兄弟の罪
日本には「禊」という神聖な信仰がある。
旧辞(くじ)は信仰生活である。
柄谷行人先生のNAM(New Associationist Movement)で示された「原理」で行われた「籤引き選挙」の黙示とは旧辞(くじ)であった。
三貴子について
三貴子(信仰生活)とは稗田阿礼の誦習(旧辞)です。
蛭児(ヒルコ)はバフォメットである。
三貴子の信仰生活について
古事記(ヒルコ)はバフォメットである。
日本書紀(ヒルコ)はバフォメットである。
三貴子とヒルコ(バフォメット)
伊邪那岐命(イザナキ)の「禊(水浴)」から生まれた「三貴子」は「信仰生活」を意味し「聖者」のあり方を示している。
子作りの際に女神のイザナミ(伊耶那美命)から先に男神のイザナキ(伊耶那岐命)に声をかけた事が原因で不具の子に生まれたのが「蛭児(ヒルコ)」であり「セックスアピール」(催淫薬)によって生まれた「穢れた子」とされている。
しかしこの女神のイザナミ(伊耶那美命)と男神のイザナキ(伊耶那岐命)に関する男女の交わりは「バフォメット」(倒錯)を示している。
男神は男神であり、女神は女神である。(フロイトのユーモア)
男神は女神であり、女神は男神である。(バフォメットの倒錯)
ここで言えることは女神のイザナミ(伊耶那美命)と男神のイザナキ(伊耶那岐命)が男女の交わりを持って子をもうけたという日本神話は「オリエントの異端」と言える。
神同士が交わることはないのです。
この男女の交わりが示すものは「バフォメット」(倒錯)です。
「バフォメット」(倒錯)とは「蛭児(ヒルコ)」を示しています。
だからそれは「異端」であり「偽物」(虚偽)のことなのです。
「三貴子」は「禊(水浴)」から生まれ「誠実」と「真実」を持った「信仰生活」と為っています。
古事記は「三貴子」であり、古事記・日本書紀は「蛭児(ヒルコ)」である。
ヒルコ(バフォメット)
三貴子(信仰生活)は「禊」を示す。
最近のマスコミ報道によると衆議院の解散風が吹き始めている。
ただ現在の日本国総選挙とは政治主導のあり方ではなく失政の禊を立てる儀式となっている。
どんな失政でも日本国政治家は総選挙に当確すれば禊が成立し爽やかで晴れやかなスイート☆セクシー☆スマイルを日本国民に披露する。
特に小泉純一郎や小泉進次郎は禊感覚を非常に強く持った日本国政治家一族である。
小泉家には特に政治思想はなく、総選挙における禊感覚だけで政治主導をしていく。
そういった政治思想のない禊感覚の政治主導で大改革を行なった小泉純一郎の失政はたとえ問われたとしても禊感覚の総選挙によって清浄とされる。
郵政とは「カトリックロゴス感覚」への信仰です。
郵政三事業民営化にしても小泉純一郎の信念は「カトリックロゴス感覚」を信仰弾圧することが目的でありそれ以外の大改革の理由はなかった。
小泉純一郎の行政改革は「カトリックロゴス感覚」を潰すことで日本国民の「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を「餓鬼道」(信用詐欺)へ貶すことを目的としているだけの悪魔の所業であった。
そして小泉純一郎が総理大臣在任中に行った靖国神社参拝とは天皇家の「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を軽んじ靖国神社の「餓鬼道」(信用詐欺)を重んじる意思を明確に公共へ表明した破廉恥行為であった。
これは元東京都知事だった石原慎太郎の強硬な主張と同じであった。
それは『天皇家の「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)の方が靖国神社の「餓鬼道」(信用詐欺)の元へ下るべきだ!』と強硬に主張する大冒涜発言だった。
当時、私は何故天皇家が靖国神社如きに下らなければならないのか理解できなかった。
しかしそれは単純な思考から来ていた。
「英霊とA級戦犯」の方が明らかに天皇家より上であるとする軍属(特に陸軍派)のカルト部隊感覚から来ていた。
それは日本国に於いて「英霊とA級戦犯」を「非現実的な理想化」とするカルト部隊感覚でしかない。
日本陸軍は完全なカルト部隊であった。
科学的思考を主張する者は左遷され閑職へ廻されたのです。
カルト部隊の特徴とは「ドクサ」を「信念」と称して誇っていくところでした。
カルト部隊とはプライドが高いだけのバカ犬(盲目の道案内)だったわけです。
それはノモンハン事件を見れば明らかである。
ノモンハン事件とは科学的思考を持ったモンゴル陸上部隊にカルト思考を持った日本陸軍が大敗北を喫した歴史的大事件だったからです。
科学的思考とは「カトリックロゴス感覚」の受肉を意味し、「叡智」(エピステメ)のことを示している。
それは神の意志を感じる牧羊犬(善き羊飼い)を示していた。
「ドクサ」と「エピステメ」では勝負は決まっていたのです。
ただ「八百長勝負」なら「ドクサ」で勝てるかもしれません。
しかしそういった「八百長勝負」は三下奴のすることです。
「八百長勝負」は「非現実的な理想化」であり、三下奴が仕掛ける「イカサマ勝負」でしかない。
※ノモンハン事件の構図とは「横綱白鳳に大敗北した日本相撲協会カルト部隊」と同様であった。
※織田信長の戦いはモンゴル同様に科学的思考を持って為された。
※一方でこのような日本組織犯罪のカルト部隊は八百長勝負に於いては必勝体制となっている。
※カミオカンデによるノーベル賞受賞も八百長勝負の典型と言える。
※又、武豊騎手の勝利も八百長勝負の典型と言える。
そしてここで異例の出世をした防疫部隊の石井四郎とはカルト思考の賛美のために捏造された功績から来ていた。
※この功績はカミオカンデのノーベル賞の受賞と構図が非常によく似ていて同一のカルト感覚から来ていると思われる。
石井四郎の防疫部隊の活躍はこのノモンハン事件における唯一の日本陸軍の功績とされ、最悪の人体実験部隊とされた日本陸軍防疫731部隊の創設となって行った。
そして日本陸軍防疫731部隊は凶悪な人体実験を執行し暴れまわったのです。
それは完全な「黒ミサの儀式」でした。
現在の国立千葉大学医学部及び医学部附属病院とは千葉県成田市芝山町出身の石井四郎の星(凶兆)を継いだ存在である。
何故ならば今でも国立千葉大学は人体実験を強硬に行っているからです。
千葉大学では「医師の人権」を強硬に主張しながら「患者の人権」を大冒涜して人体実験に利用している。
千葉大学の医師は患者を「丸太」と呼んでいました。
私は千葉大学の人体実験不正の被害者本人なのでよく知っています。
一方で日本海軍の数々の歴史的勝利とは科学的思考から来ていた。
そして終戦時の日本海軍の大敗北とは統帥権を持った日本陸軍のカルト思考から宣戦布告された無謀な太平洋戦争に於ける悲劇でしかなかった。
日本陸軍のカルト思考が無理矢理に決行した馬鹿な大戦争により日本海軍の科学的思考は無効化されました。
日本陸軍の玉砕命令に従い日本海軍の精鋭部隊は撃沈されてしまったのです。
このような悲劇(一億玉砕)は「統帥権」を持った日本陸軍が日本海軍へ号令した玉砕命令から為されました。
日本陸軍が持った「統帥権」が「一億玉砕」を命じた故に起こった悲劇だったのです。
小泉純一郎の行政改革も安倍晋三のアベノミクスもカルト思考の産物でありその正体は玉砕命令であった。
バカ犬グループの「神風特攻隊」と言う理由です。
それは「一億玉砕」となるであろう。
こういったカルト思考とはバカ犬(盲目の道案内)の腐れ頭の産物なのです。
では小泉純一郎はこのような悪意の政治主導を何故行ったのだろうか?
それは誰もが素朴に疑問を抱く最重要課題であろう。
それは一文で評して「小泉純一郎とはカルト思考へ堕ちている愚かな三下奴政治家だった。」と言うことです。
それは一言で評して餓鬼道(信用詐欺)でした。
小泉純一郎はクズだった。
若い時よりフサフサしている小泉純一郎の自慢のロマンスグレーはそれを黙示しています。
最近の小泉家側近の発言にライドシェアのウーバーを見習えば日本国は急成長するという発言がありました。
そこに私はバカ犬(盲目の道案内)の腐れ頭を見ました。
彼らは三下奴経済学者です。
それはカルト思考の餓鬼道(信用詐欺)であって「馬鹿の一つ覚え」の見本のような人達です。
その代表格の竹中平蔵はいつまでも「馬鹿の一つ覚え」であり慶応大学という処は「慶応ボーイ&ガール」を持ち上げるカルト思考の巣窟であり餓鬼道(信用詐欺)でしかなかった。
日本に多く存在する名門大学とは三下奴大学と言えるのです。
明治維新の亡霊に過ぎません。
クーデター隠蔽大学なのです。
日本の大学はカルト思考が多いので自分で勉強した市井の学者の方が本物であることが多いのです。
※例を挙げればTBS(東京放送)2代目社長だった鹿倉吉次は慶応大学で学んだ市井の学者と言えるだろう。
現在、自身の禊は済んだと称する小泉純一郎は家族と一緒に悠悠自適なゴルフ三昧の毎日を続けているらしい。
小泉家は「洗礼」を全く受け容れず、「世迷い言」(呪文)を呟くだけで全て罷り通るという奇妙な信念を持っていると見受けられる。
それは小泉家が総選挙に強いからできる「戯言」であるだろう。
彼らは総選挙に勝てば禊感覚を持つことができるからです。
ただ橋下徹弁護士に言わせると総選挙に落選しても禊感覚を持つことができるらしい。
何故なら総選挙に落選したら失政の責任を取ったことになるという奇妙な屁理屈が成立しているからです。
総選挙の結果によって全てが決まる。
日本国政治家は選挙の当確だけが問われ失政は一切問われない。
日本国政治家は総選挙に落選すれば全て終わりだと感じるらしい。
だから政治生命は総選挙の落選によって絶たれ失政の責任も果たしたとされている。
日本国国会議員は総選挙に勝っても総選挙に負けてもどちらに転んでも禊感覚を持つことができるらしいのです。
しかしそういった政治生命は日本国政治家という特権階級の生活水準の維持に関することであって、政治責任(失政)は一切問われていない。
日本国政治家の政治生命は特権階級の生活水準の維持でしかないらしい!
小泉家の悠悠自適なゴルフ三昧と同じですかね?
このように日本国に於いてかなり奇妙な政治状況が生まれている。
この人達には失政という概念が存在していないようなのです。
全く持って日本国政治家は無責任そのものですね!
しかしこのような「世迷い言」(呪文)とは「バフォメット」(倒錯)を崇拝する事でしかなかったわけです。
そしてこのような「世迷い言」(呪文)とはカトリックロゴス感覚を「バフォメット」(倒錯)することで強大な力を得ることができます。
「世迷い言」(呪文)は「情勢論」を高らかに持ち上げアジテートしていくデマゴーグコメンテーターの強大な力の源泉となっているのです。
それは有名な「小泉劇場」でした。
このような「倒錯劇場」は「非現実的な理想化」を可能とする「異次元空間」だった。
しかしこのような「非現実的な理想化」は「黒ミサの儀式」でした。
「黒ミサの儀式」は「異次元空間」ではなく「バフォメット空間」(倒錯空間)だったわけです。
三谷幸喜や是枝裕和、村上春樹、髙橋源一郎、吉本ばなな、綿矢りさ、吉本芸人etc、そして多くの日本的お笑い芸人も含めて彼らは「倒錯劇場」であり「黒ミサの儀式」を執行していた。
しかしそれは「悪魔主義」とはなり得ていなかった。
例えば是枝裕和監督がパルム・ドールを受賞した「万引き家族」は悪魔主義を彷彿とさせる悪徳へ堕落した家族を描いている。
しかしここで重要なことは是枝裕和監督作品には『悪魔主義は「神の死んだ」世界における求道精神の逆説的表明である。』とする信仰生活が存在していないことである。
これは悪魔主義(信仰生活)が悪魔信仰であるなら、是枝裕和監督作品が悪魔崇拝であることを示している。
先程も指摘したように「芸術作品の成立」は「三位一体のペルソナの確立」と「三対神徳の建築」を持ってオマージュ(イマーゴ)が齎されることによる。
是枝裕和監督は信仰生活を「バフォメット」(倒錯)して作品を制作していると見做される。
特に「万引き家族」はその傾向が顕著であった。
では何故、是枝裕和監督はフランスのカンヌ映画祭で評価が高いのだろうか?
世界三大マーケットと世界三大映画祭が同時に開催されるのはカンヌ映画祭だけである。
これはカンヌ映画祭が映画祭のための見本市ではなく、見本市のための映画祭と成り果てていることを物語っている。
要は日本国の住人を対象としたマーケティング活動であったのです。
カンヌ映画祭の日本人受賞は日本国のマーケットを付け狙った宣伝活動であったのです。
カンヌ映画祭は日本映画を世界商品化すると称してプロパガンダのアジテートを請け負っていた。
そういう意味でカンヌ映画祭とは芸術信仰から最も遠い存在と言える。
フランス人のイメージは狡猾な商売人ですか?
それともフランス人のイメージは芸術信仰ですか?
日本人の芸能関係者でも芸術信仰と称してフランスに在住する有名人(辻仁成、雨宮塔子、杏)が多くいます。
画家の藤田嗣治はとても有名です。
果たして藤田嗣治は「三位一体のペルソナの確立」と「三対神徳の建築」を信仰生活から受肉したでしょうか?
私には藤田嗣治とは唯のフランス人被れに見えますね。
特に現在の辻仁成は酷いですね!
このように日本サブカルチャーとは文化として成立していない存在でした。
日本サブカルチャーは完全な擬い物だったのです。
そういう意味で聖宮崎駿は日本サブカルチャーではなくカルチャーとして成立していました。
聖宮崎駿監督作品のアメリカのアカデミー賞の受賞は大きな意味を持っていました。
聖宮崎駿が受賞した事実が黙示録(revelation)となっていたからです。
アメリカのアカデミー賞はフランスのカンヌ映画祭と違ってマーケティング重視ではなく黙示録(revelation)を重視していました。
黙示録(revelation)によって聖宮崎駿作品はカルチャーとしてのアニメ芸術の成立とされました。
アメリカのアカデミー賞の受賞は聖宮崎駿の三位一体のペルソナを証したのです。
しかしそれが日本サブカルチャーをカルチャーとする理由とはなりません。
何故なら聖宮崎駿個人は芸術家の三位一体のペルソナを形成しオマージュ(イマーゴ)を勝ち得ました。
しかしそれは日本サブカルチャーというジャンルが世界から認められたことを意味してはいなかった。
聖宮崎駿は「唯一性のペルソナの確立」であって日本サブカルチャーのフラッグシップではなかった。
だから聖宮崎駿が世界から評価されたとしても日本サブカルチャーというジャンルが世界から評価されたことには決してならない。
それはジブリも同様です。
そして宮崎吾朗も同様です。
父親が芸術家として三位一体のペルソナを確立しオマージュ(イマーゴ)を勝ち得たとしても息子が同様な評価を得られる理由はありません。
宮崎吾朗はダビデに対するソロモンです。
信仰生活から齎される『神の才能』が遺伝するわけがなかったのです。
遺伝とは『人の才能』です。
『人の才能』とは信仰生活ではなく特権階級の生活水準から齎されます。
『人の才能』とは「ピアノレッスン」のようなものです。
「ジブリ」と「聖宮崎駿」も全くの別物だったのです。
しかし現在の日本論壇に於いて聖宮崎駿の活躍が日本サブカルチャーの価値を証明しているとして勘違いする日本サブカルチャー論が多くあります。
そういった日本論壇のあり方はまさにバカ犬(盲目の道案内)であるでしょう。
バカ犬(盲目の道案内)は自分自身で唯一性のペルソナを確立できていないのに自分を芸術家だと気取る「阿呆」のことです。
押井守や庵野秀明はアニメオタクですが芸術家では絶対にありません。
何故なら彼らは唯一性のペルソナを確立できていないからです。
この両名はカトリックロゴス感覚を「バフォメット」(倒錯)する作品を制作していました。
押井守に関して指摘すると名作「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」とは高橋留美子が持ったカトリックロゴス感覚に対する「倒錯劇場」であり、他の名作も脚本担当だった伊藤和典が持ったカトリックロゴス感覚に対する「倒錯劇場」でした。
庵野秀明はこのような「倒錯劇場」を「オタク芸術」だと再定義した。
「黒ミサの儀式」を日本的サブカルチャーに於ける「オタク芸術の成立」と見做したのです。
これはサタン芸術の全肯定を意味しています。
このような「最高悪芸術の成立」とは末法思想(終末論)を示しています。
末法思想(終末論)はサタンの支配空間です。
それはバカ犬(盲目の道案内)の支配空間を意味しています。
サタンの支配空間に於いて「三位一体のペルソナの不成立」が為されていきます。
その意味とは「三対神徳による建築の不成立」を示しているのです。
これはアニメ・ディストピアです。
「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」の不成立は「芸術」の不成立を示しているのです。
アニメオタクはアニメが芸術ならアニメ作家を全て芸術家だと見做してしまうのです。
だから聖宮崎駿がアニメ芸術として評価されたからには自分達も芸術家だと主張する。
そのような「芸術ジャンル」と「三位一体のペルソナの確立による芸術の成立」を理解できないという劣等性が押井守と庵野秀明には顕著となっています。
ここで言えることは「三位一体のペルソナの確立による芸術の成立」こそが「芸術ジャンル」であるという認識なのです。
又は「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」が「芸術ジャンル」であるという認識なのです。
それは信仰生活から齎される『神の才能』を示しています。
そして『神の才能』とは「神の王国の住人」の証なのです。
聖宮崎駿はアメリカのアカデミー賞を受賞することで「神の王国の市民権」を得たのです。
それがアニメ・ユートピアです。
しかし押井守や庵野秀明にはアニメ・ユートピアが理解できず安易な認識を誇らしげに示しめしていくのです。
そのような安易な認識がバカ犬(盲目の道案内)の支配空間でありアニメ・ディストピアとなっているのです。
この婚礼(カトリックミサ)は欲望の汚がれにみちているぞ!(黒ミサの儀式)
「禿頭のウェヌス」(ウェヌス・カルワ)は自然林(信仰生活・カトリックロゴス感覚)である。
※禿頭とはイエス・キリストが示した「真実の食べ物」「真実の飲み物」であり「誠実と真実」のことである。
※それは「知識の廃棄」から受肉するカトリックロゴス感覚である。
※この在り方は「フロイトのユーモア」と言います。
ロマンスグレーとは人工林(無理の超越・餓鬼道・信用詐欺)である。
※カトリックロゴス感覚ではあり得ない在り方を「無理を超越する。」と称することで「屁理屈」を弄し正当化することを言う。
※カトリックロゴス感覚を信仰弾圧する「屁理屈」を弄していくことを餓鬼道(信用詐欺)と言う。
※「屁理屈」の正体とはカトリックロゴス感覚を倒錯対象とした「バフォメットの呪術崇拝」であり「バフォメットの偶像崇拝」を示している。
こういったロマンスグレーはバカ犬らしい所業なのです。
その解答を端的に指摘するとしたら政治的奇跡(政治的最高善)のあり方に見出すことができる。
神秘の頭髪は政治的奇跡(政治的最高善)を意味していますが偽物です。
カトリックロゴス信仰を倒錯対象として神秘主義が立てられます。
東洋神秘主義哲学などはカトリックロゴス感覚の倒錯によく使われる常套手段です。
特に極東の日本国は神秘主義のメッカとされています。
それが「オリエントの異教」です。
日本国はカトリックロゴス感覚の総封じに利用された訳です。
イマヌエル・カントによると政治的奇跡(政治的最高善)は永遠平和を示しています。
それは最高善の神への恭順を誓ったカトリックロゴス信仰を示している。
神秘の頭髪はカトリックロゴス信仰を信仰弾圧した餓鬼道(信用詐欺)なのです。
坂本龍一教授の神秘の頭髪も同様にロマンスグレーでした。
そして坂本龍一教授の神秘の頭髪も若い頃よりフサフサしていました。
羨ましい限りです。(トホホ)
そういった意味で小泉純一郎の悪意の行政改革は政治的奇跡(政治的最高善)を攻撃するサタニズムの「黒ミサの儀式」であった。
それは「カトリックロゴス感覚」を信仰する科学的思考を軽んじ「馬鹿の一つ覚え」と言うカルト思考を重んじた「一向宗」と同様であった。
「一億玉砕」であったのです。
バカ犬(盲目の道案内)にしかできません。
こういったバカ犬(盲目の道案内)の所業とは政治的奇跡(政治的最高善)を騙った餓鬼道(信用詐欺)でした。
牧羊犬(善き羊飼い)とバカ犬(盲目の道案内)
牧羊犬(善き羊飼い)は神に恭順し、バカ犬(盲目の道案内)は人(ペルソナ)を見れば侮辱していく。
安倍晋三が朝鮮人をヘイトスピーチで侮辱していたことは有名な歴史的事実でした。
牧羊犬(善き羊飼い)は神の意に従うエルサレム(ダビデ)であり、カトリック信仰者でした。
安倍晋太郎が毎日新聞の記者だったことはその証しと言えます。
一方でバカ犬(盲目の道案内)は「海の民」であり、ペリシテ人(ゴリアテ)であり、パレスチナ人でした。
それは安倍晋三でした。
岩波書店「マタイによる福音書」より
天の私の父が植えられたのではない植物はすべて、根こそぎにされるであろう。
バカ犬(盲目の道案内)とはナチス・ドイツ成立の過程と一致している。
マルティン・ハイデッガーやカール・ヤスパース、そしてハンナ・アーレントは政治的奇跡(政治的最高善)を信仰したドイツ・カトリックロゴス感覚であった。
一方でアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスのナチス・ドイツ成立はドイツ・カトリックロゴス感覚を倒錯対象としたサタニズムの「黒ミサの儀式」であった。
そういった意味で小泉純一郎政権とその後に小泉純一郎から後継指名され成立した安倍晋三政権はアドルフ・ヒットラーとヨーゼフ・ゲッベルスのナチス・ドイツ成立と同様であった。
現在の日本国の最悪状態を招いた最大の理由とはナチス・ジャパンの成立と言っていいだろう。
そして小泉家や安倍家(岸家)の日本国政治家一族は選挙基盤をもった総選挙エリートであり当確は鉄板に近いであろう。
少なくとも小泉家や安倍家(岸家)は総選挙に於いて恵まれた総選挙エリートであるのです。
どんな失政をしても禊感覚の総選挙によって清浄とされ爽やかで晴れやかなスイート☆セクシー☆スマイルを日本国民に披露していく。
ただ私には天皇家と比較して小泉家や安倍家(岸家)は不浄な存在に思える。
天皇家の禊感覚は信仰を持って為される。
それは神聖な禊感覚のあり方です。
一方で小泉家や安倍家(岸家)の禊感覚は総選挙の当確でなされる。
ただ総選挙エリートの小泉家や安倍家(岸家)にとって当確のハードルは余りに低いことは明確である。
ここに見られるように日本国政治家の禊感覚のハードルは低すぎると言える。
これでは無責任な政治活動が罷り通り失政に次ぐ失政をしても禊感覚の総選挙によって清浄とされ爽やかで晴れやかなスイート☆セクシー☆スマイルを日本国民に披露していく。
ただこのようなハードルの低い禊感覚は禊教への冒涜と言えるだろう。
小泉家や安倍家(岸家)のような政治一家はいくら失政してもハードルの低い禊感覚で全てが清浄とされる。
そして彼らの選挙地盤は安泰であるからこの失政状態も彼らの傲慢状態も未来永劫となるであろう。
まるで長嶋茂雄の名言「我が禊感覚は永遠に不滅です!」と同じであるだろう。
日本の俳優でも「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)と餓鬼道(信用詐欺)に大別されます。
当然、本物は「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)であり偽物は餓鬼道(信用詐欺)であった。
色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)の俳優一家
柄本家の演技は不浄であり禊信仰を冒涜している。
柄本家は「海の民」でありペリシテ人でありパレスチナ人であった。
彼らは神を嘲笑するゴリアテであった。
一言で評して「印象操作」であって「演技」はしていない。
彼らは演劇という文化芸術が分かっていない。
だから彼らには『志村けんのだいじょうぶだぁ』や『志村けんのバカ殿様』などの低俗ショーがお似合いなのです。
※安藤サクラの是枝裕和監督「万引き家族」における濡れ場はかなり穢い演技だった。
バカ犬(盲目の道案内)たちです。
ただこれらの禊感覚は「馬鹿の一つ覚え」と同じである。
彼らは穢を全く祓わない状態でも「馬鹿の一つ覚え」で禊感覚を主張する。
それはまるで「一向宗」である。
「一向宗」は「馬鹿の一つ覚え」でありました。
日本文化が「馬鹿の一つ覚え」であるなら世界的に最も劣等であると見做されてしまう。
しかし先程も指摘しましたが天皇家の禊感覚は信仰を持って為される。
日本文化の高尚さは天皇家の文化信仰にあったと言えます。
それは「カトリックロゴス感覚」です。
「馬鹿の一つ覚え」は「ナチュラル感覚」と呼ばれますが「ドクサ」でしかありません。
日本文化は天皇家の「カトリックロゴス感覚」によって成立していたのです。
小泉家や安倍家(岸家)は日本国民を救済する意思は全く無く特権階級の日本国エリート一族と云うわけです。
ただ余りにも彼らは教養のないバカ犬(盲目の道案内)の一族であるでしょう。
小泉進次郎の「セクシー発言」はそれを象徴している。
小泉進次郎は色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)であり愛国信仰は微塵もないのは明白です。
小泉家や安倍家(岸家)の政治思想を敢えて指摘するとしたら「日本国民生活は色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)である。日本国民皆暴走族だ!」と言うことになるであろう。
「日本国民生活は色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)である。日本国民皆暴走族だ!」
小泉家や安倍家(岸家)の政治スローガンは「日本国民生活は色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)である。日本国民皆暴走族だ!」と端的に示すことができる。
それは名作漫画「湘南爆走族」に描かれた色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)なのです。
暴走族は色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)の鏡です。
「苦しい」を至上命令とした色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)の日本国民生活の賛美なのです。
現代のヒーローと言えばお笑い芸人(コメディアン)の方々です。
ただ昨今の松本人志事件を鑑みるとヒーローとは何だろうかと考えさせられます。
私はお笑い芸人とは「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)であると考えています。
それは悲劇役者や喜劇役者と同様です。
ギリシャ悲劇やウィリアム・シェイクスピアの戯曲が信仰対象とされ「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)が成立します。
そして「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)にはキリスト教カトリック信徒と同様の「苦行」(修行)が存在します。
しかし松本人志は「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)の「苦行」(修行)を「苦しみ」と見做すことで「餓鬼道」の「苦しみ」へ堕落したのです。
そして松本人志は「餓鬼道」の「苦しみ」を「苦行」(修行)とする「芸の道」を主張しました。
その「芸の道」に於いては「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)が冒涜され、そうやって友人(他者を愛する)を嘲笑する「他者から愛される欲望崇拝」(人に愛される欲望崇拝)が高評価されていく。
そのようにして「他者から愛される欲望崇拝」(人に愛される欲望崇拝)によって人を誑していく「芸の道」が芸能人の才能(タレント)とされていった。
しかしそういった「他者から愛される欲望崇拝」(人に愛される欲望崇拝)の正体とは色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)でしかなかった。
それは俗悪と言えるものであった。
俗悪には「他者を愛する」がなかった。
「他者から愛される」には「他者を愛する」が存在していない。
「他者を愛する」の欠落とは才能の欠落を意味している。
俗悪の欲望崇拝とは「他者から愛される」を強烈に主張するとんねるずをメインとした「野猿」と言う音楽グループと同じでした。
彼らには才能の欠片もなかった。
一方で「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)とは友人(他者を愛する)を大切にすることであり俗善と言えるものであった。
俗善には「他者を愛する」があったのです。
「他者を愛する」を持った存在とは才能を意味していた。
俗善の純愛信仰とは「他者を愛する」を持った友人を示し、萩尾望都の名作少女漫画「トーマの心臓」のテーマと通じていました。
「他者を愛する」をテーマとしたこの作品は才能の証とされたのです。
TBS(東京放送)のオピニオンリーダーだった今道潤三は「俗であれ!ただし悪ではならぬ!」と言っています。
これは俗悪の「他者から愛される欲望崇拝」(人に愛される欲望崇拝)を批判し、俗善の「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を大切にした言葉である。
今道潤三にとって足立正も鹿倉吉次も友人(他者を愛する)であったのだろう。
それはカトリックロゴス信仰を示しています。
ただこのように松本人志の俗悪とは「餓鬼道」の「苦しみ」を「苦行」(修行)だと悪戯に言い立てることで「餓鬼道」の「貪欲」により生きていくことを全肯定し讃美するあり方だと認識されるだろう。
まさにそれは「ガキ使」の「他者から愛される欲望崇拝」(人に愛される欲望崇拝)であり、それは色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)でありました。
今回の松本人志事件で仮に松本人志の無罪が確定したとしても「餓鬼道はもう辞めろ!」と芸能界は松本人志に引退勧告を表明すべきですね。
高須美容外科クリニックの方々は松本人志を救済者(メシア)と見做し讃えている。
これは『「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を「苦しさ」として排斥し、餓鬼道を苦行(修行)として賛美する。』を示している。
信仰弾圧なのです。
拘れば切りのない美容整形とは餓鬼道の「苦しさ」そのものだからです。
それを「苦行」(修行)と見做すことで悪戯に美容整形をアジテートする宣伝行為に私は高須美容外科クリニックの悪意しか感じませんね。
本来は「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)の「苦行」(修行)こそが賛美されるべき存在なのです。
拘れば切りのない美容整形とは「餓鬼道」の「苦しさ」を「苦行」(修行)とした「トートロジーと循環論証のパラドックス」を司るコンフィデンスマンでしかありません。
彼らは「詐欺師」でしかないのです。
小泉家や安倍家(岸家)も同様に餓鬼道(信用詐欺)を「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)とする。
それはまさに餓鬼道(信用詐欺)の暴走族である。
暴走族は真夜中に大暴走して安眠を妨害し「苦しみ」を人々に与えることを至上命令としている。
暴走族とは真夜中に大暴走し人々の安眠を妨害することで「苦しみ」を与える。
そして暴走族とはそういった餓鬼道(信用詐欺)を得意になって行うバカ犬(盲目の道案内)の象徴と言えるだろう。
まさに餓鬼道(信用詐欺)は暴走一族なのです。
セクシー湘南爆走族!
ダウンタウンの松本人志は苦しそうに無理に笑います。
彼は「苦しみ」を言い立てながら「貪欲」に生きて来たのです。
そうやって色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)の日本国民生活を賛美しているのです。
色欲で人を誑す餓鬼はもう堕ち切った存在です。
だから色欲で人を誑す餓鬼は何をしても何をやられても平気な存在でしょう。
容赦しなくて良いのです。
「魔女狩り」です。
まさにダウンタウンの松本人志は小泉家や安倍家(岸家)と同じですね。
ダウンタウンの松本人志とは屠殺されてしかるべきバカ犬(盲目の道案内)の見本のような男なのです。
サザンオールスターズ「チャコの海岸物語」は色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)の日本国民生活の賛美でなく「信仰生活賛美」と言えるだろう。
サザンオールスターズ「チャコの海岸物語」は「純愛信仰」であり「愛国信仰」であるのです。
色欲で人を誑す餓鬼道(信用詐欺)は日本国民をそして世界人民を苦しめるだけの最悪な政治思想なのです。
何故ならサタニズムの「黒ミサの儀式」だからです。
心配症の餓鬼道(信用詐欺)とは全国瞬時警報システム(Jアラート)をとても心配しますが失政(小泉行政改革、アベノミクス)は全く心配しないのです。
そこに愛国主義は微塵もありません。
バカ犬(盲目の道案内)らしい行いである。
バカ犬(盲目の道案内)にとって失政とは「恋は盲目」であるらしい。
しかしそれは愛国者というより売国奴を意味している。
頭のいい犬とは牧羊犬(善き羊飼い)であり天皇家同様に禊感覚を信仰としている。
それは「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)です。
愛子さまは「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を重んじられ次期天皇に相応しい。
愛子さまは「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を重んじられている。
これは「信仰生活」へ齎されるべき「王権神授説」のあり方を示しているだろう。
愛子さまこそが「王権神授説」により次期天皇へ即位されるべきであると私は考えている。
令和天皇御一家は「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を重んじられ愛子さまも学習院大学を卒業した後に「赤十字」へ就職された。
蜷川新の赤十字
一方で秋篠宮家御一家は「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を軽んぜられているように感じる。
秋篠宮家の子女は「国際基督教大学」で自由を謳歌されたご様子です。
しかしそのような「国際基督教大学」の学生生活とは「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)というより「餓鬼道」(信用詐欺)を象徴するスーパーフリー思想と言える。
「国際基督教大学」は大学名から推察してキリスト教の「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を想起させるがそれは「有名無実」であった。
眞子さまや佳子さまを見ればそれは明白であるだろう。
秋篠宮家が「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を軽んじた「餓鬼道」(信用詐欺)の皇室となっていることは明白である。
バカ犬(盲目の道案内)の皇室となってしまった。
特に長女の眞子さまのご結婚相手は私には超胡散臭い男に見える。
次女の佳子さま(秋篠宮家)の「自由」を重んじる発言も「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を明らかに軽んじている。
佳子さまのアイドルタレント並みの振る舞いが話題となっているが私には「勘違いギャル」に見える。
バカ犬(盲目の道案内)と言えるだろう。
秋篠宮家は「餓鬼道」(信用詐欺)に堕ちた皇室と言える。
平成天皇の三兄妹は長男の令和天皇陛下と長女の黒田清子様は「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を重んじられているが次男の秋篠宮様はどうも「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を軽んぜられているご様子で「餓鬼道」(信用詐欺)に堕ちた皇室となってしまったようです。
私は以前拝見したこの三兄妹の写真に不穏を感じたことを覚えている。
その写真には毅然とした長男が写っていましたが一方で長女に嫌らしくスキンシップしている次男の姿があったのです。
私は次男の秋篠宮が長女の黒田清子様の「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を冒涜しているように感じていました。
皇室の「信仰生活」(神から愛される純愛信仰)を冒涜しているのは次男坊だったのです。
そういったご様子を見ていると私は秋篠宮家から次期天皇が輩出されることに大いなる不安を感じているのです。
バカ犬天皇(盲目の道案内)の即位は日本国民を不幸にする凶兆であるからです。
私はそういった理由で「愛子天皇即位」を切望している。
何故なら「愛子天皇即位」に吉兆を感じるからです。
次回の総選挙がいつあるか知りませんが失政の禊感覚を立てる儀式となることは明白です。
このようなうんざりする儀式はサタニズムの「黒ミサの儀式」と言えるでしょう。
「オリエントの異教」であるのです。
聖徳太子が書いた「日出ずる処の天子」が「オリエントの異教」であるのなら「日没する処の天子」が指した「中国」とはいい意味だったのです。
最後に
日本国の総選挙は「ヴァルプルギスの夜」であり、キリスト教カトリックの祭り「ハロウィン」とは全く違うのです。
※「ハロウィン」はカトリックに下った異教の象徴であり、プロテスタントは「ハロウィン」を異教徒の祭りとして排斥している。
筆者紹介
私は本名を大石宗磨と言います。
宗磨は父親の早稲田大学文学部東洋哲学科で同級生だった友人(他者を愛する)が名付け親となってくれました。
そのゴッドファーザーは格闘家の武蔵の父親の弟に当たり吉田茂のブレインだった政治哲学者・法学者・外交官・大学教授の蜷川新の孫に当たる人でした。
蜷川新の娘が嫁いだ先が森家であったのです。
そして私は名古屋から千葉県船橋市に引っ越してきて中学生の時に森家に呼ばれたそうです。
私はそのことをよく覚えていますがゴッドファーザーにこちらの方からご挨拶に伺ったとばかり思っていました。
その時に森の小父さんは気分良く酔っ払って私に「木刀をやる。」と言い出しました。
私は柔道の経験はありましたが剣道の経験はなかったのでどうしようかと思いましたが気分良くされているゴッドファーザーの好意を甘んじて受け入れました。
その日は木刀を持って帰路に立ちました。
しかしその後にその木刀を私に譲ったことに対し批判が起こったのです。
森の小父さんの子息が実はその木刀をたいへん欲しがっていたという話が持ち上がってどうも困った状況になってしまいました。
僕は気持ちよく持って帰ったのですがその後に何だか変な話になってしまったのです。
この木刀にそんな意味があるとは知りませんでした。
そして確かその二年後辺りに森の小父さんから「その木刀を使っていないのなら返却してくれるだろうか?」と言われました。
私としては木刀を使用する機会がなかったのでその木刀の返却を気持ちよく了解しました。
父親が会社に行くときに持っていきました。
多分、東京で父親は森の小父さんと会ってその木刀を返却したらしいです。
最近入院中の父親からその時のことを話しました。
父親は蜷川新の娘であったゴッドファーザーの母親が私達を招待したのだと告白しました。
父親はその友人(他者を愛する)の母親であった蜷川新の娘をよく知っていたそうです。
早稲田大学在学中の夏休みに父親は大磯の3000坪もある蜷川新の大邸宅に森の小父さんに連れられて遊びに行ったそうです。
そこに蜷川新の娘がいたらしいです。
森の小父さんの母親であるから当然かも知れません。
その蜷川新の大邸宅には敷地内に川が流れていて父は森の小父さんと鰻を大量に釣ったそうです。
私はその釣った鰻はどうしたのかと尋ねましたが父親は食べていないと答えました。
父親は「多分、池に放したのではないだろうか?」と私の問に答えました。
そしてその蜷川新の大邸宅は吉田茂の6000坪の大邸宅の隣に位置していたそうです。
蜷川新は吉田茂のブレインであったのです。
だから隣に住まわせていたのでしょう。
又は逆かもしれません。
蜷川新の隣に吉田茂が引っ越してきたのかもしれません。
それは蜷川新が吉田茂の先生であったことを示しています。
これが私の名前の由来です。
吉田茂もその孫の麻生太郎もキリスト教カトリック信徒です。
麻生太郎のトレードマークのハットは神への恭順を示しているのです。
【三対神徳】
ほかに神学者たちは「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」 と各役割を説明する。
麻生太郎のハットは『Cárdinal’s Hát』でした。
この実話を聴いたことで私は麻生太郎に対して親近感を覚えるようになりました。
完