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【聖学生信仰】第三回(完)「ペルソナ(聖女)篇」【拓殖大学外国語学部英米語学科】4年間八王子キャンパス1998年4月入学~2002年3月卒業「光陰矢如旅人行不帰時」


第四章 「聖なる学生のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)」

1 英米語学科選択単位クラスで出会ったD組のクラスの女学生

ナウシカ(Holy Communion)のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとロゴス感覚の受肉したコミュニケーションは福音としてある。
ナウシカ(Holy Communion)にはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグは一切ない。
紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)はないのです。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの〈呪術崇拝から形成される象徴(偶像崇拝)〉を禁忌としている。

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージある女学生

この女学生は必修のクラスメイトにはなれなかった人である。
ただそういった必修のクラスメイトになれなかった人は他にも多くいただろう。
私が知り得ないだけで彼女以外にも純愛信仰を持った人はいたかもしれない。
ただ信仰を入れる場所を確保した人に出会えたことは僥倖であった。
私はそう思っている。
彼女は選択単位のクラスや一般教養のクラスがいくつか同じだっただろう。
ただ彼女との間で紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)は全くなかった。
私は人とまともに付き合いたい時に紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)はしたくないのだ。
逆に人と本気で付き合いたい時はイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることで形成されるデマゴーグはない方がいい。
何故ならばそのような崇拝関係はすべて贋作となるだろうからだ。
純愛信仰の人とカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとコミュニケーションの関係を築きたいと思うからだ。
ただそれを女性とする時にはそれが純愛信仰(エロス)の関係となりがちである。
タロットで言えば「THE LOVERS」となるのだ。

ルパン三世 カリオストロの城(スタジオジブリ絵コンテ全集第2期)

不二子
時には味方.
時には敵.
恋人だったこともあったかな

峰不二子(Holy Communion)

宮崎駿の峰不二子(Holy Communion)とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上とした生き様を「ペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)」で表現するキャラクターとなっている。
宮崎駿の峰不二子は信仰心理描写(カトリックロゴス信仰)で形成されているのです。
しかし近年の「ルパン三世シリーズ」の峰不二子は完全にアダルトビデオ女優のように「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)のネオ・ナチズムキャラクターとなっている。
要は近年の新しい峰不二子に宮崎駿作品にある「ペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)」は確立していないのだ。
ただ男女間の崇拝心理描写(特権階級心理)を至上とする売女(黒ミサカルト)でしか無い。
それはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることによる「優劣逆転」のやり取りでしかない。
宮崎駿以外の峰不二子(黒ミサカルト)の存在にはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)は存在していない。
宮崎駿の峰不二子(Holy Communion)は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の聖女であり、近年の新しい峰不二子(黒ミサカルト)は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を完全弾圧し「セックスシンボル」を武器とするだけの売女(黒ミサカルト)である。
ただイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることで「セックスシンボル」としてだけの峰不二子(黒ミサカルト)が描かれているだけなのだ。
しかし宮崎駿の峰不二子(Holy Communion)はイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを嫌悪し禁じて生きる「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「ペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)」として格好よく描かれている。
それが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の聖女である。
宮崎駿の「峰不二子(Holy Communion)」は聖女(ペルソナ)であるのだ。
マグダラのマリアは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の売女(ペルソナ)であったらしい。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の聖なる売女(ペルソナ)がある。
そして「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を堕落させる「イノセントの誘惑」を超人(サタン)とする売女(黒ミサカルト)がある。
そして救済があるのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上とした聖女の売女(ペルソナ)である。
当然に信仰心理描写(カトリックロゴス信仰)を解する純愛信仰(エロス)によってしか救われないのだ。
崇拝心理描写(特権階級心理)を持って生きるものにカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音は訪れない。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とする売女(黒ミサカルト)には救済はないのだ。
宮崎駿の峰不二子(Holy Communion)はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音を発する。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰する存在同士で可能となる聖なる純愛信仰(エロス)の存在であり優れた存在である。
峰不二子(Holy Communion)は銭形警部にもカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によるメッセージとコミュニケーションをしているように見える。
しかしそれはルパンのとは少し違っている。
彼女の福音のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)はルパンの存在へ向けられているのだ。
それはルパンが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在だからだ。
それによってカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションは可能になる。

ルパン三世 カリオストロの城(スタジオジブリ絵コンテ全集第2期)

瀕死のルパンと一緒に一瞬の隙きを逃さず脱出する。

「峰不二子(Holy Communion)」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉したメッセージとコミュニケーションである。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」は「口紅」に象徴されている。
純愛信仰(エロス)である。

ルパン相手なら天下ごめんで出動できるんでしょ

カリオストロ伯爵は時計塔の時計の針に挟まれて死す。

「光と影をむすび時つぐる高き山羊の日に向かいし眼に吾を納めよ。」
「昔から私の家に伝えられている言葉です。」
クラリスは言う。

2 大学生の時の他のクラスの女学生について

宮崎駿の「峰不二子(Holy Communion)」と同じ「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」からメッセージを発する女学生(ペルソナ)がいました。
その人は必修単位のクラスとしての学籍番号順が近くないために同じクラスになれなかったのです。
そういう風にクラス分けを残念に思う人は実際に多いです。
クラス分けは大きな問題ですが作為が入らないように学籍番号順(あいうえお順)で分けられていました。
ただ幾つかの「選択単位クラス」と「一般教養」の講義で同じ「クラス」になることがありました。
その人の言葉が私との間で日本語の紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)になることはなかった。
又、他の言語でも同様であり紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)になることはなかったのです。
しかし彼女は私に向けてあるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージを発していました。
それは好きだとかどうだとかと言う類ではなかったのです。
それは私に向けられてはいたが特に紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)になるようなものではなく、しかしだからといって意味がないものでもなかった。
そしてそこに決定的にあるのがその彼女の言葉がデマゴギーではないという感覚だった。
デマゴギーを言わない人はそれがその他者に対する最大の好意だと言ってもいいだろうと思う。
〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉でもない。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉している。
純愛信仰(エロス)なのだ。
そのようにイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを絶対に拒否することは「純愛信仰(エロス)」を意味している。
それは純愛信仰(エロス)のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションであった。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音であるのです。
私はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)を持ってイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを拒否しているのでインスピレーションが働きデマゴギーが直観で分かる。
だからその様な純愛信仰(エロス)である人を認識する。
相手がイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)を嫌っているのが理解できる。
私はそういう人を内心では最大に評価している。

ナウシカ(Holy Communion)

ナウシカ(Holy Communion)は王蟲の妖精を群れへ返すことで命を懸けたカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によるメッセージのコミュニケーションを試みる。
それはナウシカ(Holy Communion)の出来る精一杯の誠意としてのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によるメッセージであった。

ナウシカが自分にできる精一杯の誠意を示すために王蟲の妖精を王蟲の群に返したシーンである。
ここにはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する「敵対感覚」は存在していない。
ただナウシカは超人(サタン)として王蟲に群れに向かっているのではない。
それはイノセント(黒ミサカルト)により王蟲を止めようとしたのではなかった。
確かに一見王蟲の群れに対して自分一人を犠牲としてその暴走を止めてしまう試みはイノセント(黒ミサカルト)に思える。
しかしこれにはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとコミュニケーションがある!
王蟲の群れは怒りで我を忘れていることによって自分が目標を逸して暴走していることを知らない。
それにより「風の谷」は全滅の危機に瀕している。
ナウシカは王蟲にその真実を伝えることでしかこの王蟲の暴走を止めることができなかったのだ。
これはナウシカ(Holy Communion)によるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であるのだ。
王蟲の群れはナウシカ(Holy Communion)の殉教によるメッセージとコミュニケーションにより攻撃色が消え目の色が青く変わっていくのだ。

風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集〈1〉

ナウシカ(Holy Communion)にできる精一杯の誠意であった。

3 「犯罪学」と「兵法」

デマゴギーの学問崇拝(知の鵜呑み)は犯罪学である。
何故ならば「知(doxa)の廃棄」を弾圧し「知(doxa)の鵜呑み」により人をアンダーコントロールする手法は「最高善の神の王国」における最大の犯罪であるからです。
それは信仰弾圧を示しているからです。
そして大嘘の騙し討は兵法であると言えます。
何故ならば「大嘘」は発覚することが前提であり、「知(大嘘)の鵜呑み」から「知(大嘘)の廃棄」に至ることは必然であるからです。
そしてそこに信仰を入れる場所が確保されれば叡智が受肉することで真理が最高善の神の導きとなります。
それはインテリジェンスのあり方と言えるでしょう。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の黙示が必要であるのはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグの学問崇拝(知の鵜呑み)という「最高善の神の王国」における最大の犯罪です。

※ただ人が大嘘を言って騙してくる時はどうしようもないことでありますが「信用問題」は必然的に発生しその人の信用失墜となることは仕方がありません。

例えばカレーに入っている肉がチキンの肉だと言われて喜んで食べてみたら実は蛇の肉とかワニの肉と後から言われて騙されていたと知らされてもそれはデマゴギーとして認識はできないかもしれません。

「デマゴギー」と「大嘘」の違いとは?

デマゴギーは学問崇拝(知の鵜呑み)としての完全犯罪であり「最高善の神の王国」における最大の犯罪です。
何故ならば信仰弾圧だからです。
一方で大嘘は騙し討ではあるけれど発覚するものでありましょう。
それは完全犯罪でも「最高善の神の王国」における最大の犯罪でもない。
信仰弾圧ではないのです。
デマゴギーは詐欺(信仰弾圧)であり、大嘘は騙し討(信仰)である。
何故ならば信仰弾圧は「知の鵜呑み」であり信仰は「知の廃棄」となるからです。

イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることは〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉である。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)への弾圧によって形成するプライド(複合感情)であるでしょう。
これもカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの違いである。

騙し討はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)である。
しかしデマゴギーは人を堕落させるサタンの誘惑(黒ミサカルト)である。
デマゴギーの詐欺は「最高善の神の王国」の犯罪学であり、大嘘の騙し討は「最高善の神の王国」の兵法である。

ただ騙し討にはその人から同じ手は食わないということはあるだろう。
信用問題から信用失墜があり得るからです。
それは「知の鵜呑み」を廃棄することを容易にします。
「知の廃棄」から信仰を見い出すことは「最高善の神の王国の到来」を示しています。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉であるでしょう。
相手がそのような策士と知ったらそのような相手を警戒し同じ手は食わないように注意し警戒するからです。

しかし特殊詐欺(黒ミサカルト)の完全犯罪はデマゴギーを言い張る傲慢な人間存在によっている。
崇拝関係をあくまで強要する。
何故ならば崇拝関係により絶対命令と絶対服従を形成するからです。

オウム真理教も脱退者を執拗に付け回したと言います。
統一教会も脱退者を執拗に付け回すと言います。
それは街宣車で執拗に付け回すことを示しています。
カルトはストーキングというパワーハラスメントによって可能となるのです。

それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の黙示を受けなければなりません。
飽くまでイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの至上性に拘り抜くことは「最高善の神の王国」の犯罪です。
自分が世界の支配者だと言い張る馬鹿な餓鬼であるでしょう。
そして学問信仰(知の廃棄)を弾圧するたちの悪い学問崇拝(知の鵜呑み)であり傲慢な「バベルの塔」である。
まさに堕天使ルシフェル(堕落者)の群れである。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを撃つにはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の力が必要なのです。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)からありえる叡智とそこからある奇跡だろう。

※傲慢さは「劣等」に対する「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)から来ている。

それは「優等」への弾圧によって形成された劣等者のプライド(複合感情)である。
優等を弾圧し侮辱することで屈辱感を与えそれを劣等感として植え付けるのです。
そしてそれは真の劣等の持つ「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)となる。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉しない真の劣等の存在が「優等」に対する弾圧によって形成するプライド(複合感情)を誇っているのです。
そしてそれが詐欺としての学問崇拝(知の鵜呑み)の正体なのです。

真の劣等はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉しない存在である。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を劣等に貶す社会システムであるのです。
これはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)がアウシュビッツのガス室へ送られることを示している。
しかし「バベルの塔」への「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の黙示という雷がきっと落ちると私は思います。

4 カトリックロゴス感覚(Holy Communion)あるペルソナの純愛信仰(エロス)のメッセージは生涯忘れないだろう。

ただその彼女は私のことが「好き」という感じが特にしているわけではなかった。
「純愛信仰(エロス)」と「好き」というものは違うということなのだろうと思う。
私は実際に他の男女の拓大学生が知り得ないところで誰と交際し生活しているのか把握していなかった。
私にそのような情報は一切入ってこないし知る由もなかった。
だからその彼女も数少ない同じ講義以外の場所で一体誰とどのように交際し生活をしているのか知り得なかった。
例えばD組の必修講義クラスで彼女がいつも誰と一緒にいるのかも知り得ないのだ。
そのようにそれぞれの必修講義クラスはある意味で謎めいた印象があった。
だからそこに印象操作も十分可能だったのだ。
それは他の学生に関しても同じだった。
私は大学に勉強に来ているのであって他の大学生の生活などについては本来どうでも良かった。
ただ気になる女の子についてとかそれぐらいの興味はあった。
気になる女の子はいたという普通の話だったのだ。
知りたくないわけではないがそれを詮索することはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)ではなかった。
相手が私に好意があったらそうあっても良いと思う。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であった。
しかし私は明確に好意を示されるわけでもない。
だから相手の女学生との関係がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であるけれどイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの人間関係であることはなかった。
このカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージをくれる彼女はすごく印象に残った一人である。
ただその女の子が明確に私に何かを示すわけではない。
ただ逆に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の純愛信仰(エロス)と言われるかもしれない。
ただこれは他人の介在しない二人だけの「関係」となるものである。
要は結婚披露宴で公然と夫婦になるのと違って二人だけの純愛信仰(エロス)というものの在り方が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であるのだ。

5 私の大学生活は早稲田スーパーフリー事件と同時期だった。(衝撃!)

※早稲田スーパーフリー事件はネオ・ナチズムと同じ思想である。
その構造は人間の根幹にかかわる問題が絡んでいる。
例えばこの事件の舞台となったエリート大学とされている早稲田大学は何を持ってエリートとされているのかが問われることになる。
早稲田大学の入試における偏差値のレベルの高さがエリートの証明とされている。
しかし大学の歴史の浅い日本国において大学の価値とは何かが理解されていないのが現状である。
大学のイマーゴ(真善美の回復)であり基本形はソクラテスの主張した「無知の知」の知識の在り方から存在する。
又それと同様の意味であるキリスト教カトリック神学はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を見出すことが知識(無知の知)でありそれが学問としての在り方とされている。
世界の大学においてUNIVERSITYにカトリック神学部が必須であるということを佐藤優氏は言っておられた。
それはこの様に「UNIVERSITY」というものは確かにエリートであるがそれはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉する「無知の知」の前提によっているということを示している。

ここで「早稲田スーパーフリー事件」について指摘できることは彼ら早稲田大学の連中が形成すると言われる「スーパーフリー思想」とはそういった「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」から超自由になるという意味なのである。
これは大学のイマーゴ(真善美の回復)の弾圧であり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を完全弾圧して「スーパーフリー」となる堕天使ルシフェル(堕落者)のあり方である。
そしてそれは一見はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を凌いだ存在であるが実際は「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とする崇拝関係」でしかない。
それは程度の低いかなり劣等な存在であるのだ。
その劣等な存在は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の下位にある〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉の段階である。
フロイトに言わせれば一神教に対してある多神教の段階である。
「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすること」による〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉は内面を問わないことで捏造がなされる。
最も基本的なカトリックロゴス感覚(Holy Communion)は〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉と評される。
何故なら「間違い」と判明したことに対し〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉をすることはイマーゴ(真善美の回復)の在り方である。
この様に「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)の学問崇拝(知の鵜呑み)と「優等」のイマーゴ(真善美の回復)は大学存在の在り方である。
「早稲田スーパーフリー」はこのように「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)の学問崇拝(知の鵜呑み)を「優等」のイマーゴ(真善美の回復)から「フーパーフリー」となったとして行った最悪な事件だった。
この関係性は「ユダヤ」と「ネオ・ナチズム」の関係と同じである。
ユダヤのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を凌駕したとしてネオ・ナチズムがあったのだ。
「早稲田スーパーフリー事件」はネオ・ナチズムであるのだ。
ネオ・ナチズムは自らをアーリア(高貴さ)としたがそれと同じで「スーパーフリー」としたのが早稲田のサークルなのだ。
この事件は大学にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が存在しない偽エリートがいることが発端である。
日本のエリート大学のそのエリートの証が高い偏差値とその大学受験合格でしかない。
そこに果たしてカトリックロゴス感覚(Holy Communion)はあるだろうか?

柄谷行人と蓮實重彦

私は以前に柄谷行人と蓮實重彦の対談を読んだ時に東大総長の蓮實重彦はこういった。
彼にとって大学受験はコミュニケーション能力だと言うのです。
大学受験で大学の求める答えを要領よく答えれば良いのだから蓮實重彦にとってはそれがコミュニケーション能力だと言うことらしいのです。
確かにそれは最低限のコミュニケーション能力ではあるだろう。
しかしそれは崇拝の心理学でしかない。
信仰の心理学ではないのです。
その意味するところは「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)のコミュニケーション能力(絶対命令と絶対服従)を示しているに過ぎない。
信仰の心理学は知識(doxa)を廃棄して信仰の場所を確保する。
そして叡智による奇跡を起こすのです。
それは最高善の神の奇跡です。
蓮實重彦の言う崇拝の心理はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーション能力を弾圧するカルト集団と同じです。
そこに「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はありますか?
蓮實重彦さんの指摘するコミュニケーション能力はただ「謎謎の答え」を知っていれば合格だと主張しているに過ぎない。
ネオ・ナチズムのエニグマと同じです。
誰か(例えば予備校教師)に要領よく「謎謎の回答法」を教われば合格できます。
しかしそれがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉したメッセージのコミュニケーション能力だと言えますか?
蓮實重彦さん!
やはりあなたは柄谷行人さんに比べて明らかに劣等です。
何故ならカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を見出していないからです。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を見出さない者は「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)の存在なのです。
文化が解っていない!
文化とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であり〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉による科学的思考です。
そして「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)の学問崇拝(知の鵜呑み)は高等なイマーゴ(真善美の回復)を完全弾圧し「スーパーフリー(ネオ・ナチズム)」となる。
「スーパーフリー(ネオ・ナチズム)」は「日本の独自性」の意味と同じとなります。
それが蓮實重彦などが代表する東京大学です。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)から無関係と主張する「日本の独自性」は多神教の「原始的段階に近い(フロイト)」に値するものです。
それはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とする〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉と同じです。
〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉は人の中身を問うことを禁じそして呪術崇拝で中身を捏造することで呪術支配を行います。
それはアドルフ・ヒットラー(昭和天皇)の個人崇拝と同じです。
この個人崇拝は現在国葬が行われている安倍晋三の個人崇拝と同じであるのです。
「個人崇拝」と「最高善の神への信仰」は全く違います。
「個人崇拝」はイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉の「学問崇拝(知の鵜呑み)」です。
しかし「最高善の神への信仰」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰することです。
基本的はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)である〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉により、「間違い」を改善することであるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)となります。
「個人崇拝」の「学問崇拝(知の鵜呑み)」と「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の真善美」の違いとなるのです。

早稲田大学スーフリサークル事件は歴史的事件である。

多くの女子大生が早稲田大学のサークルにおいて「集団輪姦」され凌辱されたのは「アウシュビッツのガス室」と同じ意味だろうと思います。
「劣等存在」がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧して「エリート」の存在となった。
これは歴史的事件です。
そして「日本の独自性」はいつまでもカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧する。
それによって受肉システム(知の廃棄)は真理と無関係だとする主張を弄する。
そういった学問崇拝(知の鵜呑み)を日本人は続けます。
それは日本がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧することで「優等」を完全弾圧して形成するプライド(複合感情)の国家であることを示しています。
それは日本の大学が象徴しています。
文化を弾圧し「優等」を完全弾圧することによって形成するプライド(複合感情)の大学なのです。

では何故日本国はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧する堕天使ルシフェル(堕落者)であるのか?

そして何故日本国はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧し「優等」を完全弾圧することによって形成するプライド(複合感情)であるのか?

それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)を信仰していない日本人がノーベル賞受賞にだけ拘ることに象徴されます。
日本人はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)でノーベル賞を取りません。
今まで日本人が受賞したノーベル賞においてカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を持って為されたものはないでしょう。
では日本人はノーベル賞受賞において何に貢献したのでしょうか?
これは象徴的ですが「個人崇拝」と「学問崇拝(知の鵜呑み)」なのです。
世界的賞を受賞して個人崇拝されます。
しかしこれは学問崇拝(知の鵜呑み)なのです。
何故ならカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)こそが最高のものだからです。
学問崇拝(知の鵜呑み)は人が創造したイカサマの偽物です。
学問崇拝(知の鵜呑み)に世界的賞を与えて個人崇拝を形成することによる人民支配なのです。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)を得ることが叡智の受肉であり信仰を持ったものは須らく受肉者となります。
坂本龍一や北野武などの世界的賞の受賞者への「個人崇拝」は「学問崇拝(知の鵜呑み)」としてあるのです。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を考えれば明らかです。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)と個人崇拝は相容れないのです。
何故なら個人崇拝はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の完全弾圧として或るからです。
そして世界的賞を受賞する個人崇拝は「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)であり、カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰するものは高尚なのです。
無冠の帝王とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のことなのです。
それは「神の王国の到来」のことなのです。
「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)のエリート大学生はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧する大学が生んだ「黒ミサカルト」の子供なのです。
サタンの子です。

彼らは「「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)の存在」ですが「エリート」なのです。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)はありません。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧したエリートの存在は堕天使ルシフェル(堕落者)です。
本来はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧した「大学」を「大学」とは言わない。
日本の大学はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧する「偽大学」なのです。

他国の皆様へ

留学するなら日本国は止めた方が良いですよ!

6 彼女とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)

その彼女はいつも他の女学生を立てて自分からは来なかった。
だから特別男女関係になることはなかった。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの関係を嫌ってカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音を発するだけだった。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)だろう。
それは彼女にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)がありそして私に聞こえるように話す言葉にはデマゴギーを嫌悪した聖なる言葉のメッセージをだった。
それは信仰心理描写(カトリックロゴス信仰)から形成されていた。
信仰からあるロゴスだった。
取り立てて何かあったわけではなかったが彼女はそのようにカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)を持ち、それを私に向けて聞こえるように話す人であった。
そこにいつもカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージがあった。
彼女は私と同様にイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを嫌悪するカトリックロゴス感覚(Holy Communion)でありそして彼女も私を同様のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)と見做していた。
崇拝心理描写(特権階級心理)を至上とした人間関係は歪なものである。
しかしカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)は聖なる人間関係となる。
彼女とは大した人間関係はなかったが聖なる人間関係だったと思う。
彼女とは特別な交際はなかったが印象深い人の一人だった。
私はA組だったし彼女のD組だった。
綺麗な女学生は他にも多くいたがそういったカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)を認めあった関係は稀有であった。
ただ彼女とは特別な交際はなかったので卒業して以来会う機会もなかった。

あの様なカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解する人が今どのように生活しているのだろうか?

知りたいけれどそれはどうしようもないことだと感じる。
喧嘩になったA組のイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグともそれ以来会う機会はなかった。
当然に二度と会いたい訳は全くなく嫌なやつだったとしか言いようがない。
会っても不快になるだけだ。
この二人は大学卒業以来同じ様に今交流はないが「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのペルソナ」と「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグのストーカー」とは全く違うのだ!
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のコミュニケーション」と「紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)」の違いが「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)による純愛信仰(エロス)」と「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグ」の違いとなる。
結局はイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることによるデマゴーグは紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)であり特殊詐欺(サタン崇拝)である。
それは特殊詐欺(サタン崇拝)により世界を破滅へ導く。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとコミュニケーションの在り方は叡智の受肉を示している。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとコミュニケーションによって受肉する叡智とは世界を救済するのだ。

「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)が世界を支配すれば世界が破滅するのは当然である。

エピローグ「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」と「世界情勢」の関係

1 世界の首脳に「純愛信仰(エロス)」はあるのか?

高市早苗や安倍晋三は劣等であるが「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)を誇る。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の存在を弾圧し英雄的行為とする人の傲慢さのプライド(複合感情)である。
堕天使ルシフェル(堕落者)である。
傲慢は「優等」へのプライド(複合感情)であるがそれを強硬に主張するのは「自己世界観崇拝」を守護する主張とされる。
しかしその主張は「自己世界観崇拝」が「サタン」であるという主張でありカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のない劣等の反逆である。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」への反逆者であるのだ。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対して「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とする崇拝関係」の反逆である。
いくらカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に反逆した「堕天使ルシフェル」であっても永遠に劣等な存在であることに変わりはない。
堂々とつばを吐いて見せて英雄を印象付けても「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)であることに変わりはないのだ。
アンチキリストを撃つべし。

※庵野秀明監督は傲慢な人物である。そしてそのような人物はその傲慢を非難される段になると鬱病と言って逃げる傲慢行為に走る。結局庵野秀明のような人物は絶対にイエス・キリストにアーメンをしない!それが鬱病というインチキ詐病であってもそれを利用して傲慢に逃げ切り大威張りを続ける。それが崇拝関係(黒ミサカルト)である。鬱病により傲慢を続ける崇拝関係(黒ミサカルト)である。彼らにとって傲慢が出来なければ鬱病となるらしい。大成建設もそのような会社であった。「愚の骨頂」であるのだ!

2 「世界のリーダー」ぶりの「首脳」と称する「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグ(サタン崇拝関係)」

イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグの世界の首脳がいる。
馬鹿な戦争をして世界のリーダーだと宣伝している馬鹿な世界のイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグたちである。

※世界の首脳の人間関係はイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを至上とした関係でありデマゴギーによってある歪な関係となる。

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)した純愛信仰(エロス)は聖なる関係へ誘う。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音を聴くことによってあり得る。
首脳だと宣伝するためのイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグの学問崇拝(知の鵜呑み)である。

※イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉である。

それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧し「優等」へ完全弾圧することによって形成するプライド(複合感情)となる。
「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)故の逆転の優越感である。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることによる支配はカルト感覚(サタン崇拝)であり得る。
カルト感覚(サタン崇拝)への扇動はマス・メディアによってあるりゲッペルスの宣伝である。
前にも書いたがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉したコミュニケーションは純愛信仰(エロス)によってある。
それはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを嫌悪し禁ずることでありえる。

特にフジテレビの宣伝報道番組はゲッペルスである。

※イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉の報道機関である。イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを賛美している。

特にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)がある報道番組はTBSだけだろう。

※カトリックロゴス感覚(Holy Communion)は純愛信仰(エロス)である。カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰している。

現在のTBS放送センター
2023年3月27日(月)撮影
撮影者 Soma Oishi

主とは?

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)による純愛信仰(エロス)があるものしか「主」にはなれないのだ。
そしてカトリックロゴス感覚(Holy Communion)による信仰者にとって至上のものは「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを嫌悪する感性」である。
それがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のインスピレーションを齎し純愛信仰(エロス)のメッセージのコミュニケーショとなる。
そしてカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉し叡智は齎される。

叡智とは何か?

量子コンピュータ?(笑)
人工知能(AI)?(笑)

あれらはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグとしての学問崇拝(知の鵜呑み)だよ!

叡智とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)でしかあり得ないのだ。

崇拝のネオ・ナチズムと信仰のペルソナ

この二人は私が拓殖大学(UNIVERSITY)で出会った二種類の違った資質の象徴的人間だった。
一方は「紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)」であり、もう一方は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとコミュニケーション」であった。
優れているのはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解するものである。
それは彼女(ペルソナ)だ。
そして「カトリックロゴス感覚(Holy Communion) 」と「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とする崇拝関係」は「聖戦」となる。

「聖戦」とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の命じる戦いである。

ナウシカ(Holy Communion)

王蟲の群れはナウシカ(Holy Communion)を治癒し復活させる。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音が齎した救済であり世界を回復する純愛信仰(エロス)の在り処を示している。

風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集〈1〉

ナウシカ(Holy Communion)の遺骸を取り囲む王蟲の群れ

王蟲はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)としての奇跡を起こしナウシカ(Holy Communion)の「聖痕」を治癒する。

3 最も評価する存在(最愛の人)

そして私が最大限に評価するのは純愛信仰(エロス)のペルソナであった。
彼女とは男女関係はなかった。
しかしカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)はあったと思う。
ただそれは男女関係にはならなかったと思う。
恋愛関係の男女関係はなかったがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の男女関係はあったかもしれない。
神聖な関係だったのだ。
なんとも他人に証明し難い関係であった。
聖愛?

※ただ結局思い出してみてどういう人が私にとってキリストとして永遠に心に残ったかと言えば「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の人であった。

それが拓殖大学で刻まれた「聖痕」だった!


カトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉した「時の徴」とは永遠の聖書である。

〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉は〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉の弾圧のもとにある。
しかしカトリックロゴス感覚(Holy Communion)はこの2つを「時の徴」の中に見出していくのだ。
それが聖書(エロス)を読むということである。

〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉の敵はサタンであり滅ぼさなければならない。

『卒業アルバムの私のワンセンテンス』

やりたいことの中でできることをやっていこう。

ゴダールの映画史 ヒット作「勝手にしやがれ」についての部分

このサイトの主要テーマであるカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

『善い地の上に』 美しい、善い心で御言葉を聞き、(それを)保ち、不屈さの中で実を結ぶ者たちだ

神の王国の到来

英米語学科入学メンバー

英米語学科卒業メンバー

最後に

留年したクラスメイトもいるし海外から来られた方もいる。
大学3年になって英米語学科Aクラスに編入してきた男もいた。
青山学院大学(仏文)でアンチキリストを宣言し騒ぎを起こしトラブルとなったと本人は自慢気に語りだした。
「キリスト教は悪だ!」と彼は青山学院大学で強硬に主張したらしい。
ご存知のように青山学院大学はプロテスタント系の大学である。
プロテスタントを悪と主張するならカトリックと言えるかもしれない。
しかしカトリックの下にプロテスタントが降ることをカトリックロゴス感覚というのです。
キリスト教自体を完全弾圧する彼の発言に私は内心恐怖していました。
本人はそれを「武勇伝」のように語っていたが馬鹿な話だと思います。
それが原因で青山学院大学を退学したらしい。
そして彼の兄が医師をしている順天堂大学で彼は「原因不明の病」と診断してもらったらしい。
その診断書を使って拓殖大学(政経学部)へ再入学して逃げてきたのです。
しかし彼は自慢げに青山学院大学在学を語っていた。
彼は自分と拓殖大学生とは違うと言わんばかりだった。
確かに拓殖大学生より印象は良いだろう。
「合コン」でも青山学院大学なら必ずモテそうだ!
有名女優とTBS男性アナの夫婦も青山学院大学出身だった。
しかし私の知人にも青山学院大学卒業生はいた。
その男は高校の同級生だったが人間性は最悪だった。
日本におけるキリスト教系大学は黒ミサの場なのだろうか?
その青山学院大学卒業生をよく知っていたから別にその編入生が凄いとは全く思わなかった。
ただ他のクラスメートはどうだったかは知り得ない。
当時私は他のクラスメートと対立関係に陥っていたのでその編入生が入ってきた当初比較的積極的に彼と会話をしていたのです。
しかし彼の話を聞いている内に頭の可笑しい一人だと判明してきたのです。
私には彼は矛盾した馬鹿者に見えました!
その男は青山学院大学のキリスト教を大批判して退学したのにその大学名を自慢する愚か者だったのです。
彼も発達障害の低能児だった!
彼は拓殖大学の政経学部を卒業後に言語学者になりたいと主張し拓殖大学(英米語学科Aクラス)に編入してきたらしい。
その男の「姓」は「い」から始まっていたのでAクラスに編入されたのだろうと想像されます。
そいつは言っていることがかなり変だったのです。
自分も「学生」のくせに「学徒出陣」を主張し「キリスト教」は「悪」と主張し「アンチキリスト」を宣言する。
そして彼は自分では全く出陣する気がないらしい!
何故か彼は自分を何よりも上の存在だと主張していたのです。
彼の異常性に恐怖を感じていました。
だから彼はキリスト教を信仰弾圧したのだろうと想像されます。
カトリックの最高善の神よりも上というわけです。
ハーケンクロイツ(右鉤十字)なのです。
そして実は自分は兄貴と同じ医師になりたいが兄弟で医学部に入る金が無いと主張する。
しかし私にはこいつと「ヒポクラテスの誓い」は無縁と感じました。
それは彼が根っからの「藪医者」であることを意味している。
彼には人を救済する気がないのだ!
ナチスドイツの人体実験部隊(日本陸軍防疫731部隊)と同様であるでしょう!
彼は薬を拓大に持ち込んで医師の真似事をして処方していました。
私は気持ち悪くて処方を断りました。
その時私は頭痛か腹痛に苦しんでいたのです。
彼は薬を処方して「大丈夫だよ!」と盛んに主張しました。
私は副作用について彼を問いただしたのです。
彼は「この薬は副作用が少ないから大丈夫だよ!」と専門家の様な口調で更に主張してきて私は窮しました。
でも結局私は彼に「申し訳ないけど飲まない。」と言って断りました。
本当に薬が必要なら拓大の保健室でも処方して貰えたからです。
その男が医師だか薬剤師をする必要はないのです。
私はその男が気持ち悪くていつも「愛想笑い(ポーカーフェイス)」を作りながら警戒していました。
恐怖を感じていたからです。
問題を起こした親族に「原因不明の病」と診断するのが順天堂大学病院の医師らしい。

今何をしているのだろうと気になる人(女性)はいるがもう21年経ってしまいました。
この間に誰一人連絡してくるものはいなかった。
女性は結婚されている方がほとんどでしょう。
女性の場合は配偶者の「苗字」に変わっているからもう誰だか分かりえません。
特に付き合いはなかったと言えばそうなります。
ただ大学でマウンティングするだけの女性は低能すぎて嫌でした!
ただその中で「知の廃棄」より「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されたオリジナル)」となっていた女性は確かにいました。
その方はイマーゴ(真善美の回復)と言えるでしょう。
又、窮した時に救済をしてくれた人は「永遠の存在」です。
私が危機のときに愛のメッセージをくれました。
あなたは「永遠の存在」です。

「光陰矢如旅人行不帰時」

"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

東太陽

光陰矢如旅人行不帰時

西星

光陰矢如旅人行不帰時

南海

光陰矢如旅人行不帰時

北月

光陰矢如旅人行不帰時

1972.7.17

My Birthday 1971.10.16

父が描いた私の顔(小さい時)

光陰矢如旅人行不帰時

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