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最新刊行記念 「紅雲町珈琲屋こよみ」シリーズ 第一話無料公開

累計70万部突破! 人気シリーズの最新刊『月夜の羊 紅雲町珈琲屋こよみ』の刊行を記念して、「紅雲町珈琲屋こよみ」シリーズの第一話を無料公開!

「紅雲町珈琲屋こよみ」シリーズ とは
観音さまが見下ろす街で、コーヒー豆と和食器の店「小蔵屋」を営む気丈なおばあさん、杉浦草。人々を温かく見守り続ける彼女が、試飲のコーヒーを目当てに訪れる常連たちとの会話がきっかけで、街で起きた小さな事件の存在に気づく「日常の謎」系ミステリ。

◇ ◇ ◇

『萩を揺らす雨 紅雲町珈琲屋こよみ』

紅雲町のお草

1

 この日の雪が始まりだった。

「あさってには春が来る」

 丘陵の上から大きな観音像が見下ろす街の、ゴルフ場や自動車教習所を抱える広い河原に立って、杉浦草(そう)はそう呟いて自分を励ました。白い息が鼻先に立ち上る。

 春といっても暦の上で立春を迎えるだけの話だ。さっき手を合わせた小さな祠(ほこら)にも霜が降り、土を草履で踏みしめれば霜柱がざくざくと鳴る。数えで七十六になる草の瘦せた身体に寒さが染み入り痛い。

 それでも草は白んできた東の空に向かって、渋い縞の着物の背を伸ばした。関東平野が終わる山々までゆったりと広がる空を眺める。遠くの雪山は吹雪(ふぶ)いているのか、今朝は見えない。盆の窪のお団子から小振りのべっ甲の櫛を抜いて、白髪をなでつけながら、川の流れをじっと聞く。枯れ草の向こうの川面に群れる鴨の声と、対岸の国道を走るトラックの音が混じる。

 国道の奥にそびえる市役所の銀色の新庁舎が、昭和初期に完成した大観音像と川を挟んでにらめっこをしているのに目をやって、二十一世紀とはおかしなものだと、あらためて草は思った。

 昔、二十一世紀なんて生きてたどり着けない遠い未来だと思っていた。そのせいか、古いものは跡形もないSF映画のような世界を漠然と想像していた。人類が宇宙に移住したり、ロボットが空を飛んだりする世界。でも、ここまで来てみると何のことはない、惑星探査やインターネットと同時に、侍映画も節分の豆まきも健在なのだ。

 草は首にかけた紐を手繰って懐から携帯電話を出し、同様に首に下げている老眼鏡をかけて時間を見た。初代よりボタンが押しやすい二代目の携帯電話は、還暦の時さえ身につけなかった赤い色だが、電話なら構わないし、しまっている懐から元気が出る気がする。

 観音に手を合わせてお辞儀をすると、さて、と草はすぐ横の岩に立てかけておいた男物の黒い蝙蝠(こうもり)傘を手に取り、来た道を戻り始めた。いつも連れ歩くこの傘は雨よけ日よけはもちろん、杖でもある。いや、健脚の草にとっては杖というより、歩く拍子を取る指揮棒といったほうがいい。腰につけた籠の中で、道々拾った空き缶やペットボトルが弾む。

 土手の上で、雨でもない限りいつも会う、柴犬を連れた薬局の主人に挨拶をすると、蝋梅(ろうばい)の黄色だけが鮮やかな畑道に降り、少し急いだ。仕事の前に毎朝寄るもうひとつの場所、新しい住宅地に取り残されたように立つ三つ辻の地蔵で、今日は少し時間がかかる。昨夜(ゆうべ)仕上げた新しい頭巾とよだれ掛けを着せるのだ。草は三歳で亡くした息子の寝顔によく似ている地蔵の丸い顔を思い浮かべて、またほんの少し足を速めた。


 午前十時。草は「小蔵屋(こくらや)」のガラス戸を開けて、出入口の小さな木札が「コーヒーあります」の面になっているのを確かめた。ちょうどやって来たこの日の最初の客──社名入りの白いバンを降りたスーツ姿の中年の男に、いらっしゃいませと声をかけ、コーヒーの香りに満ちた暖かな店内に迎える。朝のうちにあった青空は、すっかり雲に覆われていた。

 高い天井に太い梁(はり)と漆喰(しっくい)の白が印象的な古民家風の造りの小蔵屋は、和食器とコーヒー豆を商っていて、コーヒーの試飲、つまり、無料でコーヒーを一杯飲めるサービスが評判の店だ。店の奥が草の住居にもなっており、小蔵屋は、河原と観音像が立つ丘陵の中間地区、紅雲町(こううんちょう)にある。

 小蔵屋は明治の終わりに草の祖父が開いた日用雑貨店が始まりで、以来、草の両親の代も裏の畑でとれた野菜、調味料、ちり紙、長靴、駄菓子とあらゆるものが並ぶ田舎の雑貨屋として続いた。商品が並ぶ土間から丸見えの茶の間には、買い物があってもなくてもやって来る茶飲み客が入れ代わり立ち代わりで、にぎやかなものだった。

 二十九歳で離婚して実家に戻り家業を手伝っていた草が、県北の古い民家の古材を譲り受けて現在の小蔵屋に建て替え商売を一新したのは、母、父と立て続けに亡くした年からだいぶ経った、六十五歳の時のことだ。市内に次々開店する大型日用雑貨店に圧(お)されての一大決心だった。広い駐車場を持ち豊富な品揃えと低価格を誇る店の前に、このままでは小蔵屋は消えるしかない。だったら、後に財産を残す者もないのだから、人生の最後に好きなコーヒーと和食器の店を持つという夢にかけてみたい。そう草は思ったのである。'小蔵屋のお草'はあの年で何をするつもりなんだと陰口もあったが、日々の生活を楽しむ雑貨ブームや和を見直す風潮に支えられて、小蔵屋は市内外から客が集まる人気店になっていった。

「いらっしゃいませ。今日は寒いですねえ」

 ダンボールを抱えて奥から出てきた店員の森野久実(くみ)が、一枚板の黒光りするカウンターについた中年の男に声をかけた。

 入口を入るとすぐの試飲コーナーは、正面のカウンターの他に大きな楕円のテーブルがひとつあるだけだから、二十人ほどで満席になる。右には会計カウンター、その後ろにコーヒー豆のコーナーがあり、右奥が和食器売場になっている。

「コーヒー、早くしてくれ」

 客の横柄な態度に目を丸くした久実が、出入口を閉めた草にさっと近寄ってきて、

「最近多いですねえ、ああいうの。どうせ何も買わないくせに」

 とささやき、和食器売場に消えていく。学生の頃スキーの選手だったという、二十七歳はがっしりとたくましい。東京で勤めていた会社が倒産して故郷に帰り、小蔵屋に来るようになって三年余り、持ち前の体力と明るさで草を助けてくれている。繁忙期のアルバイトも彼女の体育会系の人脈で集めてもらう。

「本日は小蔵屋オリジナルブレンドです。どうぞ」

 コーヒーを入れるのは草の役目だ。

 着物に合わせた色付きの割烹着をつけてカウンターに立つ草の後ろには、作り付けの棚にずらりと試飲用の器(コーヒーカップ、フリーカップ、中には蕎麦猪口〈ちょこ〉まである)が並んでいる。草が若い頃から集めてきたものから販売中の推奨品まで様々だ。

 その中から、今日の最初の客に、草は萩の若い作家のコーヒーカップを選んだ。三角定規に似た取っ手がついた真白い器にコーヒーが映える。冬の初めに京都、萩、唐津と買い付けに行った際に出会った品だ。客の男は指の通らない取っ手が不安なのか、カップを手に包んで口元に運んでいる。

 確かに久実の言う通り、不況のせいかコーヒーの試飲だけという客が増えた。

 草としてはそれでも店に足を運んでもらえれば大歓迎なのだが、席が空くのを待っている人がいても、おかわりをして長時間居座る客が後を絶たなくなった。そこで「試飲はおひとりさま一杯限り」の小さな木札を、カウンターの角に立てた。注意書きなどしたくはないけれど、ひとりでも多くの人に試飲してほしいと始めたサービスだから仕方がない。

 久実はいっそ百円玉のワンコインで有料にすればいいとアドバイスしてくれるが、そうもいかない。こういうあってもなくてもいい類(たぐい)の店は、暇な時にふと思い出して寄ってもらえる存在であることが大切なのだ。

 教師の娘で本来人寄せが苦手だった母の、あのにぎやかな茶の間は、母なりの地道な営業活動だったと草は思っている。それにならったコーヒーの試飲サービスだ。そう簡単に有料にはできない。

 草はラジオの音量を少し上げ、藍染めの長座布団を背もたれまでかけた木の椅子に腰掛けた。客に話しかけられなければ、こちらからはめったに話しかけない。客側からは見えないカウンター裏にあるノート型パソコンを開け、取引先からのメールを読む。パソコンは以前に大学生を一年ほど家庭教師に雇って覚えた。といっても、携帯電話で通話以外の機能をほとんど知らないのと同様、必要な範囲だけがわかる程度だが。

「いくら?」

 あっという間にコーヒーを飲んでしまった客の男が、立ち上がりながら草の耳を引っ張るような声を発した。本当に急いでいるらしい。

「サービスですから、お代はいただきません」

「は? タダってこと?」

 うなずいて、草はカウンターの角の木札を指差した。客は脂の浮いた額を手の甲でごしごし擦りながら、目を見開いた。へえー、と客の声が、草との間に宙ぶらりんに響く。草はこの男の表情らしい表情を初めて見た気がした。

「ごちそうさん」

 コーヒーの分だけ温まった声を残し、スーツ姿の中年は寒さに首をすくめて出ていく。

「ありが'とう'ございました」

「とう」のところがぴょんと跳ねて高くなる、独特の「ありがとうございました」で草は彼の背中を送り出した。

 地元のFMラジオ局の天気予報通り、店を開けて一時間もしないうちに、雪が降り出した。白く結露した窓ガラスの隙間から、薄く真綿をのせた屋根が覗く。

 平日の昼間といえば主婦たちで一杯のはずの店内も雪のせいか客は少なく、コーヒーでおしゃべりに花を咲かせているのはカウンターのふたり組だけだ。

「やだ、これ積もるわねえ」

 背の高いほうの女が、窓に向けていた顔を隣の女に戻す。

「喜ぶのは子供だけよ。中途半端な雪で遊ばれると、洗濯物が泥だらけでうんざり」

 答えた女はかなりたっぷりとした体格で、よく通る声をしている。

 草はふたりの会話を聞くともなしに耳にしながら、カウンターの内側で、朝作っておいた散らし寿司の入っている丸い朱塗りの器を、薄紅の木綿の布に包む。もうひとつの同じ器には藍染めの布を用意する。

 ふたりはこの時間帯にたまに来る客だ。背の高いほうは結婚せずに男の子を産んだ居酒屋勤めのシングルマザー、もうひとりは一姫二太郎の夢がやぶれて四人の息子に恵まれた専業主婦。ともに数年前に紅雲町にできたマンションに住んでいる。特に草が聞き出したわけではない。なにしろこの専業主婦の声は、オペラ歌手並みに響くのだ。

 シングルマザーが首を揉みながら言う。

「子供って回復力あるわよね。夜三十九度近い熱を出しておいて、翌日はけろっと学校に行くんだもの。音楽会の練習だからって、止めたって聞きゃしない」

 一瞬、草の胸を焼けた針に似た熱が刺した。火のように熱くなった息子を抱えて病院へ走った記憶。こんな話を聞き流すことが何十年経っても上手くならない、と草は思う。ただ藍染めの布を結ぶ手を止めずにいられるだけだ。

「昨夜たっくん熱出してたの?」

 専業主婦は暖房が暑いのか、オレンジ色の徳利(とっくり)セーターの襟を引っ張りながら、もう片方の手で身ごろをつまんで揺らす。

「ううん。この前の雪の夜」

「なあんだ。もう一週間も前じゃない。じゃあ、仕事休んだんだ」

 シングルマザーはうなずいて、化粧をしていない青白い顔を両手で包み、なでる。染めむらのできてしまっている長い髪は、ひとまとめにした先が大分傷んでいた。

 草はしゃがんで、下の戸棚から小さな紙袋をふたつ出し、パソコンの横に並べておいた伊予柑を入れる。近所でひとり暮らしをしているふたりの友人、脳梗塞の後遺症で左半身がやや不自由な由紀乃(ゆきの)と、小蔵屋の第二駐車場を貸してくれている幸子(さちこ)に、草は時々食事を届けている。さっきも散らし寿司を届けるから昼を作らずにいてと連絡したら、喜んでくれた。

「でも、眠らず看病していたつもりだったのに、つい、うとうとしちゃって」

「そりゃそうよ」

「だけど、いつもの隣のあれで目が覚めて。あの夜だけは助かっちゃった

「ああ、そうそう思い出した。ドスン、ドスン、あの雪の夜は一段とすごかったわねえ。やっぱり夫婦喧嘩かな。最近、お母さんを引き取ったらしいし」

「そうなの? 隣なのに会ったことないなあ。ご主人の? 奥さんの?」

「さあ。でも、あれから一〇二号室は静かじゃない。まあ、うちとしてはガンガンやってもらっていいけど。やんちゃ四人が走り回っても下に気兼ねしないでいいから」

 シングルマザーが噴き出す。集合住宅というのは住みにくいものだと思いながら、草は手元の電波時計を見る。もうすぐ正午だ。

「でも、今週末は天国なのよ。男どもは旦那の実家で一泊して、スキー教室に参加するから。その間ひとりでのんびりってわけ。こうなると下にはお静かに願いたいわね」

「勝手な話ねえ」

 前の道路をチェーンの音が駆け抜けていく。会計カウンターにいた久実が、後ろの棚のコーヒー豆のケースを磨く手を休めて振り返った。

「お草さん、わたしが届けてきますよ。車、スタッドレス履いてるし」

 近所までとはいえ、荷物を持って雪道を歩く年寄りが心配なのだろう。

 カウンターの小窓を、草は細く開けてみた。雪は相変わらずの勢いだ。

「お願いしようかしらね」

 冬の間に何回となくスキー場に通う久実は、雪道の運転が上手い。

「ありがとうございました。久実ちゃん、気を付けてね」

 空のカップを残して傘を広げたふたりの客と、勇ましくパジェロに乗り込む久実を見送ると、雪に閉じ込められた小蔵屋に、ラジオから正午の時報が響いた。

 草は、カウンターの小窓を今度は一杯に開けた。冷たく湿っているが、新鮮な空気が流れ込む。丘陵の上の観音像は雪に霞(かす)んで白い空に溶けそうだ。その手前に、カウンターにいた彼女たちが帰るマンションがある。住宅地に突き立てた板チョコに見えなくもない。

 マンション「クオリティライフ紅雲」は三年前に完成した。元は「銀扇(ぎんせん)」という老舗(しにせ)料亭の経営者が住む屋敷だったが、店が傾いて売りに出され、マンションの建設から販売、管理まで一括して行う中堅の建設会社が買い取り、現在に至っている。

 この土地が売り出される数年前から近隣の田畑に住宅やアパートが次々と建ち始め、今では紅雲町の半分が他から移ってきた住人となった。それにともなって、道端のごみは多くなったし、空き巣や落書きなど何かと騒ぎが増えた。道端で会う人がどこの誰かわかる暮らしは安心だったと、友人の幸子はよく言うが、草は内心悪くないと思っている。

 田舎の窮屈は、多くの顔見知りの間に張り巡らされた、鎖でできた蜘蛛の巣を引っ張り合うところにある。ほんの少しでも新しいことや変わったことをしようとすれば、重くがんじがらめの鎖を解くために、必要以上の力が要る。草の結婚や離婚、小蔵屋を新しくする時も、泣く者、怒る者、笑う者、占う者と親族でも友人でもないのに寄り集まって来たものだ。それをありがたいと思うのはこちらが望む時だけ。街も変わり世代も交代してつきあいが薄まり、草には丁度いい頃合いなのである。

 雪はやまず、客もちらほらで午後が過ぎていった。ムクドリの群れのにぎやかさで、夕方になるとやって来る高校生たちも、ほとんど素通りしていく。

 それでも、何人かはいつも通り寄ってくれた。

「ゆっち、今日マジで泊めてよ」

「いいよ。お母さんにメール入れとく。霊能者たかりんが泊まりますって」

「サンキュ」

 もうすぐ閉店時間の小蔵屋のテーブルに、肩を並べて残った女子高生ふたりは、携帯電話でメールを打ったり読んだりしながら、おしゃべりをするというウルトラCを演じている。優等生風のゆっちと呼ばれた女の子の携帯電話は薄いピンク色で、隣の大きな丸い目をした霊能者たかりんのそれには、なぜかお守り袋がいくつもついている。お守り袋の固まりに携帯電話がついていると言ったほうが、正しいかもしれない。あだ名からすれば、彼女には霊感があるというのだろうか。なんだか変わった子だ。

 このくらいの女の子たちの会話は、色とりどりのドロップのように楽しくて、どこか懐かしい。草の娘時代とはまったく言葉遣いも雰囲気も違うけれど、甘酸っぱい香りは似ている。草はカウンターでコーヒーカップを拭きながら、面白く聞く。

 久実は向かいの会計カウンターでレジを締めている。

「まだ話してなかったけどさ、ゆっち。実は、先週の雪の夜、セブンの帰りに」

「まさか。また見たの?」

 幽霊目撃談が始まるらしい。マジ見た、と冷静な声で話す霊能者たかりんを、どんなのが出たの、と身を引いて両手で頬を押さえたゆっちが盛り上げる。

 草が耐え切れずに小さく噴き出すと、向かいの久実が歌舞伎役者ふうに大げさに口を開けて笑い顔を作って見せる。もちろん、無言で。

「途中の茶色のマンションの前で」

「銀扇御殿の?」

 昼間のシングルマザーと専業主婦が住むマンションだ。

「そう。雪の降る中、そのマンションの脇を歩いてたら、突然、ドンと音がして」

「マンションから?」

「うん。で、バッとマンションの方を見たら、暗い一階の窓に、手が張り付いてた」

 両者、無言の一拍。

「手ぇーっ」

 ゆっちは頭に手を乗せ甲高い声を出すと、とうとうテーブルに伏せの姿勢をとった。久実が草にちらっと視線を送ってくる。口元が笑っている。霊能者たかりんは相変わらず落ち着いた低い声で続ける。

「手のひらが、こうガラスにぴったりくっついて」

 たかりんは右腕の制服を肘まで捲(まく)り上げて、ゆっちとの間にある見えないガラス窓に手を押し当てる。

「しかも、肘までしかないんだ」

 ひぃっと短く叫んで、ゆっちは長い髪の中に顔を埋もれさせた。雪の夜の暗いガラス窓に張り付く手を、今、見てしまったのだろう。霊能者たかりんは、ゆっちの様子にいたく満足げに言う。

「固まったね。息するの忘れたもん」

 ゆっちは恐る恐る顔を上げる。彼女のおびえた表情を話の続きを聞かせてという催促と受け取ったのか、たかりんはうなずく。久実も次を聞こうと手を止めていて、草はますます愉快になった。霊能者と呼ばれるだけあって、たかりんはこの手の話が上手らしい。

 しかし、みんなの期待を裏切って、たかりんは突然にっこり笑った。

「なーんてね。よく見ると青いカーテンから、ぬっと手が出てただけ。すぐ引っ込んじゃったよ」

「なにそれ」

 肩透かしをくらったゆっちは右の眉を持ち上げる。久実は売上げの入った袋を閉め、和食器売場の方へ歩いていってしまった。ブラインド代わりの簾(すだれ)を下ろしに行ったのだろう。

「だけど」

 たかりんの話が続く。斜め上の宙を見つめている。

「ぬるっと何か残ったんだよね。血みたいな手の跡が」

「血?」

「わかんないけど。まあ、ゆっちが震え上がるホンモノの話は、ゆっちママの手料理を食べてから聞かせてあげる」

 立ち上がるたかりんに促されて、不満そうな顔のままゆっちも腰を上げる。

「なによ。その窓の手は、そこに住んでる人のだったわけ?」

「そう」

「なーんだ」

 コートを羽織りマフラーをぐるぐる巻きにすると、女子高生ふたりはガラス戸を開けて出ていく。戸を閉めようとしたゆっちが、ふと思い出したように、先に姿の見えなくなったたかりんに声を張り上げた。

「ねえ、それ、なーんだじゃないよねえ。人間だったら怪我してたってことでしょう?」

 ゆっちはまた思い出したように草の方に向き直り、閉める引戸のガラス越しにごちそうさまでしたと頭を下げて走っていった。草は独特の調子をつけた、ありがとうございましたを返したが、行ってしまった女の子たちの耳に届いた様子はない。

 戻った久実が声をかけてくる。

「なんですか、お草さん。変な顔して」

 ラジオの七時のニュースが始まった。

「何でもないよ。お疲れさま、久実ちゃん」

 散らし寿司のお返しに由紀乃と幸子がそれぞれくれたというカステラと苺を、草は久実に持たせて帰し、戸締まりをする。

 しかし、その間中、草の中にぽつりぽつりと浮かぶものがある。

 手の窓は一階のどの部屋だろう。主婦たちが話していた大きな物音がしたという一〇二号室だろうか。どちらも先週の雪の夜。ということは、一月二十六日の出来事。血のような手の跡。その夜からは静かになった部屋。頻繁な夫婦喧嘩。最近引き取った母親。

 明かりを落とした店内から、草は街灯に照らされた外を見る。雪は降り続いていて、夕方、久実が雪かきをしてくれた駐車場はもう真っ白だ。走り去ったパジェロの轍(わだち)がくっきりと残っている。

 そして、また、ぽつり。

 ──なーんだじゃないよねえ。

 女子高生の声が浮かんで消える。確かに怪我をしていたなら普通じゃない。

 目の前に降ってきたそれは、雪の白に浮き立って、妙に草の関心を引くのだった。ほらほら、早くしなかったら雪とともに消えてしまうよ、と。


 翌朝、雪のまぶしさに目を細めながら、草は「クオリティライフ紅雲」の前に立っていた。綿入りの作務衣(さむえ)に長靴、軍手、首にタオルという出で立ちだ。滑ったら両手が空いているほうが安全だし、長靴の丈ほども積もった雪がごみも隠しているから、相棒の蝙蝠傘と腰籠は連れて来ていない。薄っすらとしか積もらなかった、この前の雪とは大違いだ。

 茶色いレンガ風の八階建てマンションは、信号のない十字路の角地に建つ。道路が東と南に接していて、草は南側の、道路を挟んでベランダがずらりと見える所でマンションを見上げている。外観からすると、各階六戸(西側の二戸が広いタイプ)で、全四十八戸というところか。一階はベランダなしの庭付きだ。周囲は比較的新しい家が多い住宅地で、遠くから雪にはしゃぐ子供の声が聞こえてきた。数十メートル向こうで誰かが雪かきを始める。この音につられて、あちこちで雪かきが始まる前に、草はざっとマンションの周囲を見てみようと道路を渡り近付く。薄暗いうちに小蔵屋周辺の雪かきを済ませ、三つ辻の地蔵に手を合わせてからここへ来たので、身体は汗ばむほど温まっている。

 霊能者たかりんの言っていた窓は、すぐにわかった。一階に青いカーテンの窓はひとつだったからだ。向かって左から二戸目の左端の窓、正確には青地に白い小さな星がプリントされたカーテンの掛かっている、一間(いっけん)ない腰高窓である。北の丘陵に向かってやや上っているため、マンションの土地の南側は道路から一メートルくらい高くなっているので、一階の窓はかなり見上げる位置になる。敷地の縁には、窓を遮らない高さに金属製のフェンスとそれに沿う植え込みがある。

 確かに、問題の窓は手を引きずったのか、指の跡を残して赤黒く汚れていた。五匹の蛇が這う姿に見えて薄気味悪い。この家の他の窓に、誰かが起き出した気配は感じられない。草は低い位置に結った髪から小さなべっ甲の櫛を抜き、白髪を数回なでつける。

 左手の雪に覆われた階段を滑らないように注意して上がると、建物の西側から北側にL字型に駐車場が広がっていた。駐車場の出入口は東側だ。草は右手にあったマンションの自動ドアをくぐった。鍵がなくては、オートロックの二枚目の扉は開けられない。青い窓の部屋はこちらから二戸目、つまり一〇二号室で、やはり大きな物音がした家と一致する。ガラス越しに見えるエントランスホールには、一階の各戸に続くらしい通路とエレベーターが見えるが、誰もいない。管理人室はなく、天井から防犯カメラが入口をにらんでいる。

 さらに、草は左側の扉のない小部屋に足を進めた。ステンレス製の郵便受けがマンションの部屋の位置通りにずらりと並んでいる。懐から出した老眼鏡をかけ腰を折り、軍手の指で一番下の右から二番目、一〇二の表示に触れる。「小宮山」の文字。その上の体格のいい専業主婦の住む二〇二号室には「田中」とある。シングルマザーの部屋は一〇二号室の隣、一〇一号室か一〇三号室のどちらかだ。しかし、草は一〇三号室の「月岡」だとすぐにわかった。一〇一号室には小蔵屋の常連の主婦、冬柴が住んでいると知っているからだ。でも、陰で情報屋と呼ぶ人もいるほどの彼女から一〇二号室の噂が出た覚えはない。もっとも、最近、彼女は小蔵屋にコーヒー豆を買いに来るだけで、仲間がいても立ち話程度ですぐ帰るようになった。夫が単身赴任したのを機に結婚前にしていた仕事を再開し、英会話教室の講師と翻訳を掛け持ちしているので、遊ぶ暇がないらしい。

 そこまで確認して腰を伸ばすと、草はそれでどうするんだという少々自嘲的な気分になった。一〇二号室の小宮山家の窓に、女子高生の言った通り汚れが残っていたというだけだ。

 先週の雪の夜、一〇二号室の上と隣の住人が大きな物音を聞き、女子高生が窓に怪我をしていたらしい手を見た。それを小耳に挟んだ程度で小宮山家を訪ねて、ご主人が奥さんに暴力を振るっていませんかとか、引き取られたお母さんはお元気ですかと訊くわけにもいかない。そんな行動をとったら、こちらの神経を疑われてしまう。大体、小宮山家の誰かに助けを求められたわけではないのだ。余計なお世話の鬱陶(うっとう)しさは草もよく知っている。それ以来静かになったと聞いたし、たぶん雪の夜を境に喧嘩が収まっただけの話で、大騒ぎすることでもないのだろう。

 一番上の郵便受けから今にも落ちそうに赤いチラシがはみ出している。まるで、あかんべえだ。いよいよ自分が間抜けに感じられる。チラシを奥まできちんと入れると、草は息をひとつつき、帰ることにした。雪で遅くなったらしい若い新聞配達員と入れ代わりに、郵便受けの前を去る。

 マンションの敷地を出たところで、草は新聞を取りに出た向かいの家の主婦と目が合ったので、朝の挨拶を交わした。十字路で、青空を背に立つ観音像が目に入った。雪がとけるまで足場が悪くて河原には行けそうにない。草は軍手を作務衣のポケットにしまい、祠と観音の方向にそれぞれ手を合わせて頭を下げた。

 三つ辻の地蔵に供えてきた黒豆ご飯を思い出して草の腹が鳴った。朝炊き上げた時のあのつややかな紫と香ばしさ。鰯の丸干しを添えて朝食にしようと、草は雪の街を急いだ。



2

 大雪の日から十日が過ぎた。

「だから言ったじゃないですか。雪かきはわたしに任せてくださいって」

 口を尖らせた久実が、草の拭き終えたコーヒーカップを棚に戻す。彼女の親切気を受け入れなかった罰なのか、草は雪かきの翌日から腕が痛くて、肩の高さ以上に上がらない。おかげで高いところに用のあるたびに、久実を頼る始末だ。

「はい、はい、ごめんなさいね。久実ちゃんがいるのに」

「そうですよ。次は絶対やらないでくださいね」

 幾度も繰り返した会話にふたりとも思わず笑い出した。閉店時間を迎えた小蔵屋に客はいない。ラジオから草の好きな若い歌手が、あなたはどこにいるんだろう、と歌う。

「結構、においますよ。まさか全身、湿布だらけじゃないですよね」

 久実は鋭い。とても本当のことは言えない。

「腕だけよ。コーヒーの香りが台無し?」

「まあ、それほどでもないですけど」

 久実が肩をすくめてまた笑う。去年の雪かきまでは、多少筋肉痛になるくらいだったのだ。またひとつ確実に老いたと、草はつくづく思う。久実から見れば、自分は正真正銘の労(いた)わるべき老人なのだろう。気持ちは若い頃とさして変わらないつもりなのに。

 そこへ自転車のブレーキの音が響いて少年が飛び込んできた。店が閉まる時間だから焦って来たらしく、息を切らせて注文する。

「オリジナルブレンド、五百グラムください」

 久実がコーヒー豆の棚に走っていく。

「はい、いらっしゃいませ。あれ、今日お母さんは?」

「締め切りで忙しいって」

「翻訳の仕事も大変ねえ。ちょっと待ってね」

 ふたりの会話を聞きながら、草はその少年が冬柴家のひとり息子だと思い出した。あのマンションの一〇一号室、小宮山家の隣人である。確か中学一年生だったはずだ。

「よかったら、どうぞ」

 草はしまい残されていた薄い青のフリーカップにコーヒーを注いで冬柴少年に勧めた。ゆで玉子のようにつるんとした顔に前髪を垂らした少年は、少し迷った表情の後、ちょこんと頭を下げてカウンター席に座った。母親から聞いていた通り、少年は砂糖とミルクをたっぷり入れて、コーヒー牛乳状にしている。

「お母さんには、いつもご贔屓(ひいき)にしてもらって」

 少年の頭がまたちょこんと下がる。

 草は久実に少し多めにと声をかけた。すると、また少年の頭が小さく揺れ、すみませんと今度は声がついた。実は、草は彼の家の隣についてそれとなく聞いてみたいのだった。

「冬柴さんのところのマンションには他にもお客さんがいてね。確か、二階と一階の方だったかな」

 当たり障りのない世間話といった雰囲気で、草は目の前のコーヒーカップを布巾で拭きながら少年に話しかける。豆を量っている久実が不思議そうにこちらを見る。それはそうだろう。草が客に話しかけるのは珍しいし、乾き切った器をまた拭いているのだから。

「夜中でもうるさい部屋があって大変らしいわね」

 顔を上げた少年を、草はちらっと見て、また手元に視線を戻す。

「一月の末の雪が降った夜も、大きな物音で目が覚めたって。もしかしてお隣さん?」

 じっと動きを止めてこちらを見つめている少年の視線を、草は額のあたりに感じながらカップを置き、次はソーサーを取って磨く。豆を挽く音が響き渡る。

 草はあれ以来、朝の日課の後に、時々「クオリティライフ紅雲」の前を通る。初めて行った朝には余計なことかと思いもしたが、姿見の覆いをめくる時やコーヒーが落ちるのを待つ時間に、どうしてもあの青い窓が浮かんでしまうのだ。それでついマンションに足を向けてしまう。磨き上げられた一〇二号室の窓の中で、相変わらず汚れたまま放置されている、あの窓の不自然さがいけないのかもしれない。

 一度だけ居間と思われる部屋の掃き出し窓が開いていて、草と同年配の品のいい婦人が椅子に座り奥の誰かと話しているのが見えた。三日前のことだ。右手に包帯をしていた。

 手元にこの一客しかないし、次は何の手作業をしようかと草が考え始めた時に、少年の小さな、しかし、はっきりとした声が返ってきた。

「隣? 別に」

 少年はコーヒーを飲み干す。草はなんと短い答えかと思ったが、しかたがない。年頃の男の子だ。とにかく隣の物音を少年は知らないらしい。音楽を聴いていたか、熟睡していて気が付かなかったか。それとも、気にしない人もいるという程度の物音なのか。

 少年とは対照的な母親に訊いたほうが、詳しい答えは返ってくるだろう。しかし、大事になるのも困る。主婦たちの話は想像を加えてものすごい勢いで広がっていくものだ。

「そう。さあさあ、お待ちどおさまでした」

 久実の方に草は視線を投げて、少年を会計カウンターへ促した。

「ありがとうございました」

 草の独特の調子が店内に響く。少年の自転車を見送った久実が振り返った。

「どうしたんですか」

 草は、別に、と少年を真似て答えてみる。案外便利な返事だ。

 懐の携帯電話が震えたので、何か言いかけた久実を、明日は忙しいから上がっていいよと遮って、草は電話に出た。友人の由紀乃のおっとりとした声が、取り寄せた文旦(ぶんたん)がおいしいと話し始める。午前中の電話でも聞いた話だったが、近頃の由紀乃には珍しいことではなくなっていた。

 戦争も貧乏もくぐり抜けて、長い間、生きてきたのだ。あちこちの故障も当たり前。

 そう思いながらも、由紀乃の話に初めて聞いたかのような相槌を打ち、文旦を明日の朝もらいに行くと、また約束する草の胸は、どこか、しんと悲しい。


 翌日にバレンタインデーを控えた火曜日、草は朝から大忙しだ。

 草が組み合わせたバレンタインデー用の商品のひとつ「備前晩酌セット」と名づけた、備前焼のフリーカップ、箸、箸置き、小盆のセットが好評で、器の在庫が底をついてからは、十三日から引き渡す予定で注文を受け付けていた。ところが、昨日までに届くはずの器が発送元の手違いで今朝にずれ込み、慌しくなってしまったのだった。

 当初、例年通りささやかな売れ行きで、所詮チョコレートには勝てないと諦めていた頃、備前焼をテレビの健康番組が取り上げた。備前焼は酒をまろやかにしアルコールを分解しやすくするという、セット商品に添えた宣伝文と同じ内容が放送されて急に売れ行きに勢いがついた。備前焼の棚が寂しくなるほど、徳利、ぐい呑みなどの単品でもよく売れた。これがいいなと妻に声をかける夫、酒がおいしくなるなら自分のために買うというOLたちと、バレンタインデーのコーナーはにぎやかな一角になっていった。

「毎年こうなら、いいですねえ」

 久実は二時間も前に早出をしてもらったのに機嫌がいい。鼻歌まじりで、楕円のテーブルを作業台に、届いたばかりの器をプレゼント用に包装している。仕事熱心な久実は売上げが上がるのをいつも素直に喜んでくれるのだ。草は久実の笑顔に張り合いを感じながら、カウンターで名簿を開き、ご来店お待ちしています、と注文の客に電話をかけた。

「お草さんは、しゃきっと、いつでも元気だよね」

 荷物を運び込んだ後、一旦トラックに戻っていた運送屋の寺田が、草に伝票を渡す。

「お陰さまで。忙しいのが薬なの」

 電話を終えた草は受領印を押して、寺田に用意しておいたコーヒーを勧める。寺田は無類のコーヒー好きなのだ。昼時に裏の事務所で手持ちの弁当を食べた後に、コーヒーを飲んでいく日もある。隣町で小さなレストランを経営している寺田の父親は、草の昔からのコーヒーの師匠で、豆のいい仕入先を紹介してくれた人物でもある。

「今さ、大人用のオムツを大量に届けてきたんだ。親の介護なんだろうねえ。うちのボロ家と違って、あんなにいいマンションに住んでいても寝たきりじゃ、看病する方もされる方も大変だよ。奥さん、やつれちゃって」

 寺田は築三十年近いアパートに、妻と娘ふたりの家族四人で暮らしている。

「いいマンションて、そこの紅雲町の?」

 寺田が話しながら例のマンションの方向を顎でしゃくったものだから、草はようやく痛みの引き始めた腕を揉むのを止めて訊いてみた。

「そう。うちの女房が泣いて喜びそうな一階の庭付き。確かご主人が国立病院の内科医だって聞いたな。また中学一年生のひとり息子が優秀らしくてね。でもまあ、古い家でも愛嬌だけが取り柄の娘たちでも、家族全員、元気が一番さ」

「一階って、それ一〇二号室の小宮山さん?」

 手助けができるわけでもないのに他人の不幸を話題にするのは好きではないから、いつもなら草がしない質問だった。逆に、草がどこの誰か聞きたがらないから安心して客の話をした寺田の返事は、少し間が空く。

「ああ、そうだけど。お草さん、知り合いなの?」

 そういうわけじゃないけど、と草は曖昧な返事をして、バレンタインデー用の商品が好評だと話題を変える。手を止めてこちらを見ていた久実には知らん顔を通した。

 寺田といつもの会話の調子を取り戻しても、草の頭の隅には老婦人の右手の包帯がちらついて離れない。怪我はしていたが、彼女はしっかりした様子だった。それなのに、たった三、四日でトイレにも立てないほど衰弱するだろうか。べっ甲の櫛で白髪をなで、着物の襟を直し、割烹着の紐を結び直しても、草の胸は整わない。

「こんにちは、お草さん。いい?」

 寺田のトラックが出た後にガラス戸を開けたのは、営業時間前にしか来ない主婦の大野だった。突き出た腹と赤く染めて広がった髪が、ぬいぐるみのライオンを思わせる。一年ほど前、準備中に入ってきた彼女にコーヒーを出してからの常連で、腰痛で通っている近所の整体院の待ち時間を小蔵屋で過ごしている。草はさっきからの散らかった気持ちを引きずったまま、どうぞと声をかける。

「なんだか忙しそうなのに悪いわね」

 草の胸の曇りが表情に出たのか、それとも、いつもはまだいない久実が忙しく働いているからなのか、大野は少しためらいながらカウンター席に重そうな腰を置く。

「もう一段落したところ。腰はどう? 大変ね」

「腰も神経もボロボロ。はあーあ。ここだけが憩いの場所なのよ」

 草の差し出した湯気の立ち上るマグカップを、大野はマニキュアのはがれかかった荒れた手で受け取る。

「耕治くん、いよいよ春から三年生だものねえ」

 大野には中学生の息子がいて、彼が悩みの種なのだ。それも含めて草を相手にあれこれ話すのが、彼女のストレス解消法なのだろう。どうにもならない悩み事は、役に立たない他人のほうが気楽に話せるのかもしれない。

「恐ろしいわあ、耕治の受験。あたしが自分で受験したほうが、よっぽど楽。一体どこの高校が拾ってくれるんだか、あんなインコみたいな黄色い頭にしちゃって」

 インコ。店中に女三人の笑い声が響いた。笑いながら色鮮やかな母子が肩を並べた図を想像した次の瞬間、草はあることを思い出した。大野はあのマンションの向こう側辺りに住んでいるのだった。となると、小宮山家の息子と同じ中学に、彼女のインコ頭の息子が通っている可能性が高い。彼女は小宮山家の事情に詳しいかもしれない。

「久実ちゃん、後はやっておくから、悪いけど由紀乃さんのところに行ってくれる?」

「あ、そうだ、文旦ですね」

「朝のうちに行くって言ったから、由紀乃さんが心配するといけないし。悪いわね」

 久実の視線に耐えて話を続ける勇気はない。草は出かけた久実の後に包装作業に入ると、大野の斜め後ろから話を切り出した。

「ねえ、小宮山さんの息子さんを知ってる? 優秀なんだそうね」

 腰をひねるのがつらいらしく、首だけを回して横顔で大野は答える。

「そうなの、そりゃあもう優秀よ。耕治よりひとつ下だけどよく聞くわ。性格もおおらかで、ガリ勉タイプじゃないのに、できるらしいのよねえ。耕治が言ってたもの、ああいうのを本当の秀才っていうんだよなあって」

「いるのねえ、そういう子」

「まったく、うちのインコとは月とすっぽん。聞いた話じゃ、小宮山さんの奥さんの連れ子らしいわ。旦那さんは初婚で医者で新築マンション付きだったんだから、いい再婚よ」

「新築って、それじゃあ、あのマンションができた頃に再婚したの」

「みたい。予約した結婚式場を、旦那さんの母親が勝手にキャンセルしたって噂だった」

 嫁と姑の折り合いが悪いらしい。草は紙ごみで一杯になったビニール袋の口を縛る。

「じゃあ、奥さんが介護してるのは、実のお母さんかしらねえ」

「介護? あら、初耳。でも、そうよねえ。そういう姑じゃ、とても看切れないわよ」

 結局あの老婦人については知らないか。久実を外にやってまで聞き出そうとしたのに、あっさりと空振りだ。草は顔に出さないように、でき上がったセット商品を数える。

「わたしも詳しくは知らないけど、とにかく介護は大変だわ」

「本当に大変だと思う。うちと同じとは知らなかった」

 大野は最後の言葉をため息と一緒に吐いて、赤い髪を両手で掻き上げる。草は以前、大野から痴呆の出始めた母親を三人姉妹で看ていると聞いた。未婚の次女が母親と一緒に暮らし、次女が出かける時間は、残りのふたりで世話をするのだという。

「それでも、家に医者はいるし、うちのインコとは違って息子には手がかからないから」

「でも、耕治くんはサッカーが得意なんでしょ」

「まあね。それがなかったら、とっくに警察のお世話になってるわ。サッカーの強い高校から話がないわけじゃないけど、入っても必ずレギュラーになれるわけじゃないし。その時が一番恐いのよねえ。やけになって横道へずんずん外れて行きそうで。だけど、これだけ親が心配してるのに、本人は何も考えてないんだから。嫌になっちゃうわ」

 地元のFM局が、ボサノバ特集の後半の前に、空き巣対策について伝えている。近頃この辺りでも空き巣被害が増えてきたからだろう。

 草は作業を終えてカウンター内に戻った。

 通っている整体院も空き巣に入られたと大野が言う。受付に座っているそこの奥さんに聞いた話らしい。サッシのガラスに小さな穴が開けられているのに気付いて修理した。外から穴を通じて棒状のもので鍵をつつけば開けられるし、警察もそういう形跡があるから空き巣の仕業だろうと言ったが、おかしなことに、整体院では七人もの家族が暮らしていながら、どんな被害にあったのかはっきりしない。通帳やカード、貴金属類は無事だし、まとまった現金がなくなった覚えもない。年寄りの財布から抜かれたならわからないかもしれないけど、と奥さんが苦笑いしていた。そう話す大野に、草は相槌を打ちながら、ノート型パソコンの上に置いた、読みかけの新聞の見出しに目を落とす。

──老人介護の現場で暴力。

 足音に目を上げると、ガラス戸の向こうに紙袋を胸に抱えて久実が走って帰ってくる。日差しはもう春めいたまぶしさだ。草はそのまぶしさを借りて目を細め、勢いよく飛び込んで来た久実になんとか笑顔を間に合わせた。



3

 庭に面する居間は日向(ひなた)の暖かなにおいに満ちている。

「どうしたの、草ちゃん。足なんか擦(さす)っちゃって」

 草を草ちゃんと呼ぶのは、子供の頃からの付き合いの由紀乃だけだ。

 バリアフリーマンションのモデルルームに見えるこの家は、ひとり暮らしの由紀乃が脳梗塞で倒れた後に、九州に住む長男夫婦の提案で建て替えたものだ。九州に来てほしいという息子に、由紀乃が頑として首を縦に振らなかった末の妥協点だった。外出は通院以外ほとんどしないし、週二回、掃除や買い物などの介護サービスを受けてはいるが、由紀乃は先が四つ足の杖を突きながらも、身の回りのことはなんとかこなしている。

「ちょっと歩き過ぎた。この前の雪かきで腕は痛くなるし、寄る年波には勝てないわ」

「何言ってるの。草ちゃんほどの健脚は見たことないわよ。さすが、徒競走の選手ね」

 柔らかなソファで向かい合う由紀乃は、何十年も前の話を昨日のことのように鼻を膨らませて誉めてくれる。丸眼鏡に丸い鼻、膨らんだ頬。草から見ると由紀乃の顔は幼い頃と変わらない。ただ背中が丸くなり、少し左半身の自由が利かなくなっただけだ。

「由紀乃さん、わたしもお昼を食べていくわ。店は久実ちゃんに任せてきたから」

「まあ、よかった。ふたりだと楽しいもの」

 草は千鳥格子の紬(つむぎ)の膝から手を離し、テーブルの風呂敷包みをほどく。梅柄の小振りの二段重を一段ずつ由紀乃と自分の前に置く。それぞれに稲荷寿司、銀鱈の粕(かす)漬け、ほうれん草の胡麻和え、漬物を詰めてある。

「そうねえ、もう梅の季節ね。ついこの前、雪が降ったのに」

 由紀乃は庭のほころび始めた白梅をいとおしそうに眺めてから、お茶道具の載った盆を引き寄せる。右手で茶筒を取り上げて、左腕と胴の間に挟み、ゆっくりと蓋を開ける。由紀乃の動作はとても遅いが、草は手伝わずにのんびりと彼女の入れてくれるお茶を待つ。由紀乃はコーヒーを飲まない。嫌いなのだ。健康だった頃の由紀乃は、小蔵屋のカウンターに座っては小声でお茶にしてねと言ったものだ。

「ねえ、どうしてそんなに歩いたの」

 バレンタインデーが終わってからの四日間、草はまだ昼夜時間を変えては小宮山家付近を歩いていた。胸に抱いている不安を周囲に相談するにしても、人伝(ひとづて)でなく、自分自身でもう少し具体的に知りたかった。何しろ、小宮山夫妻の顔も知らなかったのだから。

「ちょっとね」

 短い草の返事に、急須に茶匙で葉を入れたところで由紀乃が顔を上げる。草が話す気がないのを見て取ったのか、ずり落ちた眼鏡を直すと由紀乃はゆっくり茶筒の蓋を閉める。

 話そうとしないことは訊ねない、話すことだけを静かに聞いてくれる、草にとって由紀乃はそういう人だ。熱病に似た恋愛の末に山形の旧家に嫁いだ時も、後妻を用意してから離縁された時も、夫に取り上げられた息子の良一が用水路で溺れて死んだ時も、由紀乃は草の声を雨を受け止める湖のように聞いていた。草の戦死した兄も若くして病死した妹も、由紀乃が大好きだった。

 由紀乃は右手で電気ポットに急須を合わせ、指の曲がった左手を給湯ボタンに押し付けて慎重に湯を注ぐと、おいしそうねと重箱を覗いて微笑んだ。

 その夜、草はまたマンション周辺の散策に出た。左手には相棒の蝙蝠傘を持ち、着物の上にウールのショールを羽織った。昨夜とは打って変わって風もなく三月並みに暖かで、歩いて体が温まってくると腰に入れた使い捨てカイロが熱いくらいだ。早朝にも来たので、今日はもう二回目になる。

 この四日間に、草は小宮山夫妻を見かけている。見た目など当てにならないのは承知しているが、暴力が結びつかない、ごく普通の人たちだった。

 医師をしているという夫は、夜、マンションの前でタクシーを降りた。降りると同時に鳴った携帯電話に小宮山と名乗り、学会という言葉が出たのでそうとわかった。長身で声は低く、忙(せわ)しない動作がやや神経質そうに見えた。

 妻のほうには庭先で洗濯物を取り込んでいる時に会った。通りかかった草は、嘘も方便と、懐からタオルハンカチを取り出し、洗濯物が落ちていますよ、と声をかけてみた。フェンス越しに首を横に振った彼女は、少し顔色が悪かったものの、むしろ普通の主婦より化粧も髪型も垢抜けていた。抱えていた大量の洗濯物に、ずいぶん家族が多そうで大変ですね、と草が言うと、四人だけですよ、と主婦は微笑み、にわかに鳴ったやかんの笛に呼ばれて家の中に入ってしまった。さりげなく老婦人の話を切り出す間もなかった。

 わかったのは、小宮山家に暮らすのは夫妻と息子と老婦人の四人で、草の知らない誰かがオムツを使用している可能性はないということだけだった。

 午後十時を過ぎた住宅地に歩いている人はなく、時折、車が走り抜けるくらいだ。街路樹に引っかけられていたペットボトルを、草は蝙蝠傘でつつき落として拾った。腰籠が要ったかなと思いながら見上げた空に、月は見えない。太った灰色の猫が、我が物顔で道を横切る。

 あの老婦人は今どうしているのだろうか。他人の家は密室だ。それを知るのは難しい。

 一月末の雪以降収まっていた暴力がまた最近始まり、老婦人を動けなくしたのではないかと疑いながら、隣の冬柴少年の気にも留めていない様子が浮かんでくる。後で気付いたのだが、彼は小宮山家の息子と同い年だ。たぶん同じ中学校に通っているのだろう。その冬柴少年が気にしていないなら大丈夫な気もする。

 結局、手渡された数ピースをどう並べても、ジグソーパズルの絵が何なのかわかりはしない。さて、どうしたものか。

 マンションの斜め前の角にある一戸建ては、門の奥の暗がりにジュースの缶や白いビニール袋が転がっている。散らかったままで数日経つだろうか。これでは留守と知らせているも同然で実に物騒だと、草は門の前で顔をしかめる。そして道を渡り、もう見慣れてしまった青い窓の下に立った。傘を突き背筋を伸ばす。

 一〇二号室の他の部屋には明かりが点(つ)いている。静かだ。こうして温かな光を見ていると、やはり考え過ぎなのかも知れないと思えてくる。

 遠くから、子供の泣く声がする。

 でも、もし何かを見過ごしていたら──。どうしても、あの日の“記憶"がそう胸をざわつかせる。喪服の声によって語られた、あの日。見てもいないのに映像として心に焼き付いてしまった情景。草は白髪の後れ毛を櫛で整え、目をつむる。

 春の日、幼い男の子がひとりで畑を抜けて用水路の方へ駆けてゆく。きらきら光る水の流れにたんぽぽを投げ入れるのが好きなのだ。ある農夫は男の子がひとりなのを不思議に思い、ある老人は顔馴染みの子守りを目で探したが崩れた背負子(しょいこ)の荷のほうが気になり、擦れ違った小学生の女の子たちは振られた手に同じように応えた。しかし、誰ひとり男の子に声をかけたものはいなかった。ひとりじゃ危ないよ、と声をかけさえしたら、男の子は増水していた用水路に足を滑らせなかったかもしれないのに。その時できたはずの簡単なことがなされていたら。

 いや、結局は自分だ。

 肩に掛けたショールを胸元に掻き寄せ、草は冷たくなってきた鼻を埋める。よく熱を出した良一の湿った熱い息、汗で張り付いた額の髪、真っ赤な丸い寝顔が鼻先に浮かび上がる。潤んだ黒い瞳はいつも草を探し、見つけては安心していた。そんな良一を置いてくるのではなかった。さらってでも連れて来てさえいれば。

「大丈夫ですか」

 驚いて振り返った草の前に、見知らぬ男の顔があった。三十代後半くらいの制服の警官だ。何度か会ったことのある近くの交番の巡査ではなかった。草は涙の浮かんでしまった目に決まりが悪くなって、急いで瞬いて笑顔を作る。

「まあまあ、すみません」

 何がすまないのか草もわからないが、冬の夜道に立つ老人に警官が声をかけるのは当然だし、ここにいる理由も説明のつくものではないので、つい口に出た。警官が草を覗き込んで、また一歩近付く。

「本当に大丈夫ですか。家まで送りますよ」

「いいえ、すぐ近くですから。ご心配ありがとうございました」

 なんと親切なとは思ったが、草は丁重に断って歩き出した。自宅方向ではなく十字路を真っ直ぐに渡って、由紀乃の家の前を通って帰るつもりだった。明かりが点いていたなら電話して窓越しに手でも振ろうと思ったのだ。由紀乃は最近よく寝付けないとこぼしていた。

 ところが、草の前に警官が回り込み、両手を広げて通せんぼをしたのだ。草は一体何事かと身構えた。

「こっちじゃなくて、あっちでしょう」

 警官が右手で指し示したのは小蔵屋の方向だった。彼は草が小蔵屋だと知っているらしい。それにしても何を考えているのか、度を越した親切だ。草も少々腹が立ってきた。つい語調が強くなる。

「小蔵屋をご存知ですか。ちょっと知り合いの家に寄ってから帰るものですからね」

 すると警官は眉根を寄せて一言つぶやいた。なんだ小蔵屋はわかるんだな。

 草はやっと合点がいった。痴呆で徘徊していると思われたらしい。怒り半分、笑い半分、草は無言のまま顔の前で手を左右に振った。手助けは必要ないという意味だ。

「あのね、とにかく送って行ってあげますから」

 まるで迷子に話しかけるような、警官の甘ったるい口調が気に障った。

「おばあちゃん、最近この辺りをずっと歩いているでしょう。心配した人から交番に通報があったんですよ」

「そ、それは用があるからです」

 草の頭に、かあっと血が上った。この何日かの行動が他人から見たらそう見えるのか。小蔵屋のお草が痴呆で徘徊している、と。傘を握る手に力が入る。

「とにかく帰りましょうよ、夜も遅いし危ないから。このペットボトルは拾ったの? ほら傘はわたしが持ちますから」

 手間をかけさせないでくれとばかりに警官は草の腕を取り、傘を取り上げようとする。

「大丈夫です」

 草は警官の手を振りほどく。参ったなあ、頑固で。警官の二度目のつぶやきが火に油を注いだ。

「失礼も大概にしてください。わたしは呆けていませんよ」

 草は腹の底から叫んでいた。

 幾つかの窓が開いた。草は飛び出した声を掻き集めて喉に押し戻したいと思ったが、もう遅い。カーテンの開く音が続き、あちこちの窓に顔が現れ、幾つもの視線が草と警官に降り注がれる。小さな街灯がふたりの立つ十字路を円形舞台のように浮かび上がらせ、観客は何が起こったのかと息を呑んで見つめている。

「おばあちゃん、そう興奮しないで、ね。何かしようとしているわけじゃなくて、家に帰りましょうというだけなんだから。ほら、わたしは警察官なんだから安心でしょう。まったく参ったなあ」

 草よりもむしろ野次馬に聞かせるためか、警官は声を張り上げる。その前で、草は恐る恐る周りを見回した。野次馬の中に知った姿があった。マンションの窓には、二〇二号室の大柄な主婦、一〇一号室の冬柴少年。またマンションの向かいの家の窓にも、雪の朝に挨拶を交わした主婦が。彼らは部屋の明かりを背にして、シルエットとなって浮かんでいる。

 そして、何よりも草を動揺させたのは、次に発せられた声の主だった。

「お巡りさん、どうなさいましたの」

 声のした背後のマンションを見上げた草は目を見張った。声の主は一〇二号室の小宮山老婦人、その人だった。掃き出し窓を開けて立っている彼女の右手に包帯はなく、出かけていて帰ったところなのか訪問着姿だ。帯の金糸が微かに光る。

 警官は小宮山老婦人に向かって、大きく両手を振って言った。

「お騒がせしてすみません。何でもありませんから、ご安心ください」

 草は数歩あとずさりすると、マンションに背を向け、小走りに逃げ出した。小蔵屋を目指した。拾ったペットボトルが落ちて足元に転がり、警官が何か呼びかけたが、草は振り返らなかった。どこかで犬が吠える。それを合図にあちこちから犬の声が飛び交う。

 頼りなげな街灯が照らす街並みは揺れる視界の中で現実感を失い、草は自分が正気なのかどうかも確信が持てない気がした。ただ、呼吸するたびに冷たい空気が刺さる喉のひりひりした痛みと、軋(きし)む足だけが確かだった。立ち止まっても、もう誰も追っては来ないだろうに、草は足を前に出し続けた。まるで夢の中だ。足は重く、思う通りに身体を前に運んでくれない。心臓が限界だと悲鳴を上げる。アスファルトに引き摺っているショールが、地の底へ引っ張ろうとする。

 最後の角を倒れるように曲がる時、なぜか草は、小蔵屋がそこにあってくれと祈らずにはいられなかった。



4

 翌日の月曜日。小蔵屋はいつもの通り、主婦たちのにぎやかな声とコーヒーの香りに満ちている。

 しかし、草はその中にするっと現れては消える好奇と同情の目に気付いていた。テーブルの主婦三人がこちらを盗み見ては、まさかだの、普通に見えるけどだのと始めたのが最初で、窓越しに店内を覗いていた人が草と目が合うと早足で去っていったり、コーヒーを受け取りながら草の顔を覗き込む客がいたりと、たった一晩で昨夜の一件はかなり広がっているらしい。銀行に行くついでに、幸子と由紀乃にポトフを届けに寄ってもらっている、久実の耳に入るのも時間の問題だろう。

 草はコーヒーカップを洗いながら、あくびを噛み殺す。

 ベッドで寝返りを打つのに飽き飽きして、午前三時には起き出し、冷凍してあった牛すね肉でポトフを作り始めたので、昨夜はほとんど眠っていない。

 余所(よそ)へのいらぬ心配の末に痴呆老人に間違われた悔しさに右へ、さらし者になった恥ずかしさに左へと転がり、終いには孫の世代の警官相手に取り乱した情けなさに、じっとしていられなくなったのだ。老いに覚悟も誇りも持っていたはずなのに、結局どこかに自分だけは老いの外だという妙な自信があったのかもしれないと思い至ると、肉や野菜を切る手に力が入った。

 身体の不自由な由紀乃に同情や優越を感じていなかったか。こうして考えている自分は確かなのか。もしかしたら、正気と信じている自分は、自分の異常が理解できていないだけなのではないか。

 草の心は鍋の灰汁(あく)のように、すくってもすくっても泡立った。

 大鍋一杯のポトフができ上がる頃になってやっと襲ってきた眠気は、店のカウンターに立つ草の背中にぺたんと張りついたままだ。

 蛇口を閉めると店の電話が鳴った。駐車場を貸してくれている幸子だった。

「お草さん、さっきはどうも。悪かったわねえ」

「ちょっと早く目が覚めちゃって、たくさん作ったものだから」

 コーヒーを飲み終えて出ていく客に、草はあわてて受話器を手でふさいで独特のありがとうございましたの声をかける。

「──たりするとあれだから」

 幸子の話は続いていたが、要領を得ないので草は訊き返した。

「だから、ほら、料理だって今までみたいにはいかないでしょうから、わたしはもういいわ。持って帰ってもらったのは、せっかく作ったのを一食分でもいただいちゃ悪いからなのよ。気を悪くしないでねえ。じゃあ、お大事に」

 一方的な幸子の電話がぷつんと切れた。草は受話器をしばらく耳に押し当て、耳障りなツーツーという電子音を聞いた。もう幸子の耳にも届いたのだ。あれこれ考えまいと受話器を置いて、開いたガラス戸にいらっしゃいませと顔を向ける。

 店のざわめきが、ほんの一瞬やんだ。久実に支えられて、杖を突いた由紀乃が左足を引きずりながら入って来たからだった。ビデオの一時停止を解除したようにまた動き出した店内を抜けて、由紀乃がカウンターの壁際の席に身体を収め、にっこり笑う。

「これ、長瀬さんがごちそうさまでしたって」

 久実はカウンターに小鍋の入った紙袋を置いて、和食器のコーナーに行ってしまう。長瀬とは幸子のことだ。しかし、草が持ってみると紙袋は軽くなっている。

 お久し振りと心の中で挨拶でもしているのか、由紀乃は愛おしげにカウンターをなでた。

「今、幸子さんから電話があったところ。これは由紀乃さんがもらってくれたの?」

 草が紙袋を揺らしながら話しかけると、由紀乃は顔を上げ丸眼鏡を押し上げた。

「あら。それじゃ、久実ちゃんの努力も台無しねえ」

 ふふっと、由紀乃は小さく笑う。

「努力?」

 隣は二席空いていたが、由紀乃は草に手招きをして近寄らせ、内緒話をするように口に手を当て小声で答える。

「幸子さんが言ったんですって。徘徊し始めたら、何を入れちゃうかわかったものじゃないって」

 草は返事に詰まった。

 もう桜が咲いていたとでも報告するような調子で、由紀乃は楽しげに話を続ける。

「久実ちゃん、うちの玄関に入ってきたら、いきなりスプーンを貸してくださいって言って、ずかずか台所に入って、仁王立ちでそのお鍋のポトフを食べ始めたの。どうしたのと聞いたら、食べながら幸子さんのところで聞かされた話を一通りしてね。久実ちゃん泣き出したわ、悔しいって」

 ここで由紀乃は元の姿勢に戻った。

「それでも、あっという間にお鍋は空。さすが久実ちゃん」

 店の奥で接客している久実の丈夫な背中が見える。草は紙袋を流しの脇に置いた。

「なんだか、かわいそうなことをしちゃったわ」

「だから、ひとりで帰すのが心配でついて来たのよ」

 久実が口に放り込んだポトフの冷たさや、草の様子が心配だったに決まっている由紀乃の気持ちを、草は思った。鼻の奥がつんとするのを、唇をきゅっと結んで堪(こら)える。

「人間は案外変わらないものね。父が結核の患者さんを診ていたでしょ。だから、あの人はわたしと話す時、いつもちょっとだけそっぽを向いてたの。頭にきたから、彼女の大嫌いな蜘蛛を背中に落としてやったわ」

 由紀乃が言ったそれは、草のある思い出につながった。子供の頃、背中を覗き込んで蜘蛛だと叫んだ男の子と飛び上がった幸子が、田植え直前の田んぼにもつれ合って落ち、泥だらけになったふたりを由紀乃と引き上げたことがある。母が作ってくれた紺色のスカートがずっしりと泥水を含んで、草はひとりになった帰り道に涙が出た。忘れもしない。

「田んぼのあれ、由紀乃さんがやったの?」

 由紀乃が自慢げに笑った。そして、お、ちゃ、ね、と大きく口を形作った。

 午後五時を回ると急に客が引けたので、草は久実を一時間早く帰した。今夜は近場のスキー場で滑る予定だというので勧めたのだ。ふたりきりになって、久実の顔を見ているのがつらかったせいもある。

 閉店まであとわずかの誰もいなくなった小蔵屋で、草はカウンター内の椅子に座り、流しの横のステンレスに俯せた。

 足腰がぱんぱんに張り、寝不足で草の身体は何倍も重かった。疲れ切っていた。自分のために入れたコーヒーの湯気越しに、開け放った小窓から、毎夜十時までライトアップされている丘陵の観音像が見える。橙(だいだい)色の光が足元から当てられた観音像は、濃い墨色の空に浮かび上がる実体のない光の像のようだ。草は観音に心の中で手を合わせながら、小蔵屋も潮時かもしれないと思う。

 午後、小蔵屋にやって来た運送屋の寺田は草の顔を見て安心すると、飛び交っている噂を裏の事務所で教えていった。草がマンションの郵便受けに汚れたチラシを詰め込んでいたとか、警官に傘で殴りかかったとか、他人の敷地にごみを投げ入れた、小蔵屋はもうすぐ閉店する、いや入院したらしいなどと事実に尾ひれも通り越した話だらけで、話す寺田も聞く草もあきれ果てて笑いが漏れた。寺田は、なぜ夜遅くあんなところへと、久実も由紀乃も呑み込んだ、もっともな質問をした。草は黙ったまま、ただ首を横に振った。

 ひとり身の草は小蔵屋を始めた時から、自分が死んだ時あるいは病気で倒れた時に、店とわずかな財産をどうするか準備はしてある。しかし、この調子では小蔵屋の商売は予想しなかった終わり方になるかもしれない。信用を失えば店は簡単に潰れる。

 草は両手を突っ張ってやっと立ち上がり、水を張った洗い桶の中に手を突っ込んで布巾を握った。ゆるゆると通り過ぎる焼き芋屋の決まり文句とにおいが、冷たい空気の上を滑り降りてくる。窓の脇に掛けてある細長い鏡の中から、無言でこちらを見ている白髪の老女に、草は、はっとした。垂れ下がった後れ毛、色を失い染みの浮いた頬、数え切れない皺。鏡に濡れ布巾を叩きつけると老女は飴のように歪(ゆが)んで流れた。

 突然、ガタンと戸の音がして、草は驚いて振り返った。スニーカーの足が引っ込んで出て行った。草が追いかけて戸口に行くと冬柴少年だった。

「いらっしゃいませ。どうぞ」

 少年は捕まってしまったという表情で、自転車を跨(また)ぎかけた足を下ろして小蔵屋に入ってきた。少年の目は久実あるいは他の客の姿を必死で探し、いないとわかると必要最小限の言葉と時間を使って、草から贈答用のコーヒー豆を手に入れ出ていく。草はそんな少年相手に昨夜の誤解を解く気にもなれず、いつもどおりのありがとうございましたを言うのがやっとだった。

 早々にカウンター以外の明かりを落とした。戸締まりをしようと再び戸口に戻り、ガラス戸の鍵に手をかける。

「やばいんだろ」

 外の声に目をやると、冬柴少年が店の前で誰かと話をしている。相手は野球のユニホーム姿で、冬柴少年と同じくらいの年頃だ。部活帰りの友人に偶然会ったのだろう。どちらも自転車に跨がっている。向かいの清涼飲料水の自動販売機が白々とまぶしい。

「小宮山んとこか。やばいよ、かなり。うちの母親は夫婦喧嘩くらいにしか思ってないけど。いつもノイズキャンセリングのヘッドホンつけて、仕事部屋にこもってるからさ」

 答えたのは冬柴少年のほうだった。草はとっさに戸を少し開け、耳を隙間につけて座り込んだ。そうすれば戸の下部は板になっているので姿を見られにくい。冬柴少年は続ける。

「小宮山の部屋、俺の部屋の隣だろ。だから結構聞こえるんだけどさ。最近じゃ、しーんとしてて、やめてくださいとか、お父さんすみませんとかも、全然なくて不気味。一月の末の雪の夜にものすごい音がして、それっきりだな」

「もう三週間以上欠席してるだろ。佐々木に言わないのかよ」

「佐々木先生には、小宮山のお母さんが病欠だって連絡してるんだぜ。しかも、そのお母さんが言いなりらしい」

「言いなり?」

「かばったら自分がやられるからじゃないの。俺もパス。こえーよ、隣だぜ」

「ひでぇ」

「なら、自分でどう? 強敵だけど。いつか殺されるかもって、小宮山が言ってたくらい」

 そこで少年たちの会話は止まった。

 草は幻聴と思ってしまわないように、爪が食い込むほど強く拳を握った。

 馬鹿だった。自分の騒ぎに夢中でその先を考えてもみなかった。簡単なことだ。小宮山夫妻と老婦人が元気なら誰が、と。

 ペダルを踏み出した音がする。

「じゃあな」

「あ、松本。明日CD返せよ」

「エミネムな。わかった」

 小蔵屋の前を左右に別れて少年たちの自転車は消えていった。草は引戸を開けて、表に立った。寒さに立ち尽くす草を、暗い空から丘陵の観音が見下ろしていた。



5

 寝静まった住宅街は、草を呑み込んだ巨大な悪夢のようだ。

 青いカーテンの窓はすぐそこにある。草は綿入りの作務衣姿で傘をついた。

 バイクのエンジン音が向こうの通りを行く。草は十字路に立ちマンションを見上げた。上階の部屋は、幾つか明るい。何かの音に振り返ると、相変わらず散らかったままの角の家で、ごみが風に転がされていた。

 少年たちの話を聞いた後、草はたまっていたここ一月分ほどの新聞を居間中に広げて、子供への虐待の記事を読み漁(あさ)った。

 被害者は幼児から中学生まで幅広く、虐待事件は驚くほど多い。死亡あるいは傷ついた子供たちを前にいつも繰り返される、学校や児童相談所の不手際と責任のなすり合い、警察の介入を含めた子供を守る新しいシステムを求める声。事件発覚後のインタビューに、ある者は虐待する声を何度も聞いたと言い、ある者は普通の親子に見えたと答える。当人から虐待の事実を聞いていたが、他の人にしゃべらないという約束を守りぬいた被害者の友人もいる。

 しかし、事実の重さの前にすべては砂のように何も形をなさない。

 あの窓の向こうに、誰からも見捨てられた少年がいるのだ。血のつながった母親にさえ見捨てられた少年が、あの青い窓の向こうに。

 草は唾を飲み込んだ。

 少年が自力で逃げたとは考えられない。虐待事件の発覚を恐れる父親がそれを許すはずがないし、マンションの住民たちの話からすれば、少年は父親が暴力の手を緩めるほど衰弱した状態だと判断するほうが妥当だ。警察や学校、児童相談所に通報すべきだろうか。それが正しい手順だろう。しかし、そんなに時間がかけられるのか。今、少年は生死の境目にいるのかもしれないのだ。その間に取り返しのつかない事態になってしまうかもしれない。しかるべき機関に働きかけても、草の痴呆の噂が邪魔をする可能性もある。道端に倒れている子供がいたら、誰だって救急車を呼ぶ前に駆け寄るはずだ。

 たった一枚のあのガラス窓を破れば少年を助けられる。

 覗き込む警官の顔、好奇と同情の目、小蔵屋。それらが草の脳裏を横切った。しかし、最後に良一の黒い瞳がじっと草を見据えた。黒い瞳は草を捕らえて放さない。

 草は意を決した。ここまで迷っていたが、やはりあのガラス窓を割るしかない。そして少年を確認して、救急車と警察を呼ぶのだ。

 草は侵入経路を考えた。マンションの敷地は南側が一メートルほど高くなっているから、道路から直接、庭に上るのは草には無理だ。マンションの入口側から植え込み伝いに一〇二号室の窓に回るしかない。狭いがなんとかなりそうだ。腰高窓には室外機に足をかければよじ上れるだろう。運良く不動産情報の折込広告に載っていた間取り(同型と思われる、上の四〇二号室が売りに出ていた)が救いだった。目的の部屋は、十五畳のリビングダイニングを挟んで、他の三つの個室から離れていた。北側の玄関から入った場合、廊下を右に行くと少年の部屋、左に行くとそれ以外の空間というわけだ。そして、それは少年の存在を忘れて生活するのに都合のいい造りでもあり、草をぞっとさせたのだった。

 草は一息吐いて携帯電話のマナーモードを確かめ、作務衣のポケットからドライバーを取り出した。これを窓ガラスの縁の二か所にねじ込んで鍵の辺りを三角に割る方法なら、比較的静かで簡単だと、最近テレビのニュース番組を見て知ってはいた。もちろん、ぶっつけ本番の大胆な計画だ。不法侵入や器物損壊などの罪に問われると承知しているし、少年がどこかに移動させられていたり、誰かに気付かれれば失敗だろう。しかし、他に、今すぐ少年を救う方法は考えられない。

 もう、あれこれ考えるのは意味のないことに思えた。寝不足と疲労の濃霧はいつの間にか晴れて、目の前の矢印は進むべき道をはっきりと示していた。

 草は腹に力を入れた。そして今度はポケットから軍手を取り出しはめようとした。が、手が滑ってドライバーを落としかけ、それを受け止めようとして二度お手玉をしたら余計に勢いがついてしまい、ドライバーは角の散らかっている家の門を潜って、ころころと向こう側に転がっていってしまった。幸い傘を使えば取れそうな距離だ。草はしゃがんで傘の先端を握って門の隙間に通し、傘の柄の曲がりでドライバーをなんとか手前に引き寄せようとした。

 その時、横切ろうとした何かが傘に引っかかり、門の向こうにどさりと倒れた。傘を持った草の右手にかなりの衝撃が走った。

「ううっ」

 男だった。全身黒ずくめの男は顔から敷石に倒れたらしく、手袋をした手で鼻の辺りを押さえて丸まっている。

「何やってるの、あんた」

 ひそめた声をそれでも最大限にして、草は男に問いかけた。訊くまでもない、不審者に決まっていた。この家の住人だったら、先に草がこう言われている。

「かぁー。サイテー」

 男は流れた鼻血を袖で拭いて、草に顔を見られまいと、うつむき加減に身体を起こして座った。脇腹や足を擦ってまだ低く唸っている。ナイロン製のジャンパーのフードから半分出ている今風のとがった短髪が若く見せているが、あるいは四十を超えているかもしれない。草が老人なのでいつでも逃げられると高をくくっているのか、痛くて動けないのか、男にあわてて逃げる様子はない。門の向こう側にいて、すでに鉄格子の中に捕らえられているかのような男は、鼻を押さえたままのくぐもった声で言った。

「ばあさんこそ、よその家で何やってんの」

「それは……」

 草は答えに窮した。男は落ちていたドライバーに気付き、拾って草の顔と見比べた。

「そこの小蔵屋だろ、ばあさん」

「知ってるの?」

 コーヒーを飲みに寄ったことがあるのだろうか。しかし、男に見覚えはない。いや、男は空き巣か。小蔵屋も標的になっていたのか。

「警察には言うなよ。言ったら、小蔵屋のばあさんがここでおかしなことをしてたと通報するし、小蔵屋は俺の仲間に常に狙われるはめになる」

 草の頭にある件が浮かんだ。

「まさか、うちの近所の整体院に?」

 男は少し顔を上げて、口元だけで笑った。

「小蔵屋は何を盗まれたかわからない整体院とはわけが違うのよ。このわたしが隅から隅まで目を光らせてるんだから」

 さも面白そうに、今度は男は笑顔になった。じゃあ試してみるかいとでもいうように。

「言っとくが、仲間には気の荒いのもいるんだ」

 男はドライバーを草に放って、右足を擦りながらゆっくり立ち上がり、草がいなくなるまで庭の隅で休むつもりなのか、背を向けて奥に行こうとした。男は中背のどちらかと言えば瘦せ型だが、そのわりに胸板は厚くしっかりした体つきをしている。

 咄嗟(とっさ)にひらめいた草は、門の隙間に手を入れ思い切り伸ばして、男の足首に傘の柄を引っかけた。男はまたつんのめって転がり、その勢いで引っ張られた草は門に頬骨を打った。

「なんだ!」

 振り返った男は、周りに聞こえないよう、かすれた怒鳴り声を草にぶつけた。

「お前さんを雇いたい」

 草は男の目を真っ直ぐに見て、思いついた計画を説明し始めた。

 男は門の掛け金を外して草を招き入れた。そして他人の家の庭先で、しばらくの間、黙って話の続きを聞くと言った。

「本気?」

 街灯が微かに届く中、草は庭石に、男は枯れ芝に腰を下ろしている。風は弱まったが、しんしんと冷える。

「やれないかい」

 草は少し腫れた頬を押さえたまま言った。

「俺も中学生を盗むなんて初めてだからな。だって誘拐だろ、それ」

 しかし男の顔色は落ち着いていた。切れ長の茶色い目は、興味深げに草を眺めている。

「わたしが家に入り込んで、外と連絡をとっても、見つかったら助け出せないかもしれない。親が玄関先で警察官や救急隊員に間違いだったと言い張ればそれまでだし、痴呆だとわたしを警察に突き出したっていい」

「痴呆?」

「昨夜あの部屋の様子を見に来て、警官に徘徊だと勘違いされて大騒ぎになったの。野次馬が出てきて、さらし者よ」

 なるほどね、と言った男の声には、しっかり笑いが含まれている。

「その子を外に出してもらえれば、確実に助けられる」

「簡単じゃない」

 男は寒さに襟元までファスナーを上げる。そして、鼻の擦り傷に触れながら、夜の一点を見つめていた。揺れる天秤を見ているのだろう。

「もしも何もせずに、今夜あの子が死んでごらん。今やろうとしたことがどんなに簡単なことだったかと、後できっと後悔する。少なくとも、わたしはね」

「ずいぶんな正義漢だな。赤の他人で、会ってもないんだろ」

 突き立てた傘の柄を、草は血管と染みの浮いた両手で握り締めた。

「見られてるから」

 男は草に顔を向けた。草は風にざわめく庭木の向こうの星空を見上げた。

「毎朝手を合わせてる観音さまが、河原の神さまが、三つ辻のお地蔵さんが見てる。何より、長いことあの世で待ってる息子が見てるの。わたしがちゃんとしていたら、死ななくて済んだ子がね。だから中途半端はできない。それだけ」

 草の白い息は夜空に吸い込まれて消えた。男は顎を揉んで少し沈黙した後、立ち上がって、頑丈そうなウエストポーチを両手でなでた。

「成功報酬、これで」

 男は右手の指を二本、Vサインのように草の目の前に突き出した。

 草は見張り役を買って出たが、素人の見張りなどいらない、危なくなったらすぐに逃げると男は言い残した。

 プロは仕事が早い。男は草を門の内側に残して十字路を斜めに渡り、道路から直接一〇二号室の青い窓の前までするっと登り、音もなく窓を開け、長方形の暗闇に消えた。わずか一、二分のことである。草は男の腕の良さに惚れ惚れした。

 少年の状況を見た上で助け出す準備ができたら、男が窓に顔を出す約束になっていた。息をひそめて待つが、一向に男は姿を現さない。少年がいないのか、あるいは遅過ぎたのか。沈黙の時間は限界まで引き延ばされて、張り詰めていた。

 男が侵入して七分が過ぎた。無表情に時を刻む携帯電話を握る草の手は、緊張と寒さで感覚を失っていた。少年本人に抵抗されたり、誰かに見つかったなら、男は出てくるはずだ。しかし、片側に寄せられた青いカーテンは窓を闇と分け合ったまま揺れもしない。

 おかしい。窓はブラックホールと化してすべてを呑み込んでしまったようだった。待ちきれず草は十字路に飛び出した。男が取り押さえられたりしているなら、ここで騒ぎ立てて、彼に逃げる機会を与えなければならないだろう。心臓が波打って血の気が引いてくる。草は息を大きく吐いて、落ち着きを手繰り寄せようと努力した。

 その時、かすかに、マンションの自動ドアが開く音が聞こえた。住人の誰かが出てきたのか。草はあわてて開けっ放しだった門に戻り、庭に身をひそめた。

 しかし、出てきたのは丸めた布団を肩に載せた空き巣の男だった。

 草が呆気に取られているうちに、男は角の家の門を入り布団を置いた。その布団から、瘦せこけた少年の顔が覗いた。産着に包まれた赤子に似ていた。汚物と垢と消毒用のアルコールが混ざったような、ひどい臭いが鼻を突く。

「げ、玄関から出てきたのかい」

 草の声は震えた。薄い白い息が少年から吐き出される。

 この子は生きている。生きている。

「右手と両足に添え木をしていて時間がかかった。この状態じゃ、あんな小さな窓から出られやしねえよ」

 草は汚れでもつれ固まった少年の髪をなでた。顔は痣(あざ)や傷跡で斑(まだら)になっている。

「意識が朦朧(もうろう)としてるんだね」

「何を打たれてるのか、注射針の跡がしこりになってる。でもさ、俺が助けてやる、ここを出たいかって訊いたら、こいつはちゃんとうなずいた」

 男は友達にでもするように、黒い革手袋をはめた手で少年の頬を軽く叩いた。

「な、ちゃんとうなずいたよな」

 少年の薄く開けた目から、涙が光って流れた。


「後ろからいきなり口をふさがれましてね。ええ、何をされるのかと驚きました。はあ、年のせいか眠れなくて、真夜中でしたけど散歩でもすれば疲れて眠れるかと歩いていまして。はい、男でした。この子は虐待されて逃げられないでいたんだが俺が連れ出してきたと、足元の布団を指してそう言うんです。泥棒が警察に電話するわけにはいかないから代わりに頼むってねえ。びっくりしましたよ、布団の端から男の子の顔が見えましたから。泥棒に入って偶然見つけたらしいですね。嘘じゃない、早くしろって。まあ、そりゃあ真剣でした。どんなって、警察にも言いましたけど、暗くてあんまりねえ。四角い顔の還暦くらいの年だったと思います。あら、マンションの防犯カメラでも顔はわからなかったんですか。考えてみると、あの男にもあの子と同じくらいの孫がいたのかもしれませんねえ」

 事件が表沙汰になって数日間は、草の顔なしのインタビューが繰り返しテレビで放送された。画面は縞の着物の膝に置かれた染みの浮いた手。「深夜の虐待少年救出劇──空き巣とおばあさんの連携プレイ」と新聞にも見出しが躍った。

 草が客に話しかけたりマンション周辺を歩き回っていたのは、客の噂話から小宮山家を気にしていたからだと察した久実、由紀乃、寺田が草の行いを誉めた。ポトフを断った幸子は、新聞を握り締めて小蔵屋にやって来た。

 草を取り巻くのは相変わらず好奇の目だったが、警官ともめた夜のそれとは明らかに違っていた。しかし、匿名を条件に一度だけマスコミのインタビューに応じた以外、草は誰に何を訊ねられても、笑って顔の前で手を振るだけで沈黙を守った。もちろん、草が空き巣を雇ったことは誰も知らない。


6

 早朝の小さな公園は静かだ。三月の山々は練乳をかけたように霞んで見える。草はいつも通り、河原で観音と小さな祠に手を合わせ、三つ辻の地蔵に立ち寄ってから、ここに来たのだった。

 青い蛸の形をした遊具の脇を通って、草は欅(けやき)の下の古いベンチに腰を下ろした。蝙蝠傘をベンチの縁に立てかける。隣にはスポーツ新聞を広げた男が座っていた。

「見たぜ、テレビ。この二枚目のどこが六十のジジイなんだよ」

「見た通り言ったまで」

 男は正面を見たまま、にやりと笑う。昨夜、一か月後という約束通りに電話をかけてきた空き巣の男は、ここを待ち合わせ場所に指定してきたのだった。

 正面の柔らかな緑をまとい始めた柳越しに、虐待を受けていた少年、小宮山正弘が入院している病院が見える。

「あそこに地獄から盗んだ命があるわけか」

 男は缶コーヒーをまずそうに飲み干して、ごみ箱に投げ入れた。

「うれしそうじゃないわね」

 草は膝を擦った。先月の一件以来、足の調子があまり良くない。あの夜の寒さに負けて久し振りに風邪もひいた。

「ばあさんだって同じだろ。退院したって、どういう人生が待ってるんだか」

 少年の家族は全員が逮捕された。

 マスコミは次のように伝えている。主犯は継父で、結婚生活と仕事のストレスを、少年に暴力を振るうことで発散していた。自分と違い勉強もしないのにできる妻の連れ子に対する嫉妬も手伝い、犯行は日増しにエスカレートした。一月末には数か所を骨折させるに至り、痛いとうるさいので薬を打って静かにさせていた。実母は夫からの暴力を恐れて服従する一方、経済的には安定している生活を失いたくないという利己的な考えからも、少年を連れて逃げようとはしなかった。少年が動けなくなってからは、いっそ死んでくれればとほとんど食事も与えていない。元々このふたりの結婚に反対だった継父の母親は、事実を知りながら黙認し続け、時には少年の寝室がにおうと部屋の消毒などを少年の母親に指示。現在も、優秀な医師である息子の将来を嫁に潰されたと訴えているという。

「たとえあの夫婦が離婚したって、自分を見捨てた母親とは縁が切れるわけじゃない。血がつながってるんだ」

「そうだね」

 柳が淡い緑を風に揺らした。男も、草も、黙ってそれを見つめる。

 ──お母さんをひとりにはできなかった。

 どうして早く逃げなかったのかという警察の問いに、少年はそう答えたそうだ。

 草は懐から分厚い封筒を出し、ベンチの上を滑らせた。男は封筒を取り上げて中を覗き、二枚だけ抜いて戻すと、勢いよく立ち上がり歩き出した。

「やせ我慢して、後でうちの店に入るんじゃないよ」

 草は封筒を振って、男の背中に呼びかける。

「仲間には手を出せないさ」

 男は背中を向けたままそう言って、駅の方に消えていった。

 南風が土埃を舞い上げて男の足跡を消し、同時に草の足元に大きな紙を運んできた。それは、絵画展のポスターで、赤い桜桃や麦の穂などが写実的に描かれた絵が印刷されている。公園脇の掲示板からはがれたらしい。草はポスターを拾って土を払い、掲示板に行って貼り直した。

 その時、草はその静物画が胸から上の人間の姿であると気付いた。麦の穂が髪、桃が頬、きゅうりが首の一部という具合に、ひとつひとつは美しい果物や野菜を組み合わせて描き出されるのは奇怪な人物画。見続けていると、果肉が筋肉に、あるいは野菜の筋が筋肉の繊維となり、まるで人間の皮を剥いだ姿のように異様に迫ってくる。

 ひたすら自分の幸せを願う者たちが織り成すこの地上は、あの目に美しく映るのか。

 草は丘陵の観音を見上げた。草の胸の問いに観音は答えはしない。

 画鋲(がびょう)がひとつ足らず、ポスターは風にばさばさと鳴る。

 しばらく、草は乱れる白髪を手で押さえながら奇妙な絵を見つめていたが、やがて掲示板に背を向けて歩き出した。昨日注文の入った結婚式の引き出物の手配を急がなければならない。

◇ ◇ ◇

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