書籍

 私が十八歳になった誕生日の朝、四つ下の弟がふいと私の部屋に入るや否や
「今日から十八歳?」
 と、尋ねてきた。そうだと答えると、弟は暫し考え込むように、或いは私の顔色を伺うように視線を泳がせた後、殊更に声を潜め
「ということは、くぐれるわけ?」
 などと、どこか険しい顔で言う。
 さっぱり話が見えない私が、弟の顔をまじまじと見つめていると、更に短く「のれん」「赤いやつ」と続ける。ここまでくると、元来察しの悪い私にも、なんとなく弟が言わんとすることが見え始める。
 案の定、弟が手を合わせ
「お願いお願いお願い! 一生のお願い! 十八禁のアダルトビデオ、代わりに借りてきて!」
 と、激しく詰めよってくるのを、私はきっぱりと断った。更には、そもそもまだ十四歳なのに何を言ってるんだと嗜めてもみる。
 すると弟も負けじと、十四歳なのに見るからこそ意味があるのだと、それが仲間内である種のステイタスであることを熱く語ってくるではないか。弟がこんなに熱く語るのは、小学生の頃、日光江戸村で見た忍者にいたく感動して「おれ、将来忍者になるよ!」と野球少年のバットの素振りよろしく、玩具の手裏剣を来る日も来る日も壁に投げつけていた時以来である。
 思いもよらず、弟の心の成長を目の当たりして、非常に複雑な心境であったが、とうとう最後まで私は首を縦には振らなかったーーーー。

 
 山形駅西口広場のベンチに仲良く腰掛け、隣で煙草を吸っている彼に、私はそんな思い出話をしていた。デート中、私が余りにも無口なので(後年、金魚に話し掛けているみたいで虚しいと言われ、そこそこ激しいケンカになる)、何でもいいから声を聞いていたいと言われたのだ。
 今となれば、何故わざわざこのエピソードを選んだのか、自分でもよく分からないが、二十歳になり、ようやっと得た初めての恋人に少々舞い上がっていたのかもしれない。
 或いは、男心が分からないという話の延長で、何とはなしにそんなことを面白おかしく聞かせたのだと思う。
 黙って耳を傾けていた彼に、ふいと視線を向けると、珍しく怖い顔をしていた。
 しまった、下ネタが苦手だったのだろうか。確かに、些か下品な話題だったと心の中で猛省している私を見つめ、彼はよく通る声で言った。
「それで、その後アダルトビデオは借りてきてやったのか?」
 私が黙って首を横に振ると、彼は到底信じられないと言わんばかりの顔で
「いいか、家族ましてや女姉弟に、アダルトビデオを借りてきて欲しいなんて、どれだけ勇気がいることだと思う! なんて可哀想なことを……!」
 などと、語気を強め、一気に捲し立ててきた。
 私はなんと答えるべきか全く分からず、それこそ金魚の如く口をぱくぱくさせてはみるが、言葉が一つも出てこない。予想外の事態に、非常に困惑していた。
 やがて、彼は煙草を吸い終えると、すっくと立ち上がり、それを目で追った私に、にっこりと笑いかけてきた。
 そして、細い目を更に細めて
「よし、分かった。弟のその男気に免じて、俺がアダルトビデオの二、三枚バーンと買ってやるよ!」
 と、それはそれは嬉しそうに宣言するのだった。


 かくして、私達は弟へのアダルトビデオを選ぶべく、近場のレンタルビデオ店に移動した。
 暫く無心でレンタル落ちのDVDを物色していた彼だったが、突然何かを思い出したように、あっと短い声を上げた。
「そう言えば、弟の好きなジャンル、分かる? 好みの女優でもいいけど……」
 私は、知らないと答えた。弟の性的嗜好なんて、知りたくもなかった。
「うん、そうか……。それはそうだ……。この際、俺のオススメを選ぼうか?」
 彼の性的嗜好をこんな形で知らされるのも、それはそれで嫌なので、私は必死に考えを巡らせ、やがて、一つの結論に辿り着いた。
「せっかくプレゼントするならさ、欲しいものをあげたいし、本人に聞いてみようよ」
 苦し紛れではあるが、我ながら名案である。彼も、それはそうだと納得し、早速弟に電話をかけるよう促す。
 しかし、弟はまだ携帯電話を買い与えられていなかった為、必然的に自宅のリビングの固定電話に掛けることになる。専業主婦の母親もいる前で、そんな話をさせるのは、いくらなんでも酷である。
 それを聞いた彼は、
「分かった。それなら、帰ってからメールで俺に教えてよ。俺が通販で頼むから。で、それを君の家に送ろう」
 と、実にまどろっこしい提案をしてきた。
 先にも話したが、どう考えても専業主婦の母が受けとる確率が高い為、リスクが高いのではないかと思った。何より、品名でバレそうだ。
 すると彼は、そういった場合には馬鹿正直に“DVD”とは書かないで、“書籍”と書くから問題ないという。
「何より、ここで贈り物の中身がエロDVDとバレた場合、俺だって君のお母さんに会いにくくなる。リスキーなのは皆一緒だ」
 と、いざという時は共倒れの覚悟なので、そこまで言うなら大丈夫だろうと、私も渋々了承したのだった。
 暫くは、“書籍”のことを忘れて過ごしていたように思う。何より、平日、ヘトヘトになって仕事から帰ってきた私は、基本的に、食事と風呂と睡眠のことしか頭になかった。
 そんなある日、珍しく玄関で出迎えてくれた母が、私宛の荷物が届いているので、階段のところに置いてあると言った。疲れきっている私は、まだ事の重大さに気がつかない。聞いているのかいないのか、曖昧な返事をして通りすぎようとする私の背中に、何も知らない母が
「“書籍”って、書いてあるけど」
 と、平然と宣うので、私は危うく変な声が出そうになるのを、必死に噛み殺した。
 私は、貸していた漫画を返してくれたのかも知れない。また今度遊ぶときで構わないのに、などと適当な事を言いながら“書籍”を掴んで階段を駆け上がったのだった。
 かくして、“書籍”は、無事に弟の手元に渡った。

 しかし、それから数週間して、母がふいと私の部屋に入ってきた。そして、折り入って相談があるという。
 自室で呑気にシリアルに牛乳をかけたものを食べていた私は、「なあに?」と返事をする。
 母が、
「弟が最近買い物についてこないで、一人で留守番することが多くなったけど、何か知らない? もうあれかな、母親と出掛けるのが恥ずかしい年頃かな?」
 と、寂しそうに笑うので、私は、
「大人になったんだよ」
 と、答えた。
 シリアルを食べる手が、震えた。