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11月26日の朝日新聞の天声人語はガソリン高騰と地球温暖化の関係を問う内容です。ガソリン高騰を問題視し、アメリカのバイデン大統領が石油輸出国機構に増産を求めたことに言及し、脱炭素の逆ではないか?と疑問を呈している。その上で、我々がクリスマスでのイチゴの消費することが重油使用の一つの原因になっていると指摘している。

コロナ禍になり、結果、飛行機は飛ばなくなり、貿易も減った。景気は確かによくないが、少なくとも地球温暖化に関わる二酸化炭素の排出はこの期間にかぎって言えば、減少したと思われる。

同日の鷲田清一『折々のことば』では

もりはしずまりかえり なにもしゃべらないけど いつだって きみをみている

という言葉を解説している。ここでは「見られる」感覚を重視している。森を自然や地球と考えると我々は今までのあり方、これからのありようを問われているとも言えないだろうか?

『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』では

「ディスカウンティングは、明日の年金よりも今日のパーティを優先する人間の心理を表しているに過ぎない」というものがある。だが、個人が現在を優先しがちだからといって、集団で将来の世代を無視して良いということにはならない。私たちに彼らの生活や福祉の価値を貶める権利などない。もう一つ、経済学の教科書によくありがちなのが、「将来世代は、経済成長や技術の進歩により、気候変動などの問題に取り組むためのより良くより安価な手段を手に入れているはずなので、彼らを支援するために過剰な投資をすべきではない」という理由から、ディスカウンティングを正当化する主張だ。しかし、今後も0年単位で成長が続くと仮定するのは希望的観測でしかなく、生態系の破壊の影響が出始めてしまうと、さらに望み薄になる。また、種の絶滅や極地の氷の融解、遺伝子操作されたウイルスの蔓延などの大変動を、私たちの子孫が十分な資金と技術を持って簡単に覆すことができると考えるのも、同じく希望的観測に過ぎない。(91頁)

現在の私達の都合でものを見ること、さらにディスカウントの危うさも指摘していて、今回のガソリンの問題にも低通しないだろうか?

そんなことを考えている最中、森田真生『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』を読み終わらせた。

本書は、コロナ禍での森田真生さんの日常をつづった作品です。講演活動が減り、お子様と向き合うようになり、幼稚園が休園になった子供のために、「もりたようちん」をつくることを考えます。そこから、土を触り、自然と向き合う生活を行う。そこから見えてくる世界観が述べられていきます。

この本は日記の形式のエッセをまとめたものですが、面白いのは後半に出てきます。「恵み」や「生まれ変わり」に関する文章は俊逸です。また、過去、現在、未来という三時性のあり方や身体と地球環境の関係性を何気ない文章の中に含めています。どの文章も輝いていると言えます。さらに、今僧侶として生きている私にとって課題である言葉の意味を伝える「翻訳」も話題になっている。

ここで注目したのは以下の文章です。

イタリアの植物学者ステファノ・マンクーゾは著書『植物は未来〉を知っている』のなかで、「緊急事態」に直面したときの動物と植物の違いについて、とても面白い指摘をしている。すなわち、動物は緊急事態に直面したとき、いつも同じ対処をしてきたというのだ。
それは、「逃げる」という方法である。問題が起きたら、その場からいなくなる。動物はこのために、迅速に動ける身体と神経系を発達させてきた。
これに対して植物は、環境から逃げずに、その場にいながら問題を解く。このため、「並外れて優れた感覚」を磨いてきた。その場にいることを選んだ生き物にとって、その場で何が起きているかを精緻に把握することこそが、死活問題だからである。
パンデミックや地球規模の環境の大変動に対して、僕たちはすぐに逃げることはできない。
これらは、「どこか別のところへ行く」という仕方では回避できない問題なのだ。だからこそ僕たちは植物に学ばなければならない。ここでないどこかに行くためではなく、すでにいるこの場所をいままでより精緻に知るためにこそ、資源とエネルギーを大胆に投下していくのだ。

資源とエネルギーをどこに費やすのか?確かに森田さんは今と言ってはいますが、精緻に理解し、逃げずに対処することを求めています。ディスカウンティングはおそらく問題を直視しないことであり、現代の重視でしょう。ガソリンの高騰はおそらく生活を苦しくします。それでも、いつかは受け入れなければならないものでもあります。

それを踏まえてどうあるべきか?を改めて考えるべきなのかもしれません。

何度か引用したことがありますが、日蓮聖人のことばに

 外典に曰く未萠(みぼう)をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみよう(高名)あり

『撰時抄』での予言の的中をいう箇所ですが、当てたが大切かというと当てるより、それ以前に対策を具申したことが大切でしょう。立正安国論はそのために書かれています。採用されなかったことから後にこの文章になっていると考えれば、我々は先は見えている。それなら今をどう生きるか?を考えるべきところに来ていないか?

具体的な答えは簡単には見えませんが、安い大量消費でなく、エコな消費、サスティナブルな消費を考えるべきかもしれません。

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とりあえず、小さな消費でも工夫を!

お寺では下記のトイレットペーパーを使用したり、間伐材塔婆を使用したりしています。小さな一歩だけど、少しでも…




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