【聖アニメ信仰】【すずめの戸締まり】新海誠の〈崇高なメッセージ性〉の正体〈失われたアーク〉
イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。
新海誠監督のアニメ映画「すずめの戸締まり」が現在絶賛公開中である。
私も近日中に映画館に鑑賞に行こうと計画中である。
ただ私は複数回鑑賞して検分して見たいと思っているのでDVD発売を待ってもいいかなと考えている。
「成長への嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」-どんな辛い現実の中でも・・・
「すずめの戸締まり」に関して新海誠監督は当初の会見で宮崎駿監督のアニメ映画「魔女の宅急便(Holy Communion)」を意識したと発言されていた。
そして最近の新聞報道によると新海誠監督のこの作品に込めたメッセージ性は「成長への嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」だとして発言している。
「成長への嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」とは「成長神話(ソロモン王)」である。
「成長神話(ソロモン王)」というものへの崇拝は新海誠監督のメッセージ性(阿弥陀如来崇拝)であるのだ。
「成長神話(ソロモン王)」とは日本経済(アベノミクス)や都市開発、そして「人の成長(修行経験)」として存在している。
特にこの映画で「嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」とされた「主人公すずめ」の発言は社会的弱者(貧困層)の子供へ向けられたものであるらしい。
「今は辛くとも屹度未来は明るい」というメッセージ性(阿弥陀如来崇拝)であるのだ。
それは「非常に崇高はメッセージ性(阿弥陀如来崇拝)」でありこの映画を鑑賞して感動で身が震える人が多くいるのも頷ける。
しかしそれは非常な危険思想・BLACKMASS(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)と言えるものであった。
聖織田信長信仰と対立する危険思想・BLACKMASS(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であり一向宗(危険なカルト集団)だったのだ。
それは「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」でありどんな酷い現実も改善されることはない。
レトリック(金色)で装飾(美化)された人糞(阿弥陀如来崇拝)と同じである。
新海誠は綿矢りさと同じスカトロジストであるのだ。
「新海誠監督作品」の陰険さは「末法思想」の中からBLACKMASS(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)として形成された「一向宗」の宣伝映画であると同時に「愚民政策」の極みであるところだ!
ここでわかるように新海誠監督の言う「成長への嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」は末法思想の中から起こった浄土思想であり危険思想・BLACKMASS(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)として形成された「一向宗」と言えるだろう。
ただ一向宗は「仏教」とされているが「仏教(至高の抽象化の高み)」とはいい難い。
何故ならばブッダの教えを完全弾圧する危険思想・BLACKMASS(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の形成であろうからだ。
それはただひたすら念仏を唱える姿勢を示し、それは「愚民政策の極み(原始的段階に近い)」と言えるだろう。
「人の成長(修行経験)」のソロモン王と「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」のダビデ王
私は新海誠監督のアニメ映画にこの貧しき子供に対する「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を見る視点を全く感じない。
人間性として「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」はその人を究極的に救済することであると私は考えている。
それが仏教(至高の抽象化の高み)である。
現にある「辛い現実の中」でその人が救われるのは「未来の成長への嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」であるだろうか?
それは「未来の成長(ソロモン王)」の賛美と扇動のデマゴギーでしかないのではないか?
阿弥陀仏は「修行経験」を「アリバイ証明」として超感覚(超人)を形成する存在である。
それはブッダのようにカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉し叡智を得る存在ではない。
ただひたすら念仏を唱える危険思想・BLACKMASS(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の形成と見做せる。
それは最悪のカルト集団となるだろう。
それはブッダを完全弾圧しその「敵対感覚(原罪)」を正当化する超感覚(超人)の存在となる。
しかしそれは特殊詐欺(騙し抜き)と言えるだろう。
叡智(Holy Communion)を受肉しない存在を「愚民政策により騙し抜くこと」は容易なことであろうからだ。
新海誠監督作品の映像美(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)
そして新海誠監督のアニメ映画の圧倒的スケールの映像美はそのデマゴギーを装飾する美辞麗句でしかないのではないだろうか?
それをスカトロジストと呼ぶ!
そしてそれは「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」の役回りであるだろう。
アベノミクス(ソロモン王)は必ず成功し日本経済は再び急成長(V字回復)するという「嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」と何が違うのだろうか?
イマヌエル・カントの「信仰」
「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によって可能となる。
それは人の「成長神話(ソロモン王)」とは全く違うだろう。
イマヌエル・カントはこういった。
「信仰を入れる場所を確保するために知識を廃棄しなければならなかった。」
だから私は、信に場をえさせるために知を廃棄しなければならなかった。
「成長神話(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と「純愛信仰(Holy Communion)」の問題である。
時間経過による成長を問うなら「成長神話(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」となるだろう。
それは「修行経験」を「アリバイ証明」とすることで超感覚(超人)として「ソロモン王」を根拠づける。
そして中身の成長を問うなら「純愛信仰(Holy Communion)」となるだろう。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉し叡智を得ることで「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」となる。
そして時間経過による中身の成長(歴史)を問うなら「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」となる。
それは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の在り方の聖書(Holy Communion)となる。
それは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の在り方であるのだ。
「成長神話(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と「聖書(Holy Communion)」
ここで言えることは新海誠監督は「成長神話(ソロモン王)」をメッセージ性(阿弥陀如来崇拝)としている。
しかし彼のアニメ映画に「聖書(Holy Communion)」はあるだろうか?
未来の成長の「嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」とは、シェイクスピアの「マクベス」の三人の魔女の言葉(デマゴギー)と同じである。
確かに魔女達の言葉に「嘘」はなかった。
「魔女達の言葉(ソロモン王)」は「嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」であった。
そしてマクベスは破滅した。
ではアニメ映画「すずめの戸締まり」の「主人公すずめ」の「嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」による扇動はどうなるだろう?
仮に魔女達と同じ「嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」であったとしても子供は破滅するだろう。
何故なら真の救済(Holy Communion)とは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の在り方として存在しているからだ。
それは「成長神話(ソロモン王)」への崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)ではなく、「聖書(Holy Communion)」への信仰である。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であるだろう。
後記
果たして「真の救済(Holy Communion)」は訪れるのか?
それとも「嘘のない言葉(阿弥陀如来崇拝)」というデマゴーグ(ソロモン王)の扇動によってマクベスの如く破滅するのだろうか?
それはその人の「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」によっている。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の在り方として存在する「聖書(Holy Communion)」の実存にあるだろう。
「堕落したソロモン王」によって失われた「聖櫃」はイエス・キリストによって回復されることを示している。
それが「失われたアーク」だ!
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
〈失われたアーク〉よりメシア再来
それはアーク(聖櫃)の再来と言えるだろう。
イエス・キリストへ
マルコによる福音書 私の右に座せ
マタイによる福音書 私の右に座せ
ルカによる福音書 私の右に座せ
マルコによる福音書 人の子が力ある者の右に座し
ルカによる福音書 人の子は神の力の右側に座しているだろう
ヨハネによる福音書 網を舟の右舷に打ちなさい。
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