雑記(なのだ)

 フォロワーの中に7月10日に婚姻届を提出した人がいるのだ。おめでとうございますなのだ。そんなお祝いの言葉とは裏腹に、内心では置いてかれた気がしたのだ。こちらはまだ独り身だというのになのだ。noteを始めてから数年、文章上で長年の付き合いのある人たちが各々きちんと人生を進めているのをまざまざと見せつけられているのだ。いっぽうの自分はこのまま老いて枯れるだけなのだ。ここんとこはソシャゲオンリー、笑えなくなってるのだ。

  7月10日の謂れは、語呂合わせで納豆のようにねばねばと引き離されないようあやかっているらしいのだ。気が利いていていいなあと思うのだ。自分もそういう語呂合わせで婚姻届を出したいのだ。形から入るタイプなのだ。7月10日は使われたから別の日にするのだ。3月10日とかいいのだ。砂糖なのだ。いつまでも砂糖みたいに甘々な日々を続けようねというわけなのだ。なんか半年で離婚しそうなのだ。6月2日とかもいいのだ。むつ(6・2)まじくいようねという意味なのだ。でも6月は来年まで待たなきゃいけないのだ。長いのだ。そこでいうと11月5日とかも語呂がいいのだ。いい子どもができますように、なのだ。とはいえ子ども前提なのがちょっとキモいのだ。いろいろ考えたけれど100月214日が一番いいのだ。永久とわにいっしょ、なのだ。我ながらおしゃれなのだ。

 婚姻届の日取りは決まったのだ。今は7月だからあと93か月後には100月になるはずなのだ。あとは相手だけなのだ。そういえば、新聞で読んだのだ。

 今住んでいる札幌市が、結婚を望む男女を支援しようと、オンラインによる「さっぽろ結婚支援センター」を開設したらしいのだ。端的にいえば官製のマッチングアプリなのだ。官製って談合以外に出来ることがあるのだ? それはさておき、札幌市長の秋元も秋元なりに少子化対策を頑張っているのだとわかって、やるじゃん、と思ったのだ。でもそれより先に冬期の除雪や札幌五輪招致の反省をきちんとしてほしいのだ。政治の話はやめるのだ! 場が荒れるのだ。はい。

 とはいえ市の運営のマッチングアプリならサクラとかもいないだろうから、男としては安心できるのだ。記事の詳細を読むのだ。登録料に15000円。まあ、男側もふつうのマッチングアプリならそれくらい課金しないとまともに女とやりとりできないのだ。けれど、女側も15000円払わなければならないなら、たぶん女は民間のマッチングアプリをするのだ。そのほうが無課金で済むのだ。tinderとかのほうが援助交際ならやりやすいのだ。インスタのアカウントでやりとりする手法なのだ。数年前、それで10万使った覚えがあるのだ。初めは3万だったのだ。いざ出会ったのだ。背中に入れ墨をいれた女が来たのだ。うへぇ、となったのだ。することをしたのだ。Lineを交換したのだ。アカウントに表示された自分の苗字を見て、相手の女が言ったのだ。「難しい漢字だね」苗字に使われている漢字はすべて小学校の範囲の漢字なのだ。「あたし、子どもいるんだ」女がさらにぶっこんできたのだ。そういえば背中の入れ墨にも女っぽい名前が彫り込まれていたのだ。「これからも関係つづけたいな」女が言うのだ。射精したあとなのでもう頭は馬鹿になっているのだ。「いいよ、これからもよろしくね」そうして追課徴金で七万を払ったのだ。一晩寝て目が覚めると肝が冷えたのだ。関係をやめようと言ったのだ。女のほうは渋ったのだ。私はもう捨てた倫理観をさらにかなぐり捨てることにしたのだ。「このままきみに熱中すると俺の子供じゃないきみの児を殺すと思う」そうして関係は終わったのだ。めでたし、めでたしなのだ。

 というわけでマッチングアプリは、当人の倫理観をごりごりと削る悪しきものなのだ。ほんとうは、自分は、根がいいやつだし誠実で寛容で気高くて広辞苑で紳士を調べたら例に出てくるくらいの気品があるのだ。信じてほしいのだ。あの、紳士はtinderで援交しないしtwitterで出会った女王様に粗チン晒ししないですよ。黙るのだ。マッチングアプリというふるいを掛けたら、自分に残ったのは悪意と性欲しかなかったのだ。マッチングアプリは恥ずべき文化なのだ。恥ずべきなのは己ではないですか? 黙れなのだ。ほんとうに誠実で寛容で気高くて紳士ならば、運命の人に出会っているはずでは? 黙れと言っているのだ。出会っていないということは、あなたが不誠実で偏狭でプライドのかけらも持ち合わせていないゲスという何よりもの証左ではないでしょうか。………………のだ。え、聞こえませんでした。…………のだ。はい? もう一度大きな声で仰ってください。……もういいのだ。何がいいんですか? 何もかも。何もかも? 何もかも、もうどうでもいいのだ。

§ § §

 どうでもいい毎日を、いくつ指折り数えただろう。両手両足じゃあもう足らない。

 朝、起きて、ソシャゲにログインする。デイリーをこなしてジュエルをもらう。それが一日でいちばん楽しい瞬間。仕事に行って、帰って、酒を飲んで眠る。今日は明日でもいいし明日は昨日でもいい。取り換え可能な毎日を、どれほど過ごしただろうかと思う。今は何月? 31月くらい? カレンダーを見る。7月? 嘘だろ。また7月か。あとどれほど働いたら、このループから抜け出せるのだろう。もう幾たび孤独のままに夏を迎えただろう。代り映えのない味気ない砂のような日々だ。主観的にはそうなのに、他人は平然とあるべき居場所を見つけて安穏としている。ループからひょっこり抜け出して次の場所へと向かっている。彼らの背中はどんどん遠ざかって、もう追いつけそうにない。いっぽうの私は夕刻またソシャゲにログインして報酬をもらう。なんだこれ。なんなんだこれ。これが、俺の両親が望んだ俺の姿か? 私は先祖に額づきたくなる。私は30年生きてきて、何の成果も得られませんでした。めでたし、めでたし。めでたくなんか、ちっともない。めでたくなんかない毎日をひいこらひいこら生きている。ああ、いつか俺も、誰かにおめでとうと呼ばれる時が来るのだろうか。今は俺が言うばっかりだ。誰でもいい、めでてくれ。おめでとうと撫でてくれ。ひとりぼっちにささくれだった俺の魂を手なずけてくれ。

 何の話?

§ § § 

 映画の話なのだ。

 映画「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」を観たのだ。すごく、良かったのだ。本作のあらすじを読んだときに、ああこれは絶対観に行こうと思っていたのだ。期待は高まるだけ高まって、そんな映画はいつも肩透かしに終わるのだけど、「ホールドオーバーズ 」に限っては期待以上の出来だったのだ。holdoverとは取り残された人、の意なのだ。主要登場人物各人の孤独のありように、胸がじぃんとしたのだ。自分自身、世間から取り残された落伍者なので他人事とは思えない切実さがあったのだ。そんなに多くの映画を観てきたわけではないけれど、文句なしに最高と呼べるのだ。後半はずっと涙目だったのだ。

 何の話なのだ?

§ § §

 葛城リーリヤの話。彼女は「学園アイドルマスター」というソシャゲに登場するヒロインの一人だ。

 母方がスウェーデン、父方が日本人というハーフのヒロイン。彼女の登場するエピソードには、こんなものがある。

ぐるぐる眼かわいい〜♥

 リーリヤは留学生ということもあって、国語に苦戦しているようだ。

 私はかねてより、学園アイドルマスターをリリース初日からプレイしている。古参といって差し支えない。作中では私の出る幕がないのだけれども、私もプレイヤーの端くれ、登場人物の力になりたいと思っていた。さて、私は中高の国語の教員免許を持っている。答えはもう一つだ。みなまで言うな。私は国語が不得意な葛城リーリヤに、国語を教えることができる。教育実習で教頭と数学教師のふたりと喧嘩をして教師の道を諦めたわけだが、またこうして日の目を見るとは思わなんだ。そうだ、私は葛城リーリヤに国語を教えるために生まれてきたのだ。

 現在の国語科は、学習指導要領の変更にあって、私の高校時代とは勝手が違う。共通必履修科目として「現代の国語」「言語文化」、選択科目として「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」があるという形式らしい。平たく言えば、実用的な評論文に重きが置かれているわけだ。けれど、国語の本領は、そんな評論文にあるわけではない。

 国語の点数を伸ばすには、小説を読むのが一番近道である。科目でいえば「文学国語」。私としては「古典探求」から日本の古文に触れてほしいが、国語の不得意な人に勧めるにはすこしためらいがある。そこで、近現代の小説の出番だ。高校の国語の小説といえば、欠かせない一作がある。

 中島敦「山月記」である。

 本作はインターネット上の教養の一つとされ、賢しらぶった連中には冷笑をもって迎えられる。ただ、あまり多くの小説を読んでいない生徒陣にあっては、「山月記」から現代の小説への道をたどることもできるし、あるいはさかのぼって漢詩の滋味に触れることもできる万能な短編なのである。もちろん、物語としての面白さは言うまでもない。はじめは見知らぬ熟語に葛城リーリヤも苦戦するだろう。狷介ってなんですか? 愧赧ってどう読むんですか、センパイ? リーリヤは私のことをセンパイと呼ぶ。日本の小説では目上の人に対する敬意としてそういう表現があると学んでいるから。私は己の口元で人差し指を揺らす。ちっちっち。センパイじゃないよ。センセイだよ。それは、きたんって読むんだよ。リーリヤは礼儀正しく返事をしてくれる。そうなんですね、教えてくれてありがとうございます、センセイ! リーリヤにとって日本語はほとんど未知の言語だ。だけどそれは前提だから諦める理由にならない。リーリヤは読む。そしてきっと届く。「山月記」の魅力に。「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心……」リーリヤが口ずさむ。気に入ってくれたようだ。センセイ。リーリヤが呼びかけてくる。なぁに? 俺は訊き返す。
 これって、センセイのことを言っているみたいですね。

§ § §

 中島敦「山月記」に登場する、詩作の沼に落ちた末に虎と化した李徴には、妻子があるのだ。

 一方の己をかえりみれば、詩作にはとんと不明で、妻子もないのだ。これじゃあ、虎にさえなれないのだ。そもそも博学才穎ではないのだ。ハナからスタートラインが違うのだ。詩作もできず、妻子も持てず、そのくせ臆病な自尊心と、尊大な羞恥心だけは抱えているのだ。年々、おなじような日々を繰るごとに、自分が化け物になっていく感覚だけが確かにあるのだ。虎にはなれないのだ。虎になるにもある程度の才覚が入り用なのだ。それさえ欠けている己はいったい何になってしまうのだ? わからないのだ。牛? って、誰がチー牛なのだ! 滑ってるのだ。閑話休題、一晩寝て、再び自分の中の人間が目を覚ましたときには、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっているかもしれないのだ。獰猛な化け物になっていないと保証してくれる何物もないのだ。いまでさえ、また性欲のまにまに札幌市運営のマッチングアプリで何をしでかすかしらないのだ。札幌市からBANされたらこれからいったいどうしたらいいのだ? 難民申請できるのだ? 秋元、どうか救ってほしいのだ。五輪でも何でも勝手にしやがれなのだ。除雪は市民で頑張るのだ。だからどうか、お願いいたします、まだ化け物になりたくないのだ。ああ、まだ、人間の、まともな人間の言葉を書けるうちに、せめて、書いておくのだ。

 ご結婚おめでとうございます、納豆のようにねばねばと末永くお幸せにあられますようご祈願申し上げます、なのだ。

 言えたのだ。そうなのだ。フォロワーが幸せならそれでいい、そうだ、そういうことを書きたかったのだ。どんな詩よりも雄弁にどんな小説よりも率直に、そういうことを伝えたかったのだ。そういう話なのだ。

§ § § 

 日記なのだ。

 本日は仕事だったのだ。人生劇場に変わりはないのだ。

 なかなか仕事が大変なのだ。なんでこんなに忙しいのだ? と、会社の人達に言うのだ。愚痴ではなく事実確認としてなのだ。仕事と思索に追われたい人生なのだ?

 さておき、文字数が捗って申し訳ないけども、私生活が暇なもんでごめんなさいなのだ。

 文章が私生活と連動している人ってあんまり居ないのだ。空き時間で書いているのではなく、生活時間で書いているのだ。ここの時間を確保するのはとんと大変なのだ。文章でも書き手が生身として存在しているという認識がある人はどれくらい居るのだ? SNS界でここを意識できる人もなかなか居ないのだ。

 書かれた言葉は書いた人がきちんと時間をかけて書いている訳で、そんなに毎日できるものではなくて、ましてこちとら私生活領域だから、それほど慮られないのだ。そんなことを気にする人が居たらきゅんとしてしまうのだ。出来れば自分は他人の文章を慮れるほうでありたいのだ。

引用ばかりで申し訳ないのだ。
とはいえ自分だけだったら文書を公開することに価値が無いのだ。

はいなのだ。
おやすみなさいなのだ。


良い生活を。

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