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聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」 第3回〈神の手毬唄〉

【カトリック芸術信仰】

friend [frénd]
[中期英語 friend,frend,古期英語 frēond 友,恋人,親族〔もとは frēogan(⇀FREE)の現在分詞;ゴート語 frijōn「愛する」と同語源〕;ドイツ語 Freund と同語源]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」は「永遠の命」となった!

副題 「神の探偵」は「神の証人」となった

序文 (1 1-18)
はじめに、ことばがいた。
ことばは、神のもとにいた。
ことばは、神であった。
この方は、はじめに神のもとにいた。
すべてのことは彼を介して生じた。
彼をさしおいては、なに一つ生じなかった。
彼において生じたことは、命であり、
その光は人々の光であった。
その光は闇の中にあって輝いている。
闇はこの光を阻止できなかったのである。

神のもとから遣わされて、一人の人が登場した。
その名はヨハネ。
この人は証しのため、あの光について証しするために来た。
すべての人が彼を介して信じるようになるために。
この人は光ではなく、あの光について証しするために〔の人であった〕。
〔彼の証ししようとした光が〕本物の光であった。
それは、この世の来て、すべての人を照らしている。

〔その光であることばは〕世にあり、世は彼を介してできたが、世は彼を知るにいたらなかった。
自分に属するもののところに来たが、彼に属する人々は彼を受け入れなかった。
だが、彼の名を信じる人々には、神の子供たちとなる権能を与えた。
彼らは血〔統〕からではなく、肉〔なる人〕の意志からでもなく、人の意志からでもなく、神から生れたのである。

ことばは肉〔なる人〕となって、われわれの間に幕屋を張った。
-われわれは彼の栄光を、父から〔遣わされた〕ひとり子としての栄光を観た-
〔彼は〕恵みと真理に満ちて〔いた〕。

ヨハネは彼について証しし、〔次のように〕言って叫んだのであった。
「私が『自分の後から来ようとしている人は私より優れたものとされている。私より先にいたから』
なぜなら彼の充満の中から、われわれは皆、恵みに代わる恵みまでも受けたからである。
律法はモーゼを介して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを介して来たからである。
神はいまだかつて誰も見たことがない。
父の胸中にいる、ひとり子なる神、この方こそが解きあかした。

岩波書店「ヨハネによる福音書」

Act 1
Thunder and lightning.Enter three Witches
First Witch
When shall we three meet again   
In thunder, lightning, or in rain?
Second Witch
When the hurlyburly's done,
When the battle's lost and won.
Third Witch
That will be ere the set of sun.
First Witch
Where the place?
Second Witch
Upon the heath.
Third Witch
There to meet with Macbeth.
Second Witch
Paddock calls.
Third Witch
Anon.
ALL
Fair is foul, and foul is fair:
Hover through the fog and filthy air.

Exeunt

Macbeth by William Shakespeare

「神の手毬唄」

「猟奇的殺人事件」 は「青池リカ」の殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」として決行された。
「青池リカ」は下賤の身あったと同時に、殺人犯だった故に「磯川警部」と実際に結ばれることは決してなかった。

しかし殉教者(確信性の確保)の「メッセージとコミュニケーション」は「最高善の神罰」を解する「神の探偵」によって「永遠の愛の証し」を可能としました。
結局、「青池リカ」は殉教者(確信性の確保) の「男女の愛の証し」がなかった「青池源治郎」の子々孫々を惨殺していくことによって「永遠の愛の証し」をしたとしか言いようがないだろう。

実際に「青池リカ」とは他者と違って抜きん出て高尚な存在だった。
しかし「青池リカ」は下賤に生まれた女だった。
又は高尚故に下賤に貶された女だった。
彼女は「三位一体のペルソナ」であったからです。

これは「仮説」ですが「青池源治郎と青池リカの夫婦」の第一子であった「歌名雄かなお」は実際に「青池源治郎」の子ではなかったのではないか?

「歌名雄《かなお》」は「青池リカ」が「永遠の愛の証し」を持った相手との間で儲けた「愛の子」だったのではないかといった想像である。
それが「神の子」であったという発想は至極当然であった。

しかし第二子の「里子」は「青池源治郎の子」だったと想像される。
それは「里子」の「痣」である。
「孕み女が火を見て痣ができる」といった迷信は実際に非科学的であった。
しかし「里子」の「痣」が青池リカと「永遠の愛の証し」を持たない相手との間で生れた「穢れた子供(悪魔の子)」の烙印であったなら合点がいくだろう。

「悪魔の子」は「偶像崇拝と呪術崇拝」の「子」であって「神の子」の敵対者だった。

そういったあり方は「青池リカ」に殉教者(確信性の確保) の「男女の愛の証し」を解する高尚さがあるということから推察される。

「横溝正史原作」の意図はそこにあったのではないだろうか?

「猟奇的殺人事件」は「青池源治郎」の子々孫々を「ゴリアテ」として殺していった「最高善の神罰事件」であった。
そしてそこまで「青池リカ」が「愛の証し」に拘った理由とは「磯川警部」のためだったのだろうと推察される。
それは「ダビデ」や「イエス・キリスト」といった殉教者(確信性の確保)のためとも言える。

「青池リカ」の一連の行動は全て殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」に収斂される。
それは「磯川警部」の殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」へ向けられた「純愛信仰」であった。

最後に一言蛇足を付け加えれば「青池リカ」が殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」を向けた「歌名雄かなおの父親」も「磯川警部」であったかもしれない。

どうして其の様になったかは一切書かれていない。

ただそのような蛇足への私の反証も同時に沸き起こってくる。
何故ならばもし「青池リカ」が「磯崎警部」との「純愛信仰」へ「確信性の確保」を持つことができたなら「猟奇的殺人事件」の動機はなかったからである。
「神の子」を「神の番の証しかみのつがいのあかし」とした「青池リカと磯崎警部」の男女関係とは高度な精神的姿勢ユーモアであった。
そのような蛇足こそ無粋であるだろう。

そして「神の子」を「男女の愛の証し」としたことは最も神聖な愛のあり方と言えるだろう。

そこにあるのは殉教者(確信性の確保) の「男女の愛の証し」による「純愛信仰」であった。

このような「最高善の神罰」への強烈な拘りがあり得たのは殉教者(確信性の確保) の「男女の愛の証し」を欲する相手が確実にいたことを物語っている。

そして「磯川警部と金田一耕助の別れ際の名シーン」で「純愛信仰」は唐突に語られた。
その唐突さによって「純愛信仰」の在り処を「神の探偵」が見事に指摘してこの事件は幕を閉じていく。

「金田一耕助」から「警部さん、あなたはリカを愛していられたのですね。 」と指摘された「磯川警部」は「知識の廃棄」によって殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」が入る場所を確保する。

それは「警部さん、リカはあなたを愛していられたのですね。 」という殉教者(確信性の確保)であった。
殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」は「神の探偵」の「金田一耕助」を「神の証人」とすることによって「純愛信仰」として示され、そして「神の証し」とされた。
それが「神の探偵」の「金田一耕助」が担った「神の役目」だったのです。

「青池リカ」は過剰にみっともなく死んだ。
それは「青池リカ」が殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」だけに拘ったことの顕れであった。

毎日放送制作「犬神家の一族」の青沼静馬(偽スケキヨ)の死に様です。
これは横溝正史原作「悪魔の手毬唄」の「青池リカ」の死に様と同じなのです。
「青沼静馬と青池リカ」の死に様は同じであっても生き様は全く違っていた。
殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」のために生きたのは「青池リカ」であった。
「青池リカ」もみっともなく死んだ。
しかし「青池リカ」は「殉教」だった。
それは殉教者(確信性の確保)が抱いた「男女の愛の証し」のためだけに賭けた生き様だった。

何故急に「青池リカ」はここに来て「最高善の神罰」による殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」に拘ったのだろうか?

それは「磯川警部」が差し向けた「金田一耕助」の存在が「神の探偵」であると悟ったことによっている。
「青池リカ」はそこに「黙示録」を見たのかも知れない。
「猟奇的殺人事件」は「神の探偵」が担った「神の証人」の殉教者(確信性の確保)によって「男女の愛の証し」としてなされたのです。

これはある意味で「悪魔の手毬唄」ではなく「神の手毬唄」であったのです。
こういったあり方は反転術式と呼ばれ高度な芸術手法となっている。
この作品は「最高善の神」を愛する「純愛信仰」となって「永遠の命」となる。

これは三対神徳(愛徳と望徳と信徳)を成立させる。

キャリーイエールヴィスコンティ

三対神徳
あいとく【愛徳】
caritas
カトリック神学で三対神徳(信徳,望徳,愛徳)の一つとされるもの。新約聖書のなかにあるギリシア語の agapēの翻訳であるが,カトリック神学の概念としては,神の愛が人間に与えられるのに呼応した,神に対する人間の愛をいう。⇨アウグスチヌスは,愛徳を人間を神へと統合させる徳とし,中世神学者,特に⇨トマス・アクィナスは,愛徳を他のすべての徳の基礎であり根拠であるとした。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

アガペー
agapē
新約聖書(特にコリント人への手紙1,ヨハネ福音書,ヨハネ書簡など)で愛を意味するギリシア語。ラテン語では amorあるいは caritasと訳される。カトリック神学では caritasは信仰 fides,希望 spesと並ぶ基本的な徳の一つであるが(→愛徳),新約聖書のアガペーは,神の愛,キリストの愛,キリスト信者同士の愛のすべてについて用いられる。キリスト信者同士の愛をさすときには,本能的,衝動的愛をも意味するエロス erōsと区別して用いられており,パウロはこれを最大の徳と呼んでいる(コリント人への手紙1)。またアガペーは初期のキリスト信者の親善,博愛のための会食をもいい,これは初め聖餐式と緊密な関連をもっていたが,3世紀頃から次第に分離され,キリスト教典礼とは別の会食となった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

そして「猟奇的殺人事件」は枢要徳(正義と勇気と節制と思慮)によって決行された。

「猟奇的殺人事件」は「七元徳」によって決行された崇高な「最高善の神罰事件」であることが証明された。

この「最高善の神罰事件」は「磯川警部と青池リカ」の殉教者(確信性の確保)の「男女の愛の証し」として行われた。
そしてそれは「永遠の命」となったのです。

横溝正史


(再編集版)

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