とあることから
実に些細な言葉に反応して、諍いになるケースがある。大は戦争であり、小は夫婦喧嘩や家族喧嘩になる。
本日もある確認をされ、それそのものは事実確認に過ぎなかったのだが…受け手である自分が、曲解してギクシャクしたりした。
話し合うと理解できるが、相手に余計なパワーを使わせてしまった。
仏教では、人間の苦しみの原因は煩悩、渇愛にあるという。簡単にいうなら自分の都合でものを見る癖の話であり、それを減らすコントロールすることであろう。
しかし、これは実に難しい。良かれといった言葉も二度と間違えがないようにという言葉も受けがどう受け取るかわからないからだ。私というものがあると考え、そこに固執するならば、当たり前だが上手くいかない。
仏教では我々欲望にいきる人々には一切は皆な苦と述べる。その苦しみの原因を、諸の行いは変化をしていて、いつも同じ状態ではない。さらに、全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないというを述べている。そこには、自己の実体性も否定している。我々の視界が必ずしも正しいわけではないが、それでも我にとらわれてしまう。
その我を乗り越えることでより正しくものが見える。ありのまま見えるようになると考えたのだろう。それができたら悟れるし、自分にも他人にも平和が訪れると仏教は考えている。
昨今、戦争もよくテレビで取り上げられる。単純に片方が善でもう片方が悪との考えが横行している。その向こうでスポーツ選手が祭典に参加拒否されるケースながうみだされてもいる。
スポーツ選手が薬物などの問題があるのなら不正であり参加拒否でよいが、生まれ、練習したのが某国だから参加拒否とは、いささか無理がないだろうか…
多様性は知ることから始まる。排除は先鋭化を促す。戦争中だからこそ参加させ、そこで多様な価値観に触れてもらう必要があったのでは?と個人的には考えている。
僕の勘違えも同じ、相手の苛立ちを知り、痛みや悲しみを真に理解できていない。それが上手くいかなかった原因であろう。
言うは易く行うは難しと実感し、反省する一時でした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?