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嵐④ 二宮和也のソロ曲推してみた。

二宮和也、屈折する光と音が紡ぐ黄色の物語

ニノのソロ曲はこの2015年春現在まで、私の好みを外したことがありません。つまり今のところ百発百中、というより現在八曲なので、八発八中。そのぶん毎度ハードルは上がりますが、超えなかったとしても、期待を裏切ることはない。それが、私の中のニノのソロ曲です。(あくまで私の好みなので、他の人にとってみたらどうかはわかりませんが)
ニノのソロといえば、嵐の中では珍しく作詞曲を自らしている曲も多いですね。その辺りにも触れつつ語りますが、あまり事実や本人の情報にはたぶん基づきません。おおよそ、いつも通りの「想像」です。御了承くださいませ。

『虹』

ファンの中では言わずと知れた、二宮先生(と思わず呼んでしまうほどの)の名曲ですね。ニノが作詞をしています(曲は別の人が作っています)。
ということははじめ全然知らずに、私が初めて触れたニノのソロ曲でもあります。(大野さんや相葉さんの項で触れてきた「Time」収録の曲ですね)
「Time」だけは音源よりも先に映像でソロ曲に触れていた私は、ニノの『虹』に関しても、相葉さんの時とはまた違った意味での衝撃を受けることになりました。

嵐のコンサート映像を「Time」で初めて見た私には、『虹』のパフォーマンスは更に新鮮なものでした。ニノは眼鏡をかけていて、しかもピアノの弾き語り。「なんで眼鏡……?」とは思いつつも、私は男性が楽器を演奏する姿が好きなので、ピアノ(しかもクリスタルグランド)を弾くニノにただただ、見惚れていました。
『虹』は音源で聴いても、きれいなピアノ曲です。流れるような旋律にのせて、ニノのやさしげで繊細な歌声が聴こえる。そのパフォーマンスはまさに、「美しかった」
ニノの手は、ファンの間ではハンバーグお手てと呼ばれるほど指が太くて短く、それを本人も時折口にすることがあります。しかしあくまで個人的な意見ですが、パフォーマンス中に私はニノの指にそのコンプレックスを感じ取ることはありません。これは『虹』のピアノに限らず、他のギターなどでも同じです。
もちろんパフォーマンスですから、そのように演出されてのことだとは分かっていますが、たぶんその思惑通りに、私は『虹』のパフォーマンスを「美しい」と感じていました。照明が暑いのかニノはかなりの汗だくでピアノの弾き語りを続けますが、その姿も何か懸命さの演出にすら思えてくる。クリスタルグランドに反射するスポットライトの光。ドームに響くピアノの音。そして、力強く歌い上げる二宮和也。
この光景を初めて見た私は、この曲が好きになりました。そのシンプルかつ強烈な世界観と共に。私は普段あまりバラード調の曲をそこまで繰り返し聴くほど好きにはならないのですが、「癒される曲」は別で、好きなのです。『虹』は、私のそのツボにハマったのだと思います。
とりあえずパフォーマンス上の話を続けますが、落ちサビで『君に』という言葉が入っているところで、ニノ、眼鏡外して弾くのをやめてマイク握る。眼鏡、そのためだったのか……!!というのは置いておいて、そのまま最後、客席の方を向いて落ちサビひとこと歌って暗転です。
この映像、好きなので割と何度も見返すのですが(『虹』やニノに限らず、好きなソロ曲は比較的普通のグループ名義の曲よりも見返す率が高い私です。ソロは結構世界が独立しているので見返しやすいというのもあります)、何度見てもこの演出、シンプルだけどよく出来ているなぁ……と思ってしまいます。シンプルな曲だからこそ、演出も出来る限りシンプルにまとめている。衣装もベストに眼鏡というくらいで、あまり派手さはありません。けれどその小道具を使って、最後にきちんとファンサービスするポイントまで作っている。しかも、展開的に無理することなく……!モニターに手書き文字まで出ます。最後にその挨拶もします。曲が元より良いのに、最初から最後まで丁寧なソロ演出。本人が考えたのかは定かではないですが、本人なのだとすると……すごい。こんなにも詰め込まれているのに、ちっともうるさくない。そういうところも、この曲の好きなところです。やはり映像から惚れたので。

『虹』については、曲もさることながら、ニノの歌詞センスが……というか、彼の書く物語的世界観が好きな人が多いんじゃないかな、と思います。この曲、きちんとお話になっているんです。
解釈については各々でかなり諸説ありますし、たぶん本人もいつかどこかで語っていることもあるとは思うのですが、まぁ単純に読める感じでご紹介しますと、初々しい彼と彼女の『結婚記念日』という感じ。
特に大サビ以降の歌詞が素敵で好きです。彼女、男前だなぁ、って感じで(笑)。『何で言えないのかな? 好きだよ。一言よ?』でもこのあと、『たまには聞きたいな』って言うんです。それがまた、かわいい。『今日は私と君が名字を重ねた日。愛が芽吹いた日。』だから、たまには言ってほしいなぁ、とこうです。でも、彼は結局言えないのです。彼女が『虹がキレイだよ』と言う。それに対して『いや、お前の方が…』と言う。でも、照れてしまって言えない彼に、『ありがとう』っていう彼女。……まぁ、ざっくり解釈で書くとこんなイメージを想像できます。でも、細かいところは本当に人によってもっと違う解釈もできると思います(とはいえ、割とニノ本人が語っちゃってたりもしますが。そこはまぁ、受け取り手の自由があるということで)。
この、聴いている側に実に様々な解釈・想像をさせる物語性・世界観が、ニノの詞の魅力だな、と思います。ニノの歌詞はおおよそ句読点をそのままつけてブックレットに載せる(完成させている)タイプなのですが、私は結構このタイプがまた好きだったりして。
特に小難しいことは書いていないのに、魅力的な世界観を描ける。こちらの想像をかきたてる。明解で、わかりやすい言葉を使って。けれど比喩や視点の移り変わりという手法で、想像の幅を広げている。このセンスが、私も欲しいです(苦笑)。

『それはやっぱり君でした』

そんな二宮先生が、数年ののち「Popcorn」というアルバムに収録したソロ曲で、なんと『虹』のアンサーソング、というか本人曰く第二章を作ることになりました。それがこの曲です。
「作ることになった」と書きましたが、パンフレットのインタビューの書かれ方を見るとおそらく「作っている(書いている)最中に、偶発的にそういうこと(第二章)になった」という方が正しいっぽいですが、まぁ出来上がってきているものが結果それならばどうでもいいことにしておきます。

『それはやっぱり君でした』もピアノ曲になっています。『虹』よりはメインメロディーがもっと少しばかり豪華な感じですが。まぁ作詞はニノですが、作曲は別の方がしていますし(『虹』を作ったのとはまた別の人)。そのあたりが、「偶発的に第二章ができた」というのも納得な感じではあります。(確か、作っている最中の環境が『虹』の制作の時に似ていたので、第二章にしてしまった、というようなことだったような気がします)
さて、こちらは都合上、歌詞の話を先にしましょう。
一人称が『私』だった『虹』に対し、この曲での一人称は『僕』つまり彼視点になっています。その理由は、なぜか。……つまるところ、もう彼の想い人は故人になってしまっている、というお話なんですね。けれどもう、おそらく亡くしてしまってからは結構時間が経過していて、それが日常になっている、という感じかな。
この曲に対してニノは、「救いようがないのは嫌なので、死というものからは抜けているふうにしたい」「人の生死に触れることは強い意味を伴うけれども、それをひとつ作品として作り上げられればその強さは和らぐんじゃないか」というふうなことを、インタビューの中で話しています。
そう言うだけあって、もう、ガッツリと、ばっちりなものが出来上がってきている、と思います。個人的にはあの話を映画化してほしいくらい。割合どこにでも転がっていそうな話ではあるかもしれないけど、だからこそ共感する人は多いだろうし、つくり自体は素朴なだけに、モノとしての拡げやすさもあるな、と思っていて。(という願望がガチ感満載のオタですいません)
本人は『(大サビ以降が)虹のコピペなんで楽でした』みたいなことを言っていましたが、『第二章』であるならば、『虹』の詞を踏襲していることこそが、更にグッとくるポイントでもあるわけでして。『虹』の時には言えなかった、『好き』や『キレイだよ』が、『今なら言える。』という。『どうして言えなかったかな?』という。もはやタイトルを含めて、それはまさにアンサーソング。二宮先生はこのお話をひとつ、作り上げたのですね。お疲れ様です、と言いたい(笑)。
私がこの曲の歌詞で特に好きなのは、やはりサビですかね……彼に聞こえている、彼女の言葉とか。『虹』もそうですけど、ちゃんとキャラクターが浮かびそうなところが好きですね。

この曲もパフォーマンスはピアノ弾き語りです。それさえ『虹』を踏襲するかのように、シンプルな演出。(これに関しては本人が考えたとのこと。インタビューより)いや、もはや『虹』以上にシンプルでした。真っ白なピアノがステージ上にぽつんとあって、『あの時』と同じようにニノが弾き語りをしている。けれど今回、眼鏡もなければベストでもなく、白シャツにジーンズ。白いピアノに浮かぶのは、虹色に歪んだ照明くらいだった。ドラマティックな間奏を弾いている間、モニターに映る、『虹』のパフォーマンス映像。否が応にもつながり始める世界。
落ちサビを歌い上げるニノの表情が、もう、言葉にできない。そんな表情で歌い上げている言葉が『あの時言えなかった』、『君はキレイだ』であること。それだけでもう、胸がぎゅうっとする想いになります。
それを歌い終わったあと、カメラが引いて……まるで光が射すように、斜光の照明が。ニノがアウトロを弾き終わると、雨が降り始めて、その水の上に虹色のライトが照らされて、まるで虹のカーテンの向こうにニノがいるようなステージが出来上がるのです。本当に、『虹』の物語は曲もパフォーマンスも、世界が美しい。
これは、アリーナの前列のほうにいた人は分かりづらかったのではないかな。映像で見た方が、わかりやすい演出でしたね、たぶん。こういうの、在宅は密かに嬉しいです。
この水幕を使った演出はジャニーズだと滝沢革命などでも使われますが、『虹』の当時ではおそらくここまでの演出は出来なかったかもしれないと考えると、まさにこのとき第二章が発表できて良かったなぁ、という気にもなります。完結、おめでとう。(ちなみに水の演出は、ライブ構成的にも次のシーケンスに繋がっていて、それも含めて美しいなと思うところなのですが)

『Gimmick Game』

二宮先生の作る物語は、前述のものを含めメロディー的に明るめな曲が(今のところ)多いですが、その中でも異彩を放っているのが「Dream"A"live」収録のこの曲です。これは作詞曲・ニノですね。
これも、ファンの中では名曲として名高いと思います。それは、なぜか。この曲の世界観が、まぁなんというか、スゴいから。一部の間では、『娼婦なの?』くらいのことは言われています。(あくまで個人の見解です/なお、『娼婦』という言葉を二次元的な誇張で『そういう仕事の女性』を指す言葉として使っていますが、差別的な意図はございません)
ただ、この曲ができた元ネタ、これまたどこぞで聞いた噂によると「なんでその話からこの曲が出来上がるんだ」レベルの何でもない話だった気がするので、創作者の思考回路ってやはり不思議なものだなぁ、と思うばかりです(ソースがちょっと曖昧な上に詳細に覚えていないので、特筆しませんが)。

元ネタのことはとりあえず一旦忘れて、歌詞から見える世界観の物語の話をしますと、次々と男性のもと(おそらく肉体関係)を渡り歩く、そういう生き方しかできない、哀しい女性の嘘にまつわるお話。……って書いているだけでも既に、これだけの意味深な曲を書いてくるアイドル・二宮和也の考えていることが底知れません。個人的には、元ネタがどうでもいい話から始まっていた(ような気がする)だけに、完全に「狙っている」としか思えないのですが、それを狙ってできることはそもそも凄いことなので、私は尊敬すらしています。
もう歌い出しから、『どうしてだろう あなたの指が ワタシだけには 汚く見えてるの。』これでもう、私はガッと掴まれました。割とギターのイントロもセクシーで好きなのですが、そこから来てのこの詞で駄目押しです。
特に好きな、というか文章の作り方がたまらないのが、1番サビの最後。『あなたは今日もまた”愛してる”が腐ってる』『あなたの首筋、ホラ、嘘が見えた。』この世界観でのこの女性が紡ぐ『”愛してる”が腐ってる』という表現が凄く好きです。共感というのとは違いますが、なんというか、この曲全体に漂うニノという人のヒネくれ捻じ曲がったオタクな部分が垣間見えそうなところが好きなんですよね(良い意味で)(フォローになっていませんが本気です)。私の嫌いな言葉をあえて使って言うならば『中二病感』というやつです。
この物語は全体を通して歌詞も曲も秀逸でオタク心をくすぐられるのですが、歌詞の中で出てくる男性の台詞が全てカタカナで書かれているところもいいですね。心がこもっていないような、全て空っぽに見えているような、「私にはそういうふうにしか聞こえてこないよ、あなたの声も言葉も」っていう感じ。そして、自分もそれを使う哀しさ。二番メロの、『お望みならば涙くらいならばナガシテモイイヨ。』しかもそれに続く『なんかそれっぽいでしょ?』というこの、わざとらしいまでのあざとさ。大好きです。

あざといと分かっていても好きにならずにはいられない。それは、ある意味ニノという人の魅力にも通ずるところがあるな、と思うのは私だけでしょうか。飄々として、どこからが本当で、どこまでが嘘なのかわからない。全部本当かもしれないし、全部嘘かもしれない。それくらいミステリアスで、ある種「アイドル的」とも言える魅力をニノは持っているし、ある意味それを「狙ってやっている」と思っています。
嵐について詳しくない人でも、二宮和也という人がジャニーズの中では多少なりとも演技力に定評があるというのは聞いたことがあるかもしれませんが、それだけナチュラルに「演技」というものをやってのける人が、嘘をどれだけ上手につけるのか。考えただけで、(良い意味で)ゾクゾクします。
そうやって考えていくと、この娼婦を歌ったような曲が、なんだかまるでニノ本人のことを歌っているようにさえ聴こえてくる。これぞ、「キャラクターソングという面白がり方」です。そんなつもりで歌詞を見直してみれば、まるで二宮和也という人が、誰も信頼せず、嘘をつきながら生きて、けれどそれを受け入れている。『アイドル』という偶像として生きる覚悟をしている、……かのような世界にも、見える。『でもその世界でしか生き方しらないの』と歌う彼が、どう見えてくるでしょうか。括弧で括られたカタカナの言葉を言っているのは、誰なのか?実はこの曲、男女が逆なんじゃないのか?……そんな想像すら、できてしまいます。
私が言いたいのは、ニノがそういう人なんじゃないか?ということでは全くなく、そんな想像をさせるこの曲の世界観の面白さと、それがリンクして見えてしまえるのは二宮和也という人が持つキャラクター性の凄さなんだと、そういう話です。

私は他の人の項でも書いているとおり「Dream"A"live」の曲を披露している当時のコンサート映像はまだ未所持なのですが、『Gimmick Game』は「アラフェス'12」でも披露されています。この曲、一応ダンス曲になっていまして、ステージを歩きまわりつつ、要所要所踊ります。そしてこのパフォーマンスもスゴい。サビの『首筋~』のくだりでは常に首筋を撫でるニノですが、特に、落ちサビのラスト。『きみの首筋、ほら、唾をつけた。』のところで、『首筋、』までしか歌わず、指を自ら舐め、それでまた自分の首筋に撫でつける。歌詞のまんまではありますが、あざとい歌詞をそのままあざとさ全開で表現しきるこのアイドル力に脱帽です。
私はステージ上でアイドルらしく動ける(アピール・パフォーマンスできる)人が好きなので(推す、担当というのとはまた違うのですが)、素直に「ニノ、最高だよ!!」と拍手したい気持ちでした。(実際見てる時はもう、見蕩れてますけど)

『どこにでもある唄。』

ここまでとはうってかわって、二宮先生が作詞曲した「応援歌」です。「Beautiful World」収録のソロですが、「応援歌を作ろうと思って作ってこの曲ができてこのタイトルをつけている」ってところがとても個人的にはニノらしいなぁと思えて、すごく好きな曲ですね。

この時のパンフレットインタビューで書かれていることですが、これが収録されたアルバムは2011年に発売されました。つまり、震災直後だったんですね。色々段階的な想いはそこで書かれているのですが、今までソロで書いたことのなかったという「応援歌」をそのタイミングで「やってみよう」ってなった二宮先生。やはり避けてきたジャンルだから難しかったりだとか色々な理由もあったそうで、試行錯誤の末に出来上がった詞らしいです。ニノの中ですごく『メジャー』な仕上がりだと、語られていました。言葉だったりとか、そういうものが。自分が思っているよりも嵐の曲に影響されているんだと気付いた、とも。それでこういった曲が出来上がってくるっていうのは、少なくともニノの中では嵐って完全に『そういうもの(存在)』なんだろうな、と思いますね。
今までに応援歌を避けてきた理由が、「『頼んでないし』みたいに思われたらどうしよう」的なものだったらしいので、それに対する気持ちは一応解消した(らしい)とはいえ、この曲のタイトル自体に「別に、押し付けたい訳でも何でもなくて、…」って感じが出てて私は好きです。
応援歌作っておいて、『どこにでもある唄。』ですよ。確かに、それはある意味真理かもしれないなって思いました。

私はニノに対して、『Gimmick Game』の項で書いたようなことも多少思っていますが、それと同時に、きっと意味のない嘘はつかないだろうし、そういった意味で言えば誰よりも正直にモノを見て、言う人かもしれない。とさえ、思っています。芸能人っぽくなるのがいやだなぁ、とか思ってそうだな、と思いますし(笑)どちらかというと、「そうであってほしい」というのもありつつ。
常にどこか一歩引いた目線から、俯瞰でモノを見ているからこそ、色んな世界が生み出せるだろうし、嘘も本当も自由自在ではないかな、って思うんです。ニノはいつも、自分が『ジャニーズ事務所のアイドル・嵐の一員』であることを自覚しながらも、逆に言えば『価値があるのは"嵐である二宮和也"だ』と思っている。そしてたびたび、彼はこんなようなことを言います。『自分は、一番近くで嵐というものを見る事ができる、嵐の一番のファンだ』と。きっとニノは、『嵐が嵐でなくなるまで』嵐でいてくれるんじゃないか。かなり抽象的ですが、そう思わせる雰囲気がある人だな、と思います。(まぁこの辺全部私の想像ですけどね)

さて、そんなことを思いながらパフォーマンスについても触れますが、前述した曲の熱の入れ方で分かる通り、私はピアノを弾く男性が好き。むしろ、ピアノを弾いているニノが好き。と言っても過言ではないわけですが、これを音源で初めて聴いたとき、「ピアノ弾いてほしい……!」って思ったわけです。イントロ聴いてピアノ曲っぽく感じちゃったんですよね。実は1番サビ以降からそうでもないんですけど、音的には。
実際、パフォーマンスはギター弾き語りです。正直な話、凄く残念でした。しかも、衣装もよくわからないセレクトで謎が多かったし。でも曲が好きなのでなんだかんだ映像も結構何度も見るんですけど、この曲、特にモニター演出以外は特筆した演出がないんですよね。その代わり、あの国立の大きなモニターに白い鳥が何羽も飛んでゆく(またイラスト的な平面の鳥なのが良い)、そこに明朝体で歌詞が表示されて、っていうのがシンプルで良いんです。『メジャーな言葉を使ったピュアな応援歌』というだけあって、その演出も非常にピュアと言えます。(衣装はともかく)そこで、何度も見るうちにまた私は『想像』してみました。たぶんピアノを弾くことも出来なくはなかっただろう、けれどギター弾き語りにした理由。
あくまで『想像』で『妄想』ですが、……この曲が『応援歌』だと言うならば、お客さんの方を向いて歌いたかったんじゃないか。それで、ギター弾き語りになった。としてみるのは、どうでしょう。
ピアノを置くとなると、どうしても『虹』などの時のようにステージ構成の関係上、お客さんを見ながら弾き語るのは難しいです(キーボードのように前がひらけていれば別ですが、流石にソロ演出弾き語りメインでキーボードはあまり置かないんじゃないかな)。でもギター弾き語りなら、体勢的にも正面を向いて歌える。

『応援歌』は聴いている人に『呼びかける』歌です。『目一杯叫べ』『一歩一歩 歩いている。ただそれだけでいい』そんなふうに。いくら押し付けるつもりなんてなくても、一応は聴いてほしい。何をどんな風に想ってその曲を書いたのか。受け取ってほしい。真正面から、向かい合わせで。届くかどうかは、わからなくても。
『虹』などのように曲の中で物語が進行しているのではなく、『どこにでもある唄。』は、『どこにでもある』からこそ、そこに描かれている物語は『みんな』のものなんだ。今回ばかりは、曲の中に作り上げた物語を歌い聴かせているのではなくて、『僕』が歌って『君』に届いた瞬間から生まれるものこそが『応援歌』という物語なんだ。……物語調に書くならば、まさにそんなふうに受け取れるような気がしてきます。
『大丈夫。僕らはずっとここにいるよ。』そして大サビ、まさに叫ぶように歌い上げるニノの表情は必見。『それが僕らだ』。嵐というものに影響され、応援歌を書き上げた二宮先生が、そんなふうに言う。それは、2011年のこと。『泣いていいんだ』と。今、生きているよ笑っているよって時間を共有している。『僕ら』というのはたぶん、そう言い続ける『嵐』であり、『僕と君』という名の、『この歌が届いた皆』でもある。
『どこにでもある唄。』の演出上、大サビで色とりどりのたくさんの鳥たちが飛び立っていく映像が映し出されたとき、この曲が見ている人たちに向けられたものなんだと思わされました。

とまぁ、だいぶ大袈裟に拡大解釈しましたが、こんな見方も面白いのではないかな、という話です。勘違いなされませんよう。あくまでも私の想像です。

さぁここで更に『想像』を拡げてしまおう。これが『キャラクターソングというソロ曲の面白がり方』です。
私は『Gimmick Game』でニノがまるで誰も信頼せず、いや、『出来ず』にそれゆえ嘘をつきながら、それを受け入れているという生き方を歌っているのではないか?という『想像(妄想)』をしました。それが、『どこにでもある唄。』では、どうでしょう。『何が正解で、何が間違えで。だから大丈夫。なんて、言っちゃって』『その言葉が自分を消してくから。それが一番怖い事だから。』……これはまるで、「全部本当か、全部嘘かすらわからない」というのと繋がってくるような気がする。そして、それを彼は「知っている」。『ずっと泣くのを我慢してたら笑えなくなってた。』笑えない、というのを「本当の笑顔ができない」という意味と取るならば、「なんかそれっぽいから涙くらいならナガシテモイイヨ?」なんて言っていたのとも繋がってきませんか?
自分が汚れていて、誰も信用できない。だから嘘をつくしかない。『Gimmick Game』という物語は『孤独』です。まさに『気付いたら独りになって怖かった。』けれどそこに、『どこにでもある唄。』は手を差し伸べる。「差し出された手は、声は、痛いほど優しくて、」ここで流した涙はきっと、わざとなんかじゃない。だって『泣いていた』んだから。そして『楽になってた。笑ってた。』って、彼は言います、歌います。そしてそれを『希望』として、届けた。
孤独の物語を作り、虚構がつくる孤独として人の寂しさに寄り添いながらも、「ひとりじゃないよ、ここにいるよ」って言ってくれる、応援歌に希望をのせた。それができるようになったのは、ニノ本人がそのどちらもを知っているからではないのかな。信頼できる、仲間がいる、応援してくれる人がいる、だから「どこにでもあるような言葉」だけれどそれを返そう、というふうに。「突き詰めてみたら、単純なものになってしまった」が答えだとしたら。
まっすぐなメッセージは、まっすぐに人に届きやすい。相葉さんの項で、私はそう書きました。だから『どこにでもある唄。』なんじゃないのかな、と。応援歌たる所以はそこなんじゃないかと。そんな感じの『想像』ができました。
物語の中に投影された孤独は、意外にも現実にありふれた希望の歌に救われる。……というそこまでが、二宮先生そのものの一連の物語だったとしたら、『面白い』のではないかな、という提案でした。

こんな感じで色々と想像の余地が多くて楽しい二宮先生のソロですが、「物語系」と「メッセージソング」にざっくり分けます。『虹』『それはやっぱり君でした』『Gimmick Game』が前者で、『どこにでもある唄。』が後者ですね。
あまりに私が語り過ぎてここで語りきれないのでちょこっと書くだけにしておこうという他の曲には、まず物語系では『秘密』(「One」収録)と『メリークリスマス』(「THE DIGITALIAN」収録)があります。
『秘密』だけは現在音源化されているニノのソロの中では、本人が作詞も作曲も関わっていない曲です。おまけに私が当時の映像を持っていませんが、「アラフェス'13」でも披露しています。振り付けもメロディーも歌詞もポップで可愛らしい。パフォーマンスだともはや相当あざといですけど(笑)。『メリークリスマス』は対してニノ作詞曲の、タイトルまんまなラブソング。バイトサンタの、初々しい恋。キャッチーでキラキラなクリスマスソング的メロディに、街の中駆け抜ける慌てん坊っぽいバイトサンタが見えるかのようなテンポ感が好きです。どちらも、微妙な距離感のラブソングって感じですね。そこがまたかわいいんですけど。
メッセージソングには『1992*4##111』(「僕の見ている風景」収録)と『20825日目の曲』(「LOVE」収録)。どちらも、カタチの違う「ありがとうソング」と言えますね。
『1992*4##111』は当時嵐がCMをやっていた携帯の機種でこれを打つと(おおよそ)『ありがとう』になるそうです。(実際私のキャリアはそれだったんですが、なりました)自分の誕生日メールに返信していた時に思いついた曲だとか、なんとか。リリース的には、『どこにでもある唄。』の前年にこの曲を作っているわけで、『応援歌』ではないものの、周りの人に対する「ありがとう(そして、だいすき)」が込められています。明るい曲で、パフォーマンスもかわいく演出されてます。スタジアム版とドーム版では主に風船の演出に違いが大きく出ますが、個人的にはスタジアム版でぶわーっと風船が飛んでいくほうが好きですね。(ドームだと上へ飛んでいくというより、風船が割れて小さな風船がぽこぽこ落ちてくるのです。それもかわいいのですが)
『20825日目の曲』は「ありがとうソング」であり「おめでとうソング」でもありまして。20825日目……というのは、ニノのお母様が生まれてから「LOVE」アルバムリリース日までの日数だそうなのです。演出のMVでもまさにそれな映像が流れます。しかも、これはギター弾き語りですが、ニノの笑顔がすっごくいい!照れくさそうだけど、嬉しそうで、見ていてこちらも笑顔になる笑顔です。
ニノのソロ演出は基本的にそこまで凝っていないものが多いですが、嵐という全体として見ると松潤なんかは演出がとても凝っているので、バランスが取れているよなぁ、といつも感じますね。

ニノのソロ曲は、ニノが作っていない『秘密』を含めても、常に私のツボを突きます。個人的にニノの歌い方が好き(歌声も好き)というのもありますが、ニノの曲ってたぶん相葉さんとは違った意味で「キャッチー」なんだと思います。バラードを作っても、どことなくそんな感じがある。なんというか、曲の「盛り上がり方」がいつも好みです。それがニノのソロを「キャッチー」と私が思う所以な気がします。一番最初に触れた『虹』にハマってしまった瞬間から、私は二宮先生の「ワールド」に掴まれてしまっているのかもしれませんが。

ニノが冠する黄という色は、警戒色というくらい、目立つ色です。たぶん本人、そんなに目立ちたくはないと思うんですけれど(笑)でも不思議と、ニノに黄色って合っているなぁと最初からぼんやり思っていました。
黄色が警戒色になるのは、影の色である黒と合わせてはじめて警戒色として扱われるのですが、この場面では黄色は「光」の象徴なのに、色彩理論的なことでいうと黄色は色の三原色のひとつで、三つを混ぜると黒になる色なんです。(対して光の三原色というのは、混ぜると白になる三色のこと。赤・緑・青です)……というとなんだかよくわからない感じですが、何が言いたいかというと、黄色って実は『黒が身近な色』であるって話でして。
黄色を冠している人には大きく分けて二つのパターンの人がいると思います。(主にジャニーズでの担当色の話をしますが)『光のイメージとしての黄色を冠している人』と、『影を前提とした光のイメージとしての黄色を冠している人』。つまり、ニノは後者であると言いたいわけです。アイドル的な光を放ちながらも、どこかその傍にいつも闇が見えている。
しかし、それを「前提」とした場合、単純にそれは人間らしさがある、ということにもなります。アイドルなんていう偶像でありつつも、影を感じさせることで完全な偶像にはならない。「影があるということは、実体もある」とも、言える。ニノはゲームオタクであり倹約家的なキャラクターを持っていて、実に庶民派なイメージがあると言えるでしょう。庶民派っていうのはつまり、身近に感じられる、ってことなんじゃないかな。

光は他のモノを照らして見えるようにしてくれます。さながら、翔ちゃんとは違う意味で説明役・フォロー役であるニノはそんな「光」かもしれない。けれど屈折した光は、何かを歪めて見せることもある。それがニノの描く物語であり、演技の中に秘めるモノ、かもしれない……なんて思うこともあります。光も音も、身近なのに触れないし直接は視認しにくいモノで、それっていうのは偶像である『アイドル』ってものに似てるのかもしれません。
光を象徴する黄色を冠するニノが、嵐の中では唯一レベルで『音』も作れる人だというのが、個人的には非常に興味深いかなぁ、なんて、この記事タイトルを考えながら思いました。

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