聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」 第1回〈テーマの考察〉
【カトリック芸術信仰】
イマヌエル・カント「純粋理性批判(第二版序文)」による「愛の証し」となった聖愛物語(ラブストーリー)
副題 「磯川警部」がキーマンだった
殉教者(確信性の確保)による「愛の証し」
聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」は殉教者(確信性の確保)がテーマとなっている。
実際「悪魔の手毬唄」とはたいへんな人気作品であったことから「映画」や「テレビドラマ」が多数制作されご存じの方も多くいらっしゃるでしょう。
ただ「聖横溝正史原作」に対して忠実に制作された映像作品がある反面「聖横溝正史原作」を解釈により脚色し改変する映像作品も多く存在します。
それは何故だろうか?
本来「聖横溝正史原作」へオマージュ(イマーゴ)を持つなら原作に忠実にあるべきです。
しかし一概にそうとは言えない理由が聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」にあるのです。
そこが聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」の最大のミステリーなのです。
その理由を端的に指摘すれば聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」とは「知識の廃棄」を至上とした殉教者(確信性の確保)を主人公としている。
殉教者(確信性の確保)とはイマーゴ(神の似姿)を信仰したあり方です。
これは「倒錯を悔い改めること」と「倒錯を禁忌とすること」によって「真実と誠実」を持って生きていくことを示している。
それが「永遠の命」を持つことである。
そして「愛の証し」も同様に「真実と誠実」を持って「永遠の命」を持つことができるのです。
ある意味で「探偵小説」とは「真実と誠実」がテーマとなっています。
何故ならば「探偵」が「詐欺師」なら「探偵小説」は絶対に成立しないと言えるからです。
毎日放送制作「悪魔の手毬唄」とは毎日新聞系の誠実さを証明している
私が観た映像作品の中で毎日放送制作「悪魔の手毬唄」は原作に近い筋書であるいう印象を持ちました。
しかしそれは聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」を読んだ後に感じる「錯覚」を利用した殉教者(確信性の確保)の演出であった。
この「錯覚」とは「知識の廃棄」を至上とした殉教者(確信性の確保)によっていた。
これはかなり高度な演出でした。
よって私は敢えて毎日放送制作「悪魔の手毬唄」を「参考資料の筆頭」に挙げたいと思います。
聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」と毎日放送制作「悪魔の手毬唄」、毎日放送制作「獄門島」を視聴してみると興味深い事実が浮かび上がって来るのです。
毎日放送制作「悪魔の手毬唄」は聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」にある意味で「忠実」でありながら、映像作品としては大幅に改変されている。
それはたいへん不思議なことだろう。
それは聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」の「作品意図」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を禁じながら、一方で「忠実」に「映像化」をしなかった事によっている。
要は「作品意図」には「忠実」でありながら、「映像化」では「忠実」になっていなかった。
これは聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」を読んでみなければ真実は理解できないというありきたりな結論を生む。
ただこの「探偵小説」にある「知的トリック」がイマヌエル・カント「純粋理性批判(第二版序文)」にあったことが事件だった。
それは殉教者(確信性の確保)による「愛の証し」を巡った事件であって「高度な精神的姿勢ユーモア」を持つことを示している。
ただ何故このような猟奇的殺人事件に「高度な精神的姿勢ユーモア」があるのだろうと多くの読者は眉を顰められるかもしれません。
それはこの事件が自己同一性によった「真実の愛の証し」を描いていたからです。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)なら自己同一性による「愛の証し」は不可能です。
何故ならばコンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「自己は他者であり、他者は自己である」といった「自己同一性の倒錯」を支配しているからです。
これでは自己同一性による他者に対する「愛の証し」は不可能です。
この猟奇的殺人事件は自己同一性による「愛の証し」だった。
それは「高度な精神的姿勢ユーモア」を示しているのです。
テーマの謎解き
疑問点
ではこの「探偵小説」の謎解きを開始したいと思います。
毎日放送制作「悪魔の手毬唄」には聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」に於いて実際は最重要の存在である筈の「磯川警部」が登場していなかった。
一方で毎日放送制作「獄門島」には聖横溝正史原作「獄門島」の通り「磯川警部」が登場している。
当然聖横溝正史原作をお読みの方が居れば毎日放送制作「悪魔の手毬唄」に「磯川警部」は登場していなければ可怪しいと感じる筈です。
又、この二つの「見立て殺人事件」のテーマは「愛」であった。
「獄門島」は「偶像崇拝と呪術崇拝」の「子」を「愛の証し」とした
聖横溝正史原作「獄門島」に於いて「皆殺し」にあっていくのは「下賤の旅役者の女」と「その子々孫々」であった。
そして「その夫となる男」とは「下賤の旅役者の女」と無理やり引き離されて気違いとなっていく若旦那だった。
ここに於いて少なくとも「男女関係の証し」は明確に存在している。
そこに「男女の愛の証し」があるかどうかは兎も角もこの男女関係は「三人の娘」を儲けることになっていく。
しかし「その若旦那の父親」とその下僕であった「獄門島の重鎮三人」はそういった男女関係に対して批判的であった。
聖横溝正史原作「獄門島」の「殺害動機」はこういった男女関係に於ける人間関係の「痴情の縺れ」と「私怨」であった。
私には「三人の娘」を儲けた男女関係の在り方は「愛の証し」ではなくコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のあり方に見えました。
何故ならなそこには殉教者(確信性の確保)を示すものがなかったからです。
確かに聖横溝正史原作「獄門島」の男女関係も深く愛し合っているように見えないことはなかった。
とても官能的な男女関係は「深く愛し合っている証し」とも言えるだろう。
しかしそういった「描写」は「偶像崇拝と呪術崇拝」であって「愛の証し」としての殉教者(確信性の確保)とは言えなかった。
「偶像崇拝と呪術崇拝」とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を示しているのです。
聖横溝正史原作「獄門島」に於いては男女の肉体関係によって「子作り」が「愛の証し」とされていた。
それは「子」の存在が「偶像崇拝と呪術崇拝」として描かれていた。
又、毎日放送制作「獄門島」では男女の肉体関係を美しく官能的に描かれていた。
それは「偶像崇拝と呪術崇拝」による「男女の愛の表現」でしかなかった。
これらの「映像表現」はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であると言える。
「悪魔の手毬唄」は「神の子」を「愛の証し」とした
その反対に聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」の「磯川警部と青池リカ」にはそのような男女の肉体関係の描写は全くない。
この聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」に於ける「磯川警部と青池リカ」の男女関係には「偶像崇拝と呪術崇拝」が一切ないのです。
それは「神とことば」を示していました。
そしてそれは「偶像崇拝と呪術崇拝」の「子」に対して「神の子」を示していました。
そういった殉教者(確信性の確保)とは「愛の証し」と言えるのです。
「愛の表現」と「愛の証し」は大きく違っている。
「愛の表現」は「偶像崇拝と呪術崇拝」であってコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でした。
それは循環論証を崇拝することを示しています。
「愛の証し」は「神とことば」であって殉教者(確信性の確保)でした。
それは「恵みと真理」(命のパン)を示しています。
毎日放送制作「獄門島」の美しく官能的な男女の肉体関係には殉教者(確信性の確保)を入れる場所は存在しない。
「偶像崇拝と呪術崇拝」だからです。
そこには殉教者(確信性の確保)を完全弾圧するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)が存在する。
それはある意味非常に凡庸な雌雄の肉体関係である。
美人の玄人である遊女に入れあげた若旦那であるだけでした。
ただ毎日放送制作「獄門島」には「磯川警部」がしっかり登場している。
しかし毎日放送制作「悪魔の手毬唄」には聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」と違って「磯川警部」は登場していない。
ここでは別人が別名で茶番劇を演じている。
私はこの二つの作品を錯覚してしまうのです。
何故ならこの毎日放送制作「獄門島」の「磯川警部」が毎日放送制作「悪魔の手毬唄」の「磯川警部」であるという「錯覚」である。
毎日放送制作「悪魔の手毬唄」の「磯川警部」に当たる存在は過剰に野暮ったい。
そしてその違和感が聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」を読む時に殉教者(確信性の確保)へ他者を容易く導く。
「知識の廃棄」の場に入るのは「愛の証し」であることが容易に理解される。
聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」に「磯川警部」が確かに登場していることが明確な違和感となっている。
できのいい筈の毎日放送制作「悪魔の手毬唄」には「磯川警部」が何故か描かれていないことに作品の破綻を装った殉教者(確信性の確保)を視ることができる。
それが「愛の証し」の在り処となっている。
毎日放送制作「悪魔の手毬唄」では「愛の証し」が敢えて消されている。
「日和警部」とは聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」と違っていることを示すメッセージであったのです。
それが毎日新聞系の誠実さでありマス・コミュニケーションです。
若い有名女優の共演が華を添え「夏目雅子のグラマーガール」が話題を集めた作品でもあるらしい。
しかしその裏でその決定的な殉教者(確信性の確保)の在り方が改変されている。
それは殉教者(確信性の確保)が「殺人動機」であることをどうしても隠蔽したいコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の存在が感じられる。
しかし殉教者(確信性の確保)の存在がそれを飽く迄不可能にしている。
そのあり方は「愛の証し」が「最高善の神罰」を引き起こすことで黙示されているからです。
殉教者(確信性の確保)は「知の廃棄」によって受肉する。
そこに受肉する殉教者(確信性の確保)の「愛の証し」は神を証人としている。
それは最も神聖なものであるだろう。
この猟奇的殺人事件は「愛の証し」のために行われた「最高善の神罰」であった。
青池リカの「痴情の死」は殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」のための「殉教」だった。
では青池リカの殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」のための「殉教」とは如何なるものだったのだろう?
青池リカが「殉教」によって「愛の証し」を神へ願った相手とは一体誰だったのだろうか?
それは青池源治郎(恩田幾三)ではないだろう。
何故ならば青池リカは青池源治郎(恩田幾三)と二人の子を儲けている。
これは聖横溝正史原作「獄門島」の男女の肉体関係と同様でのあり方であるだろう。
そして「偶像崇拝と呪術崇拝」としての「子」を示している。
少なくともここに夫婦の契りとしての「男女関係の証し」は完全に公認されている。
しかしそれは凡庸な雌雄の肉体関係であっただろう。
私は青池リカが「殉教」によって「愛の証し」を示すことを願った相手とは「磯川警部」だった考えている。
しかしそのためには殉教者(確信性の確保)の「神の証人」が必要となった。
殉教者(確信性の確保)の「神の証人」とは「神の探偵」として登場する「金田一耕助」であったのです。
「獄門島」では「子作り」が「愛の証し」とされていた。
しかしそれはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でしかないだろう。
一方で聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」は殉教者(確信性の確保)が「男女の愛の証し」だった。
そのためには「神の証人」が必要となる。
「最高善の神罰」を見抜く「神の探偵」が必要だった。
青池リカが青池源治郎(恩田幾三)の子を殺していった理由とは「男女の愛の証し」とは「子作り」ではないという殉教者(確信性の確保)から来ている。
それは「偶像崇拝と呪術崇拝」としての「子」を殺していくことであり「ダビデとゴリアテ」を意味していた。
そして彼女の猟奇的殺人事件は「最高善の神罰」として「男女の愛の証し」を示していたと言えるのです。
それは「神の子」を示していた。
「男女の愛の証し」とは「神の子」を示していた。
詐欺師・恩田幾三と同一人物であった青池源治郎との間の「子作り」とその在り方としたあった人間関係を含む「知識」を全て廃棄することで殉教者(確信性の確保)が黙示される。
そうなった時に青池リカによる「男女の愛の証し」だけがこの猟奇的殺人事件に残ることになる。
それはイマヌエル・カント「純粋理性批判(第二版序文)」に於ける「知識の廃棄」による殉教者(確信性の確保)であった。
それは青池リカが「男女の愛の証し」のために「最高善の神罰」を「殉教」として行ったことを黙示している。
その「男女の愛の証し」とは結局、「神の探偵」であった「金田一耕助」が「磯崎警部」との別れ際に指摘した発言で全て理解されるのです。
「失礼しました。警部さん、あなたはリカを愛していられたのですね。(失礼しました。警部さん、リカはあなたを愛していられたのですね。)」
しかし「青池リカ」と「磯川警部」は実際どの様に出会っていたのかは完全に不明である。
殉教者(確信性の確保)により通じあった「男女の愛の証し」の在り方は彼らにしか知り得ないものだろうと想像される。
「迷宮事件」であった「詐欺師・恩田幾三による青池源治郎殺害事件」からであるだろうか?
それともそれ以前からであるだろうか?
それ以前からであるとすれば「青池リカ」による「青池源治郎(恩田幾三)」の殺害も「磯川警部」に対する「男女の愛の証し」を「犯行動機」としていたのかもしれない。
それも「最高善の神罰」であると言える。
その指摘の根拠はこの事件の「高度な精神的姿勢ユーモア」にある。
この猟奇的殺人事件が「高度な精神的姿勢ユーモア」であるなら自己同一性と見做される。
それは「痴情の縺れ」と「私怨」では決してあり得ないことを示している。
よってこの事件は「男女の愛の証し」のために行われた「最高善の神罰」としての凶行だと想像されるだろう。
「男女の愛の証し」が殺人の動機であるなら「青池源治郎(恩田幾三)の殺害事件」が迷宮入りした理由はそこにあったのだろう。
何故なら犯行動機が殉教者(確信性の確保)の存在証明であり「最高善の神罰」であるなら、この事件を「人の存在」は「犯罪」として裁くことができないからです。
「人には神を裁けないのです。」
(再編集版)
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