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読書記録|手づくりのアジール(青木真兵 著)⑧


読書記録|手づくりのアジール(青木真兵 著)⑦

 先日、私が田中君に送った折坂悠太さんの新作アルバム「呪文」。上記の読書記録⑦では、その呪文が話題の中心になっていた。

 そこには、田中君が自宅近くで「貸し本棚オーナー募集」に”直感的”に申し込んだことが記されていた。その田中君的私設図書館のイメージとして、折坂さんのインタビューが引用されていた。

 そもそも「呪文」は、「心理」とは制作の土台がまったく異なるんです。「心理」は、まず自分のステートメント在りきで曲を構築し始めたんですが、対して今回の「呪文」は、「もうステートメントを歌の中で繰り返す必要はない」という考えが土台となっている。もっと言えば、1989年9月に生まれて35年生きてきた今の自分そのものが土台なんです。台所に立って見えたものとか、変な音がパチッとしたとか、「戦争しないです」とつぶやいてみたこととか……生活の中で感じたさまざまな事柄が、文脈も関係なく等しく混ざり合っている。自分自身を深く見つめて、おもちゃ箱を掘り漁ったように出てくるたくさんの言葉をそのまま曲に落とし込んでいる。そういう点で、前作と大きく異なります。

折坂悠太インタビュー|“今の自分自身”へ宛てた「呪文」という名の手紙

 このインタビュー記事を踏まえて、田中君はこう書いている。

 何らかの主張(ステートメント)を発信する本棚というよりは、日々の健康を大切にするような本棚。私たちの考えを組みなおすだけでなく、身体の動きを組みなおす(外に出てみたり、散歩をしたりする)ような本棚。そんな本が並ぶ図書館をつくってみたいと思った。

 折坂さんと私は同い年だ。
もしかしたら、35年という時間は、安心してそれを土台にすることができる最小の時間なのかもしれない。

読書記録|手づくりのアジール(青木真兵 著)⑧

 この「35年の土台」というフレーズで、私は、以前に記した研究レポートを想い出した。私が2015年から約3年かけて通った山形県長井市西根地区。そこで営まれていた「ぼくらの文楽」と題されたフェス。その主催者である船山裕紀さんは同レポートで下記のように述べていた。

 ぼくらの文楽を今、主体的に動かしてるのって、僕の友達なんですよ。それがたぶんすごく重要で、僕、38年間生きてきて、38年間をつかってコミュニティを形成してきたんですよ。だからあそこにいる人達は僕の38年分の信用を心の中に貯蓄してくれていて、それで来てくれているから。僕引っ越してきてまだ、5、6年だから、6年間で僕の信用を貯蓄してくれた人がどれだけ集まってくれるかだと思うので、たぶんすごく時間がかかると思う。

山崎翔(2018)『音楽フェスティバルを通じた地域社会の継承~山形県長井市西根地区「ぼくらの文楽」を中心に~ 調査レポート』

  この船山さんの発言に対し、私はこのように考察を行っている。

 これは、ぼく文が特定の場所ではなく、様々な場を歩いて生成してきた船山さんの38年間の〈時と場〉としての文脈が一時的に特定の場(西根地区公民館)に流し込まれ・展開している出来事であることを意味します。したがって、ぼく文の継続開催は必ずしも参加者の開催地域への帰属意識の向上にはつながらないといえます。むしろ、主催者の文脈は地域社会に落とし込まれないからこそ、今後も絶えず拡張して、結果的にぼく文は豊かな場になっていくと考えられます。また、前述のようにぼく文の会場自体が、参加者個々人が環境とは可変的であり、自らがつくりだしていけるものであることを学べる場となっています。ぼく文がつくられる過程では、公民館館長や地域の子ども等、世代を問わない地域社会の人的資源、けん玉やかるた、黒獅子、ボードゲーム、食などの地域の物的資源が幾重にも織り込まれています。そこには地域を否定するのではなく、地域の個々人がそれぞれ生きてきた〈時と場〉を許容し、互いに出会うことのできる場への志向を見出すことができます。

 土台だけれども、その土台は常に変化しつづけ、拡張し続ける。そのような場所や時間。そんなものは可能なのだろうか。『手づくりのアジール』の「最強とは何かー山村で自宅を開くこと」の中で青木真兵さんは、下記のように述べている。

 今住んでいる木造の家は一九五〇年に建てられたもので、風や虫が気にせず入ってくる隙間がたくさんあります。冬は寒いが、夏は涼しい。冬はふすまやカーテンなどで部屋を区切って暖房の効率を上げることが必要ですが、夏は一番風通しの良いところに布団を敷いて寝れば、冷房は必要ありません。都市に住んでいたころ、室内の温度調整はすべてエアコンで行っていました。空調が制御される空間は、隙間があっては成り立ちません。想定外のものをできるだけ入り込ませないような構造が必要なのです。しかし、山村の家は違います。自然の影響力が圧倒的なため、内と外の出入りを制御するのは不可能で、諦めざるを得ません。だから山村で自宅を開くとは、余計なものが入り込まないプライベート空間としての自宅を公開するのではなく、そもそもがプライベート空間としては完結し得ない、プライベートでもありパブリックでもあるような、あいまいな空間としての自宅を自然と共有するような感覚なのです。

 隙間を失くして、エアコンディショニング(air conditioning)で温度を一定に伴ち、そこに職場という土台が形成される。それはコンクリートの土台のうえにマイホームを建てることと地続きのような気がする。そのような土台をガチガチに固めて、仕事(労働)と余暇(観光)を往復してきた私たち。(おそらく私が研究してきたフェス主催者(oraganizer)はエアコンとは異なるコンディショニングを司る知・技術なのだと思う。それは「野外」という環境が文字通り象徴している。)

 青木さんが繰り返し著書の中で述べている「行ったり来たり」とは、上記のような近代的な二項対立の往還ではなく、自らの身体を常に、揺らぎの中に、開かれの中に置き続けること、それによって他者や周囲の環境の関係を組みなおすこと。それが青木さんのいう「土着」なのだろうし、それによって、近代的な二項対立の中にも身を置いている私たち、その集合体である社会を変える原動力が自ずと生まれるのかもしれない。


「ルチャ・リブロを読み直す」第4回読書会
課題図書:青木真兵(2021)『手づくりのアジールー「土着の知」が生まれるところ』晶文社
第4回:「「最強」とは何か―山村で自宅を開くこと」(P89-110)
2024年7月29日(月)20:00~22:00
会場:homeport(北20条)or オンライン
どなたでも参加可能です。参加希望の方は下記までご連絡ください。
tourismusic.station@gmail.com

 

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