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雑記(失われた時を求めて)


 プルースト「失われた時を求めて」をとりあえず全十四巻(岩波文庫)一気に買った。一万五千円くらいした。夏服のセットアップが買える。けれどただでさえくそ暑い日に出歩きたくもないし出歩く用事もないしと思って、それならば今夏は文学に没頭しようと思った。不純な心がすこしは洗われるだろうか。

 いきおい買ったはいいものの一巻目の図版や登場人物一覧や家系図を見るだけで、それでなくても乏しい記憶力で読み切れるか不安になった。当時のフランスの街並みの概略図もある。○○通りというのがあまりに多くてうへぇとなった。日本の小説に出てくる赤坂通りや昭和通りだとかでさえ道産子の私にはなんのこっちゃとなる代物、まして異邦の見知らぬ街路など想像も及ばない。なかなか前途は多難そうだが、夏は長いのでなんとかなるだろうとタカをくくっている。

 七月になった。早い。先年に女性関係でさんざん痛い目を見てからは、この上半期は貝のように心を閉ざして過ごした。しかししだいに天気が良くなってくると例によって例のごとく発情期を迎え、性懲りもなく女性を求めに里から下りたわけである。最近では札幌の町中にもクマが下りてきた。私と同じで発情しているのかもしれない。気が合うね。

 そうして出会い系アプリ(twitter)で女性と約束を取り付けた。会って、サシで飲む。昔ならすぐそこで手を出しているような節操のなさだったが、最近ようやく私も首が据わって物心がついてきたので、そういうのは相手に失礼なのだと悟って、円満に解散した。LINEを交換して、ともだちの欄に女性の名前が初めて追加された。何の話をしようか。猥談をしようか。いきなり電話をかけてやろうか。心がよこしまになる。それをなだめるようにプルースト「失われた時を求めて」を開く。冒頭の眠りについての長い長い章段に目を走らせて、心をたてしまにしてゆく。物心が蘇ってくる。急いじゃいけない。急いじゃいけない。夏は長いんだ。なぁ、そうだろ? ありがとうプルースト、俺の心を支えてくれて。「失われた時を求めて」を読むように女性には接するべきなんだよ。まだ十ページしか読んでいないけれど、そんな教訓を得た。なるほどこれは偉大な著作だ。

 しかしこうして女性と知り合ったからには、服装にも気を遣わねばならず、「失われた時を求めて」ではなくて夏服のセットアップを買っておけばとりあえずは一度のデートは新品のノリのきいた服で出会えたはずだ。衣装箪笥を見る。着古した衣類の数々。やむなくそこからまだなんとかなりそうなやつを選んで着る。鏡を見る。鳥の巣みたいな髪の毛。私は美容院を予約した。ふだんは予約せずにいつでも好きな時に行けるラーメン屋みたいな床屋に通っている己だ。首も据わったことだし背伸びして美容院も悪くない。近場のを調べて予約の時間よりかなり早く着いて、待合席でなれない雰囲気に変な汗をかいた。番が着て、席に座る。当店は初めてですか? アッハイ それではこちらにお名前など書きこんでください。手渡された履歴書めいた紙片に、必要事項を記していく。『似ている芸能人』『似合う髪形』『普段のファッション』等は空欄でごまかした。私はいつも自分を妻夫木聡だとか中村倫也だとか横浜流星だとかに似てると自称していたものだ。けれど心がたてしまだからそんな悪ふざけはできなかった。書き終わって、鏡。椅子の向こうにスタイリストがいる。今日はどのような髪形にしましょうか。アッ ナツラシク サッパリトシタカンジニ スタイリストの顔が曇る。床屋の親爺ならあいよと言ってすぐに鋏を構えていた。けれどスタイリストだから、近くから雑誌を持ってきて、この中だとイメージはどれです? アッ ソウデスネ… ヘアモデルとでもいうのだろうか、こざっぱりとした髪形の男の写真がいくつも並んでいる。アッ コノ フドウサンヤ ミタイナ カミガタデ 不動産屋? アッ ソウデス ツーブロックですか? アッハイ 私は髪形の名前に詳しくなかった。ツーブロックノ グラデーションガ アルカンジノヤツデ… グラデーションですか? 私は首肯した。分かりました。スタイリストの顔を鏡越しにのぞく。どうやら見当がついたみたいだった。私は自分で注文しておきながら仕上がりのイメージひとつ湧いていなかったけれども。

 そうして一時間ほどで私は夏仕様の私に生まれ変わった。スタイリストに見送られ、美容院を出る。初夏の夕暮れ。少し、雨のにおいがしている。これから夏が、峻烈な夏か苛虐な夏か純愛の夏か正倫の夏か、ここから夏がはじまる。読みたい本の貯蔵は済ませた。親しみたい人との約束は取り付けた。なにもかもがうまくいけばいいと思った。生ぬるい風が涼しく透った。

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