見出し画像

PERCHの聖月曜日 72日目

45 遊戯と制度

通常、子供は遊びすぎるほど遊ぶと言われる。だが、もしも子供が、自分の食料は自分で手に入れねばならないということにでもなれば、彼は成長法則にしたがって、与えるよりも多くを受けるという状態に置かれ、おそらくは、他の誰よりも遊ばなくなるだろう。実際には、子供は他人の労働によって養われているのである。彼はまた長期にわたって、現実の労働の場から遠ざけられてさえいる。人間がネズミやウサギのようなみじめな条件に置かれれば、まずは目に見えて遊戯が失われてゆくに違いない。戯れる子猫は、母猫に養われているばかりではなく、人間にも養われている。野生動物の遊戯にも、恐れや怒りを識別することはできない。つまるところ、遊戯は自然のものであるよりもむしろ制度であるのだろう。

自然の中にあるものは怒りであるが、遊ぶすべを知らない孤立した子供には、すぐさまその影響があらわれる。実を言えば、遊戯は退屈の治療薬というよりもむしろ、怒りの治療薬なのだ。……

演奏する者は誓いを立てたも同然である。……しだいに難しくなる試みを繰りかえしながら、たった一つの間違いをしても、ためらいもなく、文句も言わず、すべてをやり直すような少女を眺めるのは快いものだ。このように人間には、習熟を必要とする遊戯において、早くも、自分自身との折り合いに悩み、自己に打ち克とうと懸命になるところが見うけられる。人は年齢とともに、まずは道徳問題や政治問題に向かうが、このことは注目にあたいしよう。たしかに遊戯には、外部の必要性が常にわれわれの計画を左右するという考えや、従順さに疑いをはさむといった重要な考えが欠けている。だが逆にいえば、労働の側にも、もう一方の考え方が欠けていよう。それは、人間にとっての緊急事は自己の身を律することであり、結局、原理的には少しも実行する必要はないにせよ、やはり有益な行為があるのだという考えである。遊戯には、誓約の力と、制度に固有の手堅さとが感じられる。したがって政治にとってはおそらく、労働から学ぶことに優るとも劣らず、遊戯から学ぶことがあるだろう。

アラン『思想と年齢』より

ーーー『哲学の教科書 ドゥルーズ初期』G・ドゥルーズ編著,河出書房新社,2010年,p186-189

The Children of Nathan Starr
Ambrose Andrews
1835

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?