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カタキじゃなくて、味方だよ。

*これは母の見舞い➡在宅看護の備忘録です。

◯1月1日
午前中、弟と一緒に母のお見舞いに行った。「あけましておめでとう」と母に声をかけたら、「おめでとう」という口をしてくれた。そして弟がつくってきてくれたお雑煮の汁を少しすすり、爪の先ほどの大根を食べてくれた。

帰りに病院近くのお寺さんに寄る。なんと手水舎に水がない。お参りして甘酒をいただき、ふと境内に止まっていた車の幟を見るとクレープとあったので購入。バターシナモン450円。

近道の裏路地の住宅街を行き交う人は、たいがいが子連れのお父さんとお母さんだ。途中、地下水の井戸にお餅が供えてあった。
大通りに出ると、獅子舞と恵比寿様がカラオケスナックの前でお囃子を鳴らしていた。向かい側の大きな家のおじさんがポチ袋を手に、獅子舞に声をかけるタイミングをうかがっていた。

新年あけましておめでとうございます。皆様にとって素晴らしい1年になりますように。 

◯1月10日
12月12日より住んでいた東青梅のウィークリーマンションを退去した。

この1カ月で楽しかったことは、もちろん母に毎日のように会えたこと。東青梅のオアシス「かず」で美味しい食事ができたこと。病院までの徒歩40分を歩きながら、青梅の町を少しずつ知ったこと。隣町にある「河辺温泉 梅の湯」に計3回行けたこと。

辛かったのは、安普請のベッドで寝なきゃいけなかったこと。悪夢で毎晩夜中に起きてしまうし、背中が痛くて深い睡眠が取れない。加えて座椅子で仕事をするのがなによりも辛かった。弟と宅配便以外誰も訪ねてこず、病院と家の往復が続く日々は、想像以上に寂しくて体と心に堪えた。

しかし、そこでようやく気がついた。私はコンビニにもレストランにもひとりで歩いて行けるし、友だちとSNSで連絡取り合うこともできるし、食べたいものを食べることができる。だが、母はもうDVDを見ることも好きな音楽を聴くことも自力でできない。寝返りも打てないし、流動食だし、弟と私とBFが時々訪ねてくる時間以外は天井を見つめながら寂しさと孤独に耐えないといけない。

たかが1カ月の六畳一間での仮暮らしは「牢獄」のように感じられたが、だったら動けない母の寂しさはいかばかりか。わかっているようでぜんぜんわかっていなかった。毎日病院に顔を出すくらいで、死に向かう母の不安と恐怖を軽減することはできなかったのだ。

年末、弟から悲しい話を聞いた。彼がひとりで見舞ったときのこと。「帰りたい」と言う母に「ごめんね、それはできないんだよ」と答えると、また何か声にならない言葉を口にする。一生懸命聞き直したら「あんたはカタキ(敵)だ」と言われたらしい。その後もいろいろと話かけていたら、「うるさい!」とひと言、言われたのだという。
「これはお母さんの言葉じゃない、病気が言わせてるんだって思うんだけど、キツかった…」
胸が詰まった。発病後の母の面倒をいちばん見たのは弟なのに、最後の最後でそんなことを言わせてしまうのは、母にも弟にも申し訳が立たないと思った。

大晦日、校正の仕事を終えて病院に行くと、夕飯の時間だった。クリスマスに針のない注射器に入れて赤ワインを飲ませてくれた担当看護師Tさんが食事介助に来てくれた。食事の食べさせ方もうまい人なので、「2019年最後の日がTさんでよかったね」と言おうとしたのだが、母の様子がおかしい。「あっかいたい」「あおいと」という言葉がようやく聞き取れる。Tさんが「『あの人』って言ってる?」と尋ねるが、母はむっつりと黙り、その後は口も開かないので食事が進まなかった。おしぼりを取りにTさんがいなくなったので、「お母さん、もしかして『バカみたい』って言った?」と尋ねると、かすかに頷く。びっくりして、「誰がバカみたい? あの人って誰のこと? Tさんじゃないよね?」と言うと、母はTさんだと言うアクションをする。

これはヤバイと思った。発声が難しくなっていろんなことが伝わりづらい中で、母の心が閉じていくように思えた。その後は私とも目を合わせず、涙を堪えるような表情をしていた。ベッドに戻った母に「お母さん、家に帰りたい?」と尋ねた。母は顔をクシャッと崩した。「そんなことできるわけない」というように。私は母の頭を撫でながら、「孝祐(弟)も私もカタキじゃないよ。看護師さんたちもカタキじゃないよ。みんなお母さんの味方だよ」と言った。母は目を閉じ、何も話さなかった。「明日はお正月だね。孝祐と明日も来るね」と声をかけ、20時に部屋を出た。

この孤独と恐怖にひとりで耐えるのは、もはや限界なんだろう──。
そう悟った私は、帰宅後に母の病名である「多系統萎縮症」と「終末期」「在宅介護」「看取り」「ターミナルケア」などの言葉を一緒に検索し、弟の住む東村山市の在宅医療についても調べた。

2020年1月1日。弟と病院に行ったが、その日は弟に用事があったので、翌日またふたりで見舞った。天気がよくて暖かい日で、母を外に連れ出した。病院の裏手には多摩川が流れている。橋の欄干まで車椅子を押した。普段は30分で限界の母が、外の空気と光が気持ちよかったのだろう、1時間外出を楽しんだ。合計3時間ほど私と弟がずっとそばにいたのもあり、最近は険しい表情が多かったが、この日はとてもやわらかい表情になっていた。

帰りの車で私は弟に言った。「私も一緒に住むから、お母さんを家に連れて帰ろう」と。弟は「うん、そうしよう」と即賛成してくれた。

6日にようやく担当医と会えて、「ターミナルケアを自宅で行いたい」と伝えた。賛成してもらえたが、「春まではもたない」「病院にいるより寿命は短くなるでしょう」と言われた。

8日、東村山の地域包括センターの方がケアマネージャーを連れて弟の家に来訪してくれたので、もろもろ相談した。すごくいい感じのふたりだった。退院目標は16日。

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