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思い出の証拠

私の生まれ育った家は20年以上前に重機で解体され更地になった後、隣にある市立中学の運動場になった。

家の南側には車3台駐めて布団が干せる広さの庭があり、乾いてざらざらした地面には大人の腰ほど高さのあるねこじゃらしやハルジオンやらが入り混じる雑草があちこちに伸びていた。庭の端を囲むように水路が流れていて、それに沿って木賊やこれまた背の高い雑草がボーボーに伸びていた。

玄関のある北側は杉林になっており、夏は木陰で涼しいのにどこか空気がしっとりとしていて、苔の匂いがした。林の向こうの道路を挟んですぐ、私たちの住む家と似た造りの家がまた建っている。そこに回覧板を回すのが私の仕事だった。その家にも子どもが何人かいて、兄はときどきスーファミをしに遊びに行っていた。杉の木からは毛虫がよく落ちてきた。そのせいで今でも毛虫は宇宙一苦手だ。母はシャベルで毛虫をすくうと、庭にある焼却炉に放っていた。最近知ったが「毛虫焼く」は夏の季語だそうだ。母は俳句が趣味だった。

家の東側の、ふくらはぎまで高く生茂る雑草地帯をガサガサと抜けると、横に流れる水路が現れる。そこには鉄板を置いただけの橋が掛かっている。ぐわんぐわんと音を鳴らしながら(雪が積もると非常に滑りやすく危ない)橋を渡ると、私たちの家に回覧板を回してくれるお隣さんの家がある。そこには私より一つ年下の男の子がいて、その子とよく遊んでいた。私たち一家が引っ越す朝には、しゅんとした顔でプレゼントを渡しにきてくれた。

あの一帯に三つの家族が住んでいたこと。杉と雑草が元気に伸びていたこと。名前はもうすっかり忘れてしまったけど、子どもたち同士でゆるく繋がり遊んでいたこと。杉林と緑を挟んで並ぶ家々。あの場所に住んでいた家族だけが、それを覚えている。その家族にしかできない思い出話がある。

昨年の秋に母が他界した。四十九日法要のとき、あなたの赤ちゃんの頃の写真が見つかったと叔母から写真を渡された。赤ん坊の私を抱っこする叔母が、あの家の庭に立っていた。

生まれ育ったあの場所は今や私たちの暮らした痕跡など一切なく、あの風景は記憶の中にしか存在しない。そのことにどこか治まりの悪さを感じていた。母が亡くなり昔を回顧する機会が増えたからだと思う。兄と当時の思い出話をしても、この思い出を確かめる相手が兄と父しかいなくなったことを実感して寂しくなった。土の、草木の、焼却炉から昇る煙と灰のにおいも色も、窓辺の日差しの眩しさも、雨でぬかるんだ庭の土を長靴で踏んだ感触も、水溜りを滑るアメンボも、なにもかも鮮明に思い出せるのに、それを確かめる術がないもどかしさ。そんなときに叔母が渡してくれた写真は、胸のざわざわを穏やかに鎮めてくれた。やっと再会できた、と思った。よかった、ほら確かにちゃんとあったんじゃないか、私たちにとって特別だったあの場所は。

生まれた家が跡形もなくなったことに加え両親が離婚したのもあってかはわからないが、私は誰かと一所に腰を据えて暮らす将来を想像できたためしがない。同棲していた時期もあったが、もし一人暮らしに戻れたらやりたいことの方に想像を膨らませていた。人と離れ離れに暮らすのに慣れてしまった。寂しいこともたまにあるが、常に寄り添ってくれる静寂は捨て難く、離れた人に想いを馳せる余裕は一人のほうが生まれやすいのが現状だ。

ひとりの心地よさをどれだけ覚えても、私の人生の出処であり五感のベースを作ったのはほどよく人と緑に囲まれたあのボロ屋(実際ボロかった)だぞと示してくれる物証が欲しかったのかもしれない。思い出を語り合える相手と過ごせる時間はどうしても限られているのだから。