見出し画像

【神学】 「カルヴァン主義」は聖書的な用語ではないのか

「カルヴァン主義」は聖書的な用語ではない?


カルヴァン主義を嫌悪する批判者たちは、カルヴァンが使った神学用語にも否定的な評価をする。 ある人たちは、カルバンの二重予定が聖書の外の神様の主権を語っていると言い、このような理論は直ちに廃棄されなければならないと声を高める。その他、「三位一体」、「携挙」、「千年王国」などの用語も拒否する。 ご存知のように、「三位一体」の発見は最も偉大な神学的発見と評価されている。アリウス主義などの異端を除いては、誰もこの評価に異議を唱えない。三位一体はただお一人でありながら御父、御子、御霊の人格的統一性と多様性を持った神様を最もよく説明している。特にこの教理はイエス様の完全な神性に対して疑問を提起する異端たちに福音を説明するために作られた用語でもあるのだ。


したがって、批判者たちの反論は妥当性がない。このような論理なら聖書の教えを要約して説明するすべての神学用語が無用だと言うべきだろう。キリスト教信仰の最も核心的な真理である神に対する教えを、どうして聖書に出てこない単語で教えることができるのかと反問する人は誰もいないだろう。まるで「ラーメン」という単語が聖書になく、無条件に健康を害する食べ物なので、「ラーメン」を追放しなければならないという論理と変わらない。


改革者カルヴァンによって律法主義 • 過度な教理主義が現れ、これが福音を遮ったのだろうか?批判者たちは声を合わせてそう主張する。


敵対者たちはカルヴァンの『キリスト教綱要』が福音を過度に教理中心に分類し解釈することで、神様の恩恵の流れを遮ったと評する。言い換えれば、カルヴァンの影響で現れた講解説教は、聖書を過度に分析し、注釈することで、神様の恩恵を教理化し、形骸化したと攻撃する。特に、このような反論者たちはカルヴァンの予定論に対し非常に否定的な見方をする。予定論により福音の効果的な伝道が全て不可能になったと批判する。


しかし、カルヴァン主義者たちはカルバンの最も偉大な業績の一つとして予定論を挙げる。北米改革教会のプロンク牧師は、ドルト信条講解説教を通じて予定論をむやみに扱うことに対して警戒心を高め、予定論を理解するためには専門家の案内を受けなければならないと忠告する。


「私たちは予定を雲の中の高い山頂と喩えることができるのです。その山頂は深い谷間、割れた隙間、崖に沿って曲がりくねった狭い道に登る時だけ到達できるところです。 それは非常に狭い道なので,ゆっくりと慎重に歩かなければならないのです。 一歩でも踏み外すと崖の下の岩に落ちてしまします。ですから、この高いところを登るときは、専門家の案内が必要です。」


また、キム·セユン博士は予定論について、「予定論の理解は、キリストの中に啓示された”最も明るい光”からスタートしてこそ理解できる」と助言する。


「予定は”始め(創世記1章1節)”を論じることなのです。しかし、私たちが救いを論じる時、”創世”という時点から始めるのではなく、イエス·キリストの中に現れた”救いの事件”から論じなければならないのです。(中略)予定教理は歴史の中心から論じ始めなければならないということです。 キリスト教徒たちはキリストの中に神の救いが現れた事を告白し、その中に神の啓示が完全に完成したと信じるのです。神様の奥ゆかしい真理がキリストの中に啓示されたので、キリストの中に現れたその啓示が一番明るいのです。それまであった啓示、すなわち旧約の啓示はキリストの中で完成する啓示に対する準備啓示であったのです。ですから、旧約の啓示は、その光があまり明るくなかったのといえます。キリストが来る前の啓示はキリストに対する啓示でした。キリストの中で完成する啓示に対する影だったのです。(中略)ところが、この啓示の光は遠く離れれば離れるほど薄くなっていきます。その一方の端は創世で、もう片方は終末です。中間の光が両側に行くほど薄くなり、中間(キリスト)が最も輝いているのです。」


確かに、私たちに「予定論」が無ければ救いの確信において、不安のあまり信仰の航路が揺れるだろう。 神様の予定に対する確信は「救いの感謝」につながり、信仰することをより敬虔にする。予定という山頂に登るためには、多くの汗と血の献身を注がなければならない。この過程で罪人は自分を低くする。予定の谷間に閉じ込められてかわいそうな物乞いのようにひざまずいて自分を見つめながら、自分がどれほど醜い罪人であり、愚昧な者なのかを悟る。まったく自分の力では山の頂上に行けないことを認める。したがって、予定は罪人を低くする神の偉大な摂理の方法だ。それであれば、神様の予定に気付かない者がどれほど可哀想な者なのだろうか?


結語


カルヴァン主義は決して律法主義でもなく教理主義でもない。さらにカルヴァン主義はカルヴァン個人の思想でもなく、カルヴァンという一人を仰ぐために作り出した創作品でもない。カルヴァン主義は初代教会の使徒の伝承と教父たちとアウグスティヌスとその後を継ぐ者たちと宗教改革家たちの思想をカルヴァンが最も聖書的なキリスト教を建てるために渾身の情熱とすべての知性的献身で総合し体系化した神学的「実」なのだ。最も聖書的な神学として、カルヴァン主義だけが聖書を正しく知り、正しく信じさせ、正しく行わせる。そして今もカルヴァン主義は改革のための学びを並行している。したがって、カルヴァン主義は最も聖書的な改革神学である。今もカルヴァン主義は改革主義という名前で最も聖書的な神学と思想と信仰を守り改革するために正統キリスト教という歴史の川になって堂々と流れている。一度もこの川筋から離脱せず、たとえ少数ではあるが、神の国の切り株としての使命を失っていない。カルヴァン主義が改革主義であり、これこそ唯一の歴史的かつ正統的なキリスト教の主流(mainstream)に違いない。 (終わり)


チェ·ダハム(Th.D.バロソン改革教会担任牧師、改革神学フォーラム責任専門委員)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?