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葬ると弔う

過日、とあるワークショップに参加した。葬儀に関するものであったが、コロナ禍になり、一日葬が増えているとの情報であった。

新潮国語辞典では、通夜を

①仏堂にこもって夜通し祈願するすること。おこもり。②死者を荼毘に付す前に、家族・縁者等が僧を招いて読経・回向し、棺のそばで夜をすごすこと。夜伽

とある。ここでは②にあたるが、近年の通夜は、故人の家族というより、知り合いが参列もしくは焼香を行う機会であり、葬儀のように仕事を休む必要がないといった理由で通夜が中心に捉えられてきた。

長寿社会を迎え、多くの方々は友人・知人も高齢化もしくはすでに故人となっている。また元サラリーマンや団地住まいだと地域コミュニティーとの関係が希薄となり、通夜をやる必要性が減っているのではないか?と述べると、そこにいた葬儀社社員の方は、おそらくその推測が正しいとの見解をしめされた。

個人的には、通夜・葬儀の簡略化に関しては問題があるかな?とも感じる。

さてその話をするなからで葬ると弔うの違いを会話しながらネットで調べた。 

「葬る」も「弔う」もどちらも死者に対して行うものですが、「葬る」はあくまで“埋葬する”という行為のみを指す言葉です。一方、「弔う」は“慰める”という意味合いが強く、死者への行為だけではなく遺族への行為や、死を悼む感情を含む言葉と言えるでしょう

このように「葬る」は埋葬をさし、「弔う」は死者だけの言葉だけでなく、遺族への行為も含めている。

いまの一日葬は時間の省略であり、弔うをやめよという雰囲気なのでしょう。通夜は、世間体で成り立ってきたことを示しています。しかし、人数の多少に関わらず、喪にともにふくす。相手を思いやるすなわち偲ぶ時間を大切にすべきではないか?と感じます。

誕生日のお祝い会は他者がいて成り立ちます。それはなくても歳は取ります。共に祝う人がいることでなりたつ精神的豊かさ、年を重ねることへの責任やバトンタッチへの覚悟、産んでくれた母への感謝は通過儀礼があるから自覚するのではないでしょうか?

人数が減ったから通夜はしないではなく、人数が減った互いに喪失を理解しあえる時間ができた。亡くなられた方を参列者で思い出し話し合おうという時間にできたら、通夜の意義をもう一度取り戻せるのではないだろうか?と考えています。



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