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ささやきの森に。

その日は小雨だった。

開店準備をほぼ終え、化粧をしていると、「もうお店は開いていますか」と声がする。慌てて化粧室を出ると、扉の前に女性がひとり立っていた。私は「準備がまだ終わっていなくて恐縮ですが、雨ですし、よかったらお入りください」と中へ招いた。

化粧をし終えて出ると、彼女は壁にかかっている吉見紫彩さんの絵をじっと見つめていた。「写真、撮ってもいいかしら」と尋ね、あらゆる角度から撮影し、また絵に近づき、じっと見ることを繰り返す。私はその間におしぼりとお通しを用意し、彼女が座るのを待ってから、何を飲むか尋ねた。彼女は「本日の日本酒」と書かれた黒板を見て、いちばん下の──つまり「粋」ではいちばん高額な「朔」を頼んだ。「飲んだことがないものを飲んでみたいから。それにKURA MASTERのプラチナ賞受賞って、絶対美味しいわよね」。

「京都 蔦屋書店」のシェアラウンジで開催中の吉見紫彩個展「ノイズだらけの身体 または、あり得たかもしれないダンス」に行き、その帰りに寄ったのだという。最初は日本画家の品川亮さんの作品が好きだったこと、品川さんのグループ展で吉見さんの絵を見てすっかりファンになったこと、年齢的には母と娘くらい離れているけれど友人のように親しく付き合っていて、作品もいくつか持っていることを話してくれた。私は2階に保管してある吉見さんの小品3枚を急いで持って降りた。彼女は1枚ずつ箱から丁寧に取り出し、じっくり見て、そっとしまった。

小雨は続いていた。静かだった。誰ひとり訪ねて来ず、私たちはひそやかに話を続けた。彼女はアートや工芸品が本当に好きだった。好きというか、必要としていた。その大きなきっかけは、9年前の夫の他界だ。高校時代の同級生で、この世を去ったときはまだ50代半ばだった。同居の息子は仕事を終える毎夕に電話を寄こし、「暗い部屋にいるんじゃないやろな? 電気点けろよ!」と言い、娘は「しばらくご飯は私が作るから!」と宣言し、毎回漫画のようなてんこ盛りのご飯を差し出して 「はい、これ食べて! ノルマやからね」と労った。

「自分たちも大好きな父親を亡くしてショックなはずなのに、その気持ちを抑えて私を心配してくれている。辛いのは、悲しいのは、私だけじゃない」

とはいえ、心に空いた穴は巨大だった。彼女は「なぜ人は死ぬのか」というテーマを背負い、その答えを本や芸術や音楽の中に見出そうとした。そうして導かれた場所が、豊島の「ささやきの森」だった。

「ささやきの森」はフランスを代表する現代アーティスト、クリスチャン・ボルタンスキーのインスタレーションだ。豊島・檀山の中腹にあたる森林の中に400個の風鈴が、風に揺れてささやかな音を鳴らす。風鈴の短冊(書かれた文字のままプレートにされる)には、これまでに訪れた方の大切な人の名前が記され、鑑賞者は新たに自分の大切な人の名前を残すことができる。

彼女は夫の名前を書きにその場所を訪れ、受付をしている間にこう思った。

「夫の風鈴だけがあるのは寂しいな。私も隣にいたい」

受付のスタッフに「自分の名前も書きたいのですが」と告げると、スタッフは少しだけ戸惑ったが、「少々お待ちください」といろんなところに電話をかけ、最後に「ボルタンスキーの作品意図に反しないということなので、お書きください」と言った。深遠な森の中、彼女の夫と、彼女自身の、風鈴が鳴る。なんて素敵な光景だろう。

それから彼女は亡き夫との詳しい出会いを教えてくれて(むちゃくちゃ微笑ましい!)、夫がどうして自分にとってとても大事な存在だったかという話もしてくれた。私は何枚もティッシュペーパーの箱からティッシュを引き出す羽目になった。化粧も流れた。彼女もそんな私を見てもらい泣きし、最後はふたりで泣き笑いとなった。

「そろそろ息子にご飯をつくらないと。ああ、こんな楽しい夜になるなら、ご飯をつくって出てこればよかった!」。晴れやかな顔でそう言い、壁にかかっている絵を指さして、「あの紫彩さんの作品、買ってもいいかしら」と続けた。

「私ね、絵画とか工芸品とか買うとき、その作品だけを買うんじゃないの。その作品が置かれていた場所、時間、過ごした人、交わされた会話、感じた思いみたいなものと一緒に買うの。……だから、あれを買います!」

そうか、日本酒の最初の一杯に高価な「朔」を選んだとき、私はちょっとびっくりしたけれど、それは販売中の5枚の絵の中から1枚を選んだように、吟味の上だったんだ。「飲んだことのないものを飲んでみたい」という正直な言葉どおり、彼女は「初めて」に飛び込んでいく。初めての場所に行き、初めてのアートに出会い、初めての人に出会い、言葉を交わし、9年前から持ち続けている問いの答えを探す。そのこと自体が、彼女の生を豊かにし、彼女に出会った人まで(偶然出会った酒場の女主人まで)幸福な気持ちにさせる。

彼女が帰ったあと、数時間、誰も来なかった。神様の計らいだ。私はひとりきりで、森の風鈴のことを思う。

──私は誰の名前を書くだろう?

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