本屋/中年/モービウス

 今朝、ある書店とその客の一幕をtwitterで知ってからは、私の非常に悪い部分が出て、なんだか居ても立ってもいられなかった。客側と同じく中年男性の己としては、私のような貧しいみすぼらしい身が排除される本屋が一つまたひとつと増えてゆくのは好ましくない。とはいえ向こうも商売だから、まあ致し方ない部分はあるだろう。しかし商売は、基本的に、あくまで原則として、お客様第一を考えなければ、おそらく長続きはしない。これは接客業を長年経て、培った私の偏見だ。売る側が客を選別すればするほど、それはきっと店にとっても客にとっても不利益だ。あなたが読むべき本ではない。あなたが口にすべき食材ではない。あなたが立ち寄る場所ではない。あなたに入店の資格はない。調べればわかるでしょう? 書店がもしもなべてコストコのようになったら、ただでさえ読まれない本がもっと読まれなくなる。あらゆる入り口からあらゆる本につながる。そういう夢を見ているから、いざその入り口のちっぽけな一つが絶たれそうになっているとき、私は声を上げたい。本屋を名乗る資格はないと。もう空気なんて読まないとタイトルに謳ったフェミニストはどこの誰であったか。客側と書店側の意見があまりに食い違っていて、探偵小説のような様相だった。惜しむらくは探偵小説ならひとつ辻褄のあう答えがあるべきものの、現実だからなかった。どちらが正しいことを言っているのかわからないままおそらくほかの多くのいっちょ噛みの輩と同じように、自分の感覚を信じることにした。そうして、客の言い分のほうが、誠実に感じた。拒絶するのはたやすく、妥協点を探るのは難しい。ほかの人は、そう多くは同じようには思っていないようだった。地道に相手の考えを知るというのが、少なくとも私はそう読んだ、中年男性しぐさと一蹴される。私は読書家ではないので、好き好きに放言する読書人、あるいは人文知を司るひとたちの良識とは、相いれないのかもしれない。仕方がないから呪術廻戦の新刊を買った。日車との戦闘が面白かった。殺すことを躊躇しない伏黒も、とてもよかった。当の最新刊はコンビニで購った。もう書店はいらないな。もう少し病禍が続いて、あらゆる書店が廃業になれば、私みたような中年もちょっとは生きやすいかもしれない。中年にも生きる権利はあります! 誰も二度と何も書こうと読もうとしないように。悪しき文化としてふたたび表舞台に立たないように。これは飛躍が過ぎている。まあ日記だからいいだろう。本屋という看板が泥を塗られないように。穢されるならなくなったほうがましだ。たぶんこれは、一家心中する人間の発想である。

 何の話だ。惚気話をしよう。たいていのことは彼女を思えばどうでもよくなる。彼女が書店の言い分も正しいよと言えばそうだね……となる。尻に敷かれているので。このまえはいっしょに映画を見に行った。モービウス。アメコミには明るくなく、ヴェノムも観ていない。何ならヴェノムが敵の名前だと思っていた。しかし違った。モービウスはヴェノムの前日譚らしく、まったくの不見識で観てみたが、戦闘シーンも凝っていて、人物造形も効いており、しじゅう興奮して過ごした。あとになって、ヴェノムを見ていれば小ネタに気づけるらしいことを知ったが、まったく触れていなくてもこの一作だけで手に汗握る。前知識ありで観た彼女より何も知らない私のほうが、感想をずっと熱っぽくしゃべった。好きな人の好きなものを好きになれるというのは気持ちがよかった。

 映画を観たのち、私の要望をいれてもらって、札幌駅から大通駅間の地下歩行空間で催されている古本市に立ち寄った。すでに夕飯どきであったが、会場には老若男女が集って、本を物色していた。こういう場所が私の気に入った。読みたかった司馬遼太郎の長篇がまとめてあったので、買った。会計にはシルバー人材の人たちが立っている。みな物腰柔らかで、本を選んでからかうまで充実したひとときだった。こういう場所を本屋と呼びたい。ほかの買った本も時代小説が多かった。私も人並みに歳をとっているらしかった。これは偏見。

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