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肩車。

私の名字は「堀」で、石川県金沢市出身であり、織田信長や豊臣秀吉に仕えた「堀秀政」の子孫だという話だ。残されている肖像画は顔が小さく目が大きくて鼻筋が通っており、「確かに堀の顔だなあ」という感じがする。(どうでもいい情報だが、三谷幸喜作『清洲会議』では松山ケンイチが演じている。)

とはいえ、直系ではなく、分家の分家のそのまた・・・という位置づけらしい。私が小さいころ、父はよく「世が世なら、お前は姫やぞ!」などと言っていたが、母は「直系でもないくせに……」と鼻白んでいた。東山の裏手にある最勝寺墓苑には堀家の墓があり、本当に分骨が入っているのか疑わしいものだが堀秀政の墓もあって、父は三男でありながらそこの墓守をすることに誇りをもっていた。

これは2015年8月の話だ。

2014年10月に父の妻(当時:いまは離婚)のユウさんから電話があった。10日ほど前に父が脳梗塞で倒れ、命に別条はないが、半身不随と言語障害を発症し、入院しているという。私は「見舞いに行きます」といって電話を切り、実際にそのつもりだったのだが、結局翌年の8月になってから重い腰をあげ、関西出張の帰りに金沢へと寄った。

父とユウさんに会うのは2010年6月以来で、実に5年ぶりだった。以前の横山町から小将町の家賃3万円だったかの古い家に移り住んでいて、玄関をあがってすぐの部屋に置かれた介護ベッドに父が寝ていた。ユウさんが「お父さん、香織が来たよ」と声をかけると、「おおお」とうめき、泣きながら歓待してくれた。

レンタル布団が敷かれた2階の一室に荷物を置き、階下に戻って父と話をした。後遺症である構音障害が激しかったが、なんとか言っていることはわかった。

父は、ユウさんが台所で食事の支度をしている最中、本棚にある箱をもってきてほしいと私に頼んだ。箱をベッドまで持ってくると、父が「開けて」と言う。手紙などにまじって、父と母のフィジー旅行の写真が白い封筒におさめられていた。初めて見るものだ。ふたりともとても若く、仲睦まじい様子で、私は「こんな時代もあったのかあ」と驚いてしまった。と同時に、この写真を3番目の妻と結婚して20年以上にもなるのに、こっそり捨てずに持っていることにも驚いた。父は私に「持ってって」と言った。

翌日、私は父の親戚を訪ねることにした。

父にはふたり兄がいる。長男は政尋、次男は郁次、三男である父は政靖という。「堀秀政の『政』を男子につけるのがならわしなんだ」というようなことを、これも幼いころ、父に何度となく聞かされた。でも、私の弟に「政」という名前はついていないし(母が全力でやめさせた)、政尋伯父さんの長男も「正明」だった。

それはともかく、この伯父さんたちには、父がそれはもう世話になった。最後に会ったのは私が高校2年生のときの祖母の葬式だったので、せめてご挨拶と、父の容態を報告だけでもしようと考えた。父に連絡先を聞くと、「最近は連絡もあまり取っていないし、引っ越したばかりだから住所録がすぐに出てこない」と言う。

それで、ひとりで昼食をとった彦三町の「福わ内」という饂飩屋を出たとき、確か近くだったなと思って次男の郁次伯父さんちを訪ねた。うろ覚えだったが、一発で記憶にある玄関が現れた。「ごめんください」と声をかけると、出かけようとしていた伯母さんがいた。見覚えのある顔だった。

「政靖の娘の香織です」と挨拶すると、伯母さんは「あら、香織ちゃんなの? でもごめんなさい、小さいころのイメージしかないから、顔がわからないわ」と言った。なんと伯父さんも脳梗塞でいまは部屋で寝ており、従姉妹のむっちゃんは出かけているという。私はいまの父の様子や小将町に引っ越したことを伝え、名刺を渡してから辞した。

次に、政尋伯父さんの職場に電話をすることにした。伯父さんは金沢工芸美術大学の出身で、美大入学専門予備校「堀アート・デザイン研究所」をつくった人だ。いまは長男の正明兄ちゃんが継いでいる。ネットで調べたら電話番号がすぐにわかった。

1時間半後に予備校に着くと、正明兄ちゃんが出てきた。会ったのは子どものころきりで、ほとんど初めて会ったようなものだけど、堀家の系統の顔だなあと思った。私より年上に見えない、とても若々しい人だった。

1時間ほど互いの親の近況や仕事の話などをし(政尋伯父さんは薬を大量に飲んでいるが元気で、伯母さんが最近軽い脳梗塞を起こしたという)、帰宅することにした。予備校までの坂道がのぼりもくだりもかなりの勾配できつかったので、別の道を教えてくださいと正明兄ちゃんに言ったら、父の家まで車で送ると申し出てくれた。車ではほんの10分ほどの距離だった。「よかったら少し寄っていきませんか? 父、すごく喜ぶと思うので」と言うと、「はい、そのつもりでした」と車を寺に停めて、寄ってくれた。

父はたいそう喜び、一生懸命、彼に話をした。「あんたのお父さんはとっても才能あったんや」と言っては泣き、「預かっている先祖の位牌は、ゆくゆくは正明に継いでもらいたい」と言っては泣いた。発音がままならないので、その言葉を完全に理解するのは難しいが、正明兄ちゃんは諦めることなく、身体を前のめりにして聞いてくれた。

最後に父は、15歳上の兄貴が自分を肩車してくれて、しかも自分がお漏らししたのに怒らなかった、という話をした。そして「あんたのお父さんは本当に優しい人なんや」と言ってまた泣いた。

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