啐啄の機(そったくのき)

啐啄の機という言葉を知った。
教えるとはいかなることか。
教わるとはいかなるものか。
それを端的に表す良い言葉だ。

啐とは卵の中の雛鳥が成長し、
殻を破ろうと内から突くこと。
啄とは親鳥がそのことを感じ、
殻の外から突いてやること。

雛鳥が突くと同時に親鳥が突く。
その瞬間がぴったり合ってこそ
殻が破れて雛鳥が生まれ出る。
そうした機微を啐啄の機という。

このことから啐啄の機は
師弟の教えと学びの瞬間は
同時であることが望ましい、
その例えの言葉となった。

弟子が学ぶ準備ができてないときに
師匠は教えても弟子の身にならない。
弟子が学びの意志がないときに
教え過ぎるのはもってのほかだろう。

教えることは待つことである。
教わることは向かうことである。
弟子の学びの機が熟したときに
師匠はそのときを逃さずに教える。

師匠が啐啄の機を感知できれば、
弟子は大きく成長することができる。
師匠はそのときまでじっと待ち、
決して教え過ぎてはいけないのだ。

教える者は啐啄の機を肝に銘じよ。