳で文壇デビュー。『太陽の季節』により芥川賞を史上最年少で射止め、「太陽族」という流行語を生み出すほどの人気作家となった。

 片や、10代の頃からスキーヤーとして国内の大会で数多くのタイトルを獲得。31歳の時にはスピードスキー競技で当時の世界新記録となる時速172㎞を樹立し、“雪上のカミカゼ”と呼ばれるほど命知らずな冒険家として世界にその名を轟かせた。

 

 政治的イシューとは違い、同時代を共に生きた、同い年のスポーツマンである雄一郎に、80歳を超えても賛辞を贈り続ける慎太郎が漏らした一言。

「参院選に出ないかな……あいつ!」

 その場に居合わせた若い記者ならば額面通りに受け止めてしまうかもしれないが、慎太郎の著書や関連本を何冊も読んでいたボクには、この本気ともブラックジョークともつかぬワンフレーズが記憶の隅に引っ掛かり、解せなかった。

 なぜなら、両者にとってこの「参院選出馬」というキーワードは、かつて互いを結びつけ、そして引き裂いた、奇妙で滑稽な、今もスッキリしていない物語をはらんでいるからだ。

 事実、慎太郎は頻繁に、いや、より正確に表現するならば、「執着」とも呼べるほどに、そのエピソードを自著に記している。

 事の次第を説明しよう。

 1970年、春──。

 石原慎太郎はネパールにいた。

 1966年に富士山でのスキー直滑降を成功させ、冒険家として世界にその名を轟かせた盟友・三浦雄一郎の新たなるチャレンジに共鳴し、雪深いアジアの彼の地にまで同行したのだった。

 慎太郎は、雄一郎がエベレストと世界第4位の高峰ローツェの間にある、サウスコルと呼ばれる標高約8000m鞍部からスキー滑降に挑む大冒険に際し、総隊長として現地政府との折衝役を務め、同時に弟、裕次郎がボスの石原プロ、記録映像班も帯同させていた。

 ふたりは互いが認め合う、紛れもなく若き「同志」だった。

 しかし、雄一郎の前人未到の大挑戦はスタート直後、悲劇に見舞われる。

 乱気流と氷壁にバランスを崩し、急斜面を真っ逆さまに墜ちるように滑落したのだ。それでも、運良く氷河に落ちる寸前に新雪に体を止められ、奇跡的に一命だけは取り留めた。

 なお、その一部始終を収めた、石原プロ製作の『エベレスト大滑降』というドキュメンタリー作品は、後年その版権を買い取ったカナダの映画会社によって『The Man Who Skied Down Everest』(邦題『エベレストを滑った男』)というタイトルでリメイクされ、1976年にカナダ映画史上初のアカデミー賞(長編記録映画部門)を獲得している。

 しかし、これほどの大きな冒険、九死に一生を得るほどの極限体験を分かち合い、互いに人生の“山”を踏んだふたりの強い絆、関係性が帰途、急転する。

 冒険を通じて、慎太郎と意気投合した雄一郎は、当時、政界への転出を考えていた。祖父が代議士ということもあってか、「一生スキーヤーで終わるつもりはない。男の仕事として政治を選びたい」と参院選出馬に密かに意欲を示していた。

 一方で当時、新人議員ながら、派閥が牛耳る大自民党の中でこのまま「個」として埋没したくないと考えていた慎太郎にとっても、その申し出は渡りに船であった。

 政治の力とは数だ。選挙を重ねて、仲間を増やしていきたい──。

 両者の意向は一致した。

 帰国後、雄一郎を自民党全国区初の公認候補として出馬させるため、慎太郎は佐藤栄作総裁への報告を終えると自ら先頭に立って関係各位の支持集めに奔走する。そして、世界的冒険家としての抜群の知名度もあり、このまま出馬すれば当選は決まったも同然というところまでこぎつけた。

 その矢先、慎太郎は党本部に突如呼びつけられる。

 当時の自民党幹事長、田中角栄の命だった。

「おい、君ぃ、これはなんだ!? こいつちょっと変だぞ!」

 例のダミ声でそう言って渡されたのは、分厚い手紙の束だった。

 慎太郎にはまったく見覚えがないものだった。

 差出人は三浦雄一郎で、その内容は石原慎太郎を罵倒する言葉で埋め尽くされていた。さらに、ご丁寧にも自身の印鑑で何か所にも割り印が押されているという一種、常軌を逸したものであった。

 それを見た慎太郎は「三浦雄一郎は慣れない選挙対策のせいでノイローゼになっている」と確信する。

 その後も長野市で雄一郎の演説会を企画したところ、会場前の石畳の広場に小型テントを張り、野宿する者が現れた。中を覗くと、そこにいたのは三浦雄一郎本人だった。

しかも生のキュウリを齧っているという有様だ。

イラスト:江口寿史

 大自然の中で自由に生きてきた冒険野郎が、窮屈な選挙運動のプレッシャーから心を病んでしまった、と慎太郎は落胆し、雄一郎を候補者として擁立することを諦めた。

 結局、正式に雄一郎の出馬は流れ、その後釜に(後に総理大臣となる)細川護熙が据えられるのだが、慎太郎の支持団体はそれに納得せず、彼らは彼らで立川談志を候補として推したのだった。

 結果論として、この出来事は、落語家・立川談志の政治家転身を生むこととなる。

 この出馬をきっかけにして、立川談志と石原慎太郎は生涯の刎頸ふんけいの友となった。

 2011年12月21日に、ホテルニューオータニで開かれた立川談志のお別れの会でも、石原慎太郎は弔辞を読み、友の死を悼んだ。

 ちなみに、談志の長男の名前は「慎太郎」だ。

談志はしばしば、長男を落語のまくらに登場させ、息子を叱る体で政治家・慎太郎をからかってみせた。

 一方で、この選挙で国政に進出することになり、やがては総理の座に登りつめ、そして、2014年の都知事選でも反対陣営に居た細川護熙に対しては、自叙伝の『わが人生の時の人々』で延々と悪しざまに書いている。

こちらとしてももうぎりぎりのタイミングのことだし、幹部に計ったら急場の凌ぎに仕方あるまいということで細川擁立となった。結果この出来の悪い殿様候補を抱えてみんなどれほど苦労したことだったか。(略)ものの弾みとはいえついには総理にまでなった。総理として大いに活躍してくれたならかつての仲間の苦労も報いられたものだが、どう見ても政治的IQが低劣としかいいようない殿様はついには日本の歴史を冒瀆するような発言までして見せ、果ては東京佐川急便のブラックマネーで野垂れ死にの失脚とあいなった。元はといえば、いっても詮ないことだが冒険スキーヤー三浦雄一郎のノイローゼが日本の政治をいささか狂わせたということにもなる。

 細川護熙の総理就任後の失態、日本の政治状況の推移すらも、まるで三浦雄一郎が元凶であるかのような口ぶりだ。

 

 この細川護熙ボンクラ論および三浦雄一郎元凶説は、エッセイや回顧録で幾度となく登場し、石原慎太郎の読者にはすっかりお馴染みのエピソードとなっている。

 しかしながら、今や日本の政治史の定説でもある、この石原慎太郎の言説を覆す発言、書籍が存在したのだ!

 証言者は、三浦雄一郎本人。

 そこに、このミステリーの“山”があった。


【エライ人・対決編】

石原慎太郎 vs 三浦雄一郎

その2

 石原慎太郎と三浦雄一郎の“山”を頂上まで一気に登り詰める前に、まずは“ふもと”の状況から整理しておこう。

 ボクが石原慎太郎に初めて会ったのは、1999年10月18日のこと。

 今はなき渋谷ビデオスタジオで行われた、MXテレビ『TokYo, Boy』という東京都単独提供番組の制作発表記者会見での出来事だった。

 この年の4月に都知事に就任した石原慎太郎は、東京都が一部出資しつつも赤字続きだったMXテレビで、早速、自らも出演する行政広報兼バラエティという、全国地方自治体でも初の試みとなる新番組を始めることを決定する。

 演出に指名されたのはテリー伊藤。そして、テリー伊藤の率いる「ロコモーション」が番組制作を担った。

 その日の記者会見は、実に賑々しく行われた。当初の設定では、番組は会議形式であり、レギュラー出演者は次のようなメンバーであった。

 委員長:テリー伊藤

 議長:栗原由佳、松村邦洋

 顧問:立川談志

 委員:大川豊、有坂来瞳、浅草キッド

 当日、物々しい警備陣を引き連れ、石原都知事も会場に姿を現した。その頃はまだ政治バラエティ番組を経験する前だったので、初めて体験する大物政治家特有のオーラと張り詰めた空気に、ボクは大いに緊張した。

 司会の栗原由佳による新番組の趣旨報告の後、マスコミのカメラの砲列のなか、質疑応答の時間となった。

 番記者の度重なる異曲同工の質問に、都知事が「おい、くだらない質問をしなさんなよ!」と一気に機嫌を損ねると、そこをテリー伊藤が「おぉおお、出ましたぁ! 今、あの慎太郎が怒っています!」と茶化す。すると「おい、そんな珍問答みたいなことまで天下の石原慎太郎がやる必要があるのかねぇ?」と立川談志が混ぜっ返し、今度は「おい、アンタ、そんなに水を差しなさんなよ!」と都知事が逆になだめつつも、「もう、いいョ! 以上!」と独断で会見を打ち切る始末。

 とにかく、登壇者が全員、自由勝手過ぎて最後まで不穏な空気のまま、記者会見は終了した。

 慎太郎前線が張り出し、談志入道雲が現れ、テリー高気圧に包まれる──スタジオでは、気象予報士の石原良純でも予測不能な、大物気圧配置の荒れ模様が続き、我々のような芸人は、その強風をただただ左から右へと受け流すことしかできなかった。

 翌日、その『TokYo, Boy』のレギュラー出演者だった大川総裁が、日本中を震撼させる事件の当事者となる。当時、大川総裁率いる大川興業は学生服姿の男性集団で、お笑いライブシーンでは政局を茶化すような硬派な政治ネタで知られていた。

 そして、『週刊プレイボーイ』1999年11月2日号に掲載された、大川総裁の対談連載における西村眞悟防衛政務次官の発言が大問題となったのだ。

「政治家としてのライフワークは国軍の創設ですわ」

「核とは抑止力なんですよ。強姦してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん。けど、罰の抑止力があるからそうならない」

「国防とは我々の愛する大和撫子が他国の男に強姦されることを防ぐこと」

 これらの発言に対して、当然のように国会やマスコミで燎原の火の如く批判が広がり、言質を取られた西村眞悟は、わずか数日で防衛政務次官を辞任するに至った。若者向けの雑誌とはいえ、気分上々で政治家の本音を引き出した、お笑い芸人のおちょくりが、時の政務次官の首を飛ばしたわけだ。

 翌週、『TokYo, Boy』の収録スタジオで、本番前、芸人たちが大川総裁を中心に集まっていると、血相を変えてツカツカと駆け寄ってきた石原慎太郎に前置き一切なしで凄まれた。

「おい、いいかぁ! 西村眞悟は国士だぞ! テメエらお笑いごときがバカにしていると承知しねぇぞぉ! 覚えておけッ!」

 突然の先制攻撃に我々は言葉を失うのみだった。

 そして、その日の収録から、レギュラーだったはずの大川総裁はいなくなっていた。

 また、談志師匠も2回目の番組収録からいなくなり、新レギュラーに抜擢された井筒和幸監督も、その政治的スタンスからして都知事と反りが合うわけもなく、あっという間に番組から消えた。

 そのあたりの、キャスティングに関する大人の裏事情は、昔も今も全く分からない。しかも、当時のボクはノンポリで、石原慎太郎という存在が何者かさえ、さっぱり分かっていなかった。

 ただただ、この癇癪かんしゃく玉の都知事を目の前にして毎週レギュラー番組を続けるという、困難な現実だけが残った。

 このエピソードを話すと決まって、周囲からは「そんなエラそうな人、面倒でしょう?」と言われる。そこは、ボクの場合、初めて出会った時から「この人は、なんでこんなに偉そうに振る舞うのだろうか……面白い!」という思考回路なのだ。

 芸人としての奇人変人偉人に対する関心や人間観察への視点は、今なお変わらない。

 番組での出会いをきっかけに、石原慎太郎というパーソナリティに興味を持ち、著書や評伝、研究書を読み継ぎ、その後、番組を通じて徐々に本人とも懇意になった。時には酒席に呼ばれ、ふたり差し向かいで腹を割って話し合うこともあった。

 だが、肝胆相照かんたんあいてらす仲も長くは続かなかった。

 2011年6月3日──。

 この日の『TokYo, Boy』の収録は、「頑張ろうニッポン、東京サミット」と題し、目白にある椿山荘の大広間で久々に知事をゲストに迎えてロケが行われた。

 その冒頭だった。

 遅れて会場に入ると、司会席にボクを見つけるや否や、しかめっ面の都知事が「シッシッ!」と、野良犬を追っ払うかのような手振りをした。

「えっ?」

 事態が飲み込めないでいると、さらに目を見開いて「そうだろ。オマエは東のスパイじゃないか!」と言い放った。

「東のスパイ?」

 最初は意味が分からなかった。「北のスパイ」なら聞いたことがあるが……。

 東が「東国原」のことだと分かるまで、しばし時間を要した。とはいえ、こちらは番組進行を務める立場。特に反論せず、そのまま本番に挑んだ。

 ただ、都知事がそのような態度をとるのも無理はなかった。ボクと都知事の関係が悪化したのには理由があった。

 この年の4月10日は都知事選の投開票日だった。

 乱戦が予想されるなか、宮崎県知事から乗り換え、元たけし軍団の東国原英夫が都知事に立候補した。今では考えられないことだが、当時は折からの東国原ブームが確実に追い風になっていた。

 しかし、世論調査で東国原当選が確実視された途端、一度は勇退を宣言し、後継者に神奈川県知事の松沢成文を考えていた石原慎太郎が態度を翻し、突如出馬。結果、短期間の選挙戦にもかかわらず、無敵の石原慎太郎凱旋将軍は見事に4選を果たした。

 そして、その選挙戦のさなか、なぜかボクが「東国原陣営の参謀」だと報じられたのだ。

発端は、2010年10月30日の『東京スポーツ』。

「水道橋博士が仲介 石原都知事 東国原知事と密会計画?」という見出しだった。

 記事によれば、再選に意欲をもっている石原都知事が、出馬したら強敵になる可能性のある東国原知事に水道橋博士を通じて密会を望んだとのこと。ふたりは東京都単独提供番組『TokYo, Boy』の共演がキッカケで親しくなり、水道橋博士は石原都知事を“兄貴”と呼ぶ間柄だという。

 もちろん事実ではない。確かにボクが石原陣営スタッフに呼ばれてホテルで会食はした。

その際に東国原サイドの動きについて探りを入れられたが、当時、東国原との連携も、情報もなく、立候補に関して全く関与していなかった。何を聞かれても正直に「何も知らない」と答えるだけだった。

 そもそも、記事にあるように、慎太郎を“兄貴”と呼ぶなんて、「オレは裕次郎か!?」と突っ込まずにはいられない、完全なる飛ばし記事であった。

しかし、続いて『アサヒ芸能』にも同様の記事が出て、ついには“バカ文春”にも名前が挙がった(ちなみに言えば、それを書いたのは“ジャーナリスト時代”の上杉隆だ!)。

 新聞とは言え、『東京スポーツ』は「日付以外は誤報」だからまだしも、天下の『週刊文春』は信憑性が高く、言葉も重い。

 当時、NHKで『総合診療医ドクターG』の司会者としての仕事が始まったばかりだったので、局からボクの担当マネージャーが事情聴取され、事実無根であることを説明するのに難儀した。

 それらの記事を見たのか、それとも周囲に注進されたのか、都知事の目には、ボクが「東のスパイ」に見えたのだろう。

 たけし軍団の先輩・後輩の間柄ではあるのだが、「選挙を手伝って欲しい」「選挙を手伝いたい」という気持ちは東国原陣営にもボクにも一切なかっただけに、「嗚呼、何も根拠がないまま、風評だけで人は親しくしていた人にすらこんなふうに言われてしまうのか……」と、寂寥せきりょう感に囚われた。

「シッシッ!」と言った都知事の表情とその手振りが、何度も脳裏に蘇った。

 その一件をきっかけに、ボクから石原慎太郎に接触する道は完全に絶たれてしまった。

 だからこそ、ずっと解決できないままでいた慎太郎と雄一郎の謎について、その真相を探るべく、ボクは直接行動に出たのだ。

 かつて「創作活動は行動に等しい」と喝破した慎太郎は、こんなふうにも記している。

相手が強けりゃなお良いじゃないか。十中八九はかなわねえ奴でも、万が一、二にはチャンスがあるんだからね。見てる方にはつまんなくったって、やる方にとったらこんな面白い試合はないさ。やってみなけりゃわからねえよ。やってみなけりゃ。

(『太陽の季節』より)


 石原慎太郎が発した言葉を引き金に、ボクは飛び出した。

 まだ誰も足を踏み入れていない、この霧深き山を見上げ、登攀とうはんの決意を固めた。

(この続きは 文春文庫『藝人春秋3 死ぬのは奴らだ』でどうぞ)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?