PERCHの聖月曜日 66日目
千駄焚き
一、地名のおこり
東京のもとのまわりには西南のはしに千駄ガ谷、北に片よって千駄木という町があって、ともに聞きなれぬ地名だから人が注意している。千駄ガ谷はもと郊外の農村だった。古い地誌にはここは広い野で、萱(かや)が千駄も苅れるところから、千駄萱といったのが村の名のおこりであろうと書いてある。一駄というのは駄馬一頭に背負わせるほどの荷物のことだから、萱はかるいといっても二十貫いじょうはある。それが千駄も苅れたとすれば、大へんな広い野にちがいないが、武蔵・相模の高原にかけて、それくらいの野は今でもまだ残っている。べつに地名にするほどの珍らしい事実ではなかった。千駄木のほうもその通りで、もとは一軒の家ですら、年に三駄五駄の木を焚いていたのだから、薪山(まきやま)としてはむしろちっぽけなものであった。
何かこういう地名の生まれるような原因が、ほかにあったのではないかと考えて見ると、日本全国を通じて、いちどに千駄の萱または木を、焚かねばならぬ場合がたった一つだけあった。それは夏の初め、農作にもっとも水の必要なころに、雨がちっとも降らぬと百姓がよわってしまって、いろいろ雨乞いの祈祷をする。その最後のものが千駄焚(せんだた)きだったのである。通例はこの火は山の頂上のいちばん天に近いところに行って焚くので、それで雲焼(くもや)きとも雲焙(くもあぶ)りともいう地方もあるのだが、東京の近くはたれも知る通り、一日あるいて行っても尖とがった山がない。それゆえに何処かやや広々とした野を見つけて、人がそこに寄って来てこの大きな火を焚いたものとおもわれる。山の上であっては見に行くことも容易でないが、こういう平地ならば老人も女もゆき、幼い児童もまた連れて行ってもらわれたことであろう。そうして有名になって、その野が世に知られ、のちのち開墾せられて村になってからも、べつに新らしい村名を附けるにおよばなかったであろう。ただ近ごろは東京都の中などに、そういう雨乞いをする村がほとんとないので、どうだろうかと疑う人があるかもしれぬが、以前ごくふつうであった風習で、今はもうなくなったものは、この他にもいくつかある。ことに燃料がだんだん足りなくなると、このような事はせずとも、ほかにも方法があると思うようになるのはあたりまえで、今はしないということは昔もなかったという証拠にはならぬのである。
ーーー柳田国男「母の手毬歌」『こども風土記・母の手毬歌』岩波書店,1976(昭和51)年
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53813_50717.html
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