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いやらしさは美しさ

自分の人生を取り戻す一年にしようと決めてから、いろんな本を読みました。
生きるとはいったいどういうことなのか、自分なりに知って考えていく助けにしたかったのです。

エーリッヒ・フロム、岸見一郎、國分 功一郎、土門蘭、ミヒャエル・エンデ、尹雄大、、
変わっていく思考のきっかけが欲しかったし、なぐさめも欲しかった。厳しい言葉も受け止める気持ちではあったし、一方で少しは今までの人生も認めてあげたかった、というのが本音で、そんな文章を本の中に探していました。

早川義夫さんのことは知りませんでした。
フォローしている大阪の古本屋さんのインスタで流れてきて、表紙の装丁が仲條さんのデザインというのも気になって、出張で大阪に行った際に買ったのが「いやらしさは美しさ」でした。

この本のいろんな一節に少しずつ救われたような本。でも恥ずかしいことに、具体的にどこに救われたのかは覚えていない。なので、改めていま読み直しています。まだ10分の1ぐらいしか読み直していないけど、それでもあーこの表現が好きだった、というのがどんどん出てくる。それを少し紹介します。

なにも歌を作ったり、人前で歌ったりすることが素晴らしいことでも、ましてや、かっこいいわけでもない。日常です歌が歌えていれば、それに越したことはない。日常をいきいきと暮らし、毎日が幸せなら、わざわざ歌を作って歌う必要などない。
寂しいから歌うのだ。悲しいから歌うのだ。何かが欠けているから歌うのだ。精神が普通であれば、ちっともおかしくなければ、叫ぶ必要も心をあらわにする必要も楽器を震わせる必要もない、歌わざるを得ないから歌うのだ。

早川さんはバンドデビューし、その後解散。一時は音楽業界を離れて、書店を開業していました。その後20年ほど経って音楽活動を再開する際ときの気持ち。

復活後最初のテレビ収録で、「僕の求めている場所はここなのだ」と思ったそう。しかしいざ本屋の閉店の日を迎えると、泣いてばかりいたと。

本屋での「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」の世界にも感動はあったのだ。小説や映画やステージの上だけに感動があるのではない。こうした何でもない日常の世界に、それは、目に見えないくらいの小さな感動なのだが、毎日積み重なっていたのだということを僕は閉店の日にお客さんから学んだ。

「毎日が幸せなら、わざわざ歌を作って歌う必要などない」
当時の自分の心に残る一節でした。

早川さんの言葉の何が良いのか、それを説明しようとするとすごく陳腐になる気がして難しい。それでもあえて言葉にすると、日常を認めてあげる、といった感じでしょうか。特別なイベントが素晴らしいのではなく、日常のちょっとした風景や空気感こそが人生で、自分をかたちづくるものなのだという気になります。

最近、思ったこと。すべての過去は、あれで良かったのだと思うようになった。数々の失敗も、出会いも別れも、その道を選んだのも、選ばなかったのも、すべてはあれで良かったのだと思うようになった。もちろん、あの時、ああすれば良かった、こうすれば良かったというのはあるけれど、そして今、特別幸せなわけではないけれど、今の僕があるのは、僕の過去のおかげなのだ。

これは自分も思っていることです。自分の人生、埒が明かずに、これだけウダウダしてきたけれど、不思議と後悔の気持ちはありません。こうしかならなかったと思うし、こうなったから出会えたものもあると思うと、悪いことばかりではないと思います。

10年以上オンラインチャットで周りには言えない性欲を満たしてきたなんて、正直恥ずかしい。情けないと感じることもなくはなかったけれど、そこでの出会いが自分の人生を開くことにつながったのだから、自分にとって何が必要かなんて事前にわからないのです。進むまま進むしかない、というか。

いいものは、うるさくない。月や太陽のように黙っている。もう二度と会えな人たちも黙っている。耳を澄ませば聴こえて来るかもしれないけど。考えてみれば、僕たちの心やたましいは、いつだって黙っている。本のように、黙っている。

静かな何を語るわけでもない日常こそが人生で、すごく楽しいとか、すごく興奮するとかはないけれど、なんかいいな、ちょっといいかもぐらいの、ゼロではなく、+1でも目盛りが右に振れたら、それで生きていけるのだと最近思います。

こんなふうに、早川さんの本、いいなと思う文章がたくさんあって、これでもまだ30ページぐらい。また紹介したいと思います。

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