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【聖萩尾望都信仰】カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の「トーマの心臓」が「永遠の命(個人信仰)」となったラブストーリー

まえがき

この物語を信じるかどうかはあなた次第です。ただ言えることは信仰を入れる場所を自らの内に確保したものでなければ「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」には至れないということです。「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」とは叡智を宿したペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)となることを示しています。〈トーマの心臓〉ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の演劇作品です。それはフロイトの精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)と同様に人を治癒します。治療(導き)によってあなたの内に信仰を入れる場所が確保された時にあなたの救済は訪れます。仮にそうならない場合に人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)ロボトミー手術の対象となるでしょう。それは仕方のない人道的処置です。ロボトミー手術とは反人道的と揶揄されることが屡々あります。しかしそれは医師の方が人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)であった場合の悲劇のことを指しています。医師の方が人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)であった場合に医師にとって気に食わない患者をコンプライアンスと称しロボトミー手術することがありえるからです。それは非常に反人道的でしょう。そのようなことは医師が免許事業であって、必ずしも「ヒポクラテスの誓い」と縁が深くないことからありえることなのです。医療倫理は現代医学において至上とされていないのが現実です。患者を利用した人体実験で不正に論文を作成することが日常茶飯事です。患者を治療する気は元々なく患者をモルモットとして利用し論文を作成し医学部の教授になるのが目的なのです。論文不正アリバイ証明(既成事実化)に患者を利用しているのです。患者はサンプル扱いされ治癒されることはないのです。治療が目的となっておらず論文作成が目的となっていますがこれは論文不正と言えるものです。何故なら論文のために医療サマリー(カルテ)が捏造されるからです。

vivisection (viv′i‐sek′shŭn)〓
[vivi-+section].生体解剖,生体実験(生きている動物を動物実験のために切開する手術.さらに広い意味で,しばしば動物実験のあらゆるものをさす).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

患者のインフォームドコンセントの要求に対し主治医はカルテ開示の指示をしました。

千葉大学病院担当主治医は外来診察時のインフォームドコンセントの要求に対してそれを拒否しました。
そして医療事務に行ってカルテ開示をしてくれと言いました。
医師として説明する気はないから患者本人がカルテを読めばいいと答えました。
そして後に彼らはDSM-5は一般の書店で売っているから自分で買って読んでくださいと言いました。

千葉大学病院医師はまったくインフォームドコンセントをする気はないのです。
お金がすごくかかりました。
DSM-5も買わなければいけないのですか?

千葉大学カルテ開示領収書
14,200円

インフォームド・コンセント
[英] informed consent
[同義語] 【説明と同意】
〓医療における患者の自己決定を実現し,その利益を保護するための過程。基本的には,医師が患者の病状,予想される予後,適応のある診断方法,治療方針,成功率,不確実性,診療行為に伴う副作用や合併症などを患者に説明し,患者がそれらを十分理解したうえで,自らの価値観や希望に沿った決定を下す過程である。また医師は,医療が最善と考える診療方針を推薦する他に,代替案の掲示も行わなくてはならないとされる。さらに患者が決定を下す際に,外部からの強制や不当な介入がないことが条件となる。インフォームド・コンセント取得が治療方針決定に際して例外的に必要ないとされる状況として,患者が緊急な医学的処置を必要とする場合,患者に十分な判断能力がなく自己決定を下せない場合,患者が自己決定や詳細な説明を希望しない場合,さらに患者に対する説明が非常に高い確率で患者に害を与えると予想される場合がある。
〓精神科臨床においては,①統合失調症などの病名を告知しないで治療が行われていることが多いこと,②患者が自覚する疾患あるいは病状と周囲の人が感じるそれとの間に相違があること,③患者の同意能力に欠陥がある場合があること,④治療法の中に患者の社会的権利の制限を伴うようなものがあることなどのために,インフォームド・コンセントに関わる問題は,他の身体疾患の場合と比較して複雑な課題を多く含んでいる。
(271001)(511028)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

informed consent (in‐fōrmd′ kŏn‐sent′).
インフォームドコンセント(目的,方法,手段,有益性およびリスクについて説明を受けた後に,ある調査,ワクチン接種計画,治験,侵襲的医療などへの参加に対し,ある個人ないし患者の法的代理人(親など)によって行われる任意の同意.インフォームドコンセントの必須の条件は,本人が知識と理解の両者をもつこと,同意は強制や不当な圧力なしで自由に行われること,いつでも中止できる権利があることを患者に伝えてあることである.疫学的および生物医学的な研究に関連したその他のインフォームドコンセントの内容,およびそれを得る際に直面する条件についてはInternational Guidelines for Ethical Review of Epidemiologic Studies (Geneva: CIOMS/WHO 1991)およびInternational Ethical Guidelines for Biomedical Research Involving Human Subjects (Geneva: CIOMS/WHO 1993)に示されている).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

千葉大学病院カルテ開示のときの音声データ(警察官が挑発行為をしてきました。危なかったです。保安関係と名乗った星野さんは実は警察官でした。)

診療要約(シンリョウヨウヤク)
[英] summary of medical care
[同義語] 【診療サマリー,簡易診療録】
患者の症状経過について簡潔にまとめた文書。退院,主治医交代,他医への紹介などの際に作成される。
(271024)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

診療録(シンリョウロク)
[英] medical record
[同義語] 【カルテ chart】
医師(歯科医師)は,診療をしたときは,遅滞なく診療に関する事項を診療録に記載しなければならない。また,病院または診療所の管理者は,5年間保存しなければならない(医師法第24条,歯科医師法第23条)。診療録の記載事項は,①診療を受けた者の住所,氏名,性別及び年齢,②病名及び主要症状,③治療方法(処方及び処置),④診療の年月日である。診療録の記載について,作成した医師の責任が明白であれば,ワードプロセッサーなどいわゆるOA機器により作成することができる。診療録はカルテともいわれる。診療記録には看護記録・X線写真なども含まれる。
(171002)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

chart (chart)〓
[L. charta, sheet of papyrus].
1. 病歴,カルテ(患者の症例に関する様々な臨床上のデータの記録).
2. 図表.=curve (2).
3. 視力検査表(眼科において,遠方・近方視力を測定するための,各種の大きさの視標が書かれている表.⇀Snellen test types).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

ディスクロージャー【disclosure】
①情報の開示。特に、国・地方自治体における情報の公開。
②〔経〕企業内容開示制度。投資家などの利害関係者を保護するため、企業の財務内容を報告・開示すること。会社法・証券取引法などが求めている。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

dis・clo・sure [disklóuʒər]〓
―n.
1 露見,発覚;暴露,摘発;発表:〓
2 暴露[摘発]されたもの,露見[表面化]したもの;打ち明け話.
3 〖特許法〗 (特許申請趣旨の明細書,図面,モデルなどによる発明の)開示.
4 ⦅D―⦆ 米国証券取引委員会による株式公開企業の各種報告書を収集したデータベース.
5 歯垢(しこう)染め出し.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

秘密漏示(ヒミツロウジ)
[英] disclosure of secrets
医師,薬剤師,医薬品販売業者,助産師,弁護士,弁護人,公証人,またはこれらの職にあった者が正当な理由がないのにその業務上知り得た人の秘密を漏らす罪(刑法134条,6か月以下の懲役または10万円以下の罰金)。また,宗教,祈禱もしくは祭祀の職にある者も同様である。本罪も被害者のプライバシー保護の立場から親告罪とされる。秘密には,自然人だけではなく,法人などの団体の秘密も含まれる。また,看護師,精神保健福祉士,移植コーディネーター,治験コーディネーター,臨床検査技師・衛生検査技師,理学療法士・作業療法士・視能訓練士,あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師などもそれぞれの法で秘密漏示が禁じられている。秘密とは小範囲のものだけが知っている事実で,本人が他に知られないことにつき客観的に相当の利益をもつものをいう。漏示は,不知の第三者に告知することをいい,方法を問わない。なお,漏示の結果が,名誉毀損罪(刑法230条=3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下の罰金)になることがある。その場合には,法定刑の重い名誉毀損罪で処罰する(刑法54条=観念的競合)。
(171003)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

これは日本陸軍防疫731部隊実験サンプル標本と同じ意味合いとなります。患者は生けるサンプル扱いなのです。そして作成された論文不正を前提に製薬が行われ認可のための臨床試験が実施されます。そこでも人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の医療関係者が患者へのコンプライアンスのもと臨床試験を行います。それは確実に不正が行われることを想像させます。そのようにして認可された抗精神病薬は医療関係者の「ドル箱」となります。正に人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の医療関係者が行う特殊詐欺の有様なのです。不正の精神薬理学(不正の抗精神病薬)は患者へのコンプライアンスのもとで医師の責任は患者に転嫁されます。患者に対する抗精神病薬の効果は医師の診断ではなく患者の寛解の証言でなされるからです。医師は診断せず患者に全責任を転嫁して結果が悪ければ患者を強烈な抗精神病薬で虐待するだけなのです。コンプライアンスに屈服させ患者を服従させれば人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)は勝利するのです。それは治療ではないのです。人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の医師と医療関係者の不正が罷り通った医学会においてそのようにして教授となった存在は「ヒポクラテスのすべて反対の存在」となります。人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の医学部の教授から教えを受けた医学部の学生が「ヒポクラテスの誓い」を至上とする理由は全くありません。「ヒポクラテスのすべて反対の存在」が正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)されているのです。非常に形式的な「ヒポクラテスの誓い」が存在しているだけなのが医学部の現実です。医師が「ヒポクラテスの誓い」を必ずしているなどという事実は全くありません。それは「完全な迷信」です。ただ「ヒポクラテス信仰」を個人的に持った医師(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))が存在し又「ヒポクラテス信仰」を至上とした医療機関が存在することは否定しません。そのような存在があれば正に「名医」であり「救済医療機関」と言えるでしょう。その人達は尊敬の対象です。しかし皆さんも経験則で御存知のように「名医」は稀有な存在です。一方で人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はありきたりな存在であり世に溢れています。そのような人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の医師ももちろん例外なく世に溢れています。人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)が仮に医師であってもロボトミー手術の対象にする必要があることは皆さんも理解されると思います。それが医師であれば尚の事処置されるべきだと私には思えます。人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)は危険な存在でありロボトミー手術により殺さずに処置することはある意味人道的な方法です。ただ人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)が非常に危険な存在として世に溢れており、その中でペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)へ向かう崇高な存在は稀有である現実において「終末の日」が近いことを私は感じています。

人体実験の費用も患者負担にする。(完全な詐欺だ!)

血液検査の医療費はサンプル採取とその利用についての同意書病院側の負担とする旨が記されている。
しかし病院側はすべての血液検査の医療費を患者負担とした。
完全な詐欺行為であった。
主治医は強い立場を利用して嫌らしく血液検査を要求する。
その音声録音である。

最後の外来です。

病院側はインフォームドコンセントしましたと言い張りました。
しかし人体実験はなかったと主張しました。
明らかにおかしいです。
何故ならばこちらには人体実験のときに病院側が提出した患者側の同意書と人体実験に関する説明書が存在するからです。
同意書には千葉大学病院医師のサイン(直筆署名)が記されています。
それは病院側が自ら提出した書類なのだから知らないわけはありません。
なぜ彼らはこのように明確な証拠があるのに人体実験の存在を否定したのか理解不能です。
そして人体実験の存在を否定してインフォームドコンセントしたと言えないでしょう。
何故ならばそれが明らかな虚偽だからです。

論文不正が罷り通った国立大学の認識

私は千葉大学医学部附属病院に外来患者として通院していた一昨年まで複数回論文作成のために人体実験への参加に医師のコンプラインスを不正に適用され追い詰められ自殺未遂を起こした。
私が理不尽に感じるのは精神神経科外来に通院している患者に対してこのような精神的圧力をかけ心理的に追い詰めて人体実験に誘い入れる千葉大学の姿勢が病院とは言えないところです。
後に私は彼らに言いました。
「ヒポクラテスを知っていますか?」
私は自殺を図りましたが日本医大千葉北総病院へ救急車で運ばれ一命をとりとめました。
しかし意識を回復するとまもなく千葉大学病院へ救急車で強制転院させられました。
そこで千葉大医師によりそれを自傷と決めつけられました。
自殺未遂に関する聴取は一切行われずそれを当たり前のように彼らは澄ましていました。
完全に封殺しようとしたのです。
私はもう後がないという認識を持つに至り最後の勝負に出るところに追い詰められました。
私はその千葉大医師の誠意の欠片の無さに衝撃を受け黙示を信仰することとなったのです。
それはすべてを暴露する行為である。
聖戦とは黙示であり最高善の神のもとにすべてを晒し審判を仰ぐことであるのです。

毎日新聞 論文不正スクープ(科学ジャーナリスト賞)

論文の査読者に橋本謙二を起用することに拘った理由は「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」により形成する「論文作成」が彼らの正体(医術)だからです。
彼らは医学ではなくカルトであると判断できる。
そして橋本謙二は薬学の博士号を所持していることから医師としての「ヒポクラテスの誓い」とは無縁であるのだろう。
精神薬理学のカルトを形成しているのが彼の正体である!
医学ではない故に「ヒポクラテスの誓い」を反故にしている。
医学と薬学(カルト)の違いということなのだろう。
しかしヒポクラテスを信仰する薬学者もいるだろうから私は橋本謙二は最強で最も陳腐な最高悪だと考えている。
彼は始末しなければならない存在だが一体誰がそれをするのか?
聖織田信長信仰を持つほかないだろう。
しかし橋本謙二は高橋源一郎の小説と同じであり虚偽(前衛詐欺)であるからこのような特殊詐欺は厄介である。
それは巧妙なデマゴーグ(巧妙な論文不正)と言える。
それを始末することはかなり厄介な仕事であることは承知している。
前衛という理解不能で難解とされるものへのオマージュ(印象操作)によって詐欺が成立してしまう。
それに対して前衛の説明責任を明確にするしかない。
「わかんねー」では済まないんだよ!金原信久さん!
そして私も橋本謙二を知っている。
私に行われた不正な人体実験に関する書類(同意書及び説明書)にも実験連絡先として橋本謙二の名前が明記されていた。
私はその文書を所持している。
吉田泰介は短期間私の主治医として外来担当医をしていた。
私は彼がまさか大学院生だと思っていなかった。
彼も自分を大学院生だと名乗らなかった。
確かに医師免許は持っていただろう!
しかしそれで医師と言えるだろうか?
彼らに「ヒポクラテスの誓い」は無かった。
彼は自分の身分を偽っていたのだと感じる。
大学院生が主治医になるのですか?
そして人体実験をするのですか?
この文書をよく読んでみるとひどい内容であることが分かってきたのです。
千葉大学大学院医学研究院           精神医学 大学院生 吉田泰介
千葉大学大学院医学研究院           精神医学 教授   伊豫雅臣
千葉大学社会精神保健教育研究センター     教授     橋本謙二
千葉大学大学院医学研究院 精神医学      教授 伊豫雅臣
千葉大学附属病院     精神神経科        講師 渡辺博幸
人体実験同意書            署名医師 新津富央

一連の医療不正問題は前衛詐欺の様相を呈している。
何故ならば前衛とは難解で理解しがたい高尚な印象を持っているからである。
それを利用して詐欺行為を働くことは詐欺の古典的手法であろう。
「特効薬詐欺」は古典的詐欺であり、かの始皇帝は不老不死の妙薬を手に入れるために詐欺師の手で騙されたと言われている。
最強と言われた始皇帝も特効薬詐欺に騙されたのだ。
しかしその実態は最前端(前衛)という特効薬詐欺である。
特効薬があれば誰でも欲しいだろう。
それは解る。
何故ならば私の母も末期の子宮頸がんと診断された時に5年生存率を考え鬱病に罹患し昏迷と言われる状態に陥ったからだ。
眼を開けた状態で意識を閉ざし食事も何もかも放棄し放っておけば死ぬ状態だった。
そして私の父は当時癌の特効薬の噂があったアガリクスを高い金を払って購入し母に飲ませていたのだ。
しかし数年後朝日新聞のスクープでアガリクスの効果は完全に否定された。
当時認可されていないアガリクスは特効薬として崇拝されていたがその幕切れは呆気ないものだったのだ。

朝日新聞アガリクススクープ

この記事は大石家にとって非常にインパクトがあった。
当時千葉大学病院精神神経科に父によって連れて行かれ通院していた。
父の運転する自家用車で千葉大学まで通院していた。
そして千葉大学病院のための処方箋薬局が病院の周囲で複数営業していた。
いつもその一つである処方箋薬局で抗精神病薬と眠剤を購入していた。
そこは明らかに千葉大学病院専用の処方箋薬局だった。
何故ならば千葉大学病院独自の和漢診療科で処方される奇妙な漢方薬を取り扱っていたからです。
私は女性薬剤師の方に聞いてみたことがあります。
すごい漢方薬をどっさり購入していく患者を拝見し吃驚したからです。
その患者が会計を済ませ店を後にしたあとで私は彼女に聞いてみました。
あれはなんですか?
薬ですか?
彼女はこのように答えました。
「あれは千葉大学病院独自の漢方薬で専用に取り寄せている。この薬局に勤務するようになって私も吃驚している。」
そしてこの処方箋薬局では当初アガリクスを販売していた。
父はせっせとこの処方箋薬局のアガリクスを母のために高い金を払って購入していた。
朝日新聞のアガリクススクープで流石に千葉大学病院周辺の処方箋薬局からアガリクスはその姿を消した。

朝日新聞の報道によってアガリクスへの信憑性が疑わしいがしかし信じるしかなかった患者が明確に判断可能となったのだ。
患者の弱みにつけ込んだ医療詐欺だった。
それがアガリクスの正体だった。
当時朝日新聞を購読していた大石家はそれを読んでアガリクスを止めたのだ。
毎日新聞のスクープで取り沙汰された千葉大学の論文不正の橋本謙二教授は薬学博士であり最先端という前衛の印象によって特効薬詐欺を働いている疑いが強い。
何故ならばその医療倫理観の欠落がそれを物語っている。
論文不正を行い、患者を人体実験に不正に利用している実態がそれを証明している。
彼らは「ヒポクラテスの誓い」を冒涜する詐欺師にすぎない。
ただそれを知っていれば防げる被害はあるだろう。
私はここに報道と黙示を宣言する。

ぜんえい【前衛】
avant-garde
一般には,時代の最先端をいく革新的な芸術運動(⇨アバンギャルド)をさすが,政治的には,革命におけるいわゆるプロレタリア前衛党をいう。本来は戦場で本隊の先頭に立ち,敵の妨害をはねのけて突破する精鋭部隊をさす軍事用語であったが,これがブルジョアジーとプロレタリアの階級闘争に転用され,プロレタリア階級の先頭に立つ「党」に適用された。⇨プロレタリア革命における前衛の必要性と位置づけは,カール・マルクスにより初めてなされ,ウラジーミル・⇨レーニンの『なにをなすべきか』(1902)においてその組織論的解明がなされた。マルクス=レーニン主義によれば,プロレタリア大衆は自然発生的には組合主義的意識しかもちえず,したがってそのままでは革命的でありえないため,外部から共産主義的意識をもたらし,これを革命的に展開されるのが前衛の役割とされている。レーニンは大衆組織,大衆政党,前衛政党とを区別して,職業革命家による少数精鋭主義の独自の前衛党組織論を打出した。ボルシェビキ革命後,この前衛党理論を模範にして⇨コミンテルンの指導下に各国に共産党が組織された。日本においても 1922年7月コミンテルン日本支部として第1次日本共産党が結成された。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

始皇帝「焚書坑儒」「不老不死・特効薬詐欺」 司馬遷『史記』より

【プロローグ】「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は『聖痕の徴の受肉』を持って証される。

人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)

「陰険な存在」とは「人間動物の冒涜チンパンジー」であるといえます。
何故なら「陰険」とはイマーゴ(真善美の回復)の「逆転〈陰険〉」を狙っているからです。
デマゴーグが陰険であり特殊詐欺が陰険であることは理解しやすいでしょう。
人を騙し陥れることは陰険そのものだからです。
それは「最高善の神との逆転〈陰険〉」を狙う「黒ミサの儀式(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」となります。
その示すところは「堕天使ルシファー崇拝者」であり「サタン崇拝者」としての人間動物の在り方(冒涜チンパンジー)です。
それを「スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉」と名付けた学生がいました。
しかし「信仰」とは「逆転〈陰険〉のない何か」を至上とすることです。
それは「黒ミサの儀式の禁忌(Holy Communion)」を信仰することであるのです。
例えば商売を陰険に商う人はいるかも知れません。
「逆転〈陰険〉」の経済(愚民政策)です。
しかしそれは「メシア」ではありません。
苦しむ人々を嘲う特権階級でしかないでしょう。
特権階級は英雄の存在であり「逆転〈陰険〉崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の社会システムなのです。
中国の商いの神様は「三国志の関羽雲長」とされています。
関羽雲長信仰は「〈逆転〈陰険〉のない何か〉への信仰」として存在しています。
三国志の英雄だから崇拝されている訳ではありません。
それなら他の多くの英雄豪傑でもいいではないですか?
私見ですが「三国志の価値」は関羽雲長にあった。
あの書物(三国志演義)の価値は関羽雲長信仰にあると私は考えます。

三国志演義「桃園の契り」と三豪傑の志の差異
「桃園の契り」の遊侠精神は関羽雲長だった。

○桃園に義を結ぶ
[三国志演義]劉備・関羽・張飛の三豪傑が桃園で義兄弟の契りを結んだ故事。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

さんごくしえんぎ【三国志演義】
San-guo-zhi yanyi
中国,口語⇨章回小説。元末明初の⇨羅貫中の作。 120回。後漢末に魏,呉,蜀の3国が天下を争った史実をもとにした歴史小説。3国の英雄たちの物語は宋代に「説三分」と呼ばれ,都市の盛り場でそれだけを語る講談師がいたほど人気があり,元の至治年間にはその台本をまとめた『全相三国志平話』が出された。その系統をひく俗間の伝承を羅貫中が集大成し,正史『⇨三国志』を参考にして史実に近づけ,小説としたもの。魏を正統王朝とする正史に対しその初代皇帝曹操を悪玉に仕立て上げ,民衆の感情であった蜀漢正統論に立って,武人の典型⇨関羽,生一本な野人の⇨張飛,深謀誠忠の人⇨諸葛亮(孔明)などの活躍をいきいきと描いて広く愛読された。日本では天竜寺の僧が訳した『通俗三国志』(1689)をはじめ,全体または一部を素材とした翻案は多い。『三国志通俗演義』とも呼ばれ,『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』とともに四大奇書といわれる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.


日本で「〈黒ミサの儀式〉の禁忌(Holy Communion)」をした人物は織田信長です。
彼は「逆転(黒ミサカルト)の経済(愚民政策)」を真の経世済民(Holy Communion)へ導こうとした聖人であったのです。
中国に関羽雲長信仰があるのなら、日本には聖織田信長信仰があるのです。
簡単に言ってしまえばデマゴーグと特殊詐欺師が意図的に他者に「インチキ情報を吹聴すること」は悪意であり陰険です。
なぜわざわざそのような嘘を教えるのですか?
それは悪意でしかない。
そしてそれは「逆転〈陰険〉」へ人を陥れる「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」でしかありません。
「悪意」と「陰険」とは人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)であり悪魔崇拝なのです。
「真の経世済民(Holy Communion)」と「経済の愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の違いは大きいのです。
早稲田スーパーフリー事件の自称エリート学生は愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を司った悪政のクズであり斬首刑になっても仕方がありません。
それが「悪政」と「失政」の責任の取り方です。

「吊るされた男 12 THE HANGED MAN」の暗示とは?

「吊るされた男 12 THE HANGED MAN」
信仰への「黒ミサの儀式(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」
信仰を逆転〈陰険〉させるための悪意と陰険のカードである。
しかし「信仰の逆転〈陰険〉」はありえない。
何故ならば「逆転〈陰険〉の禁忌」が信仰であるからです。
敢えて言うなら「信仰の逆転〈陰険〉」とは「躓き」を意味している。
そして信仰とはたとえ躓いたとしても〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によって信仰を回復させることを至上とする。
そして最高悪サタン〈陰険〉を倒す。
聖戦
何故ならば最高悪サタン〈陰険〉は「黒ミサの儀式(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を至上としているからです。

坂口安吾の小説「イノチガケ ヨワン・シローテの殉教」に「穴吊るし」として記載がある。

「陰険(偽善)の定義」と「Holy Communion」の箴言

"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Pure love (Fair) is Malice (Foul), Malice (Foul) is Pure love (Fair). but Pure love (Fair) is Pure love (Fair), Malice (Foul) is Malice (Foul)."

おひとよし【お人▴好し】
〔性格〕good―naturedness; 〔人〕a good―natured person; 〔だまされやすい人〕a credulous person
◾あの人はお人好しだ
He is easy to deal with.

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

ひと‐がら【人柄】
①人の品格。じんぴん。「りっぱな—」
②人品のよいこと。よい人物。坪内逍遥、当世書生気質「頗る上品(ひとがら)なる衣服を着して」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

純愛
(ジュンアイ)
まじりけのない愛。純粋な愛情。ひたむきな愛。

『新漢語林』 大修館書店

じゅんあい【純愛】
pure love

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

うら‐はら【裏腹】
①背と腹。一つのもののうらとおもて。「憎しみと—の愛情」
②正反対であること。あべこべ。江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)「世間の道行は着物を着て最後の場へ行くが、こつちのは、裸でうちへ道行とは、大きな—だ」。「心と—な世辞を言う」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

うらはら【裏腹】
➊〔裏表,反対〕
◾彼は言うこととすることが裏腹だ
He says one thing and does another.
◾真意と裏腹のことを言ってしまった
I said just the opposite of what I meant.
◾親の子に対する裏腹のない愛情
unselfish parental love
◾大言壮語とは裏腹に彼の懐は火の車だ
In spite of his boastful remarks, he is really hard up.
➋〔背中合わせ〕
◾荒天の中を漁に出ることは死と裏腹の行為だ
Going out fishing in stormy weather means risking your life.

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

いん‐けん【陰険】
表面はよく見せかけて、心のうちでは悪意をもっていること。陰気で意地わるそうなさま。「—な男」「—なやり方」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

陰険(險)
(インケン)
うわべは柔和で、内心の険悪なこと。

『新漢語林』 大修館書店

奸悪[かんあく]
邪悪[じゃあく] / 奸佞[かんねい] / 陰険[いんけん] / 性悪[しょうわる] / 悪辣[あくらつ]
【共通する意味】
心がねじくれていて悪いこと。
【英】wickedness
【使い方の例】
〖奸悪〗(名・形動) / 奸悪な人物
〖邪悪〗(名・形動) / 邪悪な心の男
〖奸佞〗(名・形動) / 奸佞なわなにはめられる
〖陰険〗(形動) / 陰険な性格
〖性悪〗(名・形動) / 性悪な奴[やつ]
〖悪辣〗(形動) / 悪辣な手段をとる
【それぞれの意味と使い分け】
(1)「奸悪」「邪悪」「奸佞」「悪辣」は硬い表現で、文章語としてのみ使われる。
(2)「陰険」は、表面はよく見せても、実際にはひどいことをするような心の中に悪意を隠しているさま。
(3)「性悪」は、人間などの性質が悪いこと。

『使い方の分かる類語例解辞典』 小学館

いんけん²【陰険】
~な
tricky; sly; wily; crafty; treacherous; underhand; double―faced; double―dealing.
〓~な人
a person one 「can’t [shouldn’t] trust; a crafty person; 〖口〗 a wily customer; a deep one; a snake (in the grass)
◾~な目つきをしている
have a cunning look in one’s eye; have a nasty way of looking at sb
◾~な手段を弄する
use trickery; resort to 「underhand [double―dealing, cunning] measures
◾あいつは実に~な男だ. 信用ならない.
He’s a really wily customer. He’s not to be trusted. | He’s really 「tricky [underhand]. Don’t believe what he says.
〓あの男は性格が~だから, 気をつけたほうがいい.
He’s cunning; be careful. | You’d better be careful. He’s a wily customer.

『新和英大辞典 電子増補版』 研究社

悪意[あくい]〓〓
悪気[わるぎ] / 意趣[いしゅ]

悪感情[あくかんじょう]
【共通する意味】
良くないことをしようとする心。
【英】malice
【それぞれの意味と使い分け】
(1)「悪意」「悪気」は、人に害を与えようとしたり、だまそうとしたりする気持ちをいう。
(2)「意趣」は、自分をひどい目にあわせた人を恨む心をいう。「意趣返し(=仕返し)」
(3)「悪意」は、「悪意に解釈する」のように、よくない意味、意地悪な見方という意でも用いる。
【反対語】
悪意⬌善意・好意
【関連語】
〖悪感情〗人や物に対してもつ不快な気持ち。「隣人に悪感情を抱く」

『使い方の分かる類語例解辞典』 小学館

あくい【悪意】
〔悪気〕 ill will; malice; spite; malicious intent; 〔悪い意味〕 a bad meaning; 〖法〗 bad faith.
〓~がある
(be) 「ill―disposed [ill―willed, malicious, spiteful]
◾~がある批評
a spiteful criticism
◾~がない
(be) 「innocent [harmless]; (be) without malice
◾別に~があって言ったわけではない.
I meant no 「harm [offense].
◾~があってしたことではない.
She didn’t do it 「out of [from] malice.
◾彼の行為には~が感じられる.
One senses 「malice [spite] in his actions.
〓~に取る[解する]
take sth 「amiss [ill]; attribute a bad meaning to 〖sb’s 「words [actions]〗; put a bad construction on sth
◾~に満ちている
(be) filled with 「malice [ill will].
〓~の第三者
〖法〗 a mala fide third party; a malicious third party
◾~の所有者
〖法〗 a mala fide holder.
〓~を抱く
bear [harbor] malice [ill will] 〖to [toward]…〗; bear sb 「spite [ill will, malice]
◾彼は私に対して~を抱いている.
He harbors ill will toward me.

『新和英大辞典 電子増補版』 研究社

精神薬理学(セイシンヤクリガク)
[英] psychopharmacology
薬物と精神活動との関係を研究する学問。薬物と精神活動との関係には神経活動の存在を考えざるをえないので,神経薬理学と統合した神経精神薬理学(neuropsychopharmacology)の内容とほとんど同じである。1950年代に統合失調症や躁うつ病,神経症,てんかんなどの治療薬が発見され,精神薬理学が新しい学問として独立・発展することになった。
(511053)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

psychopharmacology (sī′kō‐far′mă‐kol′ŏ‐jē)〓
[psycho-+ G. pharmakon, drug+logos, study].精神薬理学(①精神障害の治療に用いる薬剤の用法に関する学問.②薬剤と行動との関係を研究する学問).=neuropsychopharmacology.

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

前頭葉白質切截術(ゼントウヨウハクシツセッサイジュツ)
[英] frontal leucotomy(leukotomy), frontal lobotomy
精神症状の改善をはかる目的で,1935年モニス(Moniz E)によって創始された前頭葉に外科的侵襲を加える脳外科手術。その後フリーマン(Freeman W)とワッツ(Watts JW),ポッペン(Poppen JL)らにより改良された方法が広く用いられた。眼窩上後方の冠状縫合上に穿頭を行いロボトームを刺入し,上下方向へおのおの30°ずつ動かすことにより前頭葉皮質下白質の神経線維の切断を行う。重篤な後遺症を残すため現在では行われていない。ロボトミー(lobotomy)と通称された。
(471058)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

lobotomy (lō‐bot′ŏ‐mē)〓
[G. lobos, lobe+tomē, a cutting].
1.葉切断〔術〕,葉切り〔術〕(葉を切開すること).
2.ロボトミー(大脳葉にある神経路を1つ以上分断すること).
→prefrontal lobotomy
→transorbital lobotomy

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

せいしんげか【精神外科】
psychosurgery
ロボトミーなどの脳に対する外科的処置を加えることによって精神症状を改善しようとする専門分野。 1935年,ポルトガルの医師⇨モニス(1874~1955)が創始した前頭葉白質切截術が,現代医学における精神外科の最初であった。しかし,この方法は人格変化を残すので,今日ではほとんど行われていない。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

Hippocratic Oath (hip′ō‐krat′ik ōth).〓
ヒポクラテスの誓い(通常,医学士の学位を受けるときに医師が行う誓い.そこで,医師は医学の実践に際して,倫理的な原理を守ることを約束する.この誓いは,Cos島出身のHippocrates(紀元前460―377)にちなんで名づけられている.医学の同業者組合,すなわち,アスクレピアズ協会に属していた彼は,医学の父と称えられている.なぜなら,彼は,医学という技術と科学を哲学や宗教から分離した初めての人だからである.しかしながら,その誓いは,Hippocratesの言語資料体を構成する無数の様々な書物の中で現在まで伝わっているが,それがHippocrates自身によるものであるということについては,近代の学者たちは疑いをもっている.この誓いが,(アスクレピアズ協会の人々の間で,すべて認められ,許されていた)自殺,安楽死,堕胎,手術を禁止していることは,むしろPythagoras学派に由来していることを示唆している.この誓いがいつつくられ,そのもともとの使われ方がどうであったのかはわかっていない).
「私は,医神Apollo,Asclepius,Hygeia,Panaceia,そしてすべての神と女神の名に懸けて,そして,これらの神,女神を証人として,この誓いと約束を果たすことを,私の能力と判断によって誓う.私に医学技術を教えてくれる人を両親と同様にみなす.私の人生,そして必要ならば,私の食料もその先生に分け与える.先生の子供たちは私の兄弟とみなし,彼らに医学技術を教える.医学知識は,書いて,口頭で,あるいは実習で,私の息子たちや私の先生の息子たちに教える.同様に,私たちの職業の規範に従い,他の何者にも従わずに,誓約書に署名し,誓いを宣言したすべての医学生に教える.私は,私の能力と判断に従って,病人の利益のために治療手段を施す.危害を加えたり犯罪を犯したりはしない.私は,誰に対しても,求めに応じて死をもたらす薬を与えたりはしない.また,その使用を勧めたりはしない.同様に,女性に堕胎をさせる薬を与えない.私は純粋な,神聖な生活をし,医療技術を磨く.私は,結石による病気であっても手術はしないが,それに従事する人を妨げたりはしない.私が訪ねる家はどこも,私は病人の利益のためだけに訪れ,意図的な悪行や姦通はしない.特に,男性でも女性でも,自由人でも奴隷でも,性的に親密な関係を結ぶことはない.私は,職業によるものであってもなくても,私が見たり聞いたりした,人々の個人的な生活に関する私的な性質について一切漏らすことはしない.なぜなら,私はそうした情報を暴露することの恥を理解しているからだ.もし,私がこの誓いを実行し破らなければ,私は人生と職業の実践に満足し,人々の間で永遠の栄誉に浴するだろう.もし,私がこの誓いを破り,偽りの誓いをしたら,私のすべては反対になるだろう」
米国とカナダのほとんどすべての医学校の卒業生は,学位授与式の間,医学の実践において,倫理的な原理を守るために,何らかの形式の制約を暗唱する.しかし,いまや,Hippocratesの誓いの原文を使用する機関は少ししかない.ほとんどの卒業生は,規則上あるいは道徳上制約にしばられるというよりも,その訓練を,単なる形式上のもの,あるいは伝統への敬意を示すものとみなされているようにみえる.この誓いの現代版は,典型的には,自分の先生の子供たちに無料で医学技術を教えることを約束するとか,手術をしないなどといった,文化的にすでにない用法,すなわち遺物を除外している.より重要なことは,それらのほとんどはまた,神への祈祷を除外し,宗教的な勤めや義務およびそれを破ったときに受ける罰への注意を除外し,さらには,安楽死や医師の助けを借りた自殺,堕胎,患者との性的な関係を誓ってやめることを除外していることである.RoeらとWade(1973年)の裁判において,合衆国大法廷は,堕胎を禁止する点でHippocratesの誓いの権威を拒否した.この誓いは古代の文化水準を反映しておらず,ユダヤキリスト教の堕胎に関する考え方の影響を長くもち続けてきたものであるとの理由による.「まず傷つけないように」(しばしばラテン語で“primum non nocere”と引用される)という一般によく知られた規範は起源がわからないが,Hippocratesの誓いの一部ではない.

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する殉教とは?

パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳】

コリント人への第一の手紙

テサロニケ人への第一の手紙 

1-3

5-8

ローマ人への手紙

5-2-5

【自由の相互性〈相互愛〉】とは【Holy Communion】の一つの顕れとして存在する

せいさん【聖餐】
Eucharistia; holy communion
新約聖書が伝える,イエスが十字架につけられる直前に弟子たちとともにしたパンとぶどう酒を中心とした最後の晩餐,およびのちに教会がその再現として執行してきた典礼的会食をいう。後者は特に聖餐式,感謝の祭儀と呼ばれ,キリスト教会の典礼の中心となっているが,その意義,起源,執行様式などについては時代と各教会とに従って理解にかなりの相違がある。ローマ・カトリック教会は聖餐におけるキリストの犠牲の意義を強調し,一般には聖餐に代えてミサあるいは聖体祭儀と呼び,holy communionはミサ中の聖体拝領をさす語として用いる。ギリシア正教会では聖餐を聖体礼儀という。聖書奉読,祈祷,パンとぶどう酒の奉献,その拝領などによって十字架上で死に,復活したキリストとの交わりに入ると理解することがほぼ共通している。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

せいたいはいりょう【聖体拝領】
holy communion
おもにカトリック教会用語で,ミサ聖餐においてキリストのからだとなったとされるパンとぶどう酒を食すること。キリストとの霊肉の一致と拝領者相互間の一致がもたらされる。本来ミサの主要部分の一つで,参加者全員の拝領が理想的であるが,司式者の拝領のみが義務となり,のちにはミサ以外での拝領も行われるようになった。ラテン式では司式者以外はぶどう酒を飲まない。プロテスタントでは陪餐といい,原則として,日曜日の礼拝式で,会衆がパンの形色のもとに聖餐を受ける。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

com・mun・ion [kəmjúːnjən]〓
―n.
1 ⦅しばしば C―,時に Holy C―⦆ 〖教会〗
(1)聖餐(せいさん),(カトリックで)聖体拝領,(正教会で)領聖:キリストの聖体の象徴であるパンと霊の象徴であるぶどう酒を拝領すること:〓
(2)((1)で用いる)パンとぶどう酒(Eucharistic elements).
(3)(プロテスタントで)聖餐式,(カトリックで)聖体拝領,(正教会で)聖体礼儀. cf. EUCHARIST,MASS 1:OPEN COMMUNION/CLOSE COMMUNION.
(4)(聖餐式で歌われる)陪餐唱,聖体拝領唱(antiphon).
2 共通の宗教を信ずる仲間,宗教団体,信仰団体;宗派:〓
3 (…との)交際,親密,親交⦅with ...⦆:〓
4 (…との)心[感情]の交流,親しく語り合うこと,共感;霊的交わり⦅with ...⦆:〓
5 共有;共有の状態:〓
[c1390.中期英語<ラテン語 commūniō 共有すること(commūnis COMMON より)]
com・mun・ion・a・ble
―adj.
com・mun・ion・al
―adj.
com・mun・ion・al・ly
―adv.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

そうごふじょ【相互扶助】
mutual aid
ロシアの P.A.クロポトキンが唱えた生物学,社会学,倫理学を貫く原理。ダーウィンの進化論のうち,生存競争の原理のみを強調することへの批判として,生物界には生存競争以上に相互扶助の原理が働いていることを立証しようとしたもので,1902年に刊行された『相互扶助論』は,彼のこのような理論の集大成である。彼は,相互扶助を一般にいわれるように種の存続や繁殖のためにだけ行われるものではなく,もっと根源的な自己保存の本能,つまり食欲や睡眠と並ぶ本能的欲求であるとし,これを社会的本能,あるいは⇨社会性と名づけた。さらにこの見地を人間社会にもあてはめ,相互扶助こそが人間社会の進歩と発達を推進した原動力であると説いた。彼はこのことを通じて,資本主義社会が人間社会の進歩と発達にとって決して望ましいものではないことを立証し,現代の競争社会に対するアンチテーゼとして提起しようとしたのである。また,正義とか愛という道徳観念も,相互扶助として現れた社会的本能あるいは社会性によって培われたものとしてとらえ,倫理学の体系としてまとめようとしたが,これは未完に終った。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

じゆう【自由】
liberty; freedom; Freiheit; liberté
一般的には,心のままであること,あるいは外的束縛や強制がないことを意味する。哲学上は,人間が行為する際に一つの対象を必然的に追求するのではなく,それ以外の対象をも選びうる能力をいう。この場合,自由は選択する意志の自由であり,意志とはその本質上「自由意志」 liberum arbitriumにほかならない。古代ギリシアでは,アリストテレスが選択の自由を主張し,中世スコラ哲学においては,神の恩恵ないし予定に対する人間の自由の存否という形で自由が問われた(→恩恵論争)。近代にいたってこの問題は「自由と必然」という対立概念として,とりわけドイツ観念論哲学によって定式化された。カントは自由の理念を実践理性の理念として積極的に認め,普遍的法則となるように行為しようとする人間の自律的な意志を倫理学の基礎とした。以後,現代にいたるまで,人間の行為において自由意志は一層重要な位置を与えられながらも,一方で無条件に外的な状況や強制から自由な自律性を認めることには困難があることが自覚されており,⇨実存主義の立場はそれに対する一つの解決でもある。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

イマーゴ(真善美の回復)としての「魂の浄化(Holy Communion)」である。

人は子供(偽善(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))を祝福し最高善の神と敵対する。しかし最高善の神は子供(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))を祝福する。

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対する「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の「敵対感覚〈原罪〉」について「最高善の神の奇跡」の在り方を記す。

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
スケープゴート

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
スケープゴート
scapegoat
いけにえの山羊(やぎ)の意。出典は旧約聖書『レビ記』。⇨贖罪(しょくざい)のためやぎに罪を背負わせて野に放ったという故事からこの言葉が生れた。転じて,現在では民衆の不満や怒りの解決のために,代りに攻撃の標的とされてしまう者,集団,国,民族などのことをいう。ナチスが民衆の不満をユダヤ人への憎悪攻撃に転嫁,解消したのはこの典型的事例である。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
スケープゴート【scapegoat】
(聖書に見える「贖罪の山羊」の意)民衆の不平や憎悪を他にそらすための身代り。社会統合や責任転嫁の政治技術で、多くは社会的弱者や政治的小集団が排除や抑圧の対象に選ばれる。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
scápe・gòat〓
―n.
1 他人の罪を負う者,身代わり,スケープゴート:〓
2 〖聖書〗 贖罪(しょくざい)のヤギ:古代ユダヤで贖罪の日(Yom Kippur)に荒野に連れ出され,アザゼル(Azazel)に供されたヤギ;祭司長が人々の罪を象徴的にその頭に負わせてから野に放した. cf.〖聖書〗 Lev.16:8,10,26.
―v.t. …に罪[責任]を転嫁する.
[1530]
scápe・gòat・er
―n.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

贖罪の日

【注意】「自由の相互性〈相互愛〉」の【理性、叡智、聖戦】と「スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉」の【傲慢の大罪、欲望の美化、冒涜の賛美】

「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の在り方の基本中の基本「生きてるだけで丸儲け」
それは芸術〈
パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉の贋作
「特権階級」の在り方

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」とは端的に指摘して「頭の悪い人間」の「権威付けシステム」である。
もっと簡単に言うと「馬鹿に権威付けするシステム」のことを言う。
それは「宇宙飛行士」の選考や「様々な勲章」の受賞のことを言うのだ。
芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」として存在する。
そしてその権威は最高善の神によってしかありえない。
しかし例を挙げれば新海誠監督が受賞した文化庁芸術選奨は文部科学大臣が賞を授与する。
それは芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉が最高善の神によってありえる権威なのに対して、芸術選奨が「国家機構」によってあたえられる権威でしかないことを示している。
「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉の権威」は最高善の神によってしか与えられない。
しかし新海誠はいくら芸術選奨を受賞したと吹聴しても「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」でしかないのだ。
それは明らかな「芸術〈パウパウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉の贋作」を意味している。
「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉の権威」が最高善の神によってしかありえない「最高善の神の王国(真の世界)」はある。
その「最高善の神の王国(真の世界)」において「人の世」の「現実の世界」は〈国家機構や財団、国際機関〉により「全て」の「権威付け」が為される。
それは「人の世」の在り方と「最高善の神の王国(真の世界)」の在り方の「虚実」である。

きょじつ【虚実】
文学論の用語。時代により人により,真実(事実)と虚構,真実と虚偽,実体と表現,写実と虚構など,さまざまな意味に用いられる。もと中国の詩文書画論などに用いられた語で,日本では歌論,俳論,浄瑠璃論,物語小説論などに広く用いられた。談林俳諧では実よりも虚を重んじ,芭蕉は虚実を止揚し一元化した境地を重んじ,各務支考(かがみしこう)は最も組織的に虚実論を説いている。近松門左衛門の虚実皮膜論は有名。藤原定家の歌論や世阿弥の能楽論に説く「花実」の語も「虚実」と似た概念をもつ。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

きょじつ‐ひまく【虚実皮膜】
(近松門左衛門の語。「難波土産」に見える。「皮膜」はヒニクとも読む)芸は実と虚との皮膜の間にあるということ。事実と虚構との中間に芸術の真実があるとする論。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

虚実(キョジツ)
漢方医学の用語の1つ。生体が外乱因子によって歪みを受けたとき,その修復反応のために動員された気血の力によって低反応型と高反応型とに分かつ考え方。実とは修復反応の場が気・血に満ちている状況で,虚とは反応の場における気・血の力が乏しい状況。この反応様式は,生体に加えられた外乱因子の力と,生体全体の気・血の状態により規定される。
(261001)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院
  1. 【火と洗礼】信仰の火(信仰の光の道)の在り方

  2. 【平和にあらず】分裂は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の在り方

  3. 【時の徴】デマゴーグ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の在り方とイマーゴ(真善美の回復)の在り方

「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して「神演出(敵対による見世物〈ショー〉」を形成する。

それは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」が「見世物」であり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」は「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」が演じる「演劇」であることを示している。

「見世物」と「演劇」の違いはテレビ局(TBSなど)のそれぞれの理念の有無を見るとよく理解できる。

最高善「演劇(自由の相互性〈相互愛〉)」を放送するテレビ局はTBSである。

多分その理念(自由の相互性〈相互愛〉)の有無に違いがあるだろう。

TBS今道順三とジョン・F・ケネディの関わりが大きかったとも想像される。

理念(自由の相互性〈相互愛〉)の有無が大きかったのだ。

TBS今道順三による「ジョン・F・ケネディ」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の報告

テレビ業界に対するカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のカタルシス

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する「敵対感覚〈原罪〉」は「ケネディ暗殺」となり「見せしめの処刑(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」として結実した。
ナザレのイエスのように・・・

2023年3月27日(月)撮影
撮影者 Soma Oishi
現在のTBS放送センターとハリーポッターの梟
ミネルヴァの梟
叡智を示している

ミネルヴァ‐の‐ふくろう【ミネルヴァの梟】 ‥フクロフ
ミネルヴァの連れている梟。知恵の象徴。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

アテナ
Athena
ギリシアの女神で,ラテン語名を⇨ミネルワという。ゼウスと知恵の女神⇨メティスの子。メティスを最初の妻にしたゼウスは,彼女からやがて生れる男の子に自分の王位を簒奪される運命にあると知り,すでにアテナを妊娠していたメティスを腹に飲み込んでしまったところ,頭に陣痛を感じたのでヘファイストスまたはプロメテウスに命じ,斧で頭のてっぺんを割らせた。するとその割れ目から,武装した姿で飛出したのがアテナで,これによって彼女は戦いの女神であると同時に,知恵および技術万般を管掌することになった。神話のなかで彼女は,特に英雄たちの近しい守護者として彼らを危難から救い,手柄をあげるのに必要な佑助を与える。⇨ポセイドンとアッチカの支配権を争って勝ち,アテネ市の守護女神となったとされ,同市の⇨アクロポリスにいまも残る⇨パルテノン神殿は,この女神の最も有名な社であった。「処女神宮」を意味するこの社名のとおり,アテナは永遠の処女で,彼女の裸身を見た⇨テイレシアスは,罰として盲目にされたという。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
フェイディアス作『アテナ・パルテノス』黄金象牙像(前438)のローマ時代模刻(130頃)

Athene /əˈѲiːni/ (also Athena)
<Greek Mythology>
the patron goddess of Athens, typically allegorized into a personification of wisdom.
Also called PALLAS.
Roman equivalent MINERVA.

●Oxford Dictionary of English, Second Edition revised

Mi・ner・va [minəːrvə]〓
―n.
1 ミネルバ:古代ローマの知恵・工芸・芸術・戦術の女神;ギリシア神話の Athena と同一視される.
2 (一般に)知恵の優れた女性,学識のある女性.
3 女子の名.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

Minerva /mɪˈnəːvə/
<Roman Mythology>
the goddess of handicrafts, widely worshipped and regularly identified with Athene, which led to her being regarded also as the goddess of war.

●Oxford Dictionary of English, Second Edition revised
2023年3月27日(月)撮影
撮影者 Soma Oishi
2023年3月27日(月)撮影
撮影者 Soma Oishi
TBS開局70周年を記念して
舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』
2023年3月27日(月)撮影
撮影者 Soma Oishi
2023年3月27日(月)撮影
撮影者 Soma Oishi
現在のTBS放送センター
さくら坂より
2023年3月27日(月)撮影
撮影者 Soma Oishi
TBS創立十周年を記念して
今道潤三
アメリカのテレビネットワーク 機能と運営
当時のケネディ政権に招聘され研究したものらしい。
ケネディはアイルランド系でありカトリックであった。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."

また「世界信仰」としてあった「コミュニズム(Holy Communion)」が大きかったかもしれない。

「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に敵対する闘争となりそれが「見世物(ショー)」とされる。

そういった「見世物(ショー)」は古代ローマの「グラディエーター」として行われた「愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と同じであるだろう。

それは「神演出(敵対感覚〈原罪〉による見世物(ショー))」であり「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」である。

しかし「演劇」は「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」によって演じられる。

「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」は「偽善」の「仮面」を意味しているという指摘は誤りである。

「偽善」は「理性(自由の相互性〈相互愛〉)」に対する「敵対感覚〈原罪〉」を示している。

それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」に対する「敵対感覚〈原罪〉」が「サタン(最高悪)」とされることと同じである。

「偽善」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」に対する「敵対感覚〈原罪〉」を正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)する「仮面」をつけた「サタン(最高悪)」と定義される。

そして「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」は「理性(自由の相互性〈相互愛〉))」とされる。

一方で「偽善(仮面)」が形成した「理性(自由の相互性〈相互愛〉)の仮面(偽善)」をつけた最高悪(敵対感覚〈原罪〉)が人間関係(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)で正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)される。

これが人の世の「理性(自由の相互性〈相互愛〉)」の在り方の「虚実」である。

当然に「理性(自由の相互性〈相互愛〉)の仮面(偽善)」は虚飾である。

「理性(自由の相互性〈相互愛〉)」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の回復(カタルシス)を行うメシア信仰である。

これは基本的な「理性(自由の相互性〈相互愛〉)批判(Holy Communion)」であり「最高悪批判」である。

「敵対感覚〈原罪〉」を超感覚(一方的自由の陰険)として立てただけの理屈は「理性(自由の相互性〈相互愛〉)」を完全否定した特殊詐欺(最高悪)でしかない。

最高悪(敵対感覚〈原罪〉)を立てた「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」は「最高悪崇拝」の「カルト教団」と同じである。

「理性(自由の相互性〈相互愛〉)」に対して「偽善(理性の仮面)」をつけたサタン(最高悪)が「敵対感覚〈原罪〉」によって行う攻撃に対し最高善の神の「聖戦」が始まる。

「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」はその語源を確認してみると「仮面」ではなくその発声(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))を示している。

それは「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」の「演劇」によりイマーゴ(真善美の回復)という治療が行われることを意味していて「魂の浄化(Holy Communion)」の作用を齎す。

患者(病人)はイマーゴ(真善美の回復)へ導かれるのだ。

それが「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の回復である。

「演劇」が「魂の浄化(Holy Communion)」だとする意味はここに示されている

そしてその在り方は「ナザレのイエス」であり「メシア」の実存を世界市民に示すことになる。

最高善の神の黙示とは「魂の浄化(Holy Communion)」と「魂を穢す(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の関係として表出するのだ。

それは先程指摘したテレビ局(TBSなど)の各社の理念(自由の相互性〈相互愛〉)の有無に如実に顕れていて理解しやすい。

最高善の神を信仰するか?(TBS)

サタン(最高悪)を崇拝するか?(その他のテレビ局)

治療(Holy Communion)であるか?(TBS)

加持祈祷(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であるか?(その他のテレビ局)

フロイト(至高の抽象化の高み)(自由の相互性〈相互愛〉)であるか?(TBS)

ユング(原始的段階に近い在り方)(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)であるか?(その他のテレビ局)

カタルシス

カタルシス【katharsis ギリシア】
(浄化・排泄の意)
①古代ギリシアの医学で、病的な体液を体外へ排出すること。瀉血(しゃけつ)。
②オルフェウス教・ピタゴラス学派・エンペドクレスなどにおける、罪からの魂の浄(きよ)め。
③アリストテレスは悲劇の目的をパトス(苦しみの感情)の浄化にあるとした。最も一般的な理解では、悲劇を見て涙をながしたり恐怖を味わったりすることで心の中のしこりを浄化するという意味。
④抑圧されて無意識の中にとどまっていた精神的外傷によるしこりを、言語・行為または情動として外部に表出することによって消散させようとする心理療法の技術。浄化法。精神分析の用語。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

カタルシス
katharsis
ギリシア語で「排泄」「浄化」の意。哲学と徳による魂のカタルシスを語ったプラトンの用法などもあるが,一般には悲劇の効果は恐れと憐れみによるカタルシスにありとしたアリストテレスの意味で使われる。その解釈には2説あり,感情を純化するとするルネサンスからレッシングにいたる倫理的解釈と,感情のうっせきを瀉泄(しゃせつ)するとする解釈があるが,アリストテレス自身は『政治学』で,ある種の音楽の効果としてヒポクラテスの医学にいう排泄と同様な意味でカタルシスを語っているところから,後者のほうが有力。これを全芸術の効果と考えようとする試みもある。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

カタルシス
katharsis
精神医学用語。浄化法ともいう。想起するだけで不快感や不安がよみがえる体験や心のしこりを自由に表現させることによって,心的緊張を解く方法。精神分析では暗示や示唆を避けるのに対し,方法に固執せず,内部信号系を外部信号系(言動)に転換させる過程と結果を重視するものもある。麻酔分析,集団療法,自律訓練など,いろいろな方法が用いられる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

カタルシス
[英] catharsis
特定の観念,記憶,情緒,衝動などを発散,解放すること。治療的作用を含むと理解されている。元来は浄化,清掃などを意味するギリシア語であるが,精神医学領域では,ブロイアー(Breuer J)とフロイト(Freud S)が,心の中に溜まっていたものを催眠下で発散させる催眠浄化法を提出したのに始まる。現在では,そのほか,麻酔面接,自由連想法,遊戯療法,芸術療法等々,各種の治療法が効果を果たす1つの要因がカタルシスであると理解されている。
(511007)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

catharsis (kă‐thar′sis)〓
[G. katharsis, purification< katharos, pure].
1.しゃ(瀉)下,便通,カタルシス.=purgation.
2.カタルシス,浄化〔法〕,開通法(過去の,特に抑圧された出来事から感情を解き放つよう精神分析学的に指導して,情動緊張,不安を取り除くこと).=psychocatharsis.

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

psychocatharsis (sī′kō‐kă‐thar′sis).〓
精神浄化〔法〕,精神カタルシス.=catharsis (2).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

治療

治療(チリョウ)
[英] medical treatment, therapy, cure
[同義語] 【処置,療法】
疾病や外傷を治したり癒したりすること。あるいはそのための手技・手法。食事療法,内服療法,注射療法,吸入療法,外科的療法,理学療法,精神療法などさまざまな治療法がある。かつては開発者の人名のついた治療法([例] Carrel’s treatment;創傷の治療法など)が多数あったが,これらはほとんどが歴史的なものとなり,施行されるものは少なくなっている。
(271011)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

ちりょう【治療】
(medical)treatment; healing
病気の癒(いや)しにかかわる行為一般のこと。特定の病因論に対応する形で治療体系も発達している。近代医療においては,身体の異常を引き起こしていると考えられるウイルスや細胞の除去・抑制が治療とされる。一方,伝統社会においては,病気の原因を自然界からの働きかけ,祖霊の怒り,近親相姦(そうかん),憑依(ひょうい)霊などに求めるため,治療も儀礼の形態をとる。それゆえ何をもって病気が癒された・治ったとするかは文化的な病気観・健康観による。当該社会に内在するメタファーや伝統社会の呪医が使用する薬草などにも実際の治療効果が認められている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

加持祈祷

か‐じ【加持】 ‥ヂ
〔仏〕(梵語adhisthana)
①仏が不可思議な力で衆生(しゅじょう)を加護すること。
②真言密教で、仏と行者の行為が一体となること。災いを除き願いをかなえるため、仏の加護を祈ること。印を結び真言を唱える。源氏物語(若紫)「わらはやみにわづらひ給ひて、よろづに、まじなひ・—などまゐらせ給へど」
③供物・香水・念珠などを清めはらう作法。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

きとう【祈祷】
神秘的な力をもつ特定の対象に対し,期待する結果を得るために祈ること。インドのベーダ時代にあっては,たとえば『リグ・ベーダ』にすでにみられるように,肺結核をなおすため,流産防止のため,敵を破るための呪句などがあることからも,祈祷が盛んであったと考えられるが,初期の仏教では行われなかったとみられる。やがて,仏教にも呪術的要素が取入れられるようになって,次第に盛んとなり,特に密教においては重要となり,鎮護国家などの目的のために,厳密な規定のもとに実行される。そのためには祈願所が設けられたり,護符,護摩札などが重んじられて,祈祷の要素は日本の民間信仰のなかに融合して深く入っている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

かじ‐きとう【加持祈˟祷】カヂキタウ
一般に、病気・災難などをはらうために行う祈祷、または、その儀式。印を結び、真言を唱え、いくつかの象徴的器具を用いて行う。

『大辞泉 第二版』 小学館

◗加持祈祷
incantation and prayers
♦加持祈祷をする
perform incantations
◾加持祈祷で病気を治す
perform a faith cure

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

イクトゥス(イクテュス、ichthys ichtus、ギリシャ語: ΙΧΘΥΣ/ ἰχθύς 発音 [ikʰtʰýs]

ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)

persona (per‐sō′nă)〓
[L. per, through+sonare, to sound.役者の発声を助ける古代劇用の面についている小さなメガホンから声が聞こえるの意].ペルソナ(その個人全体を統合する語.その人個有の物理的,心理的,行動的属性の全体像.Jung心理学において,パーソナリティの中で周囲に受け入れられる理想的なもの,真のパーソナリティを隠すために装われたもの.→ego; self (4). cf. shadow (2)).
『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

※ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を示している。

最高善の神の王国の到来


風の谷のナウシカの試練

カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」とカトリックエリート(Holy Communion)の「〈純愛の殉教〉」

People bless Children (Hypocrisy) and oppose God.
But God bless the Child.
The Child is a Persona with a Catholic sensibility.

「偽エリート」とは「人」しか見えていない故に「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が理解できない。

それは「特権階級(王族〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)の存在」を言う。

それは「人間関係(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)が形成するプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」のことを示している。

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が理解できないバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)である。

そして彼らは「社会的カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」となり「カトリックエリート(Holy Communion)」と対立する。

それは「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」と「〈純愛の殉教〉」の間の決定的な差異となって表出し「最高善の神の黙示〈revelation〉」が必要となるのだ。

【萩尾望都タロット 善政 「7(Ⅶ)」】

萩尾望都タロット 女帝 3 THE EMPRESS

萩尾望都タロット 皇帝 4 THE EMPEROR

【萩尾望都タロット 七元徳】

【萩尾望都タロット パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳】

萩尾望都タロット 女教皇 2 THE HIGH PRIESTESS

萩尾望都タロット 教皇 5 THE HIEROPHANT

萩尾望都タロット 星 17 THE STAR

萩尾望都
パウロの手紙に見られる信仰、希望、愛の3つの徳の対神徳

【萩尾望都タロット 古代ギリシア知恵勇気節制正義の4つの枢要徳(人間的徳の中心的な役割を果たすもの)】

萩尾望都タロット 力 8 STRENGTH

萩尾望都タロット 正義 11 JUSTICE

萩尾望都タロット   吊るされた男 12 THE HANGED MAN

萩尾望都タロット 節制 14 THE TEMPERANCE

萩尾望都
古代ギリシアの知恵、勇気、節制、正義の4つの枢要徳(人間的徳の中心的な役割を果たすもの

宮崎駿先生と萩尾望都先生の作品が形成するフロイトの治療(自由の相互性〈相互愛〉)のイマーゴ(真善美の回復)-「トーマの心臓」の純愛

宮崎駿先生は「特権階級(王族〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)の存在」は「オタク」でありそのプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉が「疾病」を招いていると指摘している。

それはフロイトの治療(自由の相互性〈相互愛〉)が抑圧〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉により発症した異常行動(ヒステリー)の患者を対象としていることで理解される。

フロイトは患者をカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」へ導くことを治癒としている。

それは「宮崎駿先生と萩尾望都先生」の「作品の在り方」と「同じ感覚」であることを示している。

これは「魂の浄化(Holy Communion)」と「魂を穢す(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の関係と言える。

「ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」が抑圧〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の主体としての人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」と名付けフロイトと敵対したことはユングの在り方が理解しやすい。

「ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」のペルソナは「偽善(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の在り方であり、「フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)」のペルソナは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の在り方である。

「サタン(最高悪)と最高善の神の聖戦」が「ユングとフロイトの関係」であるのだ。

萩尾望都先生は宮崎駿先生と同じでフロイトの治癒(自由の相互性〈相互愛〉)を目的としたイマーゴ(真善美の回復)を制作された。

「トーマの心臓」はその代表作品と言っていいと思う。

【Visconti Sforza Tarocchi 善政 「7(Ⅶ)」】

【Visconti Sforza Tarocchi 七元徳】

ヴィスコンティ・スフォルツァ
パウロの手紙に見られる信仰、希望、愛の3つの徳の対神徳
ヴィスコンティ・スフォルツァ
古代ギリシアの知恵、勇気、節制、正義の4つの枢要徳(人間的徳の中心的な役割を果たすもの)

宮崎駿に関するオタク認識は芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉との関係(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)としてある。

それは「オタク」が「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」への「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」として存在している現実が「宮崎駿本人」を深く傷つけ疾病となって発症していることを示している。

地上の王たちの肉はすべての鳥の餌に饗され、獣と偽預言者は捕えられる。

rev・e・la・tion [rèvəléiʃən]

rev・e・la・tion [rèvəléiʃən]〓
―n.
1 (隠れていたものを)見せること,暴露,口外,すっぱ抜き;発覚.
2 暴露された事物;(人にとって)驚くべき[予想外の]新事実,思い掛けないこと⦅to ...⦆:〓
3 〖神学〗
(1)啓示,天啓,黙示.
(2)啓示されたこと,お告げ:〓
(3)啓示を述べているもの(聖書など).
4 ⦅時に the Revelations⦆ ヨハネの黙示録(The Revelation of St.John the Divine,the Apocalypse). 略:Rev.
5 ⦅R―⦆ ⦅商標⦆ リヴェレイション:米国のパイプタバコ.
[c1303.中期英語 revelacion<後期ラテン語 revēlātio〔ラテン語 revēlāre「明らかにする(REVEAL)」より〕]
rev・e・la・tion・al
―adj.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

トーマの心臓 写真

トーマの心臓
You were the Catholic elite.

聖なるお守り

イイマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。

聖書の写真

「マルコによる福音書」は私が福岡県原田書房からネット購入したもの
「新約聖書」と「聖書」は母の明治学院大学学生時代のもの

1 カトリックの「七元徳」

枢要徳は、基本的に以下の4つから成る[3]
知慮・思慮・知恵: φρόνησις プロネーシス, : prudentia, sapientia, : prudence, wisdom)
勇気: ἀνδρεία アンドレイア, : fortia, : fortitude, courage)
節制: σωφροσύνη ソープロシュネー, : temperantia, : temperance)
正義: δικαιοσύνη ディカイオシュネー, : justitia, : justice)
古代ギリシア知恵勇気節制正義の4つの枢要徳に、『新約聖書』のパウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳を加えたものである。
カテキズムにおいては、徳を人間的徳と対神徳に分け、4つの枢要徳を人間的徳の中心的な役割を果たすもの、信仰・希望・愛の3つを対神徳とする[1][2]

Wikipedia

【CARY-YALE VISCONTI 善政 「7(Ⅶ)」】

【CARY-YALE VISCONTI 七元徳】

CARY-YALE VISCONTI
パウロの手紙に見られる信仰、希望、愛の3つの徳の対神徳
CARY-YALE VISCONTI
古代ギリシアの知恵、勇気、節制、正義の4つの枢要徳(人間的徳の中心的な役割を果たすもの)

上段三枚の対神徳「愛徳」「信徳」「望徳」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」により王族〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉を討ち取る図柄である。

下段四枚の枢要徳「正義」「勇気」「思慮」「節制」は人間的徳を示している。

この3人の王冠の人物は「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する王」であり、「最高善の神に対する敵対感覚〈原罪〉の正当化〈〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉〉」として存在している。

故に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が人の王族〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉としてそれらを討ち取っている。

2 「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の循環論証」

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」と「循環論証」に於ける「神と聖書の関係」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「神と聖書のパラドックス」の関係である。

その「循環論証」とは「プロテスタントデマゴーグ〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の〈doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa〉」として形成された「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」であり「カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)による人類の「立ち位置の印象操作」」のことを示している。

それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が受肉する「至上命令」を貶め否定し「プロテスタントデマゴーグ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「絶対命令」に「絶対服従」させることである。

それは「人類の暴走状態(バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」を示している。

イサクの犠牲

「トーマの心臓」旧約聖書創世記 
イサクの犠牲

3 「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))を操る特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め否定することで暴走した「色情〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」となる。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」は「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」と同じである。

では特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)とは何か?

それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め否定することで「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」が形成するバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の建造をすることである。

何故「人」自らが「技」を得ることが特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であり「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」だとなるのか?

それは「人類の進化」と言えないのか?

最高善の神とは「イマーゴ(真善美の回復)」であり、「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」が形成するイマーゴ(真善美の回復)」はありえない。

「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」が形成する「トートロジーと循環論証」で錬成された「屁理屈(前衛詐欺)」でしかないのだ。

その決定的差異は「信仰」と「デマゴーグ」の在り方となる。

イマーゴ(真善美の回復)の信仰がないものはデマゴーグでしかないからだ。

それは「理屈」を「錬金術」で錬成することで形成された「屁理屈(前衛詐欺)」によって「説得力」を捏造するのと同じである。

「屁理屈(前衛詐欺)」は「猿芸(脅し透かし)」であり、「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは「神芸(福音)」となる。

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」にはイマーゴ(真善美の回復)はあるからだ。

それを否定した「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」にイマーゴ(真善美の回復)があるわけはない。

「カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を完全否定したバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)であり特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」でしかない。

では「人芸」とは何か?

それは「文学賞」とも言える。

高橋源一郎先生は「トートロジーと循環論証」によって小説を書き「高名な文学賞」を受賞された。

しかし彼には「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はない。

彼は屁理屈屋(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)なのだ。

「屁理屈(脅し透かし)」を「錬金術」で錬成することを文学(ポストモダン文学)だと主張された。

しかしそれは完全な「文学特殊詐欺事件(文学特権階級事件〈文学権威付け事件〉)」だった。

「理屈」とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の受肉によっている。

高橋源一郎先生はそれを「見せ掛けの理屈」の「錬金術」である「屁理屈(前衛詐欺)」に貶めたのだ。

高橋源一郎先生には「文学」に対する「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」はなかったのだ。

彼には文学信仰はなくプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉でしかない。

彼は文学者ではなくプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉でありカルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であるのだ!

ヨハネの福音書 冒頭

4 「循環論証」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を完全否定する「神と聖書の論証」であり、それは「最強で最も陳腐な屁理屈(前衛詐欺)」である。〈それは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の「トートロジーと循環論証」で形成される。〉

循環論証

循環論証
論理上の虚偽の一つ。Aの事柄を論証するための論拠として用いられるBの事柄が、Aを論拠としていなければ論証できないという場合をいう。
例えば〈神は存在するということは聖書に書いてある。しかるに聖書は神の言葉である。ゆえに神は存在する〉という類の論証

『岩波哲学小辞典』 岩波書店

じゅんかん‐ろんぽう【循環論法】 ‥クワン‥パフ
〔論〕(vicious circle)論点先取の虚偽の一つ。前提の真理と結論の真理とが相互に依存し合うような堂々めぐりの虚偽の論証。循環論証。悪循環。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

◗循環論法
circular reasoning

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

「トートロジーと循環論証」は「神と聖書のパラドックス」と言われる特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)である。

ここに其の詐術の仕組みが記されている。

これが「ポストモダンの理屈」でありそしてそれが屁理屈(前衛詐欺)である証明となる。

「トートロジーと循環論証」の存在を「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてあった「モダン」の否定とその次に来る「ポストモダン文学」として据えた。

それは文学賞選考委員の文学特殊詐術であった。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」である筈の純文学の転覆(文学信仰に対する敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))であったのです。

特に「三島由紀夫賞選考委員会」は「トートロジーと循環論証」を「文学」とする「最悪事件〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」を起こしました。

これは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め否定するために「トートロジーと循環論証」を使用した「ポストモダンとしての前衛文学詐称事件」だった。

「ポストモダンとしての前衛文学詐称」とは「トートロジーと循環論証」の組み合わせにより「見せ掛けの理屈」を形成する特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であり「ナチズム文学」でありました。

何故「ナチズム文学」であるのか?

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対する敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を「文学」とするものだからです。

「ナチズム文学」は「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の儀式としてあり「最も劣等な文学作品」となります。

「最も劣等な文学作品」が「名誉ある文学賞」を受賞することは「最強の愚民政策」の効果を発揮します。

愚民しか作家になれませんから・・・・

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa-神と聖書を冒涜する〈循環論証〉

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa-神と聖書を冒涜する〈循環論証〉
論理上の虚偽の一つ。
Aの事柄を論証するための論拠として用いられるBの事柄が、Aを論拠としていなければ論証できないという場合をいう。
例えば〈神は存在するということは聖書に書いてある。しかるに聖書は神の言葉である。ゆえに神は存在する〉という類の論証

「岩波哲学小辞典」 岩波書店

トートロジー(同語反復)

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
トートロジー
tautology
文法的には同じ語の無意味な反復をいうが,論理学では,経験的知識の内容とはかかわりなく,必然的に真として成立する命題,ないしその関数関係をいう。常に無条件的に真であるから,⇨恒真式とも呼ばれる。また命題構造としては,主辞に含まれている内容を賓辞がただ析出するだけであるから,分析文とも呼ばれる。トートロジーの論理学的重要性は現代論理学の発展によって認められるようになった。記号論理学は結局,数個のトートロジーの公理式と,これらの公理からほかのトートロジーを導き出すための規則とによって構成された,巨大なトートロジーの体系である。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
どうご‐はんぷく【同語反復・同語反覆】
①主語が述語と同一概念から成る命題のように、説明の用をなさない同じ言葉を無意味に繰り返すこと。
②定義する言葉が定義されるべきものをそのまま繰り返す定義上の虚偽。
③〔論〕(tautology)記号論理学で、要素命題の真偽にかかわらず全体が常に真となるような恒真命題。→トートロジー

『広辞苑 第六版』 岩波書店

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
tau・tol・o・gy [tᴐːtálədʒi|―tɔl―]〓
―n. (pl. ―gies)
1 トートロジー,類語反復:考えを不必要に繰り返して表現すること;特に言葉の不必要な繰り返し;例 widow woman.
2 〖論理〗 トートロジー.
(1)同語反復(文),同意反復(文):「人間は人間である」や「母は女親である」のように,述語が主語の繰り返しになる文.
(2)恒真論理式:「A または非 A」のような要素命題の変更にかかわらず常に真となる論理式;例 This candidate will win or not win.
3 (行為・経験などの)反復,繰り返し.
[1579.<後期ラテン語 tautologia<ギリシャ語 tautología.⇀TAUTO―,―LOGY]
tau・to・log・i・cal [tɔːtəládʒikəl|―lɔdʒ―]〓
―adj.
tàu・to・lóg・ic
―adj.
tau・tol・o・gous [tᴐːtáləɡəs|―tɔl―]
―adj.
tàu・to・lóg・i・cal・ly〓
―adv.
tau・tól・o・gous・ly
―adv.
tau・tol・o・gist
―n.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

循環論証は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)として存在する。

それは堕天使ルシフェルによる最高善の神に対する敵対(〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)である。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は「愚民政策により騙し抜くこと」を示している。

※特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する〈立ち位置の印象操作〉」を示している。

人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する「立ち位置の印象操作」はアダルトビデオ女優が有名であるだろう。

これは「演技論」で言うことができる。

人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する「立ち位置の印象操作」はアダルトビデオ女優の肉体の描写を示している。

それは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の演技ではない。

「他者の意識」に対するストーキングとしてあり得る「立ち位置の印象操作」である。

「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する〈立ち位置の印象操作〉」が「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」である。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」からある「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」は「演技の在り方」である。

ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の確立は演技の核心である。

文学特殊詐欺事件(文学特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)とは「文学賞」に関わる「文学賞選考委員会」及び「文学賞受賞者」を超感覚(一方的自由の陰険)とする「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」のことであるのだ。

2

高橋源一郎先生の直筆サイン

高橋源一郎サイン
高橋源一郎先生の「大石宗磨様宛の自筆サイン」 
新宿紀伊国屋書店の「あだると」サイン会にて

私は高橋源一郎を直に確認するために「新宿紀伊国屋書店」まで出向いた。

彼の目の色と態度、そして彼の直筆のサインが柄谷行人と違って「偶像崇拝と呪術崇拝の原始的段階に近い在り方〈一方的自由の陰険〉」であり「アイドルタレント並みの意識の存在」であることを認めた。

ここに示されたサインをご覧いただければご理解いただけるだろう。

後に示す柄谷行人のサインは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のサイン」であり両者を比較するとその違いが理解しやすいだろう。

5 「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する「貶めと否定」で形成される「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))を操る特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の在り方は「闇の中でも光を失わないイエス・キリストの存在」を指し示すこととなるだろう。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に拠っている。

それは「時の徴」としての「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」であり「聖書」となる。

しかし「聖書」を貶め否定することで「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する黒魔術」を「文学」と する堕天使ルシフェルが「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を扇動し暴走する。

それは最高善の神へ汚い唾(敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の呪詛)を吐き敵対する人の存在を示している。

そのような在り方は悪魔崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であって悪魔主義(Holy Communion)ではない。

高橋源一郎先生は故津島佑子先生の推薦により後に「谷崎潤一郎賞」を受賞された。

谷崎潤一郎とは悪魔主義(Holy Communion)の作家と言われていたのだ。

しかし高橋源一郎先生は悪魔主義(Holy Communion)だろうか?

高橋源一郎先生を悪魔崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の作家であると見做すけれど決して悪魔主義(Holy Communion)の作家ではないと私は思っている。

それは高橋源一郎先生の作品には結局カトリックロゴス感覚(Holy Communion)が全くなくレトリック(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)だけであることから判断される。

「敵対感覚〈原罪〉」の作品であることは明白であり救済(Holy Communion)のない作品なのだ。

レトリック(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の「トートロジーと循環論証」で構成された「敵対感覚〈原罪〉」だけの「黒ミサ賛美作品」である。

それは「悪魔主義」と違って「黒ミサ賛美」を行っているだけなのだ。

「黒ミサ賛美」と「悪魔主義(Holy Communion)」とを比較すれば似て非なるものと指摘する必要があるだろう。

それは「批評家高橋源一郎」と「批評家柄谷行人」を比較吟味して両者の在り方が似て非なるものだと指摘することと同じである。

高橋源一郎先生の谷崎潤一郎賞受賞のデータ

悪魔主義/谷崎潤一郎

あくましゅぎ【悪魔主義】
diabolism
すべてを破壊し否定する悪魔的精神により,人間の暗黒面を追求,その表現に美を見出そうとする文学上の傾向。世紀末の⇨デカダンスはその顕著な実例で,ポー,ボードレール,ワイルドらがその代表者。しかしワイルドの『⇨深淵より』にはキリストへの訴えがあり,ボードレールの『⇨悪の華』はキリスト教への裏面からの接近ともみられ,ポーの究極目標が「天上世界」であったとすれば,悪魔主義は「神の死んだ」世界における求道精神の逆説的表明であるともいえる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

たにざきじゅんいちろう【谷崎潤一郎】
[生] 1886.7.24. 東京
[没] 1965.7.30. 湯河原
小説家。第一高等学校を経て 1908年東京大学国文学科に進んだ。 10年,和辻哲郎らと第2次『⇨新思潮』を起し,『誕生』『刺青』『麒麟』などを発表して文壇に認められ,同年東大を中退。官能美,女性崇拝を基調とした被征服による征服をモチーフとし,やがて悪魔主義と呼ばれる独自の作風へ発展,『異端者の悲しみ』(1917),『⇨痴人の愛』を発表した。しかし,関東大震災で関西に移住してから日本の古典美への傾斜を深め,『卍(まんじ)』(28~30),『乱菊物語』(30),『⇨春琴抄』を書き,現代語訳『源氏物語』(26巻,35~38),大阪船場を舞台にした『⇨細雪(ささめゆき)』,また『少将滋幹(しげもと)の母』(49~50)などの長編を生んだ。さらに『⇨鍵』や『瘋癲(ふうてん)老人日記』(61)の大胆な性描写が大きな反響を呼ぶなど,晩年まで衰えぬ作風を示した。 37年芸術院会員。 49年文化勲章受章。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

それが「ナチズム文学としての扇動文学の正体」である。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の作品は「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」でしかない。

そして「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する黒魔術」は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の作品である。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する黒魔術」は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の書」である。

1989年12月19日(火)朝刊

私は当時朝日新聞において記事を確認した。

朝日新聞の紙面以外に誰一人私に知らせるものは居なかった。

新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の2日後、自殺事件翌日の1989年12月19日(火)朝刊にて確認した事実は「朝日新聞の記事情報」だけだった。

そして後に知るが「奈美さん」の実名報道は朝日新聞だけだったのだ。

【第一章】「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の殉教事變

バビロンの滅亡、挽臼のような石の投下/躓きに面して、ほか

神の怒りによって解放された21の災いののち、イエスは最後にサタンに打ち勝つ。サタンは底なしの淵に投げ入れられ鎖でつながれる。殉教者の血で染まったローマの荒廃の上に、天のエルサレムが浮かび出て、キリストの勝利が明確になる。

ヨハネへの黙示の第19章以降はその諸相を物語る。

1 「トーマの心臓の」の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」と彼女(奈美さん)の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」

斉藤由貴が書いた「トーマの心臓」のコミック評を読むと斉藤由貴は「トーマの心臓」を特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)と見做している。

そしてその「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」が形成する「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」の正体は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」へ堕ちることを意味している。

斉藤由貴の「トーマの心臓」のコミック評は萩尾望都の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)としてあるのだろう。

ここに「違和感」を感じずにいられないのには理由がある。

何故ならば斉藤由貴は萩尾望都を深く敬愛していると書きながら明らかにそのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対して「敵対感覚〈原罪〉」を形成しているからだ。

斉藤由貴は萩尾望都の大傑作を絶賛しているように見えて実は敵対している。

明らかに作為を持ってこのコミック評が掲載されたと見做すべきと判断できる。

萩尾望都のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)から生まれる「信仰」に対し「敵対感覚〈原罪〉」を形成し「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdox」aを行っていることが明白となっている。

ユリスモール・バイハンへ行われた「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」と同じであり「トーマの心臓」を冒涜する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)である。

近年の夏目漱石関連NHK番組データ

これは夏目漱石についても言えることです。

近年「NHKドラマ」などで夏目漱石の人物像の書き換えが行われてきているのを皆さん感じておられるだろう。

それは「真実の発見」というよりプロテスタントデマゴーグ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)としてある。

何故ならば何が真実(Holy Communion)であるか何がデマゴギー(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であるかを判別することが曖昧な事実関係においていくら強硬に主張しても不毛であるだろうからです。

それをいくら強硬に主張しても「嘘本当問題」であり「NHK放送番組」だからそれが「本当」だと一体誰が証明できるのだろう?

そのような疑問がでる理由は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」だけがイマーゴ(真善美の回復)を真に受肉することができるからです。

その証明はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を指し示すしかありえないのだ。

「NHK放送番組」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を指し示していますか?

「NHK放送番組」にあるように「夏目漱石が実はお茶屋の女主人(水商売)とよろしくやっていた。」という事実関係は本当かもしれない。

または「NHK放送番組」は「捏造」であるか「誇張」であるかもしれない。

しかしそのような事実関係の真偽を論っても聖人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))の可否を判断することはできないだろう。

NHKは「夏目漱石」のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)に対する「敵対感覚〈原罪〉」を持つだけで自らのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を指し示しそれを証明する行為を一切行っていない。

それは「最高悪(サタン)の定義」を意味する。

Sa・tan [séitn]〓
―n.
1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):〓
2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名.
[900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

それはNHKがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を持っておらずイマーゴ(真善美の回復)がないことを示している。

今回の証明はNHKがプロテスタントデマゴーグ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であることを究極に示している。

生涯一回もオナニーすらしない存在が立派な聖人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))であるというわけではない。

何故ならばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)こそが聖人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))の第一条件であるからだ。

人が「清貧の思想」と「慈愛の思想」を持っていてもそこにカトリックロゴス感覚(Holy Communion)がなければそれは「偽善(仮面)」とされる。

私は「萩尾望都」も「夏目漱石」も「ペルソナ(フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉))」であって「偽善(ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」ではないと考えている。

そして「トーマの心臓」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が「時の徴」としての「聖書」となった在り方である。

「永遠の命の徴(Holy Communion)」となったトーマ・ヴェルナーによるユリスモール・バイハンに対する「純愛の絶対証明(Holy Communion)」によって可能となった「永遠の救済(Holy Communion)」の話である。

私はこの小学館叢書の「斉藤由貴のコミック評」を読んで不可解に感じた。

このコミック評では特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)に「トーマの心臓」を貶め否定していることになるからだ。

結局このコミック評はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する「敵対感覚〈原罪〉」によって「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」という「立ち位置の印象操作」を行うことになる。

最悪の「オタクの二次創作」と見做せる。

「オタク芸術」なんてありえない。

何故ならば「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」に敵対した「オタク芸術」なんて「最高悪芸術」でしかないからだ。

「最高悪芸術」なんてありえない。

だからそれは「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」に対する「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」であるだろう。

斉藤由貴のコミック評は明らかに萩尾望都に敵対して掲載された。

夏目漱石のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)から生じる「信仰」を潰す「NHK放送番組(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と同じであるだろう。

「信仰」に対する「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」であった。

斉藤由貴は「トーマの心臓」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「信仰」を潰すために送り込まれたのだ。

この斉藤由貴のコミック評では「トーマの心臓」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に「敵対感覚〈原罪〉」を持った「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の作品とされる。

私はこの斉藤由貴のコミック評から「萩尾望都に対する敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を暴露し「トーマの心臓」の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を守護する。

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の守護は彼女(奈美さん)に対する私の最低限の務めであり「純愛の証」としての「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてある。

「トーマの心臓」の「永遠の純愛(Holy Communion)」の「証明」はユリスモール・バイハンを救済するためにあった。

「奈美さん(トーマ・ヴェルナー)の死」はその「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によって誰を救済したのだろうか?

この事件は一体誰が彼女(奈美さん)のユリスモール・バイハンであるかという最大の謎を呼ぶことになる。

しかし私(大石宗磨)は彼女(奈美さん)に「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を見てしまう。

そのような「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」は「相互愛」として存在する。

それはユリスモール・バイハンの存在を自分に見てしまうことを示している。

そしてトーマ・ヴェルナーの存在を「奈美さん」に見てしまうことを示している。

その判断は私の「人生経験」から受肉した「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」よりくる直観と「新聞記事(Holy Communion)」からでしかない。

しかし其処にある「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」は「永遠の純愛証明(Holy Communion)」なのです。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の受肉としてある。

「時の徴」であり「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」である「聖書」である。

しかし「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」を貶め否定することで人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」を捏造する。

そのような捏造は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」のための「その正当化(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」でしかない。

おもい‐こみ【思い込み】 オモヒ‥
思い込むこと。固く信じて疑わないこと。「—の強い男」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ドクサ【doxa ギリシア】
〔哲〕臆見。思い込み。プラトンが根拠のある真なるエピステーメー(知識)に対し、根拠のない主観的信念を指して呼んだ語。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ドクサ
doxa
「臆見」を意味するギリシア語。⇨エピステメの対立概念。低次の認識を意味する語としてドクサを初めて使ったのはクセノファネスであるが,永遠不変の存在についての真なる確証に対して,感覚に基づくドクサを立てたのはパルメニデスである。プラトンは後者の思想をうけて,真実在についての知識(エピステメ)と感覚的事象を対象とするドクサを認識論的存在論的に峻別,さらにドクサを感覚的個物に対する確証と感覚的個物の似像に対するエイカシアに区別した。アリストテレスはこれに対して存在論的区別を退け,エピステメを一般者ないし必然的なものについての判断とし,ドクサを感覚的個物にかかわるものとしている。エピクロス派では感覚そのものは真と認めるが,感覚に近い自発的な精神作用であるドクサには感覚の明証性の限界を踏越えて誤謬の可能性があるとしている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

おっ‐けん【臆見】 オク‥
臆測にもとづく意見。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

臆見
(オクケン)・(オッケン)
自分ひとりの考え。また、あて推量の考え

『新漢語林』 大修館書店

「ネグレクト(あざとい自閉)」によって形成した自分に都合のいい「既成事実化(アリバイ証明)」が侵害される場合に「加害者の方が傷ついた(自分の心が擦れた)」と主張する。

それは「人間動物の冒涜チンパンジー」の「逆ギレ」と同じである。

劣等者の「あべこべの被害者意識」であり「あざとさ」であり「逆ギレ」なのだ。

「日本人の独自性」はそのような「あざとさ」であり「逆ギレ」の在り方(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)だった。

「日本文化の独自性の在り方(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は「最高悪崇拝」の在り方(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)でしかなかった。

または「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」と言う「愚民政策」だった。

要は低能で劣等な在り方(愚民の在り方)であり「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」を「原始的段階に近い在り方〈一方的自由の陰険〉」へ貶す「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」が日本文化の独自性の正体であった。

「歴史(Holy Communion)」と「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」は違う。

「私と奈美さんの間」に「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」は存在しない。

私たちは「歴史(Holy Communion)」でしかないのだ。

そのような「歴史(Holy Communion)」こそが決して「覆らない歴史」であり「純愛」である。

人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」によって「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を完全否定する。

「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」を貶め否定することで特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」を形成する

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」の在り方であるオタク(最高善の神に対する敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))の「二次創作の歴史観(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を「芸術」として権威付ける。

詐欺師行為を扇動された人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」を賛美し〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉を攻撃することで「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を完全否定する。

其処にあるのは「間違い」の存在しない「虚飾の歴史(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」である。

「虚飾の奇跡(何でもあり)」による人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」としてある。

そのような人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」はバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)である。

人は「間違い」を犯すものだがそれを決して認めない存在がいる。

人が「間違い」のありえない「全知全能」の存在だと主張する行為は人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))によるバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の建造である。

いくら勉強し研究したと主張する学者がいてもカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解せない存在ならば真の学者とは言えない。

一体何を学んだのだ?

「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」に対して〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉がある。

それが「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の受肉した「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」であり「聖書」である。

一方で「虚飾の奇跡(何でもあり)」によるプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」を捏造する。

それは人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))の在り方でしかない。

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のない「虚飾(レトリック)となるのだ。

しかし「写生文」には「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の受肉がある。

このようにこの投身自殺事件は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が受肉した「写生文」と言える。

何故「写生文」かと言えば「永遠の命」を描いた「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」となるからです。

この一点においても「奈美さん」が「殉教」であることを明確に示している。

この「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が「時の徴」となり「永遠の純愛(Holy Communion)」となるのだ。

このような「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」は「聖書」として「永遠の命(Holy Communion)」となるのだ。

「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」は覆るだろうが「歴史(純愛証明)」は覆らない。

奈美さんの投身自殺事件の殉教の在り方は「純愛」の在り方であったのだ。

※「時の徴」に関する詳細は「ジブリ」について書いた作品を御覧ください。

「トーマの心臓」の初版ページ

豪華版「トーマの心臓」
一九八九年十二月十日初版第一刷発行

※斉藤由貴は1989年の12月10日(土)初版第一刷発行の小学館叢書版「トーマの心臓」に評を載せている。

※彼女(奈美さん)の死が1989年12月18日(月 新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日)

2 萩尾望都作品「トーマの心臓」の購入-柄谷行人の存在

1

萩尾望都タロット 愚者 0 THE FOOL

私が所持している朝日新聞の当時の切り抜き

私が「トーマの心臓」を購入し魅入られたのには幾らかの経緯がありました。

「斉藤由貴」の評を読んで魅入られたわけでは全くありませんでした。

それは当時も現在も批評家として影響を受けていた柄谷行人の存在でした。

文芸批評家の柄谷行人を知ったのは高校生の頃でした。

そして柄谷行人とは当時法政大学の教授であり批評家であり作家であり様々な肩書がありました。

柄谷行人は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を賛美する作品(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を明らかに嫌悪していました。

柄谷行人の書いた批評論考(Holy Communion)を読んだ私はそこに揺らぐことのない信用を見た気がしたのです。

後に書きますがそこに〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によって「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」の叡智(イマーゴ〈真善美の回復〉)へ向かっていることが理解できたのです。

仮に柄谷行人が躓いたとしても、彼には〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によって「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」の叡智(イマーゴ〈真善美の回復〉)へ向かう救済の道が明らかにあるのです。

それは「究極の救済」だと感じました。

しかし人間関係において「ナザレのイエス」のように殺害される人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))も柄谷行人のような人です。

私は柄谷行人を知ってからずっとそれを警戒していました。

何かあった時に柄谷行人を助けにいくためです。

「ナザレのイエス」と「ソクラテス」を救済することは「敵対感覚〈原罪〉」を警戒することでありました。

しかし「敵対感覚〈原罪〉」の標的は私であったのだろうと今は感じています。

そしてそのような「ユリスモール・バイハン」を救済するためにあった殉教が「奈美さん(トーマ・ヴェルナー)」であっただろうと感じているのです。

この事件は現実に起こった「トーマの心臓」である。

ただこれは一つの「仮説」でしかありません。

しかしその「純愛」を理解するのは「相互愛」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「ペルソナ(愛する友人(自由の相互性〈相互愛〉))」でしかないでしょう。

それは「仮説」としてしか存在しえない上に「理解者」も「相互愛」の「ペルソナ(愛する友人(自由の相互性〈相互愛〉))」でしかありえない「非常に個人的な事実関係」となる。

この「仮説」と「実験」による「科学的思考」は「純愛証明」として「永遠の命(Holy Communion)」の「証明」となる。

これは「永遠の命(Holy Communion)」の「仮説」と「証明」なのです。

かせつ【仮説】
hypothesis
ある自然現象または社会現象の観察や実験の事例から,現象を説明し,あるいは法則を見出すために,設けられる基本的な仮定。仮説に基づいて推論された結果は他の事例の観察や十分に選択された条件下での実験により検証される。その仮説は検証結果が可であれば法則として認められ,否であれば修正ないし廃棄され新しい仮説に取替えられる。仮説の有効性はこのような一連の作業により対象の認識が深められる点にあり,その意味で作業仮説ともいう。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

hypothesis (hī‐poth′ĕ‐sis)〓
[G. foundation, assumption <hypotithenai, to lay down].仮説(発見的目的のために提唱される推測conjectureで,これは定義された実験の遂行と実験的データの批判的構築による確証または論証に従う型式で組み立てられている.想定assumption,仮定postulationや,焦点の定まらない推測unfocused speculationとは区別すべきものである.→postulate; theory).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

柄谷行人先生の直筆サイン

柄谷行人先生の自筆サイン 
新宿紀伊国屋書店の講演会後のサイン会にて

「偶像崇拝と呪術崇拝の原始的段階の在り方〈一方的自由の陰険〉」ではなく「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」である「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の柄谷行人のサインである。

大石宗磨蔵書書籍より

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め否定し特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を扇動する作品は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の存在を示している。

ただ「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」と書いたが実際には「最高善の神に対する陳腐な敵対者」であるだろう。

何故ならオタク(最高善の神に対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))は「純粋な感覚」とされ「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」と呼ばれているだけだからだ。

これはみっともない存在であるだけなのだ。

「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」は「立ち位置の印象操作」による詐術であり特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を「穢のない純粋な欲望」とする。

「穢のない純粋な欲望」は「立ち位置の印象操作」としてある。

これが「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」という奇妙な概念に拠る「特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)」である。

しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持ったものは「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」を「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」と見做す。

それは「循環論法」を「循環論法」と見做すことと同様である。

それはロゴス感覚(Holy Communion)へ向かう「信仰」なのだ!

「特殊詐欺 (特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」をINNOCENT〈傲慢の大罪)〈欲望の美化〉により貶め否定し特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を賛美することで「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を扇動する。

"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Pure love (Fair) is Malice (Foul), Malice (Foul) is Pure love (Fair). but Pure love (Fair) is Pure love (Fair), Malice (Foul) is Malice (Foul)."

純愛
(ジュンアイ)
まじりけのない愛。純粋な愛情。ひたむきな愛。

『新漢語林』 大修館書店

じゅんあい【純愛】
pure love

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

púre lóve
⦅米俗⦆ LSD.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

イノセント【innocent】
純粋なさま。無邪気なさま。「—な微笑」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

※「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」には〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉も存在しない。
それは「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を示している。

※「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」こそが「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」としてあるのだ。

2

「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」と見做す。

そこにはそれを正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)する理由はないのだ。

しかし「トートロジー」と「循環論証」により正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)が形成される。

それは「屁理屈(前衛詐欺)」でしかないのだ。

それらを「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」という「奇妙な概念」と見做すことにより「詐術の在り方」が明確になるだろう。

それが「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)」であり「時の徴」である。

オタク(INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)はオタク(INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)であり、特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であるが同じことを示している。

そして一瞬で私は柄谷行人を理解した。

「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であれば「反省」をする人物だと知ったのだ。

「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」又は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉と知ったら」必ず「反省」と「自省」する人物である。

それは「悔い改め」のことを示している。

「悔い改め」は「最大の掟」とされる「隣人愛」の対象であり、「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「悔い改め」をする人を「隣人愛」によって深く愛する。

そしてそれが「最大の掟」とされる理由は「科学的思考」の理屈と同じで〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によって「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」へ導かれるからです。

「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」は叡智でありイマーゴ(真善美の回復)のことを示している。

そのような〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてある。

それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のことを示している。

「信仰を持った者」にはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉するのです。

それは最高善の神の下で自らを問い「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であれば「反省」し「自省」する。

それは〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉であり基本的な「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の在り方である。

それは「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)の追求の基本」でもあった。

それは「無知の知(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」とも呼ばれるものも同じだった。

最高善の神を信仰するということは「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)の追求」をすることを示している。

〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉が形成する「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰者(Holy Communion)」へ攻撃を加えるものは〈「傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であり最高悪と呼ばれる。

何故なら〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によって可能となるのが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」という最高善であるからだ。

「最高善」に対する「敵対感覚〈原罪〉」が「最高悪」であることは理解しやすい。

「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉を総攻撃するのだ。

Sa・tan [séitn]

Sa・tan [séitn]〓
―n.
1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):
2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名.
[900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

3

しかしそのような総攻撃を受ける人物は一流であることを証明している。

柄谷行人はそういう意味で世界的に高評価された稀有な本物(Holy Communion)と言えるだろう。

しかし柄谷行人の批評が一流の理由がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉にありそれが「信用(Holy Communion)」の在り処だった。

私は柄谷行人を知って以来いままでもこれからも信用するだろう。

私が十代の危機的状況から現在まで生きてこられたのは投身自殺した「彼女(奈美さん)」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と柄谷行人の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によってある「2つの信用(Holy Communion)」が大きかった。

「この人は信用できる。」と私は見做したのだ。

「人を信用できる。」ということは非常に大きなことなのです。

何故なら「信用(Holy Communion)」とは「純愛メシア信仰(Holy Communion)」による「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」としてあるからです。

「信用(Holy Communion)」とは「時の徴」であり「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」としての「聖書」なのです。

それだけで生きていけるほど大きいものなのです。

当然「投身自殺を持ってカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を治癒(救済)したもの」と「文章(Holy Communion)を発表しカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を示したもの」とは同様な存在とは言えないかもしれない。

しかし私にとってはそのカトリックロゴス感覚は生きることの支えとなる存在だった。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」である。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上とする理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)は「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復))」を至上とする。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉は「イマーゴ(真善美の回復)」に「敵対感覚〈原罪〉」を形成することで「信用社会(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を形成する

又、特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずることが理性(自由の相互性〈相互愛〉)である。

そして理性(自由の相互性〈相互愛〉)へ向かう導きを「福音(メシア)」という。

そこにしか真の「信用(Holy Communion)」は生まれません。

「キリスト教カトリック神学(Holy Communion)」である「フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)」は「福音(メシア)」による理性(自由の相互性〈相互愛〉)へ向かう導きがあった。

それは最高善の神の「ペルソナ(カトリックエリート(自由の相互性〈相互愛〉))」のイマーゴ(真善美の回復)を示している。

萩尾望都先生の「トーマの心臓」はそのような「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を描いた大傑作であるのだ。

萩尾望都先生の「トーマの心臓」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」である。

しかし特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)が扇動する「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」をサブカルチャー(オタクの二次創作(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉))という。

当時「人間不信」と「自己不信」に陥って苦しんでいた私にとってそのような特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を至上とする「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」は苦痛の源であり最悪な存在だった。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を至上とするように扇動する「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」は「最高悪」であった。

柄谷行人がそのような「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪していることが彼の作品を読んで明確に解っていた。

「こんな人がいてよかった」

私は柄谷行人の存在を「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」で信用し彼から多くの「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を受肉して学んでいったのだ。

柄谷行人は私が当時「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」で信用できた唯一の文章家だった。

柄谷行人は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を真に嫌悪することを至上とする人物であると私は見做したのだ。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪する「理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)の人物」だった。

彼は「理性(自由の相互性〈相互愛〉)への福音(メシア)」を齎していた。

柄谷行人は私にとって「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音(メシア)」であった。

彼の著書(Holy Communion)を読めば其れは明らかだった。

いくら彼本人が否定して見せても柄谷行人が理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)を至上とした「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」の存在であることは明らかであった。

「真の演技(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」とは「〈立ち位置の印象操作〉の詐欺行為」とは全く違うという意味である。

それは「福音(メシア)」による理性(自由の相互性〈相互愛〉)へ向かう導きだった。

私は「柄谷行人(福音(メシア))」は信用できるとそれ以来ずっと思っている。

今でもそうだ。

近年、柄谷行人の自宅近くの長池記念館で行われた「長池講義」に多く参加させていただき本当に感謝している。

その後も場所を変えて開催された「たんぽぽ舎」での長池講義も参加させていただいた。

4

絶体絶命を何度もくぐり抜けてこられたのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の福音(メシア)」である「彼女(奈美さん)」と「柄谷行人」の2人の存在(Holy Communion)による支えがあったからだ。

そして当時読んだ柄谷行人の批評作品に柄谷行人が教授を務めていた大学の女学生から萩尾望都先生の「トーマの心臓」と「ポーの一族」を勧められ読んだことの逸話が掲載されていた。

それを読んで私は萩尾望都先生の作品に興味を覚えて読むことに決めたのだ。

私には少女漫画は縁がなかったので敷居が高かった。

しかし柄谷行人の指摘は正しいことを自らの判断で確信し私は少女漫画作家萩尾望都先生のそれらの作品を読むことに決めたのだ。

そこでは漫画賞を受賞した「ポーの一族」ではなく「トーマの心臓」こそ評価されるべき秀逸さがあると暗に仄めかされていました。

柄谷行人をご存じの方なら当然知っていると思うが、柄谷行人が自分の作品に敢えて掲載することはかなり重要な「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」があるのです。

「知っておくべき事実(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」や「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復・カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」について巧みに指摘しているからです。

それが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」なのです。

女学生との何気ないマンガの会話が実はかなり重要な啓蒙(Holy Communion)を含んでいると思われました。

だから私は柄谷行人が言うことは何でも聞くようにしている。

必ず「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の何かがあるのだ。

それが聖痕(Holy Communion)であり新約聖書の福音(メシア)と同様となっているのです。

それは理性(自由の相互性〈相互愛〉)へ向かう導きの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音(メシア)」があるからです。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音(メシア)」の「香り」がするのだ。

其れが何気ない発言であっても柄谷行人が敢えて発言することは重要な意味があることを示している。

それは彼が特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪する「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上としていることを示している。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずることは「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー〈一方的自由の陰険〉)」を嫌悪し禁ずることであるのです。

そして彼は其のずっと後になりますが「紀伊国屋ホール」で行われた福島原発事故に関連して開催された反原発シンポジウムで自らを「アーティスト」であり「作家」であると敢えて発言されました。

私はそこに自分と「同じ香り」がしたのだ。

「純愛メシア信仰者(Holy Communion)の香り」である。

そしてその敢えて発言された柄谷行人の示している真に価値があるものは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」による「聖痕の徴の受肉(Holy Communion)」でありそれは「芸術家〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」であり「作家(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」であるのだということを柄谷行人は伝えていたのだ。

それが「ナザレのイエス」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の福音(メシア)である。

3 新聞資料初期検証(※各紙新聞報道を確認する必要を感じる)

聞蔵で検索し再調査を開始した。
最初期の事実検証である。

朝日新聞聞蔵検証

1985年と1989年は重要な年であり、そしてそれは平成元年と令和上皇(平成天皇)の年号と繋がりを感じた。
また朝日新聞のデータベースは1984年からだった。

朝日新聞/千葉日報/毎日新聞(初期紙面検証)

初期各紙紙面比較検証による調査

朝日新聞(実名報道)

※実名報道の理由の存在
※第一発見者は「通りかかった人 110番通報」
※非常階段踊り場
※路上に

千葉日報(匿名報道)

※第一発見者は「マンション管理会社の社員77歳 110番通報」
※最上階の非常階段踊り場
※マンションわきの路上に

毎日新聞(匿名報道)

※第一発見者は「ハイツ管理事務所の職員75歳 110番通報」
※非常階段を登った屋上
※マンション北側のコンクリート通路上に

  1. 三社第一発見者の記載に違いがあるが理由は不明

  2. 朝日新聞は「通りがかった人」とある。(私も近くを同時刻に高校へ自転車通学の途中であった。)

  3. 毎日新聞と千葉日報は「管理人の発見」とあるが年齢が異なっている。

  4. 三社とも非常階段とある。(後に示すが産経新聞は「2-6-1」の表記はしているけれど「非常階段」とはしていない。これは産経新聞のあざとく嫌らしい動機の表れだろう。)

新聞紙面総論19891219

4 新聞資料紙面検証

(実名報道の理由が不明、朝日新聞に問い合わせたが回答は得られていない。)

2023年4月24日(朝9時頃撮影)
2023年4月24日(朝9時頃撮影)
螺旋階段に踊り場はない。
この屋外階段は避難階段(非常階段)とされないことは明白だろう。
高層マンションにしては奇妙な屋外階段である。
建築基準法では合法であるかもしれないが道義上では設計ミスの疑いが強い。
2023年3月12日撮影
螺旋階段で踊り場がない。
これは建築基準法によって避難階段とすることはできない。
螺旋階段を高層建築で使用することは一般には考えられない。
しかし要件を満たし踊り場を設置すれば出来ないことはないだろう。
ただこの写真にあるようにこの建築物において螺旋階段に踊り場は設けられていない。
よってこの螺旋階段(東側)は複数の新聞社の記事にある非常階段ではない。
事件のあった非常階段は反対の西側(警察交番方向)だと推察できる。
2023年3月12日撮影
避難階段(非常階段)の構造はこの角度が分かりやすい。
2023年3月12日撮影 
関係者以外立ち入り禁止とあり「2-6-1」の外観を確認する
外付けの階段は両サイド(東西)にあった。
屋内階段はなくエレベーターがエントランスにある。
奥に見える螺旋階段(東側)は新聞報道にある非常階段ではないだろう。
現場は非常階段踊り場とある。
踊り場のない螺旋階段(東側)を避難階段(非常階段)とすることは建築基準法上でもあり得ないだろう。
正面の階段(西側)が現場である避難階段(非常階段)と判断される。

萩尾望都タロット 隠者 9 THE HERMIT

  1. 朝日新聞は「実名報道」である。

  2. しかし残りすべての全国紙は「匿名報道」であった。

  3. また千葉日報も東京新聞も「匿名報道」であった。

  4. 日本経済新聞も確認したが経済の記事が主流でありこの事件の記事記載はない。

新聞記事検証

新聞記事を検証していく上で重要なのは裏付けがとれているかの確認である。
例えばここに日経新聞以外の主要新聞を網羅してみました。
日経新聞に関しては新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の2日後の火曜日の千葉県欄に該当記事は存在していなかった。
はっきり言うと日経新聞にこの記事が存在しないことに失望した。
ただ日経新聞の他の場所でもしかしたらこの記事が存在する可能性はある。
他の新聞と紙面構成が違う可能性はあるのでここに訂正意見を載せておきます。
※1989年12月の日経新聞縮尺版を確認しました。
以前の調査では他紙同様の19日朝刊の千葉県欄に該当記事はありませんでした。
縮尺版を事件当日以降の紙面一週間分隈なく探してみましたが自殺事件の記事は発見できませんでした。
やはりこの記事は日経新聞には存在しないだろうと判断されます。

記事の裏付け

記事の裏付けは最重要です。
よく読んでみると伝聞であったりする。
要は情報の出どころが曖昧とされ記事自体の信憑性に疑いが持たれる場合がありうる。
新聞記事検証とは記事の裏付けの確認である。
そしてそこにメッセージとコミュニケーションが存在することはマスコミュニケーションの在り方です。
それがマスコミュニケーションとしてのイマーゴ(信仰)です。
記事にハーケンクロイツ(逆鉤十字)の記号を刻むような行いは言語道断であり悪趣味でしかありません。

朝日新聞紙面(実名報道)

中2女生徒が飛び降り自殺 船橋、両親らに遺書

十八日午前八時一五分ごろ、船橋市緑台二丁目の船橋グリーンハイツの路上に、制服とコートを着た女子中学生が倒れているのを通りかかった人が見つけ、一一〇番通報した。船橋西署の調べで、同市緑台一丁目、会社員北原博州さん(四六)の長女で私立高根中二年の奈美さん(一四)とわかった。
十一階の非常階段踊り場に奈美さんのスクールバックが置いてあり、ここから約三十一メートル下の地面に飛び降り、自殺したらしい。即死状態だった。奈美さんはこの日の朝、母親に「学校へ行く」と言って出かけたという。
スクールバックの中には裁縫道具や筆入れのほかに、封筒に入った両親と友だち五人あての遺書二通が入っていた。便せんにえんぴつで書かれた遺書には、友だちについてのことがていねいな字で書いてあったという。奈美さんが通っていた高根中の高梨和宏校長は「活発な子だったと担任から聞いている。ソフトボール部に所属し、学級委員の書紀をしていた。十二日からかぜという理由で欠席しており、十五日には担任が家庭訪問をしたが、とくに変わった様子はなかったようです。」と話した。

1989/12/19 朝刊千葉県欄 朝日新聞社

記事の裏付け有り
「スクールバックの中には裁縫道具や筆入れのほかに、封筒に入った両親と友だち五人あての遺書二通が入っていた。」

推量記事(朝日新聞記者は遺書を読んでいないらしい。)
「便せんにえんぴつで書かれた遺書には、友だちについてのことがていねいな字で書いてあったという。」

★実名報道(記事の裏付け有り)
朝日新聞は実名報道をしている。
朝日新聞がなんらかの決定的な事実を知っているのは明白だろう。

中2女生徒が飛び降り自殺 船橋、両親らに遺書

十八日午前八時一五分ごろ、船橋市緑台二丁目の船橋グリーンハイツ一号棟の路上に、制服とコートを着た女子中学生が倒れているのを通りかかった人が見つけ、一一〇番通報した。船橋西署の調べで、同市緑台一丁目、会社員北原博州さん(四六)の長女で私立高根中二年の奈美さん(一四)とわかった。
一号棟十一階の非常階段踊り場に奈美さんのスクールバックが置いてあり、ここから約三十一メートル下の地面に飛び降り、自殺したらしい。即死状態だった。奈美さんはこの日の朝、母親に「学校へ行く」と言って出かけたという。
スクールバックの中には裁縫道具や筆入れのほかに、封筒に入った両親と友だち五人あての遺書二通が入っていた。便せんにえんぴつで書かれた遺書には、友だちについてのことがていねいな字で書いてあったという。

1989/12/19 朝刊千葉県欄 朝日新聞社

中2女生徒が飛び降り自殺 船橋、両親らに遺書

十八日午前八時一五分ごろ、船橋市緑台二丁目の船橋グリーンハイツの路上に、制服とコートを着た女子中学生が倒れているのを通りかかった人が見つけ、一一〇番通報した。船橋西署の調べで、同市緑台一丁目、会社員北原博州さん(四六)の長女で私立高根中二年の奈美さん(一四)とわかった。
一号棟十一階の非常階段踊り場に奈美さんのスクールバックが置いてあり、ここから約三十一メートル下の地面に飛び降り、自殺したらしい。即死状態だった。
スクールバックの中には裁縫道具や筆入れのほかに、封筒に入った両親と友だち五人あての遺書二通が入っていた。

1989/12/19 朝刊千葉県欄 朝日新聞社

「スクールバッグ」
裁縫道具や筆入れのほかに、封筒に入った両親と友達五人あての遺書二通

※十一階の非常階段踊り場
※約三十一メートル下の地面に飛び降り
※路上に

※朝日新聞(一部地域)と東京新聞と産経新聞には一号棟の記載がある。
(11階建て高層棟は2棟あり一号棟は高根小学校側であり警察派出所より直線道路で約500メートル以内に位置する。)

※朝日新聞の「裁縫道具や筆入れ」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)だろう。(理由はこの内容に特異性がありメッセージがあるのではないかと感じられる故に。)

※産経新聞の「文房具や教科書」はプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉だろう。(理由はこれはありきたり過ぎる情報であり掲載する意味があるかどうかも甚だ疑問だから。)

  1. 朝日新聞の記事にはこの投身自殺事件に『なんらかの特異性』からのメッセージ(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))が存在することを暗示している。

  2. 産経新聞の記事はこの投身自殺事件の『なんらかの特異性』を意図的に打ち消す情報(プロテスタント(敵対感覚〈原罪〉)のデマゴギー)が掲載されている。

  3. 特異性を報道するのが朝日新聞であるなら、特異性を打ち消し情報操作をするのが産経新聞であることが理解しやすい。

※「朝日新聞実名報道」の存在はこの自殺事件の重大事件性を示している。

毎日新聞紙面(匿名報道)

「親切に感動-小学生の席譲り」に関して7つの教会が書かれていると感じた。

この火災現場写真はタロット神智学によると「信仰」の符号一致偶像である。

※毎日新聞社の信仰を至上とする姿勢を鑑み北原奈美さんの記事の真上に掲載されている火災現場の写真と記事に注目しました。
何故19日(火曜日)の朝刊の記事に16日(土曜日)の事件写真がここまで大きく掲載されているのか疑問が生じました。
それは新聞休刊日を考慮しても三日前の火災現場の写真をここまで大きく掲載する必要は何だろうか?
何らかのメッセージとコミュニケーションがあるだろうと想像します。
聖書から「火」と「光」にまつわる教えをいくつか探してみました。

※イサクの犠牲は「トーマの心臓」の主題であり、イサクの父アブラハムは「信仰の父」と呼ばれる。
そして三天使は火災現場の「炎」の前に三本線として表出した横線(ボーダー柄)によって示されている。

ボーダー‐がら【ボーダー柄】
服飾で、横縞柄のこと。ボーダー(ふち取りの模様)を繰り返してできる柄であることから。ボーダープリント。

『大辞泉 第二版』 小学館

ひ【火】
fire
熱の放散と炎を伴う可燃物の急激な燃焼。人類にとって不可欠な道具の一つであり,人類は火の使用によって自然な居住地帯であった熱帯を離れることができ,さまざまな環境をつくりだし,文明への第一歩を踏出した。火の起源はおそらく落雷から生じたもので,長い間偶然に発火した炎が唯一の火種であった。最初に火を用いたのは前 50万年の北京原人であるとされていたが,1981年ケニアで,88年南アフリカで 142万年前の原人が火を使用した痕跡が発見された。新石器人が摩擦による道具か火打石で火をおこす方法を身につけたのは,前 7000年頃であるが,当時でも点火するより火を燃やし続けるほうが便利であった。最初に火を使用した人類は,次第にさまざまな使い方を学んだ。暖房や調理だけでなく,狩りや戦いの際に獲物や敵を駆りたてるために使ったり,虫を殺し,果実をとり,獲物の発見や狩りを楽にするために森の下草を除くことに使うようになった。薮を燃やすとよい草地が得られ,獲物もふえることも学んだ。前 7000年頃,新石器時代の中東で農業が始ると,林や森を開墾する新たな必要が生じた。初期の農耕民は畑を開墾し,肥料となる灰をつくるために火を使った。この焼畑農耕は,今日でも熱帯地域の多くや温帯地域の一部でみられる。
火を使用することから火をおこすようになるまでの人類の歩みは長く,何万年もの歳月を要した。新石器時代以前に人類が発火方法を知っていたという証拠はない。人類に火をおこすアイデアをもたらしたきっかけが,火打石を黄鉄鉱に打ちつけたときに生じた偶然の火花か,木に穴をあける際の摩擦から生じた火花かはわからないが,ヨーロッパの新石器時代の遺跡からは火打石や錐が発見されている。新石器時代やその後の原始的な人々に最も普及していたのは,火を摩擦でおこす方法である。とがった硬い棒をヤシの葉の間で回転させ,軟らかい木切れにあけた穴に押しつけて発火する単純な錐もみ火切(ひきり)は,ほぼ万国共通である。擦りつけ火切と鋸びき火切はオセアニア,オーストラリア,インドネシアでみられる摩擦法の一種である。エスキモー,古代エジプト人,アジア人,少数のアメリカ先住民は機械的な錐もみ火切を発明した。細い竹の筒で空気を圧縮して熱と火を生む発火ピストンは,東南アジア,インドネシア,フィリピンで発明,使用された複雑な道具であった。 1800年頃,ヨーロッパで金属製の発火ピストンが独自に発明され,27年にはイギリスの化学者 J.ウォーカーが今日のものとほぼ同様の硫酸リンを含んだ摩擦⇨マッチを発明した。
宗教儀式の聖火や世界の神話にみられる無数の火の神は,人類の歴史における火の古さと重要性を示している。古代のベーダの聖典では,⇨アグニ(火)は人と神の間の伝令であり,供犠の火の化身であった。今日でも,バラモンの家にはアグニの崇拝のために聖火を保持しているとされるが,これは古代ローマ人がウェスタ女神の巫女によって守られる不断の聖火をもち,ギリシア人がヘスチア女神の聖火を守って移動の際には運んだのと同じである。イランのゾロアスター教徒は火を宗教の中心にすえ,最も不思議で永遠の原理であり,最も強力で神聖な力として崇拝し,天から直接人に与えられ,神自身が火をつけたと考えた。ユダヤ人はアブラハムを,子供をいけにえにするモロク(火の神)の崇拝に抵抗する改革者とみていた。シベリアのコリャーク族やチュクチ族,ブリヤート族は,焚火や炉からごみや不純物を遠ざけることによって火の神をあがめた。アフリカの一部でも,火はけがれから守られるべきだと信じられている。メキシコのアステカとペルーのインカは聖なる炎により火の神を崇拝し,インカではその炎は金属の凹面鏡で太陽光を集めて点火された。ギリシアの科学者や哲学者も,宗教の神秘主義者と同様,火の重要性を認めた。⇨アリストテレスは火を水,大地,空気とともに万物を形づくる4元素の一つであると述べた。プラトンは神が世界の創造にあたってこの4元素を用いたと説いた。ヘラクレイトスは創造の本質的な力は火にあるとした。
現代人は,火打道具,マッチ,電気などで簡単に発火できるようになり,火になじんでいるので,火を当然のものと受止めている。しかし,旧石器時代の熱帯林の狩猟民から新石器時代の最初の定住農民にいたるまで,火が人類の発展の本質的要素であったように,その後の1万年間にも文明の発達の全段階で火は不可欠の要素であった。火は調理や土地の開墾,あるいは洞窟や小屋の暖房や照明への使用から,粘土を焼いて土器をつくったり,銅やスズを取出して溶かし青銅(前 3000年)を生産したり,鉄(前 1000年)を得るために用いられたりしてきた。近代の科学技術の進歩は,火を通じて人間が使用し制御できるようになったエネルギー量の継続的増大に特徴づけられる。利用可能になったエネルギーの大半は,火の量と種類の増加によってもたらされたものである。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

アブラム (ヘブライ語 אַבְרָהָם (古: ʾAḇrām, 現: ʾAvram)、または アブラハム英語 Abraham) 、アブラハームは、ギリシア語 Αβραάμ Avraám アブラハム)はヘブライ語で多数の父という意味。ユダヤ教キリスト教イスラム教を信仰する「啓典の民」の始祖。ノアの洪水後、による人類救済の出発点として選ばれ祝福された最初の預言者。「信仰の父」とも呼ばれる。

ユダヤ教の教義では全てのユダヤ人の、またイスラム教の教義では、ユダヤ人に加えて全てのアラブ人の系譜上の祖とされ、יהוה(ヤハウェ、ヤーウェなどと発音。日本語聖書では主に「主」と表記。ここでは最大公約数的に神と表記)の祝福も救いもアブラハム契約が前提になっている[1]。イスラム教ではイブラーヒームアラビア語: ابراهِيم‎, Ibrāhīm)と呼ばれ、ノア(ヌーフ)、モーセ(ムーサー)、イエスイーサー)、ムハンマドと共に五大預言者のうちの一人とされる。キリスト教の正教会においてはアウラアムと称され、聖人に列せられている。

族長カビル族と呼ばれるヘブル人の先祖たちの一人である[2]

ウィキペディア

球団創設は1998年。アリゾナ・ダイヤモンドバックスと共に、球団拡張(エクスパンション英語版))の一環として「タンパベイ・デビルレイズTampa Bay Devil Rays)」として誕生した。この「デビルレイズ」という愛称は、フロリダ湾に多く棲息するイトマキエイに由来する。2008年に愛称から「Devil」の文字を取り、「タンパベイ・レイズ」と改称された。球団シンボルは、同じく「Ray」だが、これまで同様エイとともに光線も意味するものに変わった。

ウィキペディア
私の愛用する帽子
メルカリで1000円ほどで購入した。
出品者さんは野茂英雄がタンパベイレイズの3Aに所属していた時に現地に応援に行ったらしい。
つばの当たりがかなり穢かったので漂白したが余り汚れは落ちなかった。
この球団名の「Ray」の意味はエイと共に光(信仰)を示していると言われている。

devil ray
◆noun a manta or other large long―tailed ray with a fleshy horn―like projection on each side of the mouth. [Family Mobulidae, several species.]

『The Concise Oxford English Dictionary, Eleventh Edition』 Oxford University Press

dévil・fìsh〓
〓(〓→ fish¹ 〓)
1 〖魚〗オニイトマキエイ類《トビエイ科オニイトマキエイ属(Manta)のエイの総称;devil ray, manta (ray), sea devil ともいう》.
2 タコ(octopus), イカ(squid).
3 ⦅英⦆〖魚〗アンコウ科キアンコウ属(Lophius)の魚の総称(cf. anglerfish).
4 〖動〗コクジラ(gray whale).
5 〖魚〗=stonefish.

『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店

ray¹ /réɪ/
―n.
1a 一条の光, 光線〓
b 一点から射出する各線; 星の光のように描き表した線[形]〓
2 (希望などの)光, 光明, 輝き, ひらめき (glimmer, gleam)〓
3 [通例 pl.] 〖物理・光学〗
a (科学上の)線; 射線, 放射線, 輻射(ふくしゃ)線 (cf. rayed)〓
b (放射線中の)粒子.
c レイ⦅直径が微小な輻射エネルギーのビーム (beam)⦆.
4 ⦅詩⦆ 光 (light), 輝き (radiance)〓
5 少量 (particle)〓
6 〖数学〗 (円の)半径 (radius); (一点から発する)半直線 (half line).
7 〖植物〗
a 放射組織, 射出組織; (キク科植物の)舌状花, 散形花序 (umbel) の枝[花茎].
b =ray flower.
c =medullary ray 1.
d =vascular ray.
8 〖動物〗 (魚の)ひれすじ (fin ray); (ヒトデの)射出部, 腕部; (昆虫の翅(はね)の)縦の翅脈(しみゃく).
9 〖天文〗
a 光条, 月の表面の輝条, 条目⦅噴火口から射出するように見える白く光る線⦆.
b 射線.
c 光線.
―vi.
1a 光線を出す, 輝く (spark) 〈forth, off, out〉.
b 〈思想・希望などが〉光を放つ, ひらめく 〈forth, off, out〉.
2 放射する (radiate); 放射状に伸びる.
―vt.
1a 〈光を〉放つ, 放射する (emit).
b 〈知性・希望など〉の光を放つ〓
2a 光線で照らす; …に光を当てる (irradiate).
b 〈X線など〉にさらす; …の放射線写真を撮る.
3 …に(放射状の)線[組織, しま]を付ける.
~・lìke adj.
〖⦅?c1380⦆ raye ▭ (O)F rai (acc.) (cf. F rayon: ⇨rayon) <L radium spoke of a wheel, beam: RADIUS と二重語〗
〓〓

『新英和大辞典 第6版』 研究社

新約聖書「火」と「光」にまつわる教え

マルコによる福音書 火と光

マタイによる福音書 火と光

ルカによる福音書 火と光

ヨハネによる福音書 火と光

マンション屋上から飛び降り 船橋・女子中生自殺

十八日午前八時十五分ごろ、船橋市緑台(通称・船橋グリーンハイツ)二の十一階建てマンション北側のコンクリート通路上に、制服、コート姿の女子中学生が倒れて死んでいるのを、同ハイツ管理事務所の職員(七五)が見つけ、一一〇番通報した。
船橋西署の調べによると、この女子中学生は同市内の中学二年、A子さん(一四)。同マンション北側の非常階段を登った屋上にA子さんの紺色のスクールバックがあり、バックの中から両親と友人五人にあてた遺書二通がみつかった。遺書には友人関係についての悩みが記されており、同署はA子さんがこれを苦に屋上から三一・二メートル下の通路に飛び降り自殺したらしい。

1989/12/19 朝刊千葉県欄 毎日新聞社

記事の裏付け有り
「同マンション北側の非常階段を登った屋上にA子さんの紺色のスクールバックがあり、バックの中から両親と友人五人にあてた遺書二通がみつかった。」

★推量記事(記事の裏付け有り)
「遺書には友人関係についての悩みが記されており、同署はA子さんがこれを苦に屋上から三一・二メートル下の通路に飛び降り自殺したらしい。」
※この記事の文章は「変」である。
「同署は」が入るなら語尾は「らしい」ではなく「とみている」となる。
この文章が成立するには「同署は」と「語尾」の組み合わせの歪さを解消しなければならない。
「らしい」は「推量」であり「伝聞」であり「doxa」と見做すことができる。
「らしい」を廃棄して「信仰」を入れる場所を確保することを示している。
それは「信仰」より形成されるオリジナル(真善美)であり純愛である。
毎日新聞は正確を旨としている。
明らかな歪なこの文章表現はメッセージの在り処を示している。
文章ではなく真上の火災現場写真を示しているのかもしれない。
タロット神智学によれば符号一致偶像を見出すことができる。
暗闇の中を激しく燃えさかる炎は「火」と「光」を示してるのかもしれない。
そして同署とは船橋西署でありこの火災現場の写真提供は一般人の方であるらしい。
※この船橋西署等の「らしい」は明らかなデマゴギーであることを毎日新聞が示したのだろう。
結局毎日新聞がわざと行う失敗はメッセージとコミュニケーションを含んでいる場合が多い。
全く違う事実だった可能性があるだろう。
※毎日新聞のこのやり方はグリコ森永事件の犯人怪人21面相逮捕の大誤報に象徴される。
何故ならば真の真実を誤報して報道してしまうところが似ているからだ。
ある意味超高等技術である。

らしい
〓 〖助動〗
(活用は形容詞型。[活用]らしかろ/らしく・らしかっ/らしい/らしい/らしけれ/○)動詞、形容詞、ある種の助動詞の終止形に付く。また、体言・形容動詞語幹などに付く。文語形は「らし」。
①根拠や理由のある推定を表す。いろは文庫「あのさんは、おぬしに余程気があるらしい」。「この雲行きではどうやら明日は雨らしい」「父親らしい男と歩いていました。顔や体つきがよく似ていましたし」
②確かな伝聞などに基づく推定を表す。「噂では母親が反対しているらしい」「判決が下ったらしい。町は大変な騒ぎだ」
〓 〖接尾〗
形容詞を作る。平安時代まで行われた推量の助動詞「らし」の転。鎌倉時代頃からわずかながら接尾語として用いられるようになり、室町時代以後広く使われた。
①(体言に付いて)⋯の様子である。⋯の風である。沙石集(1)「御目はほそぼそとして愛らしくおはしますぞや」。人情本、花筐「そんな嫉妬(やきもち)らしいことは決してしません」。浄瑠璃、心中宵庚申「弟の事を頼むも馬鹿らしけれど」。浄瑠璃、薩摩歌「尤もらしうぞ言ひなしける」。花暦八笑人「立廻りらしい事」。「娘らしくなる」
②(形容詞の語幹などに付いて)⋯感じがする。いかにも⋯と思われる。梅暦「おかしらしい」。仮名文章娘節用「可愛らしい子」。人情本、春色雪の梅「憎らしい」。いろは文庫「恨みらしい事」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

suspect vt.
疑う、らしいと思う
be suspected of ~
~について疑われる
《〓suspect A of Bの受動態。》
The duct was suspected of being large.
その管は拡大している疑いがあった。
It is suspected that[wh―]…
…だと[ではないかと]思われる
It was suspected that the drivers of these vehicles might be exposed to a silicosis hazard.
これらの車の運転手が、珪肺症の危険に曝されているのではないかということが疑われた。

『医学英語実用語法辞典』 メジカルビュー社

suspect
《特にジャーナリズム》(間違っているかもしれず[当てにできず])疑わしい;怪しい,不審な
◇Some of the evidence they produced was highly suspect.
彼らが提出した証拠のいくつかはかなり疑わしかった
◇The police have been informed of the discovery of a suspect package (= that may contain drugs, a bomb, etc.).
警察は不審な小包を発見したとの通報を受けた

小学館 オックスフォード英語類語辞典

suspect
異端容疑者
〈91学術・キリスト教〉

『人文社会37万語対訳大辞典』 日外アソシエーツ

sus・pect [səspékt]〓
―v.t.
1 〈人が〉…の真実性を(証拠・根拠もないのに)疑う,怪しむ;〈人・物を〉怪しいと思う:〓
2 〈人に〉(不正・犯罪などの)嫌疑[容疑]をかける⦅of ...,of doing⦆;〈人を〉(…だと)疑う,思う⦅to be;that 節⦆:〓
3 ⦅話⦆ 〈…ということを〉推測[想像]する,〈…ではないかと〉思う(suppose,guess)⦅that 節⦆;〈人・物を〉(…だと)思う⦅to be,to do⦆;⦅I suspect で挿入的に用いて⦆ …と思う,…でしょうね:〓
4 〈不正・危険などに〉感づく,気づく,…がうすうす分かる:〓
―[səspékt] v.i. 怪しむ,うたぐる,邪推する,疑念を抱く,疑いを持つ(↔trust).
―[sʌspekt] n.
1 (犯罪・犯行などの)容疑者,注意人物:〓
2 ⦅古⦆ 疑い,怪しみ,疑念;疑われること;心配,懸念.
―adj. [sʌspekt,səspékt|sʌspekt]〈人・陳述などが〉疑わしい,うさんくさい,怪しい:〓
[1300年以前. 中期英語(形容詞)<ラテン語 suspectāre=su― SU―+spectāre(specere「…を見る」の反復形)]
sus・péct・i・ble
―adj.
suspéct・er
―n.
suspéct・less
―adj.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

毎日新聞社の信仰に関するレポートは別作品で御覧ください。

「紺色のスクールバッグ」
遺書二通

※北側の非常階段を登った屋上に
※屋上から三一・二メートル下の通路に飛び降り自殺
※マンション北側のコンクリート通路上に

千葉日報紙面(匿名報道)

中2女子が飛び降り自殺 船橋

一八日午前八時一五分ごろ、船橋緑台二ノ六の十一階建てマンションわきの路上に制服、コート姿の少女が死んでいるのを同マンション管理会社(七七)が発見、船橋西署に通報した。
同署の調べによると、少女は近くに住む会社員(四六)の長女で同市内中学二年A子さん(一四)。同マンション最上階の非常階段踊り場にかばんが置かれ、中に両親と同性の友人五人にあてた遺書二通が入っていたことから、マンション屋上から飛び降り自殺したらしい。遺書には友人関係で悩んでいたことが、書かれてあったという。
A子さんの通っていた中学校によると、A子さんはソフトボール部員で三年生が抜けた後の新チームのレギュラー候補。闊達で明るく、悩みがあるようには見えなかったという。風邪をひき十一日の二時限目で早退。先週は学校を休んでおり、一五日には担任の教諭が家庭訪問していた。
同校ではこの日朝、悲報が入り、校長が全校生徒を集め「悩みがあったら家族や先生などの身近な人に相談してもらいたい」と訓示した。

1989/12/19 朝刊 千葉日報新聞社

船橋西署の調べ
「同署の調べによると、少女は近くに住む会社員(四六)の長女で同私立中学二年A子さん(一四)。同マンション最上階の非常階段踊り場にかばんが置かれ、中に両親と同性の友人にあてた遺書二通が入っていたことから、マンション屋上から飛び降り自殺したらしい。」

推量記事(千葉日報新聞記者は遺書を読んでいないらしい。)
「遺書には友人関係で悩んでいたことが、書かれてあったという。」

※誰に聞いたのか不明。
船橋西署の発表であり千葉日報記者の取材はないと言える。

「かばん」
遺書二通

※最上階の非常階段踊り場
※マンションわきの路上に

東京新聞紙面(匿名報道)※東京新聞は中日新聞の関東版である。

友人関係悩んだ中2 船橋の飛び降り女性

十八日朝、船橋市緑台の船橋グリーンハイツ一号棟非常階段下で女子中学生が死亡しているのが見つかったが、船橋西署の調べで近くに住む市立中二年生A子さん(一四)と分かった。
調べによるとA子さんは、今月十一日に風邪を理由に早退してから学校を休んでいた。非常階段十一階の踊り場にあったビニール製スクールバック内には両親と五人の女友達にあてた遺書計二通があった。いずれも友人関係の悩みが記されていたという。同署ではこれらの悩みを苦にして飛び降り自殺したとみている。

1989/12/19 朝刊千葉県欄 東京新聞社

記事の裏付け有り
「非常階段十一階の踊り場にあったビニール製スクールバック内には両親と5人の女友達にあてた遺書計二通があった。」

推量記事(東京新聞記者は遺書を読んでいないらしい。)
「いづれも友人関係の悩みが記されていたという。」

船橋西署の調べ

同署ではこれらの悩みを苦にして飛び降り自殺したとみている。」

「ビニール製スクールバッグ」
遺書計二通

※非常階段十一階の踊り場
※非常階段下で

※朝日新聞(一部地域)と東京新聞と産経新聞には一号棟の記載がある。
(11階建て高層棟は2棟あり一号棟は高根小学校側であり警察派出所より直線道路で約500メートル以内に位置する。)

産経新聞紙面(匿名報道)

遺書に友人関係の悩み 女子中学生飛び降り

十八日朝、船橋市緑台二ノ六、グリーンハイツ一号棟(十一階)からちかくに住む高根中二年、A子さん(十四)が飛び降り自殺したが、A子さんは友達づきあいで悩んでいたらしく、関係者はショックを受けている。
船橋西署の調べたことろ、A子さんが飛び降りた階段おどり場に置いてあったカバンの中から、文房具や教科書のほかに遺書二通が見つかった。遺書は一通が両親に、もう一通が友人五人にあてたもので、便せんに、はっきりとした書体でていねいに、友人関係での悩みがつづられていた、という。
A子さんは学校内でも活発な生徒。クラスでは書紀、部活はソフトボール部で活躍していた。また友人は多く、学年や学校を超えた仲間がいたという。
中学校ではこの日、四時間目の授業を早く切り上げ、校長が生徒全員を体育館に集め、事件を報告した。「悩みごとがあれば、友人や先生、家族に相談するように」と話すと、生徒たちの間からすすり泣きが聞こえた。

1989/12/19 朝刊千葉県欄 産経新聞社

記事の裏付け有り
「船橋西署で調べたことろ、A子さんが飛び降りた階段おどり場に置いてあったカバンの中から、文豪具や教科書のほかに遺書二通が見つかった。」
※変なミスがある。
「調べたことろ」は「調べたところ」であるだろう。
「とこ」が「こと」に逆転している。
これは「黒ミサカルト」の「ハーケンクロイツ(逆鉤十字)」の疑いが強い。
「黒ミサカルト」の「ハーケンクロイツ(逆鉤十字)」の詳細は別作品で御覧ください。

推量記事(産経新聞記者は遺書を読んでいないらしい。)
「遺書は一通が両親に、もう一通が友人五人にあてたもので、便せんに、はっきりとした書体でていねいに、友人関係での悩みがつづらてていた、という。」

「カバン」
文房具や教科書のほかに遺書二通

※飛び降りた階段おどり場(非常階段の記載がない)
※遺体発見場所の記載なし

※朝日新聞(一部地域)と東京新聞と産経新聞には一号棟の記載がある。
(11階建て高層棟は2棟あり一号棟は高根小学校側であり警察派出所より直線道路で約500メートル以内に位置する。)

※産経新聞の「文房具や教科書」はプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉だろう。(理由はこれはありきたり過ぎる情報であり掲載する意味があるかどうかも甚だ疑問だから。)

※朝日新聞の「裁縫道具や筆入れ」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)だろう。(理由はこの内容に特異性がありメッセージがあるのではないかと感じられる故に。)

  1. 朝日新聞の記事にはこの投身自殺事件に『なんらかの特異性』からのメッセージ(カトリックロゴス感覚(Holy Communion)が存在することを暗示している。

  2. 産経新聞の記事はこの投身自殺事件の『なんらかの特異性』を意図的に打ち消す情報(プロテスタント(敵対感覚〈原罪〉)のデマゴギー)が掲載されている。

  3. 特異性を報道するのが朝日新聞であるなら、特異性を打ち消し情報操作を行うのが産経新聞であることが理解しやすい。

  4. 産経新聞が「2-6-1」と表記しておきながら2つある屋外階段のどちらが現場であるか特定しないあざとく嫌らしい動機が実は存在する。それは螺旋階段下店舗とその上の2階住居の男は高根中学校の軟式テニス部の旧部員であり後に私を著しく侮辱した人物だからだ。そこに産経新聞の悪意の記事の在り方を私は感じる。その男と「奈美さん」との関係を暗に仄めかしている。しかし実際は他紙に指摘されている非常階段(避難階段)とは螺旋階段(東側)の反対側(西側)と思われる。この高層建築物の螺旋階段は建築基準法において避難階段となることはできない。私は東京工科専門学校建築科卒業で二級建築士を取得しているため比較的正確に建築基準法を読むことができる。そして先程建築基準法法令集で確認した。螺旋階段の避難階段における禁止事項の記載はなかった。しかし「踊り場」のない避難階段は危険であり高層階では常識的にありえない。そのため高層建築は二方向避難にはなっていないと推察される。螺旋階段を避難経路(非常階段)とすることはないと判断させる。もしこの螺旋階段を避難階段として建築確認申請をしても「踊り場」のない螺旋階段は絶対に認可されない。2つある「屋外階段」を区別するために事件現場が避難階段(非常階段)だとする記載は実はこの事件記事にとって重要であったと見做される。その記載のない産経新聞の記事にはプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の悪臭を感じる。

読売新聞紙面(匿名報道)

中2女生徒投身自殺 船橋 友人関係で悩み?

十八日午前八時一五分ごろ、船橋市緑台二の六のマンション「船橋グリーンハイツ」(十一階建て)非常階段下で制服、コート姿の女子中学生が全身を打って倒れて死んでいるのを、通行人が見つけた。
船橋西署の調べで、同市内に住む同市立中二年生(一四)と分かった。同ハイツ十一階の北側非常階段の踊り場に二通の遺書が入ったカバンが置いてあり、高さ三十一・二メートルの踊り場から飛び降り自殺したものとみて動機などを調べている。
調べによると、遺書は、両親と友人五人あての二通で、友人関係の悩みを訴える内容だったという。
学校によると、活発な明るい性格の生徒だったといい、十一日にカゼのために午前中で早退して以来学校を休んでおり、一週間ぶりの登校途中だったらしい。学校では同日午後、全校生に「悩みはあったら親、先生、友達に相談して欲しい」と呼びかけた。

1989/12/19 朝刊千葉県欄 読売新聞社

船橋西署の調べ
「船橋西署の調べで、同市内に住む同市立中二年生(一四)と分かった。同ハイツ十一階の北側非常階段の踊り場に二通の遺書が入ったカバンが置いてあり、高さ三十一・二メートルの踊り場から飛び降り自殺したものとみて動機などを調べている。」

推量記事(読売新聞記者は遺書を読んでいないらしい。)
「調べによると、遺書は、両親と友人五人あての二通で、友人関係の悩みを訴える内容だったという。」

「カバン」
二通の遺書

※北側非常階段の踊り場
※高さ三十一・二メートルの踊り場から飛び降り自殺したものとみて動機を調べている。
※非常階段下で

5 「奈美さん投身自殺事件」に於ける私との直接的繋がり-「奈美さん」の母の泣き声をいつまでも忘れない。

萩尾望都タロット 死神 13 DEATH

1

新聞報道は全て翌日の19日(火)に為された。私には新聞報道以外に一切連絡はなかった。北原からも知人全てからも・・・

2

「はっきりさせなければいけないこと」

revelation

revelation
▶noun
1 a surprising and previously unknown fact that has been disclosed to others:〓
→〓REVELATION
◾[mass noun] the making known of something that was previously secret or unknown:〓
→〓REVELATION
◾used to emphasize the remarkable quality of someone or something:〓
2 [mass noun] the divine or supernatural disclosure to humans of something relating to human existence:〓
◾(Revelation or Revelations; in full the Revelation of St John the Divine) the last book of the New Testament, recounting a divine revelation of the future to St John.
-DERIVATIVES
revelational adjective〓
-ORIGIN
Middle English (in the theological sense): from Old French, or from late Latin revelatio(n―), from revelare ‘lay bare’ (see REVEAL¹). Sense 1 dates from the mid 19th cent.
→〓REVELATION

●Oxford Dictionary of English, Second Edition revised

ただそれから約三年後(私は3年浪人して絶望的気分だった。)に私は北原の自宅(新聞と同じ船橋グリーンハイツ)に他の知人(高根中学校軟式テニス部の旧部員3人)とともに出向くことの案内の電話が来た。

私を含め高根中学校の軟式テニス部の旧部員5人が集ることになったのだ。

私はこの誘いに「作為」を感じながら、しかし北原の家にはどうしても行くべきだと感じていた。

それは北原の妹(奈美さん)の投身自殺を誰一人私に教えないこと(情報遮断)に対する違和感が「暗示」の存在を示していたからだった。

北原家に招待される「千載一遇の機会」を齎した案内に如何なる意図があろうともそこに行くべきと私に思わせていた。

※「情報遮断」は「理由付け」を不可能にする。それは「理由付け」と「動機づけ(モチベーション)」を「欲望」へ誘う罠となり「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」を正当化させるサタンの計略となるからだ。本来「理由付け」と「動機づけ(モチベーション)」は「情報」と「欲望」ではない。それなら「情報操作」と「情報遮断」によりコンプライアンスを至上とするアンダーコントロールに人は容易く置かれてしまうだろうからだ。「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が「理由付け」と「動機づけ(モチベーション)」となることでイマーゴ(真善美の回復)は受肉し人を救済する。だから「サタンの計略(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は嫌らしく陰険に「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を攻撃するのだ。

この直観は「聖戦」を予感させていた。

北原の家には高根中学校時代に複数回訪ねて遊んだことがあった。

彼は食べ物にこだわりがあった。

「梅ゼリー」が美味いと勧められて食べたり、「カルメラ」を自分で作ってご馳走してくれたことがあった。

そして一緒に「ゴルフ」を軽くやったことを覚えている。

又後に述べるが私の自宅で「パソコンゲーム」をやったり「バックツゥーザ・フューチャー」を二人で観に行った。

「受験勉強」が始まって北原とは疎遠になった。

「部活」も終り「クラス」も違ったからだ。

特別仲違いしたわけではない。

仲違いする理由もない。

それぞれ忙しい季節となったのだ。

彼は当初から優等生で県立船橋高等学校に行く程の秀才だったこともあり、私のように突然受験勉強に投げ出されたタイプは生活環境が変わり大変だったこともあった。

そして北原の家にほぼ6・7年ぶりに訪れる機会がこの「不思議な会合」だったのだ。

久しぶりにあった北原本人は意外なほど冷淡に見えた。

私は「奈美さん」の投身自殺があったことで北原の様子を伺っていた。

しかし彼は何の素振りも見せなかった。

そして逆にそこにある何かを感じずにはいられなかった。

何故ならば「違和感」を感じるからだ。

絶対に「奈美さん」のことに触れない姿勢に私はどうしようもなかった。

その頑なな姿勢は私に対してか他の三人に対してか一見ではよく解らなかった。

それは他の三人と私とに因縁があったことでもあった。

「友人」と「裏切り」と「いじめ」、「虐待」に関する「こじつけ」だった。

私は引越し先で「虐待」を受けていたのだった。

彼ら三人は当初から「友人」ではなかった。

友人と遇した相手から自分が「虐待」されていることを認識し自覚することは当時の私にとって非常に辛い試練だったのだ。

ただ私は彼ら三人を「友人」と遇して付き合っていた。

しかし彼ら三人も私に「悪意」を向けていたのだ。

それが最悪の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」となって此処に表出した。

私は陰湿な「いじめ」を受けていた。

「暴言」に「暴力」、「冒涜」を受けて捏造された情報(プロテスタントデマゴギー)を吹聴されていた。

その中の一つは深刻な「聖痕」となって身体に刻まれている。

私の右側の肋骨複数本は折れねじ曲がり潰れているのだ。

35年経った今でも痛み(PTSD)が消えないのだ。

心も身体も痛み(PTSD)は消えないのだ。

心的外傷(シンテキガイショウ)
[英] psychic trauma
[同義語] 【精神外傷】
個人の耐えられないほどの外界からの打撃的体験。孤立的なものと反復性のもの,何かのできごとによる傷つきである陽性外傷と,剥奪や無視などであるべきものがなかった事態である陰性外傷,人為的なものと,災害などによるものなどに分けられる。外傷は解離,鈍麻と過覚醒,記憶の歪曲とフラッシュバックなどの症状と結びつきやすく,多くの精神障害に病因的に働く。特に外傷後ストレス障害(PTSD),解離性障害,境界人格,自傷行為などと結びつきが深いとされ,近年,主に米国で関心が高まっている。
(511051)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

外傷後ストレス障害(ガイショウゴストレスショウガイ)
[英] posttraumatic stress disorder;PTSD
[同義語] 【心的外傷後ストレス障害,外傷神経症(外傷性神経症) traumatic neurosis】
1980年に米国精神医学会が発表したDSM-Ⅲの中に,不安障害の下位カテゴリーとして登場した概念。従来の外傷後神経症,戦争神経症と関係する。本障害研究の大きな進展の契機となったものとして,米国におけるベトナム帰還兵の社会不適応や,性的虐待の被害者の存在が挙げられる。診断されるには,誰にとっても外傷的となりうる強さのストレスに曝されなければならない。特異的な症状として,侵入的思考,過覚醒,フラッシュバック,悪夢,睡眠障害,記憶と集中力の変調,驚愕反応などがあり,その症状はストレスが誘発する脳の構造と機能の変化の表れであるとも考えられている。
(511037)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

そしてそれを積極的に行ったのが白い高層棟の一階で学生服を販売していた店の息子だった。

彼の家はその店の真上の2階にあった。

そして他の二人はその時に私の身体を羽交い締めにした連中だったかもしれない。

私はもう神経が可怪しくなっていたのだ。

北原の部屋に入り5人で集まっていた。

何のための会合であるかその時点で明らかにされていなかった。

北原は「我関せず」といった様子でコミック(じゃりン子チエ)をただひたすら読み耽って一切話しに入ってこなかった。

そして隣の部屋から北原の母親の「声を上げて啜り泣くメッセージとコミュニケーション」が最初から最後までずっと聞こえていた。

「奈美さん」の投身自殺から3年以上経ったその時点で北原の母親の「声を上げて啜り泣くメッセージとコミュニケーション」を聞いて私は衝撃を受けた。

北原の家が悲しい存在になっていることを思い知ったのだ。

冷淡な北原が悲しくないわけがないのだ。

私は神妙に座っていた。

私は殆ど無口で神妙にしていた。

しかし私はそれを北原に問いただすことはできなかった。

本当はもっと詳しく聞きたかった。

しかしそれを自分がして良いのか?

その資格が自分にあるのか?

私はその明確な何かを持つに至って居なかったのだ。

私が「奈美さん」を紹介されたのは彼女(奈美さん)が小学5年生の時だった。

コミック(じゃりン子チエ)とはご存じの方もいると思うが「チエちゃんの5年生」が「永遠にループする話」であるらしい。

私は北原がそこに「奈美さん」のことを伝えているのだろうと感じた。

北原の母親の永遠と続く「声を上げて啜り泣くメッセージとコミュニケーション」は「奈美さん」のことを示しているとしか考えられない。

そしてそれらが私に向けられていると言える理由は、他の三人はこの状況で私に対する嫌らしい貶めを始めたことで明確だろうと感じた。

彼らは異常に無神経だったのだ。

彼らは先程の酷い「聖痕」の残った「暴力事件」を彼らの方から突然に持ち出してきた。

この3人がこのことで北原を使って私を呼び出したと感じた。

しかし北原の家にいくべきと感じていた私は覚悟を持って出向いてきた。

「聖戦」だったのだ。

最初に三人の中の一人で家が一番近所であり中学二・三年生時に同じクラスだった男(私が図書委員になる時に誘った男)が今更さも心配していたかのように唐突にわざとらしく私の身体の「傷」について指摘してきた。

私は彼を図書委員に誘ったことを今でも後悔している。

何故ならば彼はほとんど一冊も本を読まない男であり読書にも図書館にも縁がなかったからだ。

私は高根中学校の図書委員がクラス二人組であったことから打算で彼を誘った。

それは失敗であったと痛感している。

そしてその男は心配の素振りと裏腹に主犯の男にこのように言わせて私に「同意」を迫ってきたのだ。

彼らは気持ち悪い表情を浮かべながらこのように切り出してきた。

「お前が何やられたっていいって感じだったよなー」

と理不尽な「同意」を迫ってきた。

(暴行がさも純愛であったかと言わんばかりの紅潮した表情を顔面に浮かべながら「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の在り方としての親切(虐待)の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の「同意」の要求を彼らは私に切り出してきた。

それは私に一言でも詫びるどころか暴行が「私の望み」だと言い出した狂気の沙汰であった。

それは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の主犯が被害者であるという理不尽な主張だった。

これは「いじめの原因論」であった。

「いじめの被害者に原因がある」と主張する学校教師がよくいるのと同じであった。

しかし「私が何をやられてもいい」という原因を主張した彼らの発言は 酷すぎだった。

彼らの表情は私が「媚び諂ったゲイ(堕落の原因)」であると見做すことでその原因に対して自分達の方が喜色ばんで色気づいているのだという異常な心理と感覚を現していた。

その逆転〈陰険〉した認識で彼らは私に対して媚びへつらいを装い篭絡しようとした。

加害者を容認させる「人誑し」の在り方

それは「人誑し」とも言える認識だった。

又彼らは今までの「一切の人間関係(Holy Communion)」を盾にするやり方でもあった。

しかし「私が何をやられてもいい」と主張する時点でその人間関係(Holy Communion)は終了していたのだ。

彼らは明らかに勘違いしていた。

「相手に何をやられてもいい存在」だと主張する最悪の人物たちとの間で人間関係(Holy Communion)は成立する筈はないからだ。

私としてはそういうことなら「殺していい相手(聖戦)」と認識した。

それは合法ならの話であり実際は「絶縁」するしかない相手だった。

彼らは私に無理やり加害者容認の人間関係(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)としてそれを認めさせようとした。

それはありえない同意であり私は彼らを殺すしかなくなった。

そして私は「絶縁」を選んだ。

もし相手がいつまでも私に因縁をつけてくるなら屠殺するしかないだろう。

彼らは「加害者を〈人誑し〉として容認せよ!」と強硬に主張していたのだ。

加害者は明らかに暴行した男たちであったが彼らは自ら「人誑し」を装い無邪気に「無辜」になりきっていた。

しかしもし「人誑し」があり得たとしてもそれは「人間関係(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」でしかなく「真実の在り方」ではなかった。

彼ら加害者はこの会合を利用して人間関係(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)で「人誑し」を容認させようと謀ったのだ。

またそのような認識は萩尾望都先生の「残酷な神が支配する」に見られる異常性欲の「人間動物の表情」であった。

しかし私の見立てでは彼らは「人間動物」の在り方でしかなく「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」に全く達していない。

それ故に「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の疾患」である異常行動(ヒステリー)とは言い難いのではないかと感じた。

被害者を意識してそれを原因として加害者が喜色ばんで色気づくという異常心理を呈していたがそれはあざとい「人誑し」の認識であった。

それは他者の認識に「立ち位置の印象操作」で形成した「人誑し」の「呪術崇拝・偶像崇拝」であった。

そして彼らはそのストーカーと言えるものだった。

「奈美さん」が「トーマ・ヴェルナー(愛する友人)」であるのに対して、彼らは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」による〈トートロジーと循環論証〉のストーカーだった。

トーマ・ヴェルナーのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)

彼らは「あざとい作為」でしかなく「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」そのものであった。

「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」が無辜を装うのだ。

それが「人誑し」の「呪術崇拝・偶像崇拝」である。

それは「ネグレクト(あざとい自閉)」によって形成した自分に都合のいい「既成事実化(アリバイ証明)」が侵害された場合に「被害者より加害者の方が繊細で傷つく」と陰険に主張する。

それは劣等者の「あべこべの被害者意識」であり「あざとさ」であり「逆ギレ」だった。

日本人の独自性はそのような「あざとさ」であり「逆ギレ」の在り方(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)だった。

それは日本文化(人誑し)の独自性の在り方(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)は最高悪崇拝の在り方(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)でしかなかった。

またはそれは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」と言う「愚民政策」だった。

要は低能で劣等な在り方(愚民の在り方)であり「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」を「原始的段階に近い在り方〈一方的自由の陰険〉」へ貶す「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」が日本文化の独自性の正体であった。

魔女と魔術師

更に彼らはそれを被害者である私に同意させ認めさせることを目論んだ。

しかし私は当然に毅然としてそれを拒否した。

そのような私との「合意の形成」を無理に行うことが今回の会合の目的だと知れたのだ。

しかしそれは「レイプ行為」を意味していた。

私はその時点でカトリックロゴス感覚(Holy Communion)より受肉するイマーゴ(真善美の回復)以外の選択肢はなかった。

それ以外は明らかに「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」となっていたからだ。

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)より受肉するイマーゴ(真善美の回復)は一本道となっていたがそれは信仰の光の道であった。

※アインシュタインの「光速度不変の原理」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であり「信仰の光の道」を示している。

※「ブラックホール」は強大な重力で光を歪ませ飲み込むと言われている宇宙論であるがそれは「光」に対する「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を示している。

※ここで言えることは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対して「敵対感覚〈原罪〉」を形成した存在でありイマーゴ(真善美の回復)の叡智ではない。

※ブラックホールの宇宙論はインチキ(特殊詐欺)と言えるだろう。

その要旨を言えば彼らは私へ「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の「全責任」を責任転嫁する異常な認識と感覚を形成していた。

そんな馬鹿な話に同意するほど私は愚かではない。

そんな愚かことは誰だってしないだろう。

しかし集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)をされれば別であるかもしれない。

しかしそれは「最も愚かな堕天使」を意味していた。

明らかに彼らは私を愚弄し馬鹿にしていた。

私は「彼らを友人として遇したこと」で「媚び諂ったゲイ(堕落の原因)」とされ言い返しようのない絶望的完全否定に追いやられた。

「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の主犯に仕立て上げられたのだ。

これは京都アニメーション「氷菓」の「I scream.」であったと言える。

彼らから私は最大の侮辱行為を受け貶められたのだ。

それは友人であることの不可能性を明らかに示していた。

何故ならば彼らの認識では全ての「隣人愛」は「媚び諂ったゲイ(堕落の原因)」であり「悔い改め」は絶対にあり得ないからだ。

〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉が「何をされてもいい感じ」だとしたら「友人関係」は不可能であるだろう。

もしそうなら彼らの「友人関係」は「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」でしかないからだ。

彼らは私を「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の主犯に仕立て上げて「信仰」を完全否定したのだ。

彼らには〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉をする気を微塵も持っていなかった!

そこには「友人関係」の存在する余地はどこにもないことを示していた。

友人関係はあり得たのは「奈美さん」だったのだ。

それは「純愛」の人間関係(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))だった。

「悔い改め」に対して「隣人愛」は存在する。

これは彼ら三人が私に対して絶対の完全否定を決行する布陣の有り様であった。

これで彼らはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する「敵対感覚〈原罪〉」を明確に表明した。

彼らは完全に馬脚を露悪したのだ。

それは私が「友人として遇したこと」に対する「手痛い返礼」だった。

(彼らとは二度と付き合いたくないし、二度と出会いたくない。)

「奈美さん」が「純愛」なら彼らは「変態性欲者」だった。

(「奈美さん」は「永遠の命(Holy Communion)」だった。

それが「トーマの心臓」と言えると私は感じたのだ。)

彼らのその発言は「最悪の言葉」だったのだ。)

「加害者の虐め」を正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)することを要求しそれを「被害者の望み」だったと主張し出した彼らの言葉は私の方が虐待されて喜ぶ「変態性欲者」とするものだった。

「所謂、私はマゾでしょうか?」

「酷い暴力(冒涜)」を受けてそれを喜ぶ「虐め被害者」だと三人で主張(暗黙に主張)した。

自分が暴力(冒涜)を受けて「大喜び」するわけがない!

イエスの最後

※INNOCENT〈傲慢の大罪)〈欲望の美化〉は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解すカトリックエリートを無邪気にはしゃぎながら冒涜し無辜を装うサタン(最高悪)」なのだ!

in・no・cent [ínəsənt]

in・no・cent [ínəsənt]〓
―adj.
1 〈人が〉純潔な,清浄な,無垢(むく)の;世間知らずの:〓
2 〈人が〉無罪の,潔白な;(…の)罪を犯していない⦅of ...⦆:〓
3 〈行為などが〉悪意[悪気]のない:〓
4 〈事が〉無害の,毒にならない;〈病気などが〉悪性でない:〓
5 〈取引などが〉合法的な,公認の;(特に)禁制[密輸]でない.
6 ⦅話⦆ (…の)ない⦅of ...⦆:〓
7 〈人が〉無邪気な,無心な,天真爛漫(らんまん)な;お人よしの:〓
8 (…を)知らない,無知の;(…に)気づいていない⦅of ...⦆:〓
―n.
1 (心の)純潔[清浄]な人;潔白な[無罪の]人.
2 小さな子供,幼児:〓
3 無邪気[天真爛漫]な人.
4 新米,新参者.
5 おめでたい人,あほう,まぬけ:〓
6 ⦅米黒人俗/軽蔑的⦆ (黒人の公民権運動を支持する)進歩派の白人.
7 ⦅通例 innocents⦆ ⦅単数扱い⦆ ⦅米⦆ =bluet 1.
◊[文学・著作物]The Innocents Abroad『赤毛布外遊記』M.Twain のヨーロッパ旅行記(1869).
[c1200.中期英語<ラテン語 innocēns 無害な=in― IN―³+nocēns(nocēre「害する」の現在分詞)]
in・no・cent・ly〓
―adv.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

※「INNOCENT〈傲慢の大罪)〈欲望の美化〉」には「理性(自由の相互性〈相互愛〉)」がないのだ。

◊in・no・cent /ínəsənt/
—a.
̎《方》 低能な (imbecile).
—n.
[The I˜] ⦅Voltaire の⦆ 『自然児』 (⇨L’INGÉNU↙).

『リーダーズ・プラス』 研究社

逆に私はこの3人を殺したくなった!

私は冷静になることを務めた。

しかし私はそこで相手を「友人と見做すこと」を放棄し「酷い後悔」と「悔い改め」を私の方が自らに課すことになった。

それは「自らが持たなければならない過酷な後悔」に対する「隣人愛」という「自己愛」としてあった。

私はこの発言にこの様に切替した。

「結局引っ越して来たばかりだったから、虐められていたという訳だね。」

(結局あんた達は友人でもなんでも無く最悪のクズだったよ!
あんた達を友人と見做していた自分が馬鹿すぎだった!
たとえ酷い後悔があろうとも僕は悔い改めるしかない!
悔い改めたのは僕なのであり隣人愛は僕に向けられる。
それは僕自身では自己愛(ナルシシズム)という形でしかあり得ない。
そしてもう君たちとは終わったよ!
彼らとの絶縁と決闘の宣言だった。
〈聖戦が明確となった。〉)

そこで話し合いはほぼ終了して会合は完全沈黙した。

北原の母親の「声を上げて啜り泣くメッセージとコミュニケーション」はまだ聞こえていたかもしれない。

もしかしたら私達の話を聴いていたかもしれない。

北原は一言も話さずコミック(じゃりン子チエ)を読み続けていた。

部屋は静まり返っていた。

そして北原の家をみんなで出る段になって三人の中の一人が突然たぶん「奈美さん」についてだと思うが吐き捨てるようにこのように発言した。

「グレてたんだ!」

ただ愚連隊(宮崎学「万年東一」)とはいい意味もある。

そしてその時に私は心のなかでこう思っていた。

「自殺したものがグレていたわけがない。
随分ふざけたことを言う。
しかも明らかに母親の「声を上げて啜り泣くメッセージとコミュニケーション」が聞こえている中で何故この男はこのような発言をするのか?
明らかにこの会合には仕組まれた何かがあった。
私に対する「悪意(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と「聖なる意図(Holy Communion)」があった。
私はここに誘き出された。
しかしそれを承知していても北原の家に私は行くべきだった。
重大な何かがあったのだ!」

それ以来北原の家には行っていない。

ただ私がその時に直観したこの会合の役割は「聖なる意図(Holy Communion)」であったと見做している。

何故ならば「純愛は悪意」「悪意は純愛」を目論んだ彼ら3人の「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」に対し「純愛は純愛」「悪意は悪意」という「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」へ向かう「場」を「北原」と「奈美さん」の「母」が形成したからだ。

私はそれによって「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の場を目論んだ連中から脱し、「奈美さん」の「カトリックミサ」が形成された「場」に降り立ったのだ。

それは「奈美さん」とその家族による「聖餐式(Holy Communion)」であったと判断できる。

萩尾望都タロット 審判 20 JUDGEMENT

「トーマの心臓」大天使ガブリエルと天使の両翼

"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Pure love (Fair) is Malice (Foul), Malice (Foul) is Pure love (Fair). but Pure love (Fair) is Pure love (Fair), Malice (Foul) is Malice (Foul)."

シェイクスピア「マクベス」より

シェイクスピア「マクベス」

三人の魔女の「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」
”Fair is Foul, and Foul is Fair.”
"Pure love (Fair) is Malice (Foul), Malice (Foul) is Pure love (Fair).”
三人の魔女の「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」
”Fair is Foul, and Foul is Fair.”
"Pure love (Fair) is Malice (Foul), Malice (Foul) is Pure love (Fair).”

せい‐さん【聖餐】

せい‐さん【聖餐】
〔宗〕(Holy Communion)イエスが最後の晩餐で、パンと葡萄(ぶどう)酒をとり、「これは私のからだである、私の血である」と言ったことに基づき、イエスの血と肉とを象徴するパンと葡萄酒とを信徒に分かつキリスト教の儀式。カトリックでは「聖体の秘跡」ともいう。聖餐式。聖晩餐。エウカリスチア。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

せいさん【聖餐】
Eucharistia; holy communion
新約聖書が伝える,イエスが十字架につけられる直前に弟子たちとともにしたパンとぶどう酒を中心とした最後の晩餐,およびのちに教会がその再現として執行してきた典礼的会食をいう。後者は特に聖餐式,感謝の祭儀と呼ばれ,キリスト教会の典礼の中心となっているが,その意義,起源,執行様式などについては時代と各教会とに従って理解にかなりの相違がある。ローマ・カトリック教会は聖餐におけるキリストの犠牲の意義を強調し,一般には聖餐に代えてミサあるいは聖体祭儀と呼び,holy communionはミサ中の聖体拝領をさす語として用いる。ギリシア正教会では聖餐を聖体礼儀という。聖書奉読,祈祷,パンとぶどう酒の奉献,その拝領などによって十字架上で死に,復活したキリストとの交わりに入ると理解することがほぼ共通している。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

せいさん【聖˟餐】
the Lord’s Supper; Holy Communion; the Eucharist
◗聖餐式
Holy Communion
◾聖餐式用のぶどう酒[パン]
the Sacramental wine [wafer/bread]

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

「純愛」とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてある。

しかし「純愛」をシェイクスピア「マクベス」の三人の魔女の言葉(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)により堕すことが行われる。

それは「綺麗は穢い」「穢いは綺麗」とされるのだ。

これは「純愛は悪意」「悪意は純愛」となることを示している。

しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」では「純愛は純愛」「悪意は悪意」となるのだ。

それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉する「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」へ向かう治癒の在り方を示している。

"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Pure love (Fair) is Malice (Foul), Malice (Foul) is Pure love (Fair). but Pure love (Fair) is Pure love (Fair), Malice (Foul) is Malice (Foul)."

6-1 「船橋緑台グリーンハイツ」はバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)だった。

萩尾望都タロット 塔 16 THE TOWER

2023年4月24日(午前9時頃撮影)
この時気付いたが「鞦韆」が現場近くにあった。
奈美さんとの思い出の場所はここだったかもしれない。
2023年3月12日撮影
2023年3月12日撮影
2023年3月12日撮影
2023年3月12日撮影
毎日新聞 マンション北側のコンクリート通路上

建築基準法

朝日新聞は高さ約31メートルと表記がある。
しかし毎日新聞と読売新聞には31.2メートルという表記がされている。
朝日新聞の約31メートルという表記は一般的な高さ制限であり31メートル以上の建築物は建築基準法上建てられないことを示している。
朝日新聞は約31メートルという表記は高さ制限ギリギリという意味で理解できるが毎日新聞と読売新聞が高さ31.2メートルと表記していることの疑問が残る。
建築基準法の緩和規定を読んでみて「昇降機塔(エレベーター塔)」にその表記があった。
これは昇降機塔の非常階段から飛び降りたという意味と理解できる。
では何故20センチ高いのかという理解が難しい。
この20センチの意味は何だろうか?
この建築物は奇妙な構造をしている。
先程指摘したが東側の屋外螺旋階段と西側の屋内エレベーターと屋外非常階段しか存在しない。
二方向避難はなく屋外非常階段のみである。
また屋内階段は存在しない。
毎日新聞と読売新聞の示した20センチで想像すると蹴上一段分が20センチと想像できる。
しかし「昇降機塔」と「非常階段」は別であろう。
昇降機塔と違って屋外非常階段には緩和規定は適用されずその高さ制限は31メートルだろうと推察される。
この建築はかなり奇妙であり実際に違法建築の疑いが強い。
多分新聞報道はそのことを仄めかしたのだろうと想像される。
暗示し指摘したのだ。

大成建設グループ設計施工「船橋緑台グリーンハイツ」

※後に私はTBS「ニュースの森」かTBS「報道特集」のどちらかで「船橋グリーンハイツ」に纏わる建設スキャンダル報道を視聴することとなる。それはお金に纏わる事件だったと記憶している。この団地建設は元から邪なものがあったと想像される。

大成建設グループ設計施工「船橋緑台グリーンハイツ」はバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を想起させる。

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対し「一つの言語」を「超感覚(一方的自由の陰険)」とする「呪術崇拝」を最高善の神が打ち砕いた。

バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)は「呪術崇拝」を超感覚(一方的自由の陰険)の正当化としその「偶像崇拝」を「象徴(シンボル)」とする存在形態である。

ここに「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対する〈「呪術崇拝」と「偶像崇拝」〉の「禁忌」が記されている。

そしてバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)とは「サイエンスフィクション」として存在している。

バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)-「船橋グリーンハイツ」

大成建設グループ設計施工「船橋緑台グリーンハイツ」はバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を想起させる。「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対し「一つの言語」を「超感覚(一方的自由の陰険)」とする「呪術崇拝」を最高善の神が打ち砕いた。バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)は「呪術崇拝」を超感覚(一方的自由の陰険)の正当化としその「偶像崇拝」を「象徴(シンボル)」とする存在形態である。ここに「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対する〈「呪術崇拝」と「偶像崇拝」〉の「禁忌」が記されている。

名古屋に住んでいた幼少時船橋グリーンハイツに立ち寄った時の写真と思われる。
後ろに見えるのは中央の11階建高層建築である。
後に投身自殺の現場となる。

※夏休みに訪れた時の写真である。
当時は名古屋に住んでいた。
この頃は船橋グリーンハイツに住んでいた訳ではありません。
12歳の頃から千葉県に住んでいます。

6-2 「船橋緑台グリーンハイツ」との関係には「父の親族」との在り方と「父の務める会社」の在り方が大きく関わっている。

1

父の両親である私の祖父祖母は広島県で「原爆投下」にあい、その後一家は「東京の三軒茶屋」に居を移したらしい。

しかしやはり時代の流れと思われるが住宅事情の関係で千葉県の「高根公団」に居を移した。

私は「お婆ちゃん」を「東京のお婆ちゃん」と呼んでいたのでここが「千葉県」だと知らなかった。

毎年正月と夏休みに高根公団の家に泊まりに行ったことをよく覚えている。

庭もあって二階建てで面白い家だが決して広くはなくここに5人姉弟が住んでいたとは信じられなかった。

ただ父は自分を東京の三軒茶屋育ちだと言って高根公団のことを一切話さなかった。

だから事情はよくわからないのだ。

父は長男であったから早々に家を出てそんなには千葉県(高根公団)に住んでいないらしい。

2

私は父の務めていた光村図書出版社の転勤先である山口県山口市で生まれました。

父は広島県生まれの「東京(三軒茶屋)」育ちで早稲田大学卒業だった。

母は新潟県で生まれ育ち新発田高校を卒業後に明治学院大学に入学して父と同じ光村図書出版社に入った。

明治学院大学で使用した母の聖書が小さい頃から家にあったのでイエス・キリストの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は比較的身近だった。

両親は父の転勤を機に社内結婚をした。

父と母は青山学院大学のチャペルで結婚式をあげた。

青山学院大学のチャペル
1970年 両親の結婚式

そして母は会社を退社して父について山口県に来た。

そして私が生まれた。

両親は転勤で住めない筈なのに何故か千葉県の船橋グリーンハイツの一室を当時から購入していた。

幼少の頃の私にはそれがよく理解できなかった。

私にとって地元は物心付いた時から生活していた名古屋だった。

私には山口県の記憶はない。

私は2歳で山口県から愛知県名古屋市へ引っ越した。

それから10年間名古屋で育った。

そして父は念願の「東京本社」への転勤が叶って私が小学六年生の11月辺りにこの千葉県の船橋グリーンハイツに引っ越してきた。

しかし私にとっては名古屋が地元であったので完全な国替えでありその後に酷い虐めにもあった。

私にとって千葉県は酷い場所だったという印象を持つことになった。

たかが団地マンションの一室の存在で千葉県が地元になる訳はない。

私にとって迷惑な引っ越しだった。

7 私の「トーマ・ヴェルナー」

船橋グリーンハイツ 配置図

2023年3月23日撮影

1990年3月に船橋旭高等学校卒業しほぼ同時に鎌ケ谷市初富に居を移す。

そこは秋元病院という精神科医院の近辺にあり又公園が目前にあるということで立地に疑問を感じていた。

その条件は騒音も予想され決して好立地条件とは言えず私は両親の感覚に疑問を持っていた。

鎌ケ谷市への引っ越しはバブル経済末期の中で船橋グリーンハイツの価格が当時高騰したことで両親がその売却益を元手に「持ち家(一軒家)」を買うことを決めたことによる。

私は相談もされなかった。

私は高校卒業間際でありそのようなことに一切関知していなかった。

その後三年浪人し「船橋グリーンハイツ」の北原の家を再訪する。

その間「船橋グリーンハイツ」を訪れたことはない。

もし引っ越しがなかったら北原から何らかのアクセスがあったかもしれない。

しかしそれは憶測の範囲を出ない話であり判別し難い。

私に「奈美さん」に関する情報は一切なかった。

そのような干された状態では動きようがないし、又相手に悪意があるなら尚更どうしようもない手詰まり感の強い状態だった。

私自身これからどう生きて行くのか五里霧中であったのだ。

私の船橋旭高等学校へ向かう通学模様の一文

1988年船橋旭高等学校1学年終業式時期に配布された記念冊子
2023年4月24日(時計は朝9時13分ほどを指している)
しかしこの交番は新しく建て直されていて1989年12月18日当時の交番ではないのです。
あれから30年以上時が経って建築物は変遷していきました。
1989年高校通学の当時は8時15分から8時20分にここを通過し時計を確認するのが通例だった。
高校の始業時間は8時30分でありここからかなり早足(自転車)で学校まで向かっていた。
2023年4月24日撮影
新築された警察交番
2023年4月24日撮影
交番前のコーナー
私はここから何かを察知したが目視では確認できなかった。
翌日の新聞で事件を確認した。

2023年3月12日撮影
自転車に乗って鎌ケ谷市初富から登校した。
門は閉ざされていた。
そして現在の旭高校は西高校と統合され啓明高校として旧西高校を校舎としている。
私は旧旭高校からグリーンハイツへ下校の再現をした。
写真はその下校時の写真であり30年以上前の旭高校通学路を再現してグリーンハイツへ向かった。
これは登校時の順序である。
1.交番前より高層建築は距離がある。 2交番横の坂道 3.高根小学校
4.船取線の横断歩道 5.細い抜け道に入る。 6.モーテルの跡地
7.抜け道を上がって下り坂 8.テニスコートの坂道を上がる。 9.運動公園競技場
10.野球場 11.バス停 12.船橋旭高校校門(千葉県立船橋夏見特別支援学校校門)

これは1988年船橋旭高等学校1学年終業式時期に配布された記念冊子で私が書いた一文「とうこう」である。

私は船橋旭高校1年I組だった。

船橋グリーンハイツから船橋旭高等学校へ向かう朝の通学模様を書いたものである。

N局とはNHKの朝の「連続テレビ小説」であり当時は朝8時15分から番組が始まっていた。

派出所は高層建築の直線道路上のグリーンハイツ出入り口交差点コーナーにある。

そこを抜けて坂を下って登っていくと高根小学校があるのだ。

1

私の人生で「トーマの心臓」と考えている自殺事件は1989年(平成元年)の12月18日(月 新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日)に起こった。

私は当時千葉県立船橋旭高校(現在は千葉県立船橋西高校と統合して千葉県立船橋啓明高校)へ自転車通学していた。

朝の通学途中の警察交番前辺りの坂道を降る寸前で船橋グリーンハイツの中心にある11階建ての白い高層建築へ向かう道を後ろに振り返ると私に纏い付くような濃厚な感触を感じた。

特別に人が集まっている様子は目視では確認できなかった。

しかしこの「重い空気の緊張した感じ」は人が白い高層建築から投身自殺して死んだのだという直観を持った。

そしてこれは私に向けられた何かの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を示す自殺である「予感」がした。

何故なら死を持ってして伝えるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とは「相互愛の愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」に向けられた信仰を発する殉教であると思えたからです。

そして「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に関して当時追い詰められていたのは私であったからです。

ただそのような「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の殉教を私は今まで聞いたことはなかった。

だからそれは全く私にとって定かではなかった。

トーマ・ヴェルナーの殉教シーン

それは萩尾望都先生の「トーマの心臓」であった。

ただそれはその時に私が朧気に感じていたことでしかなかった。

しかしこれは私へ向けられた「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」であると直観していた。

それは「時の徴(しるし)」となり「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」となり「聖書」となるのだ。

2

そういった事実を誰も私に伝えなかった。

全く情報がないことが逆に異常だったことからそれが隠蔽されていると感じていた。

ただ船橋グリーンハイツの中心に存在する白い高層建築の11階建てのアパートメントはそこだけ異常に高く見えて何か人を不安にさせる建築物だった。

人が死を考える時に東尋坊から飛び降りると言います。

その突き出た高層建築から飛び降りる思考は自殺を考えた時に簡単に思い浮かぶだろうと感じます。

それは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を嫌悪し禁ずる人もそれを意識して特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を嫌悪し禁ずる必要がある。

3

大成建設グループとの因縁

其処は「大成建設グループ」の設計施工の団地だと後に知った。

私は嫌な因縁を感じることになる。

何故なら私はこの数年後に中野区東中野にある東京工科専門学校で建築を学び、その学校の就職課の先生の紹介で大成建設グループの建築設備設計事務所「㈱エムイー環境計画」へ入社することになる。

そして私はそこでこっ酷く特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)からパワーハラスメントをされたからである。

全く理不尽で異常なパワーハラスメントだった。

自分たちの特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)するために「屈服」と「服従」を迫ったのだ。

しかし其の会社で冷遇され給料も僅かだった。

馬鹿げた因縁をつけてきたのは相手だったが結局私が退社した。

大成建設なら辞められない理屈ともなろうがその劣等なグループ会社ではそうはならない。

明らかに給料も安く、昇進もあり得ず、設計のまともな教育もなかった。

理由は「大成建設出向社員」が上層部であり、「生え抜き社員」には何もなかったからだ。

そして一旦ハラスメントの対象にされると止まることはなかった。

上層部を含めて誰一人ハラスメントを止めなかった。

ハラスメントはエスカレートするばかりだった。

このような居心地の悪い劣等な会社にこだわるのは定年間際の大成建設出向社員の方だった。

しかしその認識を彼らは嫌らしく転倒した。

二年間私がハラスメントされても辞めないことで上層部だった彼らの異常行動は究極にエスカレートしていった。

何故か不要になった女子事務員を押し付けようとしてセクシャルハラスメントを行った。

その女性が寿退社を匂わせると「お前が彼女(T.S)をいいと思っていたんだ!」と強硬に主張した。

その若い女性とは公私ともに付き合いがほとんどなかった。

特にプライベートでの付き合いは一切なかった。

私にとって彼女(T.S)は「ワンオブゼム」程度の付き合いと認識でしかなかったのだ。

パワーハラスメントとセクシャルハラスメントとモラルハラスメントの理不尽な社内環境に我慢の限界を感じて私は退社した。

左遷された「大成建設上層部出向社員」という奇妙な連中で今でも彼らが何だったのかよく分からない。

誰も彼らについて正確に私に教えなかったのだ。(情報遮断)

※「情報遮断」は「理由付け」を不可能にする。それは「理由付け」と「動機づけ(モチベーション)」を「欲望」へ誘う罠となり「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」を正当化させるサタンの計略となるからだ。本来「理由付け」と「動機づけ(モチベーション)」は「情報」と「欲望」ではない。それなら「情報操作」と「情報遮断」によりコンプライアンスを至上とするアンダーコントロールに人は容易く置かれてしまうだろうからだ。「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が「理由付け」と「動機づけ(モチベーション)」となることでイマーゴ(真善美の回復)は受肉し人を救済する。だから「サタンの計略(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は嫌らしく陰険に「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を攻撃するのだ。

ただ彼らは大成建設東京本社の元設計部長クラスの出向社員の3人だとささやいてくる者がいた。

そして後に元人事部長と思われる人物が私の退社間際に入ってきた。

この会社の社長は神奈川支店元設計部長から出向してきた人物だった。

憶測だが「横浜ランドマークタワー」の建設に関わった人物だろう。

「横浜ランドマークタワー」は大成建設の設計施工であった。

そして彼らは大きな机をみんなで並べていた。

一見「追い出し部屋」とも思えるが劣等なグループ会社でも彼らは当然上層部であり「いい身分」であった。

しかし彼らはどう見ても「バカ殿」だった。

私は劣悪で酷い扱いを受け明らかな「人権侵害」がある中で退社して当然の状態だった。

私の方は入社当初からハラスメントが多く本当の「追い出し部屋」にいる気分だった。

私も運がなかった。

嫌な会社に入ってしまって馬鹿だったと強く思った。

この会社を改善する見込みは全く無いと悟ったとき私はもう辞めるしかないと考えていた。

何故自分がこの会社にこだわるのか理解できなかった。

会社の人たちは会社の人間関係(Holy Communion)を主張するがそれは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」でしかなく、そしてハラスメントを容認した会社上層部に対する私の信頼関係(Holy Communion)は完全に失われていた。

最早改善の見込みのない会社でいくら頑張っても仕方がない。

そしてここにいても冷遇だけで全く厚遇はありえないことが「経験則」で分かってきていた。

私は会社を辞める決断をするだけの段階だった。

そして一級建築士の受験を断念したことで退社をすることが決定した。

唯一の理由であった受験資格を得るための4年間の実務経験を積むことを諦めたのだ。

私は建築科専門学校を卒業していたため一級建築士の受験資格を得るため4年の実務経験を積む必要があった。

私は泣く泣くそれを断念したのだ。

一級建築士を断念せざるえない上にパワーハラスメントで心身ともに深く傷ついたことは人生において大きな挫折であった。

ただそれを社会勉強として前向きに捉え表現しても私が得たものはほとんど何もなかった。

大成建設グループ社員(大成建設出向社員と大成建設グループ社員)の質の悪さを知った。

それは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)が捏造した人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))の「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」であり「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー〈一方的自由の陰険〉)」のための強烈なハラスメントだった。

しかしそれは数年後の話である。

4

私は船橋グリーンハイツの住人であったから11階建ての白い中央棟から投身自殺する人物が団地内の人物である可能性は高く自分の知り合いである可能性も高いと思った。

私は高校へ向かう通学路から中央棟へ向かう道を逆に引き返し自殺の存在を確認するかどうか一瞬思案したが結局止めることにした。

これはそのような形式的で事務的な処理で済む事件ではなく「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉するペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)がメッセージを示すために起こした殉教の事件であると感じたからです。

だからその遺体を興味本位で確認することはそのペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)に対して不遜であるように感じたのです。

その遺体の確認行為が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を汚す行為だと感じたのです。

高層建築の投身自殺ならその「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉するペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)は確実に死んでいる。

自分の体に「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の死」の「重い直観」を感じながら、その自殺した遺体を見世物にしてはいけないと思いました。

それは野次馬のような真似でしかないからです。

多分後悔にしかならないでしょう。

もしそこに行ってしまえばそうならざるを得ないとも感じました。

一方でそこに本当に死があるかどうか自分の直観を確認すべきとも感じました。

それは興味本位にしかならないでしょう。

しかし私は半ば其処に死があることをカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とそこから受肉するイマーゴ(真善美の回復)で確信していました。

自殺のタイミングが私の行動と一致していたためそこに「符号一致偶像」を見出さざるを得なかった。

そしてそれは私に敵対する「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」をイマーゴ(真善美の回復)の信仰の光の道へ導くカトリックロゴス感覚(Holy Communion)だと直観が働いていたのだ。

これは「聖霊」と言えるのだろうか?

それとも「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「相互愛」からくる「直観」だろうか?

其のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)から受肉するイマーゴ(真善美の回復)のコミュニケーションが萩尾望都先生の「トーマの心臓」を巡るものだと認識したのはいつのことだろうか?

その時であったか?

その後であったか?

しかしそれを他人に証言することはできなかった。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は朧気なものであり相手がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)から受肉するイマーゴ(真善美の回復)を持っていなければ通じない。

相手が特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)による人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する存在であれば「純愛メシア信仰(Holy Communion)」は邪悪に完全否定される。

だからそれは何ら確証のないものとなっていた。

何故なら私以外に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持った存在は周囲に確認できなかったからであり私は絶対の孤独の中にいた。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の存在が隣人に溢れていたからだ。

最大の掟である〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉は皆無だった。

そして其の時に其処に遺体があるならそれを置き去りにすることは「その人(ぺルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」の存在に対する軽薄な行いであるとも感じた。

しかしそれもまた「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」であると感じた。

何故なら彼女(奈美さん)の「遺体」其の物は最早「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉するペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)ではないからだ。

「彼女(奈美さん)」は「永遠のカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」となったからだ。

「永遠のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」、「永遠の愛徳」、「永遠の福音(メシア)」、「永遠の純愛」そして「永遠のカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」

だから遺体の形式的事務処理には意味がないと感じた。

それよりその「殉教のカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)のメッセージ」を大切にしなければならない。

11階の建ての高層建築である白い中央棟から投身自殺であるならその遺体の損傷は激しく生前の面影は全くないだろう。

興味本位で遺体を見ることは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であるからだ。

「見ない方がいい」と私はそう最後に決断した。

私は「第一発見者」になるべきだったのか?

それは今でも考えてしまう時がある。

しかしそれは悪しき誘惑であるように感じたのです。

私が「第一発見者」であるべきだったのか?

「誘惑」にのってはいけないと感じました。

そして私は新聞による確認行為をすることにしたのです。

その人を美しいまま記憶の中で留めておいた方がいいとも感じた。

私はそのペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の「死」の濃厚な空気の感触を背中に纏いながら結局船橋旭高等学校へ向かう通学路へ自転車を漕ぎ出した。

あの時の私は背中を投身自殺から発生する何かが強烈に惹きつけているのを強く感じていた。

しかし私は自分の判断と直観に従った。

それは当時私以外の存在は明らかに「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」であったからだ。

どれほど衰弱した自分の判断と直観であっても「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」に従うよりは良策であったためだ。

自転車で風を切りながら坂道を下っていく感覚を今でもよく覚えている。

坂を下り始めたらもうそこに戻ることはないだろうという思いを抱きながらそれが正しいか正しくないかの正解を持つことはできないけれど私はそうしていたのだ。

団地の出入り口となる道路の交差点には船橋グリーンハイツにある唯一の交番派出所が在りその横の坂道を下って上っていくと船橋市立高根小学校が存在する。

その横の道を抜けていき私は船橋旭高等学校へ向かっていく。

あの時の「濃厚な感触」を私へ向けられたものだと感じることは私にとって「私」を「ユリスモール・バイハン」とし「奈美さん」を「トーマ・ヴェルナー」とする「純愛証明(Holy Communion)」の黙示であった。

それは私がこの投身自殺事件を「至高の抽象化の高み」にあった「殉教」と見做す理由の一つであるのです。

8 トーマ・ヴェルナーとの関係(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))

萩尾望都タロット 運命の輪 10 WHEEL OF FORTUNE

1

当日は「新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日」であった。

死亡欄は翌日の千葉県欄に載るだろうと考えて翌日の朝日新聞の朝刊を確認した。

その時感じた投身自殺の「出来事性」の予感は事実確認された。

私が感じた「聖霊の媒質」とも言える感触は「本物」であると証明された。

私はその時「体の芯」がいつまでも震えて止まらない感覚を今でもよく覚えている。

このような知らせがあり得るのだろうと実際に感じたのだ。

そこに偶然とは言えない何かを私は朧気に感じていたがその明確な証明はできなかった。

その証明をしたくても「証拠」も「証言」もなくどうすればいいのかわからなかった。

しかし私は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によって「聖痕の徴の受肉」を見出していた。

「トーマの心臓」ではトーマ・ヴェルナーの手紙〈カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)〉のメッセージがユリスモールに届いている。

しかし私には其の様な明確な手紙〈カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)〉のメッセージは存在していない。

それは私の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」への「信仰」へ向けられた相互愛のメッセージであると感じていたけれど、しかしそれを積極的に否定する人は居ないが私自身もそれを積極的に主張することが出来ない状況だった。

当時の私には「友人」と言える「友人」は存在しなかった。

信仰者に対する迫害状態が陰湿なハラスメントを生み周囲は暗黙にそれを容認して私は追い詰めていた。

私が交番派出所の横の坂道を船橋旭高等学校へ向かって自転車を漕ぎ出し下って行く前に警察官へ通報することもできただろう。

しかし私はその「重い感触」からの直観を人に伝えることを躊躇した。

又投身自殺遺体があった場合に何故自分がそれを知っているのか説明できない。

もし投身自殺遺体がなかったら「お騒がせ高校生」となって「高校」と「自宅」へ通報されるかもしれない。

現実的にもなんとも言い難い感じがしていた。

ただ強烈な感覚を感じただけである。

あの聖霊(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))とも言える感触に偶然ではない何かを感じ、そして実際に「死」があったという「事実証明」が私へ向けられたトーマ・ヴェルナー(奈美さん)の「殉教」であると朧気な直観が可能だった。

そのような「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が私の場合に可能となるのを理解できるのは、私が其のあたりの人生で完全に行き詰まり限界に来ていることが明らになっていたからだ。

それは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の存在によって理性(自由の相互性〈相互愛〉)へ向かう導きを完全に遮断され絶対の孤独の状態に陥っていたからです

私は自己否定しなければならない状況にあり、しかしそれは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)を至上とするペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」を完全否定することでありました。

それは「私の理性(自由の相互性〈相互愛〉)」の完全な喪失を意味していたのです。

それは「私の狂気」であるか「私の死」を意味していた。

私は狂気になれない「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持つ存在であり、よって「自殺を考える状態」だった!

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のキリスト教では「自死」を禁じている。

それが特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であり「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」でしかないからだ。

それは堕天することを示している。

それは最早私が死んでいると同然な状態だったことを意味している。

逆にそれが「私がユリスモール・バイハン(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))であったという証明」でもある。

「彼女(奈美さん)の死」は「トーマ・ヴェルナーの死(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」と同じように「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を潰され最早死んだも同然の「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」を救うためにあった。

それは「福音(メシア)」の殉教だった。

2

その仕組はこうあります。

それは「純愛の証」として、その「存在(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」に対する「純愛の殉教」が決して揺るぐことのない永遠の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「純愛証明」として為されることであるのです。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を潰され最早死んだも同然の「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」を絶対の純愛(Holy Communion)によって救済をするために「殉教により揺るぎないもの」となった「純愛証明」が必要だった。

その「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「純愛証明」が「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」をラディカルに救済しその「存在(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」の永遠の支えとなるということが可能となる。

私は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持つ者であったがそれを他者へ証明する術がない「存在(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」だった。

誰一人それを認めないハラスメントの中で絶対の孤独の状態に陥っていた。

もはや最高善の神の奇跡によってしかその証明はなし得ない状況にあったのだ。

理性(自由の相互性〈相互愛〉)への「福音(メシア)」を徹底的に潰され孤独の中で一人で理性(自由の相互性〈相互愛〉)を信仰し生きていた私に対して私の周囲はそれを特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)によって絶対に認めなかった。

そして私を反対に「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」へ追い落とすために「ネグレクト(あざとい自閉)」による形成した「既成事実化(アリバイ証明)」を使用した。

それによって私を「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)」と公然と見做すことで「敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を狙っていたのだ。

それは「ネグレクト(あざとい自閉)」によって形成した自分に都合のいい「既成事実化(アリバイ証明)」が侵害された場合に「被害者より加害者の方が繊細で傷つく」と陰険に主張する。

それは劣等者の「あべこべの被害者意識」であり「あざとさ」であり「逆ギレ」だった。

日本人の独自性はそのような「あざとさ」であり「逆ギレ」の在り方(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)だった。

それは日本文化の独自性の在り方(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)は最高悪崇拝の在り方(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)でしかなかった。

またはそれは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」と言う「愚民政策」だった。

要は低能で劣等な在り方(愚民の在り方)であり「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」を「原始的段階に近い在り方〈一方的自由の陰険〉」へ貶す「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」が日本文化の独自性の正体であった。

自分達こそ「イエス・キリスト」だと「ナチズム」の如く主張するのだ。

ナチズムとはそのような特殊詐欺によってあったカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に敵対する権威付けされた「イエス・キリスト」の在り方だったのだ。

「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の「イエス・キリストの贋作」が「ナチズム」だったのだ。

「鉤十字」はそれを顕している!

様々な十字架の形

彼らはイマーゴ(真善美の回復)を認めない「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」で私の抹殺を謀っていた。

それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持つ私こそが「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」だとする悪意の詐術であった。

「敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)」からしてみれば特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)でしかなくその在り方はプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉でしかない。

それは「集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」による「立ち位置の印象操作」であるがその陰湿な冒涜性はまさにサタン(最高悪)の在り方だった。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」は「逆ギレ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と同じである。

「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は「逆ギレ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であるのだ。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「真の演技」としての「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」としてある。

しかしその「敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を社会的同意で迫る社会的上下関係(パワーハラスメント)が私(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))に向けられていた。

対人関係や人の認識に関する詐術の中で其の「敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」のきっかけをいつも相手が狙っているのはよく解っていた。

それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)のキメシア」に対するのストーカー(INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)」の在り方だった。

しかし「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「究極の純愛証明」が彼女(奈美さん)の殉教に依って可能となったために「覆らない絶対の純愛証明」が私をラディカルに救済した。

それが「私の永遠の支えの存在」となった。

そして少なくとも「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)のメシア」に対する「敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は不可能となった。

そのような純愛証明(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))の必要性によりなされたのが「奈美さん」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の殉教」であったと言える。

その証明は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」を救済するための絶対必要だった。

究極の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の純愛証明」だった。

それは「人を真に愛する行為(最高善の純愛)」だと言えるだろう。

そしてその「純愛証明(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」がこの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の「奈美さん」による殉教の投身自殺事件(トーマ・ヴェルナー)」であったのだ。

「奈美さん投身自殺事件」は萩尾望都「トーマの心臓」の核心である「純愛証明」だったことを示す私の証言である。

トーマの心臓Perfect Selection

2007年7月31日初版第1刷発行

トーマの心臓 トーマ・ヴェルナー

※そして「トーマ・ヴェルナー」は「彼女(奈美さん)」だと当時から私は認識していました。

2007年7月31日初版第1刷発行

トーマの心臓 エーリク・フリューリンク

※私がエーリクだと認識した方は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「牡丹桜の切手の方」でした。

しかしそれは今でも真のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛です。

3

其の死の意味が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の純愛証明」だと感じ、それが私の存在(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))と私の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する「究極の救済」だと感じた。

彼女(奈美さん)が愛した私は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)を持つ存在(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」であり又同時にイマヌエル・カントの言う「理性的人間〈先ず悟性的人間(知性的人間)、次いで理性的人間、最後に学者〉」とされるものだった。

それは揺るぎない「永遠のカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の純愛証明)」の殉教であった。

そうしないと救えないほど切迫した「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」への攻撃に対しどうやっても其の「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」の支えとなる「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の純愛証明」が必要だった。

打ち消しようのない永遠の揺るぎない「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の純愛証明」によってその「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」を救済し、その「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」の永遠の支えとなる。

徴となる存在証明を私は持っていない。

しかしそのような「明確な証拠」がない故にそれは「最高善の神の意思」となるであろう。

ただ私はその時にそう感じ直観したのだ。

そして実際に彼女(奈美さん)は私の「トーマ・ヴェルナー」となったのだ。

萩尾望都タロット 恋人 6 THE LOVERS

9 「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」としての時間「1985年」

投身自殺したのは友人の妹だった。

その友人とは映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を2人で観に行った。

今でも良く覚えている。

彼はその後にその映画のノベライズ化された文庫本を船橋市立高根中学校で読んでいた。

バックツゥーザ・フューチャー

公開
アメリカ 1985年7月3日
日本   1985年12月7日上映時間116分

その友人は「その妹(奈美さん)」を私にきちんと紹介してくれてとても嬉しかった記憶がある。

はっきり言えば非常に嬉しかったのでよく覚えている。

忘れるわけはないのだ。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を一緒に観に行った時期と近かったと思う。

10 「奈美さん」の「カトリックロゴス感覚(鞦韆〈Holy Communion〉)」に関する記憶

彼女(奈美さん)はその時に船橋グリーンハイツの公園のぶらんこ(鞦韆〈Holy Communion〉)に乗っていてとても素敵な子だった。

友人は「彼女(奈美さん)の名を呼びながら彼女(奈美さん)の足を持って揺らしてあげてくれ!」と私に言った。

私はこんな素敵な子の足に触れて揺らしてくれと言われた。

「本当に彼女(奈美さん)に触れて良いのかな?」

私はかなり真剣に彼女(奈美さん)のことを考えながら彼女(奈美さん)の足に触れて揺らしてあげた。

それだけであるがその子のことは人生で純粋に愛した人であった。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁じた「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の純愛関係」であった。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の欠片もない関係であり素敵な思い出であった。

鞦韆

2023年4月24日撮影(午前9時頃撮影)
奈美さんと鞦韆の思い出
2023年4月24日撮影(午前9時頃撮影)
2023年4月24日撮影(午前9時頃撮影)
藤の花言葉は「歓迎」「恋に酔う」「忠実な」「優しさ」「決して離れない」
特に関係はないと思いますが当時からここに藤の花が咲いていたことを思い出しました。
藤の花の見頃は4月下旬~5月上旬とあり丁度今日は季節でした。
2023年3月12日撮影
奈美さんと鞦韆の思い出
2023年3月12日撮影
北原はもう引っ越していると考えていました。
理由は団地という場所は移り変わりの速い印象があったからです。
私は久しぶりにグリーンハイツを訪れ多くの変化を目にしました。
一部の団地マンションは一戸建ての分譲地に建て変わっていました。
又南側にはマンションが建設されていました。
しかし北原はきっと家を出ているだろうけれど北原家の表札はあの時と同じで団地マンションの郵便受けにありました。
私は挨拶には行きませんでした。
挨拶に行く理由付けも出来ませんでしたしあの時から時間が経ちすぎていました。
光陰矢如旅人行不帰時

ぶらんこ
フラココ,ユサハリなどともいい,漢語で鞦韆(しゅうせん)という。2本の綱を木の枝などから垂らし,下に横木をつけ,それに乗って前後に振動させる運動遊具。宋代の『事物起原』には『古今芸術図』を引用して,もと北狄(ほくてき)の技で中国に移入されたとある。日本には朝鮮を経て移入されたようである。朝鮮では5月5日に若い男女が鞦韆を楽しむという。日本では明治以後学校の校庭や公園にこの設備を設けるようになった。沖縄の宮古島では粟の刈入れをする五,六月の甲午の日に,晴れ着の娘たちがユーサ(ぶらんこ)を楽しんだ。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ほく‐てき【北狄】
古代中国で、北方塞外の匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・柔然(じゅうぜん)・突厥(とっけつ)・契丹(きったん)・回紇(ウイグル)・蒙古などの遊牧民族を呼んだ称。→東夷→南蛮→西戎(せいじゅう)

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ぶらんこ
(一説にポルトガル語から)2本の綱か鎖で吊り下げた横木に乗って、前後に揺り動かす遊具。ゆさわり。ふらここ。鞦韆(しゅうせん)。〓春。「—をこぐ」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ぶらんこ
a swing
◾ぶらんこに乗る
「sit in [get on] a swing/swing in a swing

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

※特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)はプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉であり「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」である。

彼女(奈美さん)との出会いには特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉はなかった。

プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉とは最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)に敵対感覚〈原罪〉を形成するだけで決して至上として信仰しない。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」となる。

最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)を至上としたものは「フィロソフィー(知への愛)」である。

そして彼女(奈美さん)は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」だった。

それは純愛の「福音(メシア)」だった。

そしてその子が私が生涯忘れない「死の感触(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」ともなった。

しかしそれは同時に「生命の木(カトリックエリート)」でもあり、メシア再来の信仰であるユダヤ・キリスト教の福音(メシア)ともなった。

【第二章】「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」

1 ユダヤ・キリスト教とメシア-「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上とすることであり得るカトリックの純愛の奇跡

ユダヤとキリスト教の違いはナザレのイエスを「メシア」として認めるかどうかの違いでしかない。

それはユダヤとキリスト教の「神」が同じであることを意味する。

「神」とは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪する「最高善の神」のことである。

そして其の「最高善の神」を身近に感じる「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はユダヤ教もキリスト教も同じであり変わらない。

「ダビデ(Holy Communion)」が「ゴリアテ(特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉))」を殺害した逸話のように「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を撃つものは「メシア」と呼ばれる。

2 斉藤由貴の「トーマの心臓」評が露骨なカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)となっている件についてーこれは萩尾望都を否定する行為だ!

斉藤由貴によるコミック評

斉藤由貴が指摘する「永遠」には「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」は示されていない。

それは「トーマの心臓」にある「カタルシス」と「救済」の在り方について理解していないか「敵対感覚〈原罪〉」を持っていることを示している。

それは「時の徴」としての「聖書」を貶めて存在する「敵対感覚〈原罪〉」の「時間感覚」の指摘である。

例えば「バックツゥーザ・フューチャー」のタイムリープによって起こるバタフライエフェクトは主人公以外の「時の徴」が完全否定される。

それは「聖書」の完全否定を意味している。

其の示すところは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」の在り方である。

そしてそれは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対する「敵対感覚〈原罪〉」の扇動である。

それは「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」そのものであり劣等な特殊詐欺に過ぎない。

ただ斉藤由貴は高尚な特殊詐欺として自らを劣等な特殊詐欺の特権階級とする。

それはカルト教団の教祖と上層部の在り方でしかない。

斉藤由貴の時間についての考えはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「時間感覚」に対する「敵対感覚〈原罪〉」として存在する。

「人の感覚(自閉空間)」によって「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」の捏造(歴史改変)をする特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の翼賛番組であった。

これは萩尾望都の崇高な「トーマの心臓」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を貶めるものである。

斉藤由貴は「赦し」を指摘するがそれは間違っている。

何故なら「キリスト教カトリック神学(Holy Communion)」とは〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉としてあるからだ。

「犯罪の容認」でも「犯罪の許し」でも「犯罪の聖域」でもない。

〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉は人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))を救済する。

それは「純愛」の話である。

しかし「犯罪の聖域(赦し)」は「犯罪」を救済するのだ。

この両者は全く違っている。

「赦し」は「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であり、〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉は「純愛」だからだ。

「 INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」の「赦し」は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)である。

それは錬金術で錬成された人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))である。

斉藤由貴はモルモン教徒らしいが斉藤由貴の教理は「赦し」であり〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉に縁はない。

しかしキリスト教は「純愛」である。

※描写によるプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉

※「許し・優しさ」による容認の形成はプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉

※この斉藤由貴の評が初版で1989年(平成元年)12月10日

3 バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)の劇場での鑑賞

1

バックツゥーザ・フューチャーPART2 日本公開1989年12月9日

アメリカ  1989年11月22日
日本    1989年12月9日上映時間108分
彼女(奈美さん)の死が1989年12月18日(月)

「奈美さん」の兄である友人と「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を観に行った。

其の頃に彼女(奈美さん)を紹介して貰う。

時期が一緒だった。

彼女(奈美さん)の兄は映画の最後のシーンの解説を求めてきたので私は簡単に答えたことを記憶している。

映画の最後にデロリアンがタイヤを横に格納して空を飛んで客席にUターンして未来に飛び立つシーンで終わった。

彼女(奈美さん)の兄はそれがよく分からないと言って質問してきた。

私は「多分続き(続編)があることの暗示だよ!」と簡単に答えた。

※その通りになった。

彼女(奈美さん)の兄はその後に映画のノベライズの文庫本を中学校で読んでいた。

「この映画がよっぽど好きなのかな?」

「この映画が面白くて嵌ったのかな?」

どっちかだろうと私は考えていた。

2

確かに「タイムリープ作品」は本来道理に反した設定であり無理を前提にしている。

だから「なんでもあり」にしては大駄作となるがそこに何らかの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の摂理を設定しなければ破綻してしまう。

それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の受肉としてある「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が「時の徴」としての「歴史」であり「聖書」であるからだ。

しかしこの映画は「バタフライ・エフェクト」が当然のように起こる。

それは「聖痕の徵の受肉」の貶めと否定となるのだ。

それは「最高善の神の時間」を貶め否定することで「人の時間」の認識を扇動し翼賛した特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)となる。

「最高善の神の時間」は「時の徴」であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」である。

「人の時間」は「最高善の神の時間」を貶め否定することで「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」で捏造され扇動された特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)となる。

そこには「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」はないのだ。

しかしそのようなシナリオでは「そんな馬鹿な話に金払えるか!」となるのがまともな観客である。

「なんでもあり(バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」では自分が「神(全知全能)」となった妄想狂の話である。

「なんでもあり(バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」と「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の奇跡」は全く違うのだ。

「なんでもあり(バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」は「人間関係(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)が形成するお約束」で成立するプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉であるからだ!

それは才能ではなく特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「立ち位置の印象操作」を示している。

才能を「立ち位置の印象操作」によって形成するがそれは特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)である。

そういった存在は「ビートたけし」や「タモリ」などが有名である。

しかし彼女(奈美さん)の兄が質問したようにその「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「摂理の設定」を把握しないとストーリーが良くわからないのは理解できる。

その設定がプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の「なんでもあり(バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」ではなく「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の奇跡」の信仰であることで傑作作品となり得るかもしれない。

私は「SF作品」もよく読んだので其の様な「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のトリックはよく知っている方だったのでこの作品は簡単に理解できた。

3

そして私が暗示を指摘した「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」の日本公開日が1989年12月9日(金)であった。

※「奈美さん」の死が1989年12月18日(月)

この映画は彼女(奈美さん)の兄と観て続きがあると指摘した映画であるから私が必ず知っている映画である。

はっきり言って彼女(奈美さん)の兄と彼女(奈美さん)と一緒に観に行ってもいい映画であったと思う。

そうあっても不思議のない映画だった。

私は千葉県立船橋旭高等学校(現在の船橋啓明高等学校)に進学し、彼女(奈美さん)の兄は千葉県立船橋高等学校へ進学した。

当然ご存じの方はいると思うが県立船橋高等学校は名門高校である。

民主党で総理大臣になった野田佳彦氏の出身校でもある。

彼女(奈美さん)の兄は学校の成績では優秀とされていた。

しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の受肉とカトリックエリート(Holy Communion)に関して私は優秀と言えた。

それでも彼は私を気に入ってくれたらしく時々誘ってきた。

この映画も二人で観に行ったが彼が誘ってきた。

ある意味すごく善い奴だった。

だから彼のことは何があっても否定することはないだろう。

奇異なことがあっても何か事情があると考えた方が合理的な人物であった。

しかし他の知人は平気で逆転〈陰険〉を行う「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の存在だった。

その違いが大きいことは歴史的人物が証明しているだろう。

4 彼女(奈美さん)の自殺-1989年12月18日(月 新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日)

どうやって知ったのか?

1

当時私は観に行く映画館は新聞で調べていた。

私の情報源は主に新聞であり、新聞は購読していた朝日新聞だった。

後にわかったことだが彼女(奈美さん)の「名前(実名)」が掲載されたのは朝日新聞だけだった。

もし「名前(実名)」の掲載がなければ知り得ないことだった。

朝日新聞を購読していたのでその記事(Holy Communion)で知ることができたのだ。

彼女(奈美さん)の兄である友人から死の知らせはなかったし、他の同級生や知人は全く私へ教えなかった。(情報遮断)

※「情報遮断」は「理由付け」を不可能にする。それは「理由付け」と「動機づけ(モチベーション)」を「欲望」へ誘う罠となり「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」を正当化させるサタンの計略となるからだ。本来「理由付け」と「動機づけ(モチベーション)」は「情報」と「欲望」ではない。それなら「情報操作」と「情報遮断」によりコンプライアンスを至上とするアンダーコントロールに人は容易く置かれてしまうだろうからだ。「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が「理由付け」と「動機づけ(モチベーション)」となることでイマーゴ(真善美の回復)は受肉し人を救済する。だから「サタンの計略(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は嫌らしく陰険に「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を攻撃するのだ。

全く私は情報を干された状態だったが朝日新聞だけが彼女(奈美さん)の死を私に知らせた。

私は仮に「故安倍晋三氏(初掲載当時は生前)」の言うように朝日新聞が反日新聞だとしても彼女(奈美さん)の死(実名報道)を知らせた新聞に対する「感謝」は一生持つであろう。

新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日の意味は新聞を確たる情報源としている私に対する彼女(奈美さん)からの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のメッセージと感じた。

またどうあっても残る事件記事(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))でありそれを「純愛メシア信仰(Holy Communion)のメッセージ」としたのではないかとも感じた。

※新聞記事を使用して「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のメッセージを伝えたと感じたのだ。

2

私は「奈美さん」が新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日である1989年12月18日(月)に投身自殺した理由が新聞記事による「私へ(又は誰かへ)」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の知らせではないかとその時から朧気に感じていた。

新聞休刊日(しんぶんきゅうかんび)、あるいは休刊日とは、新聞社があらかじめ新聞の製作を行わないと定めている日である。当該休刊日の夕刊および翌日の朝刊、当該休刊日が元日の場合は2日の夕刊が発行されない。また、当該休刊日の朝刊は、通常通りに発行されることに留意する。

wikipedia

人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))で干された状態だった私へ「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の知らせを届かせる彼女(奈美さん)の唯一の手段は私の確たる情報源だった朝日新聞だったからだ。

だから新聞を確たる情報源にしていた私に彼女(奈美さん)が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の知らせを届けるために新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日の早朝の自殺記事は夕刊に掲載されることはなく必ず翌日の朝刊に掲載されると考えられる。

翌日の朝に彼女(奈美さん)の死は私へ「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」で知らされるのだ。

これは私だけではなく新聞を読むだろう全ての人間に言えることである。

ただこの自殺に大きな意味を感じる人物はそんなには多くないだろう。

新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日の自殺のメッセージが休刊日の後に初めて届く火曜日の朝刊の千葉県欄記事なのだ。

夕刊の死亡欄は知っていると思うが有名人が多い。

夕刊は財界人や社会的地位のある人物の死を伝える。

しかし朝刊の死亡欄は社会的地位には拘らず事件や事故などの死亡を伝えることが多い。

そのため新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日の自殺・事故死は火曜日の朝刊に必ず掲載される。

県内の事件死や事故死を千葉県欄の下にある朝刊の死亡欄の記事で並べて伝えるのだ。

少なくとも長年朝日新聞を読んで来た私はそう思っている。

他の新聞でも似たような感じだと認識している。

そして私は千葉県立船橋旭高等学校卒業生でありその時は「旭〈ASAHI(Holy Communion)〉」に在学中であったのだ。

5 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」について

主題歌であるヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「The Power of Love」は、世界的に大きな成功を収めた。

「The Power of Love」

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は1985年へ戻る話である。

1985年10月26日へ戻る話であり、アメリカ公開日時点では未来の話であり、日本公開日時点では過去の話である。

1985年は彼女(奈美さん)の兄とこの映画を観に行って彼女(奈美さん)を紹介してもらった年であったと思う。

※もしかしたら1986年の1月だったかもしれない。

1985年12月であるか1986年1月の間である。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」とは過去へ誤ってタイムリープした主人公が未来へ帰るためのタイムリープする逆転〈陰険〉題名である。

「未来へ帰る」とはあり得ないのだ!

しかし本来は未来へ時が流れるのが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「摂理」でありこの題名はユダヤ・キリスト教の普遍性(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))を象徴している。

これはユダヤ人であるスティーブン・スピルバーグの製作総指揮の影響と考えている。

彼女(奈美さん)はあの瞬間(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))の1985年へ戻ることを示しているのではないかと感じた。

彼女(奈美さん)の兄と彼女(奈美さん)と私で遊んだあの瞬間(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))である。

バックツゥーザ・フューチャーPART3 日本公開1990年7月6日

公開
アメリカ   1990年5月25日
日本     1990年7月6日上映時間118分

6 斉藤由貴は「純愛メシア信仰者(Holy Communion)」であるか?

それとも「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の特殊詐欺(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)」であるのか?-「島本須美との比較!」

私は島本須美をカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の声優だと見做している。

斉藤由貴の《悲しみよこんにちは》

音無響子を演じた島本須美の唄う曲である。

これは《悲しみよこんにちは》の島本須美ヴァージョンである。

島本須美は「風の谷のナウシカ」と「クラリス・ド・カリオストロ」を演じた私が最も「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」だと見做すペルソナ(声優(自由の相互性〈相互愛〉))を持った存在である。

特に島本須美が演じた「風の谷のナウシカ」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が「奇跡」を起こす「聖痕の徵の受肉の物語(聖書)」である。

それを「時の徴」という。

「ジブリ(熱風)」の名の由来であるがそれはデマゴーグを嫌悪しイマーゴ(真善美の回復)を愛する宮崎駿の姿勢が反映されている。

宮崎駿のイマーゴ(信仰の理想)はイマーゴ(真善美の回復)がイマーゴ(理想の成虫体)であるところだろう。

それは老いも若きもペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)を理想とするカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であることを示している。

時の徴/天の徴を求めるファリサイ人たち

熱風(ジブリ)
特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)を撃て!

7 斉藤由貴の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の検証-斉藤由貴はアンチ・カトリックロゴス感覚(Anti Holy Communion)か?

萩尾望都タロット 悪魔 15 THE DEVIL

1

モルモン教

モルモンきょう【モルモン教】
Mormonism
1830年アメリカの J.⇨スミスが創始した新宗派。正式には「末日聖徒イエス・キリスト教会」 Church of Jesus Christ of Latter-Day Saintsという。神によってアメリカ大陸の古代住民に与えられたといわれる預言の書『モルモン書』 The Book of Mormonを聖書に次ぐ聖典とする。その教義は,自己の教会だけの正統性の主張,永遠に分離した位格から成る三位三体の信仰,世界の末日まで繰返し行われる啓示への信仰などを特色とする。創設当初は一夫多妻を教義としていた(1890廃止)ほか,禁酒運動など,時代の風潮に対処する特色ある教えを展開。教会設立当初は社会通念にふれる行動が多く,各地で迫害を受け,スミスも 44年暴徒に殺された。スミスの後継者 B.ヤング(1801~77)は信徒だけの新しい天地を開くため,ロッキー山脈を越えてグレートソルト湖渓谷の未開墾の地に町をつくり(現在のソルトレークシティー,信徒は「新シオン」と呼ぶ),ここを中心に活発な布教活動を開始した。世界各地に教会を建て,会員数約 1000万。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

斉藤由貴が「カトリック芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」の「トーマの心臓」の書評を書くことが「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対する敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)にしかならないことは明白だった。

それは悪意の「コミック評」だったのだ。

斉藤由貴はキリスト教の一派である「モルモン教徒」であるが不倫騒動を起こした時のマスコミ取材に対してその釈明に〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉がないという特徴があった。

当然に悪くない行為であれば〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉は必要ないと私も考える。

しかし「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であれば〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によって救済するのがキリスト教である。

それが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であるからだ。

しかし斉藤由貴には特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)が透けて見えその「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」が「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」でしかないのだ。

斉藤由貴が〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉を否定する理由は飽くまで「偽善者」に対する「批判」としてある。

それは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪する「純愛メシア信仰者(Holy Communion)」としての自分の「偽善(ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」を立てる行為でしかない。

其の「偽善(ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」を立てる行為は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「社会的カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の行為そのものであった。

それは「純愛メシア信仰者(Holy Communion)」を装う「カリスマ」の「偽善(ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」を至上とする在り方でしかなかった。

ある意味最も陳腐でありきたりな「敵対感覚〈原罪〉」の形成がそこであからさまに行われていたのだ。

「信仰」とは「古典」であり「最高峰」を意味する。

しかし「信仰」に対して「敵対感覚〈原罪〉」は「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」として形成されそれは「劣等」が行う「古くからある原始的段階に近いだけの存在〈一方的自由の陰険〉」となる。

「敵対感覚〈原罪〉」は「最高峰」という意味の「古典」とは「すべて反対の存在」と言える。

その行為は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を完全否定して特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「カリスマ」の「偽善(ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」を至上とする。

それは自ら「教祖」となったプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉のやり方でしか無い。

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」に対する「敵対感覚〈原罪〉」を正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)する「仮面」を造ることがクリエーター(非芸術家)でありそれは「サタン(最高悪)」の下僕とされる。

そこが「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」と「敵対感覚〈原罪〉」を正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の「偽善(理性の仮面)」の違いである。

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」は「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」を生み出し、「偽善(理性の仮面)」は「サタン(最高悪)」という「デマゴーグ(敵対感覚〈原罪〉)」を正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)して生み出す。

一般に「理性(自由の相互性〈相互愛〉)」は「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉の報道」であり、「サタン(最高悪)」という「デマゴーグ」は「偽善(理性の仮面)」を「宣伝」している。

結局「偽善(理性の仮面)」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して「敵対感覚〈原罪〉」を正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)する「仮面(偽善)」でありそれ自体が「サタン(最高悪)」の存在証明となるだろう。

「偽善(理性の仮面)」を形成し「敵対感覚〈原罪〉」という「サタン(最高悪)」を正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)する。

「サタン(最高悪)の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は「悪魔崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」である。

ブリタニカ国際大百科事典によれば、そういう意味で「悪魔主義(Holy Communion)」は萩尾望都でありその「悪魔主義(Holy Communion)」は「神の死んだ」世界における求道精神の逆説的表明であるといえる。

悪魔主義/di・ab・o・lism [daiǽbəlìzm]

あくましゅぎ【悪魔主義】
diabolism
すべてを破壊し否定する悪魔的精神により,人間の暗黒面を追求,その表現に美を見出そうとする文学上の傾向。世紀末の⇨デカダンスはその顕著な実例で,ポー,ボードレール,ワイルドらがその代表者。しかしワイルドの『⇨深淵より』にはキリストへの訴えがあり,ボードレールの『⇨悪の華』はキリスト教への裏面からの接近ともみられ,ポーの究極目標が「天上世界」であったとすれば,悪魔主義は「神の死んだ」世界における求道精神の逆説的表明であるともいえる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

di・ab・o・lism [daiǽbəlìzm]
―n.
1 〖神学〗
(1)悪魔の仕業;魔法,魔術.
(2)悪魔の性格,魔性.
(3)悪魔学,悪魔研究.
(4)悪魔信仰,悪魔崇拝,悪魔主義.
2 悪魔的所業,極悪非道な行為(deviltry).
[1608.<ギリシャ語 diábol(os) DEVIL+―ISM]
di・áb・o・list
―n. 悪魔主義者[研究家].

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

「悪魔崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に敵対する特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を至上としている。

斉藤由貴はそのプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉として自らをその「教祖」としたものである。

最高善の神を至上とすることが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であって、最高善の神を至上としないものはありえない。

しかし斉藤由貴のようなカトリックロゴス感覚(Holy Communion)ではない「神的存在(神感覚)」は特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)の「カリスマ」でしかな!

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」を嫌悪し禁ずる理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)が最高善の神の「福音(メシア)」であり最高善の神の「救済」である。

それはメシアの在り方と思えます。

そして斉藤由貴は「偽善者」を「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」だとして嫌悪しているように一見見える。

しかし斉藤由貴には特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉自体に対する「嫌悪」は存在しない。

では斉藤由貴の嫌悪する「偽善」とは何なのだろうか?

実は「偽善」の定義にそのトリックがあったのだ!

2

[L. per, through+sonare, to sound.役者の発声を助ける古代劇用の面についている小さなメガホンから声が聞こえるの意]

「ペルソナ(persona)」と「偽善(hypocrisy)」の差異にその回答があった。

「ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」のペルソナは「偽善(hypocrisy)」であり、「フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)」のペルソナは「キリスト教カトリック神学(Holy Communion)」の「ペルソナ(persona)」としてあるのだ。

ユングはフロイトに敵対することで「ペルソナ(persona)は偽善(hypocrisy)」「偽善(hypocrisy)はペルソナ(persona)」という「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を形成した。

しかし私が指摘したようにフロイトのイマーゴ(真善美の回復)は「ペルソナ(persona)はペルソナ(persona)」「偽善(hypocrisy)は偽善(hypocrisy)」というカトリックロゴス感覚(Holy Communion)へ治癒させることをイマーゴ(真善美の回復)としている。

それは「魂を穢す(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は「真の魂の浄化(Holy Communion)」の「フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)」にとって「疾患」というより「劣等」であることを示している。

「フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)」は治療の対象である「ペルソナ(persona)」の「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)に関する疾病」に纏わるものであり高度な医療と言えるのです。

しかし「ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の治療を受ける患者は「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」への適合を矯正される対象として存在しそれは究極的に「原始的段階に近い劣等〈一方的自由の陰険〉」な在り方への屈服と服従となるのです。

一言で評すれば「フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)」は「メシア信仰」であり「叡智」を受肉します。

一言で評すれば「ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は「英雄崇拝」であり「特権階級への一方的屈服と一方的服従」を迫られるのです。

それが両者の違いであり真の治療は「フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)」なのは一目瞭然なのです。

ただ「フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)」は真に高度な治療と言えます。

何故ならば「精神分析医」はメシアでなければなりません。

それは「信仰」を持った存在であり真の「ヒポクラテス」です。

そのような存在は稀有であることは皆さん「経験則」でご存知であると思います。

例えば「明石家さんま」、「北野武」、「所ジョージ」などは「〈お笑い〉で民衆を救済したようなこと」を言っています。

しかし彼らの「お笑い」は「ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の「英雄崇拝」です。

彼らの存在は「特権階級への一方的屈服と一方的服従」の「お笑い(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」でしかないのです。

彼らは何故いつまでも踏ん反り返っているのでしょうか?

彼らはメシアのふりをした偽善者(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)なのです。

現代精神医学の主流である「ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は「キリスト教カトリック神学(フロイト精神分析(Holy Communion))」の「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」を完全否定し「仮面」を正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)する。

それは「ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」が「仮面」を「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」として「立ち位置の印象操作」によって捏造することを示している。

「ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」はそのような「逆転〈陰険〉」の「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を形成している。

そこにあるのは「逆転〈陰険〉」による「敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の形成という最も劣等な在り方が主役となった「医学(カルト)」の流通なのです。

その象徴が「斉藤由貴の在り方」である。

斉藤由貴は俳優として決して優れた存在ではない。

何故ならば斉藤由貴は「ペルソナ(persona)」ではなく「偽善(hypocrisy)」であるからだ!

そして斉藤由貴は偽善(ペルソナ)を嫌悪して仮面(偽善)を賛美する。

それは「ペルソナはペルソナ」「偽善は偽善」という「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」で表現するとこうなる。

「斉藤由貴はペルソナ(Holy Communion)を嫌悪して仮面(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を賛美する。」となるのだ。

斉藤由貴は最悪の存在であり「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」であることは証明される。

偽善(hypocrisy)

ぎぜん【偽善】
hypokrisis; hypocrisy
ギリシア語の原意は「劇である役割を演じる」こと。そこから実際にもたない感情や徳などをもっているふりをする倫理的に悪い態度をいう。特に宗教において問題となり,イエスはこの態度を強く戒めている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

hypocrisy
▶noun
(pl. hypocrisies)
[mass noun] the practice of claiming to have higher standards or more noble beliefs than is the case.〓
→〓HYPOCRISY
-ORIGIN
Middle English: from Old French ypocrisie, via ecclesiastical Latin, from Greek hupokrisis ‘acting of a theatrical part’, from hupokrinesthai ‘play a part, pretend’, from hupo ‘under’ + krinein ‘decide, judge’.
→〓HYPOCRISY

●Oxford Dictionary of English, Second Edition revised

hy・poc・ri・sy [hipákrəsi|―pɔk―]〓
―n. (pl. ―sies) 偽善(的行為);見せかけ,猫かぶり(pretense).
[1200年以前? 中期英語 ipocrisie<古期フランス語<後期ラテン語 hypocrisis<ギリシャ語 hypókrisis 芝居に出ること(hypokrīnesthai「役を演ずる,説明する」より)]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

persona (per‐sō′nă)

persona (per‐sō′nă)〓
[L. per, through+sonare, to sound.役者の発声を助ける古代劇用の面についている小さなメガホンから声が聞こえるの意].ペルソナ(その個人全体を統合する語.その人個有の物理的,心理的,行動的属性の全体像.Jung心理学において,パーソナリティの中で周囲に受け入れられる理想的なもの,真のパーソナリティを隠すために装われたもの.→ego; self (4). cf. shadow (2)).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

ペルソナ【persona ラテン】
(もと仮面の意)
①人。人格。
②キリスト教で、知性と意志とを備えた独立の主体。位格。→三位一体。
③美術で、人体像。
⇀ペルソナ‐ノン‐グラータ【persona non grata ラテン】

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ペルソナ
persona; person
位格ともいう。本来の意味は俳優のかぶる仮面。そこから奥にある実体を意味することになり,個的人格 personの意となる。キリスト教神学におけるペルソナ(位格)とは,⇨三位一体論に関して,神の唯一の神性のなかの三つの「私」といえる基体の意であり,客観的に1個のそれ自体で完結している全体,直接神に向ってつくられた唯一のものとして,それ自体で完成した理性的な単一実体 substantiaを意味する。これはテルトゥリアヌスによるとされ,以後この語は西欧神学,哲学において,認識と愛とをそなえた精神的実体の意で用いられた。⇨ユングの心理学では,表に現れた仮面として,社会的な⇨パーソナリティを意味する。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

三位一体論

さんみいったいろん【三位一体論】
De trinitate
400~419年頃にかけて書かれた⇨アウグスチヌスの円熟期の労作。まず聖書の記録に従って三位一体すなわち3つのペルソナ tres personae,1つの実体 una substantiaの教義の解明に努め,次いでこの教義をめぐる教父たちの諸説に論及し,最後に三位一体の秘儀について考察している。ギリシア教父たちはおおむね父と子と聖霊の3つのヒュポスタシス(個性的実体)から出発して神の唯一性を考察し,3神論に陥る危険を思弁的に克服しようとする傾向にあったが,彼は逆に神の唯一性そのものから出発,3つのペルソナ(父,子,聖霊)を神の存在そのものにおける関係概念として説明することによって3神論への傾斜を避け,啓示と救いの働きにおける面を強調する(経綸的)三位一体論の立場を正統とした。また彼は三位一体の秘儀は啓示と信仰のもとでも理性による十分な把握はむずかしいとし,神の三位一体性を人間の心的活動(記憶と悟性と意志,あるいは精神と認識と愛)の三位一体性と類比的に説明している。なお“tres personae,una substantia”という表現はすでにテルトゥリアヌスに見出されるが,これを明確に定式化したのはアウグスチヌスである。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

テルトゥリアヌス

テルトゥリアヌス
Tertullianus, Quintus Septimius Florens
[生] 155頃.カルタゴ
[没] 220頃.カルタゴ
キリスト教著作家,法律家。最初プラトンやストア哲学を学び,のちキリスト教に改宗した。ユスチノスの影響により護教家として多数の著作を著わし,異教と異教の学問,とくにギリシア哲学,グノーシス派を攻撃した。キリスト教思想に対する彼の大きな貢献の一つは,ラテン語による神学上の用語および哲学上の用語の創作であり,⇨ペルソナという概念は彼によって初めて専門的に用いられた。「不合理ゆえにわれ信ず(⇨クレド・クイア・アブスルドゥム)」という言葉は有名。晩年にモンタヌス派の運動に参加し教会の信仰より離れた。著作は『護教書』 Apologeticum(197頃),『ヘルモゲネスを駁す』 Adversus Hermogenem(200/6),『霊魂の証明について』 De testimonio animae(197/200),『マルキオンを駁す』 Adversus Marcionem(207/8)ほか。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

credo quia absurdum/ラテン語で「不合理ゆえにわれ信ず」の意

クレド・クイア・アブスルドゥム
credo quia absurdum
ラテン語で「不合理ゆえにわれ信ず」の意。すなわち,信仰の対象は超越的で,理性や感性に関係なしとする意。 17世紀以来信仰のパラドックスを表わす言葉として用いられる。出典はテルトリアヌスあるいはアウグスチヌスにあるとされるが誤りで,これは中世キリスト教信仰の2つの態度「⇨知らんがためにわれ信ず」 cred ut intelligamおよび「信ぜんがために知解する」 intelligo ut credamに対比して用いられる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

斉藤由貴は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」であり屁理屈(前衛詐欺)のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉である。

それが教祖「斉藤由貴」の特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「劣等感覚」の在り方である。

そして「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」がその正体である。

斉藤由貴はそれを誇らしげに示す「露悪趣味」でありその姿勢は斉藤由貴が「偽善」であることを証明している。

そしてそれは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の在り方なのだ!

それは最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)を至上とはせず「フィロソフィー(知への愛)」が欠落していることを示している。

斉藤由貴には「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」がなく「純愛」がないのだ。

それは〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉が存在しないことを示している。

そして斉藤由貴の中身も「空っぽ」である。

斉藤由貴は強烈なプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉である。

それはカルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を意味している。

最大の掟 「悔い改め」と「隣人愛」について

新約聖書福音書
最大の掟
新約聖書福音書
良きサマリア人
新約聖書福音書
サマリア人と信仰による救済
新約聖書福音書
「悔い改め」の祝福「隣人愛」

3

斉藤由貴の言動はカリスマの「偽善(ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」の至上性としての「教祖」の発する絶対命令であり人は絶対服従させられる。

斉藤由貴は最高善の神を至上とする「純愛メシア信仰者(Holy Communion)」を装っていたものが自らが「カリスマの偽善(ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」を至上とすることで「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を完全否定する最高悪(サタン)となった。

自ら特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「教祖」となったプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の典型的な特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の存在である。

教祖「斉藤由貴」は「堕天使ルシファー」であるのだ。

これは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を完全否定した中身が特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の偽善(ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))のことなのだ。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずる理性(自由の相互性〈相互愛〉)の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「福音(メシア)」は斉藤由貴のどこにもない。

それは斉藤由貴という存在が特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を崇拝する「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の「〈doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa〉の魔女」として狩らねばならない条件が整うことを示している。

斉藤由貴は一方で「偽善」という特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を至上とする「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー〈一方的自由の陰険〉)」を嫌悪しながら、又一方で自らが特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の教祖「斉藤由貴」の屁理屈(前衛詐欺)と露悪趣味の教理を自ら説く。

悪質な魔女が堂々と芸能界で活躍しているのだ。

まさにプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の教団である。

私は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「〈doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa〉の魔女を狩る聖戦」をせねばならない。

「奈美さん」が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の聖女(福音(メシア))」なら、斉藤由貴は「詐欺師感覚(人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))のお約束)」の「〈doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa〉の魔女」である。

斉藤由貴が男性と平気で不倫関係を持つことはそれ自体が特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の女である。

そしてその釈明行為が「偽善」だとする「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の感覚は麻痺している。

斉藤由貴のカリスマの「偽善(ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」によるプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉としての教理であるのだ!

斉藤由貴の胡散臭さはその様な「偽の純愛メシア信仰者(Holy Communion)」としての振る舞いは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)としての「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」にある。

それは「世の退廃」を如実に視るところとなる。

斉藤由貴は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の象徴的在り方である「オレオレ信仰詐欺師」である。

斉藤由貴が装う「純愛メシア信仰者(Holy Communion)」の偽善(ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))が何か特別なものを感じさせていた。
しかしそれは当然の「まやかし」だったのだ。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の魔女」が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の聖女」とされていたのだ。

それが斉藤由貴の魅力(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)とされていた。

しかしそれは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のオレオレ信仰詐欺同様の「立ち位置の印象操作」だったのだ。

それは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のプロテスタントデマゴーグの「集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」教団だと言える。

映画館に私が一人で観に行った斉藤由貴の映画や「同士と呼んで斉藤由貴が不倫交際した尾崎豊」もオレオレ信仰者詐欺師による「立ち位置の印象操作」だった。

「立ち位置の印象操作」は「ペルソナ(persona)」ではなく「偽善(hypocrisy)」である。

それは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「立ち位置(仮面(hypocrisy))」の印象操作であり、「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「ペルソナ(persona)」の演技を貶め否定しているだけなのだ。

3

「立ち位置の印象操作」とは「他者に対する意識」に特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーキングをして「印象を操作し形成した偶像」を「崇拝」するのだ。

「最高善の神がマウンティングした演技(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」は「真の演技」であり、「立ち位置の印象操作」は「最高善の神を騙すことが目的(最高善の神を貶め完全否定する)」である。

「立ち位置の印象操作」は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の特殊詐欺行為でしかない。

それは執拗に相手に絡みつき「立ち位置の印象操作」を試みる「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))の存在」である。

相手の認識を支配しそれを自らの認識とする快感を追求するのだ。

完全な特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))の症例である。

それはフロイト先生によれば「ヒステリー症(異常行動)」に関わるものである。

何故ならばストーカー自体は劣等でありヒステリーとは言えない。

しかしストーカーの標的となったペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)はその抑圧に中でヒステリーを発症すると考えられるからだ。

「ヒステリー研究」

〈ブロイアーのカタルシス説(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)〉から〈フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)〉へ

フロイトのいうカタルシス説は「精神分析」となり、ブロイアーのカタルシス説は「疑似カタルシスによる代替治療」を目指すことになる。

その違いはペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)へ向かう回復を「カタルシス(Holy Communion)」としたフロイトに対し、「疑似カタルシス(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を代替療法(カタルシス法)としたブロイアーは永遠にヒステリー(異常行動)から逃れられないところにある。

何故ならばブロイアーのカタルシス法は〈doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa〉の療法が永遠と継続するだけで決してペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)をイマーゴ(真善美の回復)として回復させない治療法だからだ。

フロイトにはイマーゴ(真善美の回復)がありそれは精神分析医のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によっている。

※ただここで重要なのは精神分析医の最低限の資質ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)をイマーゴ(真善美の回復)として回復させることについての理解である。しかしそれは非常に稀有な資質であるのだ。

しかし疾患の「差異と反復」の在り方を「寛解」とするブロイアーにはイマーゴ(真善美の回復)はない。

ブロイアーのカタルシス説は永遠と続く〈doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa〉の療法の「差異と反復」の在り方となり、それは決して治癒しない疾患の在り方を示している。

どのような〈doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa〉の療法が患者に行われるのかは「推して知るべし」である。

その決定的違いがフロイトとブロイアーの価値の違いとなった。

明らかに価値があるのはジークムント・フロイトであったのだ。

現在の精神医学では「最高善の神のペルソナ(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」を貶め否定することで「人の仮面(偽善(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」を賛美し扇動している。

しかし「人の仮面(偽善(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め否定する特殊詐欺の人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))に依っている。

それは〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉の否定であり特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」に他ならない。

「最高善の神を騙すことを目的(最高善の神を貶め完全否定する)」は「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」でありそれを至上とする「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」である。

それを嫌悪し禁ずることで理性(自由の相互性〈相互愛〉)に対する「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音(メシア)」は可能となる。

理性(自由の相互性〈相互愛〉)に対する「福音(メシア)」は芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉なのだ。

斉藤由貴の「立ち位置の印象操作」は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であり、理性(自由の相互性〈相互愛〉)に対する福音(メシア)としての「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉するペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の演技ではないのだ。

斉藤由貴は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))なのだ。

芸能人が死んで崇拝する特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)はオレオレ信仰者詐欺師の「立ち位置の印象操作」だ。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「立ち位置の印象操作」で愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の的になっているから馬鹿な芸能人の死を「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」とする「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」となっている。

社会的上位という「立ち位置の印象操作」であるが実際に彼らは特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉となる。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のないものが社会的上位とされ「文化芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」とされているのだ。

しかし「文化芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」をもってあり得るものであり「立ち位置の印象操作」としての社会的上位の特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉は「文化芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」ではないのだ。

では彼らは何だろうか?

「特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)」であり「完全な偽物」である。

これが「真の偽物鑑定」である。

4

まさに「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」は「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」の象徴なのだ。

その崇拝ぶりが特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)ではないと主張するならそれを赦し容認する「擦れっ枯らしの女」のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))でしかない。

芸能人だからタレントとして役者をするのは不思議ではない。

しかし斉藤由貴は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉するペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の演技ではなく特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))として相手に対して「立ち位置の印象操作」する詐術でしかないのだ。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を至上とする「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を嫌悪する「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」が「真の演技」である。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」はイマーゴ(真善美の回復)を至上とはしないのだ。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であるのだから「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」とはなり得ない。

最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)があって「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」となり得るのです。

詐欺師の「立ち位置の印象操作」は信仰(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))ではなく「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」でしか無い。

そしてそれは相手に対するストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))としてある。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のウケ狙い(お約束)」とは相手を付け狙い「立ち位置の印象操作」で相手を支配するストーキング行為を示している。

それは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)へ「立ち位置の印象操作」することで理性(自由の相互性〈相互愛〉)を否定させて「福音(メシア)」を完全に殺し最高善の神の存在を否定して「人〈〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉〉」の世を創造することを示している。

しかしそれは「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の暗黒卿(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)」にしかならない。

それを「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の象徴である「最高悪の支配(ディストピア)」と呼ぶ。

【第三章】萩尾望都芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉に対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(トリックスター)の露骨さ

萩尾望都タロット 魔術師 1 THE MAGICIAN

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」
「タロットカードの上下逆転〈陰険〉」
「無限」と「無際限」の差異

ヨハネの黙示録 アルファとオメガ

1 野田秀樹主催劇団公演「半神」について又は東京大学物語

1

※萩尾望都の原作は短編である。

劇「半神」

萩尾望都原作の野田秀樹が主催する劇団公演作品「半神」は私には特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)なオタクの二次創作(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)作品にしか見えなかった。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のオタク宴会芸であり東京大学の劇団である「夢の遊眠社」から出発した野田秀樹には最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)を至上とする「フィロソフィー(知への愛)」がないのだ。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「立ち位置の印象操作」であり「右へ倣え」を命令する「〈〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉〉の立ち位置の印象操作」に過ぎない。

自らは東京大学のエリートでいつまでも「右(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)」として「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の立ち位置の印象操作」をしている。

しかしそんなものが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)としてある文化芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」であるわけがない。

こいつらの作品は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を嫌悪し禁ずる理性(自由の相互性〈相互愛〉)がないのだ!

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」ではない故に「福音(メシア)」がない。

しかしシェイクスピアはそこに「純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音」あるのだ。

シェイクスピアには特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずる理性(自由の相互性〈相互愛〉)の信仰があり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の福音(メシア)がある。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」で演技するペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)は「真の演技」であり「立ち位置の印象操作」は「最高善の神を騙すことを目的(最高善の神を貶め完全否定する)」とした「特殊詐欺師の詐欺行為」でしかない。

これは「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のウケ狙い(お約束)」としてのストーキング行為であることを示している。

野田秀樹の「立ち位置の印象操作」は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー行為(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))による「ウケ狙い(お約束)」でしかなく「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によるペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の演劇とはいえないのだ。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は「ウケ狙い(お約束)」を「笑いのツボ」と称し「ウケない観客」の方が異常だとするプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉を弄する。

しかし「ウケ狙い(お約束)」とは芸人の思惑であって、ウケるかウケないかは観客の主観によっている。

そして「観客が真にウケる」のは「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉が形成するお約束(大ウケ)」ではなく、「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」であると言えるだろう。

野田秀樹等はそれが全く解っていない。

「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉が形成するお約束(大ウケ)」に酔った狂人なのだ。

それは日本における東京大学の「立ち位置の印象操作」に過ぎない。

東京大学とはそのような「人間関係(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であり狂人集団なのだ。

ここで敢えて指摘しておくが東京大学出身(国立大学出身)だけで自らが高尚だと主張する存在は「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉が形成するお約束(大ウケ)」に酔った狂人に過ぎない。

それは日本における東京大学(国立大学)の「立ち位置の印象操作」に過ぎないからだ!

しかし自らをカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解するカトリックエリートとして見做すならその人は真に高尚である。

高々入学し卒業しただけの大学ではその人の何も解らないのは当然なのだ。

その人をその大学名で判断することは完全にプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉に洗脳された状態でありマスメディアの政治宣伝コンテンツによる〈愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の統治下にあると言えるだろう。

カトリックロゴス感覚を解するカトリックエリートこそが最高善の神の愛徳を受けた神童であるのだ。

最高善の神の子とは斯くある。

柄谷行人は東大出身である。

しかし柄谷行人に対する「評価」は東京大学でなされるわけではない。

彼の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解すカトリックエリートの資質」によっているのだ。

しかし蓮實重彦は違うだろう。

蓮實重彦は日本における東京大学(国立大学)の「立ち位置の印象操作」に過ぎない。

柄谷行人は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」である。

野田秀樹(蓮實重彦)には全くそこが理解できないのだ!

東大の劇団「夢の遊眠社」の出身の野田秀樹は馬鹿な「立ち位置の印象操作」を制作して自らをシェイクスピアだと称する特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)でしかない。

本当に日本の文化はプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉によって崩壊したのだ。

しかし寺山修司は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解すカトリックエリートの資質」であったと考える。

彼は若すぎる死を迎えてしまったことは残念であった。

寺山修司「人生が競馬の比喩だ」

寺山修司「人生が競馬の比喩だ」
寺山修司と萩尾望都の対談である。
その中で萩尾望都は一冊の本を選ぶとしたら「聖書」だと語っている。
彼女の家は真言宗でありそして一冊の本が「聖書」であるところが福音と黙示を暗示している。

2

頭の悪い東京大学である。日本の大学などは其の程度の存在であるのだ。

野田秀樹勲章授与

「立ち位置の印象操作」は社会的上位とされた特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉が実際には文化芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉ではないことを示している。

文化芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に拠っているが「立ち位置の印象操作」はそれに対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)としてなされた「最高善の神に対する反逆」である。

「立ち位置の印象操作」に拠って「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はあり得るとするのは詐術であり完全な特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)であるのだ。

それは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」である。

東京大学イコール馬鹿と見做すが良い。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の〈〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉〉」を頭の良さとする

「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であるからだ。

よくあり勝ちな「詐欺師(東京大学)は頭が良い」という「逆転〈陰険〉の発想(バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」である。

これは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の屁理屈(前衛詐欺)が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」より頭が良いという発想と同じであり「愚の骨頂」である。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の聖者(カトリックエリート)こそが頭が良いのだ。

3

野田秀樹は「無知の知(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」を知り得ない「永遠の零(馬鹿)」であり特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を無邪気感覚(INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)とする男である。

これはあらゆる感覚に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が無ければ詐欺師行為のルシフェルとなることを示している。

詐欺師行為のルシフェルは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」へ敵対を起こした「ナチズム」であり「スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉」であり「日本の独自性」である。

そして当時のバブル経済期と言われ「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が露骨に喪失した期間は一体何だったのだろうか?

バブル経済期とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を喪失しカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を貶めた「虚飾の繁栄」だった。

それは決してルネッサンス(カトリックロゴス感覚(Holy Communion)に拠る芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉)になり得ないのだ。

何故ならルネッサンス(カトリックロゴス感覚(Holy Communion)に拠る芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉)は最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)の繁栄であり、それは基本的「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によっている。

基本的「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉である。

「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」と知ったら「悔い改め」をする。

それに対して「隣人愛」を祝福で迎える。

それは世界の改善であり最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)の在り方である。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のない野田秀樹の「立ち位置の印象操作」には最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)はなく、「虚飾の繁栄」の扇動と翼賛の世界だった。

それはプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉が形成するお約束であったのだ。

「奈美さん」が自殺した1989年の12月には明らかな「虚飾の繁栄」が明らかになりつつあった。

その後の1990年代以降には明らかな「経済破綻」が判明した。

そして安倍晋三が華麗な英雄として登場した。

しかし彼は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を全てひっくり返すことを目的とした政治思想を持っていた。

それは完全な「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であった。
それは「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」であった。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」をひっくり返し特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)する「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」へ全てをひっくり返したのだ。

しかしそれは最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)の完全否定としてあった。

それはアベノミクスという「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」だったのだ。

一言で評すれば「劣等」である。

安倍晋三は全ての「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」をひっくり返してどうするつもりだったのだろうか?

一言で評せば「愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であり、全ての存在を自分より劣等にすることが目的だった。

安倍晋三は自分より頭がいい奴が赦せないのだ!

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」ではなく「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」で世界を支配し統治すると言い出した。

安倍晋三は馬鹿そのものだったのだ!

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の支配を善政(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))と言うなら、人の特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の支配は悪政(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)である。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は聖なる善政(Holy Communion)を齎す。

しかし人の特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の悪政(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を齎す。

当にアベノミクスである。

※イマーゴは「信仰の理想」または「真善美の回復」

God Bless the Child

God [ɡád|ɡɔd]〓
―n.
1 (一神教,特にキリスト教の)神,創造[造物]主,天主(▶固有名詞扱い):〓
2 ⦅しばしば g―⦆ (特定の力を持った)神;(特にギリシア・ローマ神話の)男の神(↔goddess);(特定の宗教における)神:〓
〓〓
3 ⦅g―⦆ 神像,偶像,崇拝の対象;神格化された人[もの]:〓
4 〖クリスチャンサイエンス〗 神:真に存在するすべてのものの非物質的原因または創造者;Principle(原理),Mind(心),Soul(魂),Spirit(霊),Truth(真理),Love(愛)がその同意語とされる.
5 ⦅しばしば gods⦆ 〖演劇〗 天井桟敷(の観客),大向こう.
6 (感嘆・不信・退屈・絶望・苦痛・驚き・怒りなどを表す句に用いて)神(▶God という語をみだりに口にすることをはばかって Gad,gosh,gum,Heaven,goodness (gracious),(Good) Lord などの婉曲(えんきょく)語を代用したりする. 単に My! Oh,my! ともいう):〓
―v.t. (God・ded,God・ding)
1 ⦅g―⦆ 神化する,神にまつりあげる;偶像化する.
2 ⦅God it で⦆ 神の役をする.
―interj. ⦅失望・退屈・不満・怒り・驚きなどを表して⦆ ああ,なんとまあ,とんでもない:〓
◊[文学]God’s Little Acre『神の小さな土地』E.Caldwell の小説(1933)
[文学]The God that Failed(1949)A.Koestler,A.Gide などの共産主義に対する自伝的批判の書.
[音楽]God Be with You Till We Meet Again『神ともにいまして』W.G.Tomer 作の友を送る歌(1882),讃美歌
[音楽]God Bless America『神よ,アメリカに祝福を』I.Berlin 作曲の愛国歌(1918)
[音楽]God Bless the Child『ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド』Billie Holiday 歌のジャズ(1941)
[音楽]God Save the King『ゴッド・セイブ・ザ・クイーン』英国国歌,Henry Carey の作ともいわれるが不詳;女王の治世には God Save the Queen となる.[900年以前. 中期英語,古期英語;ドイツ語 Gott と同語源]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

ビリー・ホリデイ Billie Holiday

「カトリック・ロゴス感覚・純愛メシア信仰」による「時の徴」である。

ホリデー〖Billie Holiday〗
[1915~1959]米国のジャズ歌手。本名、エリノラ=フェイガン(Elenora Fagan)。1930年代に登場し、情感をこめた独自の歌唱スタイルで多くの名唱を残した。代表作は「奇妙な果実」。

『大辞泉 第二版』 小学館

Hol・i・day /há(ː)lədèɪ | hɔlᶦədèɪ, ―di/, Billie
―n. ホリデー⦅1915‐59; 米国の女性ジャズ歌手; 本名 Eleanora Fagan Holiday; 通称 Lady Day⦆.

『新英和大辞典 第6版』 研究社

Sa‐tan/séɪtṇ/

*Sa‐tan/séɪtṇ/〓
〖初12c以前;ヘブライ語 śāṭān(敵)〗
〓〓
1 生れつきの[計算された]邪悪さ.
2 ⦅正式⦆(ユダヤ教・キリスト教でいう)悪魔《◆Luke 4:2-13》(cf. Lucifer), 魔王(the Devil)〓

『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店

Sa・tan [séitn]〓
―n.
1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):〓
2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名.
[900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

2 東京大学という特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉) 

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解する「カトリック人間関係」とプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉で捏造された「カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の人間関係」

1

東京大学という特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)には「似非哲学の二次創作(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)」があるだけであり、それは「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復・カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」を至上とした「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のフィロソフィー(知への愛)が存在しない。

東京大学は「無知の知(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))を知らないからだ。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のフィロソフィー(知への愛)は「無知の知(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」を知ることである。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「似非哲学」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「フィロソフィー(知への愛)」は全く違うのだ。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の〈特殊詐欺(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉〉)」と「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復・カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」の違いである。

野田秀樹には「言葉遊び」の技巧さに対する優越感が極めて高くある。
しかしそこに「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の至上性」があっただろうかという疑問しか感じなかった。

結局は彼の「立ち位置の印象操作」は「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のウケ狙い(お約束)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」であるのだ。

それは相手に対するストーキング行為で他者の意識へ「立ち位置の印象操作」をして捏造した存在となる「他律的自己認識」である。

それはストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))とその被害者の間の「お約束」によって成立する人間関係(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)である。

しかしそれはペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)ではない。

要はストーカー行為(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))のプロテスタントデマゴギーが形成するお約束(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)となるのだ。

私は以前「人間関係」が形成するカルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)と書いた。

しかし本来の「人間関係」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解するカトリックエリートのペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の在り方のことである。

「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の「人間関係」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)は人間関係(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)の不可能性を示している。

結局「人間関係」とはプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ)〉で捏造されたカルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であり「カトリック人間関係(Holy Communion)」とは非なるものであるのだ。

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解する「カトリック人間関係」とプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉で捏造された「カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の人間関係」とは大きな違いがあるのだ。

カトリックエリートは「メシア」であり、カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)は「特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉〈テクノクラート〉」であるのだ。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のウケ狙い(お約束)」とは相手に大ウケを強制するストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))であり「ウケ狙い(お約束)の抑圧」を追求しそこに「イマーゴ(真善美の回復)の追求」はないのだ。

「立ち位置の印象操作」による「大ウケ」は虚飾にすぎない。

「立ち位置の印象操作」が演劇だと野田秀樹が主張するなら君にシェイクスピアを語る資格はない。

野田秀樹には「国費」で留学した費用を全額返還してもらいたい。
まさに日本国からも特殊詐欺をしたのだ。

結局はそれは「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」へ堕ちる。
それは「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」であるが、野田秀樹の「立ち位置の印象操作」は結局軽妙な知性的演劇と見えて実は「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」の「最悪見世物小屋」だったのだ。

それは「立ち位置の印象操作」による「大ウケ狙い(お約束)」の「逆ギレショー」であったのだ。

野田秀樹の「言葉遊び」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」ではないのだ。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のウケ狙い(お約束)の追求」と「イマーゴ(真善美の回復)の追求」は違う。

それは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー行為(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の違いである。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))には邪な抑圧だけで愛徳はない。

しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」には福音(メシア)があるのだ。

そして特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))は「大ウケ狙い(お約束)」の特殊詐欺〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であり、「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は真の福音(メシア)とイマーゴ(真善美の回復)の追求を行う。

野田秀樹の「大ウケ狙い(お約束)」の「立ち位置の印象操作」は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の技巧でしかなかった。

プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉であり特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の技巧としての「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」でしかなかったのだ。

野田秀樹はそれを全肯定するプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の主役の一人でありカルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の政治宣伝コンテンツのクリエーターだったのだ。

彼は演劇人ではないのだ!

そして芸術家〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉でもない!

2

野田秀樹演劇の鑑賞

※私は一度だけ野田秀樹の「野田秀樹の国性爺合戦」を観劇したことがある。

実際観劇した感想もやはり野田秀樹の劇団は「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のウケ狙い(お約束)」の劇団だった。

派手な衣装でありコミカルで軽妙な演出でそれなりに観客は沸く。

しかしそれらは観客に対するストーキング行為による「立ち位置の印象操作」とそれによるお約束(大ウケ)でしかなかった。

実に中身の乏しい演劇(ストーカー行為(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))による「立ち位置の印象操作」のお約束(大ウケ))」だった。

彼は「コミカル」から「シリアス」に「立ち位置の印象操作」で切り替えて自分だけは高尚であるかのような立ち振舞を始めます。

しかしそれは「演技」ではないです。

それを見ているといつまでも東京大学卒業を鼻にかけているだけの才能のない劇団員の典型であるようです。

東大出身のカルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)だから日本では肩書(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)ばかり増えて立派になりますが中身は劣等であり特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)なのです。

結局彼は「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」であり芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉に汚い唾を吐き敵対しているのです。

3

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずる理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)を至上とすることが萩尾望都のテーマです。

しかし野田秀樹の劇団公演作品「半神」は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を赦し容認しそして翼賛する「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の〈〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉〉」の「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の教団」の匂いがする。

野田秀樹はオタクの二次創作(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)の「宣伝マン」でありただの「おいしい生活」の商売人であった。

そして危険な「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の〈〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉〉」の「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」のプロテスタントデマゴーグ「集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」教団だった。

そこから言える最後のことは萩尾望都の作品は「福音(メシア)」芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉であり、野田秀樹の作品は「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の〈〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉〉」の「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」であるということだ。

そして「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)、〈〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉〉、「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」、オタクの二次創作(プロテスタントデマゴーグ)は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を嫌悪し禁ずる「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上性を完全否定する。

野田秀樹の「立ち位置の印象操作」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)のない名ばかりの「福音(メシア)」であり名ばかりの「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」でありゴミと副作用しか人類に齎さない。

そしてオタクの二次創作(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)は「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の〈〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉〉」の〈業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)のプロテスタントデマゴーグ〉であるのだ。

野田秀樹の「立ち位置の印象操作」は「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」であり「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の詐欺であった。

この関係性は「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の特殊詐欺世界(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音(メシア)」が顕れることが「最高善の神の意志」だということとなるのです。

萩尾望都の作品が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音(メシア)」なら野田秀樹の作品は「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」を至上とするプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉である。

そしてその相反する内容が同じ原作から編み出されたという才能の違いの問題が出現する。

当然に才能があるのは萩尾望都である。

野田秀樹は芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉に汚い唾を吐き敵対しただけであるのだ!

国際演劇人野田秀樹の「英語劇」に対するシンプルなこだわりの理由

4

野田秀樹が夏目漱石と同様に国費で英国へ演劇留学をした時に私は衝撃を受けた。

夏目漱石は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の文学信仰の至上性であり野田秀樹は明らかに特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)でありプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の詐欺演劇だったからだ。

「あんなやつ(詐欺演劇)」を英国へ留学させても肩書(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)が増えるだけで中身に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)がないので意味がないのだ。

しかし彼はその肩書で日本演劇界(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))の社会的最上位とされる。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を否定する特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を崇拝する「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であるオタクカルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)のウケ狙い作品(お約束)」が日本社会の最上位とされるのだ!

「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」と「オタクの二次創作(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)」と「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の〈〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は同義である。

英国人も日本の「オタクの二次創作(詐欺演劇)」が国費で留学にやってきてさぞや驚いたことだろう。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の至上性の演技がカトリックエリートのペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)でありシェイクスピアは斯くある。

シェイクスピアを学ぶのに「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上とした演技のカトリックエリートのペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)を解せないなんてありえないのだ!

それは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪して禁ずる理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)の「福音(メシア)」であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のカトリックエリートのペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の演劇演技であるからだ。

野田秀樹がシェイクスピアを学んでも無理な理由がある。

彼の「立ち位置の印象操作」は「シェイクスピアに対するプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」であって「シェイクスピアのように「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉するペルソナ(カトリックエリート(自由の相互性〈相互愛〉))」とはなっていないからだ。

イエス・キリストは「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のウケ狙い(お約束)」の「立ち位置の印象操作」をするカルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))ではないのだ。

イエス・キリストこそカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の人である。

野田秀樹は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音(メシア)」を貶める最悪の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」である。

野田秀樹の正体は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の詐欺演劇のオタクの二次創作〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉である。

そして「福音(メシア)」を「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)で貶める」のだ。

彼は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化」のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))であるのだ。

そのお約束を人間関係(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)として捏造する。

しかしそれはプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉が形成するお約束(大ウケ)でしかないのだ!

それは「立ち位置の印象操作」に過ぎないのだ!

ドサ回りの下手くそ芸人なのだ!

真の人間関係はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解するカトリックエリートの在り方としてある。

そして真に大ウケするのはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であるのだ!

本来の「ウケ狙い(Holy Communion)」とは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))ではない筈だ。

それが完全に詐欺師行為(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉)の特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))となっているのが野田秀樹の「立ち位置の印象操作」である。

彼は「東京大学の劇団」であったというだけで「才能」は全くありません。

東大だから学者(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))だと主張する陳腐な「立ち位置の印象操作」でしかない。

そこにカトリックロゴス感覚(Holy Communion)はなく「学」は不可能なのだ。

彼は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「立ち位置の印象操作」の芸人であり芸術家〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉として必須の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上とするカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の演技役者ではないのだ。

野田秀樹は最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)を至上とする「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のフィロソフィー(知への愛)」ではないのだ。

彼は東大のカルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)ではあるがカトリックエリートではないのだ!

最高善の神の王国の到来において「サタン(最高悪)に通じた人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))の王が鳥の餌に饗され、獣と偽預言者は捕らえられる。」ことになる。

3 〈芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉としての「演劇・演技論」〉と〈特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「立ち位置の印象操作論」〉

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「立ち位置の印象操作」と演劇役者の演技は違うことを明確にしなければならない。

演劇役者の演技は理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)を至上として特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずることでありえる。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉するペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の福音(メシア)が真の芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉です。

アダルトビデオ俳優が理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)を至上として特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)である「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を嫌悪し禁ずるならそれは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉するペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の演技でありその映画は芸術作品〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉となるかもしれない。

それはキュニコス派のディオゲネスであるかもしれない。

しかし特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を至上として特殊詐欺が行う「立ち位置の印象操作」は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」のやり抜きでしかない。

それらは特殊詐欺師行為(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)に堕ちた堕天使ルシファーの姿であるのだ。

それは「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉〉である。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)でしか無い。

プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉は麻原彰晃(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))や小保方晴子(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))などが有名である。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「立ち位置の印象操作(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」」と「芸術家〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉の演技(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」は「ゴリアテ(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」と「ダビデ(カトリックエリート(Holy Communion))」の違いであるのだ!

そしてカトリックエリートは演技のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)であり「キリスト教カトリック神学(Holy Communion)」を示している。

ダビデ

キリスト教美術資料
ダビデとゴリアテ

ダビデとゴリアテの聖戦

キリスト教美術資料
ダビデ王

4-1 金子修介「1999年の夏休み」の勘違い

トーマの心臓」を原作にした金子修介監督の映画「1999年の夏休み」は少年期の永遠の瞬間を閉じ込めるという作品になっている。

実際に映画の最後は夏休みのループを暗示して終わっている。

しかしこの映画の瞬間は「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」ではないのだ。

それは「聖書」ではない。

「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」の映画であるのだ!

※この映画の公開は1988年3月26日である。

少年役はすべて同年代の少女が演じている。

これは萩尾望都の少女漫画のキャラクターデザインが女性的であるところから見かけで選ばれたのだろうか?

もしそうなら内面の演技はなく押井守が金子修介に指摘したという極めて「ナイーブ」な作品とは言えない。

ナイーブ na・ive [nɑːíːv]

na・ive [nɑːíːv]〓
―adj.
1 無邪気な,天真爛漫(らんまん)な.
2 経験[判断力,知識など]に欠けた,だまされやすい,愚直な,単純な,ばか正直な:〓
3 〖美術〗 素朴な:H.Rousseau など,アカデミズムと無縁な素人画家とその絵画についていう:〓
4 〈動物などが〉実験[投薬]を受けたことがない:〓
―n. 純真な人;うぶな人,未経験な人;だまされやすい人. (また na・ïve[~])
[1654.<フランス語,naïf(古期フランス語 naif 生来の,本能的な<ラテン語 nātīvus NATIVE)の女性形]
na・ive・ly〓
―adv.
na・ive・ness
―n.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

naive /nʌɪʼi:v, na:ʼi:v/ (also naïve)
◆adjective
1.lacking experience, wisdom, or judgement.
2.natural and unaffected. ➤(of art) produced in a style which deliberately rejects sophisticated artistic techniques and has a bold directness resembling a child’s work.
―DERIVATIVES
naively adverb
naiveness noun
naivety noun (plural naiveties).
―ORIGIN
C17: from Fr. naïve, fem. of naïf, from L. nativus ‘native, natural’.

『The Concise Oxford English Dictionary, Eleventh Edition』 Oxford University Press

ナイーブ〖naive〗
〘形動〙
飾りけがなく、素直であるさま。また、純粋で傷つきやすいさま。単純で未熟なさま。「―な感性」「―な性格」

『大辞泉 第二版』 小学館

それは最高善の神を貶め否定する「偶像崇拝・呪術崇拝」であり内面の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は問われないからだ。

人間モーゼと一神教 

「原始的段階に近い在り方〈一方的自由陰険〉」と「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」

一神教は中身を問う。

多神教は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であり(人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)))である。

中身を問えば捏造が暴露される。

特殊詐欺師だと判明する。

「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」とはロゴス感覚(Holy Communion)からイマーゴ(真善美の回復)を見出すことである。

それこそが真に神聖な作品となる。

4-2「他者に対する意識」に対する特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーキング行為からある「立ち位置の印象操作」が形成した偶像に対する「崇拝」-偶像崇拝と呪術崇拝はドクサの在り方!

萩尾望都の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のイマーゴ(真善美の回復)も「偶像崇拝・呪術崇拝」によって貶され否定されることで問われないことになる。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずる理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)の福音(メシア)が偶像崇拝と呪術崇拝では描けないのだ。

中身を問わないものに心理も理性(自由の相互性〈相互愛〉)もイマーゴ(真善美の回復)も問えないからだ。

「人の仕草」だけで定型的に「心理」と「理性(自由の相互性〈相互愛〉)」と「イマーゴ(真善美の回復)」を判断できるというのは可怪しい。

「白衣を着ていれば医者」だというぐらいに特殊詐欺である。

これも典型的は「立ち位置の印象操作」の特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))である。

詐欺師行為した医師は「白衣で医者を印象付ける特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であるのだ。

萩尾望都の作品の核となるのが特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずる理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)だがこの「1999年の夏休み」にはそれが見当たらないのだ。

金子修介の「1999年の夏休み」は「立ち位置の印象操作(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であって「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてある「カトリックロゴス感覚のペルソナ(福音(メシア))」の演劇になっていない。

「少女」を「少年役」で起用した理由はなんだろうか?
金子修介の「少女趣味」である。

これは「ナイーブ」ではなく特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))でしかないだろう。

完全な「立ち位置の印象操作(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」なのだ!

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪する「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であって「少女」だからとか「少年」だからという「性別の差別」はあり得ないのだ。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に「性別の差別」はない!

「少女」や「少年」の「若き煌めきの時」に対する拘りのストーカー(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であり、それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは関係がない。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」に対する嫌悪は「老醜」に対する嫌悪ではない。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずる理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)は老若には関係なく「福音(メシア)を齎す。

当たり前だが特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を至上とした年齢の「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(黒ミサ)〉」は人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))である。

最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)の理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)に「年齢の差別」はないのだ!

異常な「少女」に対する拘り映画監督である金子修介監督の映画「1999年の夏休み」は全くの「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」であった。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」だった。

ただ萩尾望都の原作「トーマの心臓」を読むきっかけになれば良いのではないかと私は願うだけだ。

萩尾望都先生の「トーマの心臓」は「大傑作」であるとはっきり皆様に伝えておきます。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「偽善(仮面)」とは偶像崇拝のカリスマでありその正体は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の「仮面(偽善)」の在り方となっている。

最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)を至上とした「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「カトリックロゴス感覚のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」である。
ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)とは仮面(偽善)ではなく、声(カトリックロゴス感覚)なのだ!

persona (per‐sō′nă)

persona (per‐sō′nă)〓
[L. per, through+sonare, to sound.役者の発声を助ける古代劇用の面についている小さなメガホンから声が聞こえるの意].ペルソナ(その個人全体を統合する語.その人個有の物理的,心理的,行動的属性の全体像.Jung心理学において,パーソナリティの中で周囲に受け入れられる理想的なもの,真のパーソナリティを隠すために装われたもの.→ego; self (4). cf. shadow (2)).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」は最高悪(サタン)となる。

そして「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音(メシア)」の存在は最高善の神となる。

この映画は「トーマの心臓」を原作にしている。

しかし萩尾望都の原作とは程遠い出来である。

理由は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」をただ若き煌めきの時に対する憧れすることで原作を貶め否定しているのと同じだからだ。

これも特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を賛美し扇動する「黒ミサ賛美作品」となっている。
完全にプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉であるのだ。

しかしここから萩尾望都の原作を読む導きとなるのなら良いのではないだろうか?

しかし出来の悪い宣伝番組である。

何故ならばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)がない広告は芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉ではなく「〈傲慢の大罪〉〈欲望を美化〉の正当化(スーパーフリー〈一方的自由の陰険〉)」のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉である。

それがカルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であるからだ!

馬鹿者「金子修介」才能なし!

1999年の夏休み 予告

5 斉藤由貴による「トーマの心臓」評を批判する。

1

キリスト教美術資料

キリスト教美術資料
最後の七つの災い
キリスト教美術資料
バビロンの大婬婦

斉藤由貴の特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)と私の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは違うのだ。

斉藤由貴のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉は〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉でもなく「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪する最高善の神を身近に感じる感性」でもなく「ダビデによるゴリアテ殺害」でもない。

そこには「悔い改め」に対する「隣人愛」の「祝福」が存在する余地がないのだ!

斉藤由貴のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉と同様に斉藤由貴にとっての「トーマの心臓」は「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の罪」の「特殊詐欺師(特権階級社会)による赦し」の作品である。

それは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を至上とする「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)による許し」であり「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であるのだ。

一方で私がこの作品に感じた「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は最大の掟である〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉であり「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪する最高善の神を身近に感じる感性」であり「ダビデによるゴリアテ殺害」である。

それは最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)を至上とする「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずることで芸術作品〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉となることを示している。

トーマ・ヴェルナーの死はその殉教に依ってユリスモールの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉へ導く。
斉藤由貴の「理解(解釈)」ではトーマ・ヴェルナーの自死はユリスモールから「純愛(性的な愛)」を得られなかったことになっているがその理解は全くの誤りである。

そこには「悔い改め」に対する「隣人愛」の「祝福」の在り方である「究極の純愛」が存在するのだ!

ユリスモールの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「リンチ(サタン(最高悪)の誘惑/doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」で潰されていた。

ユリスモールを愛するトーマ・ヴェルナーは「純愛」を持ってユリスモールの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を回復させようとする。

ユリスモールは潰された「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」をどうすることもできず純愛のトーマ・ヴェルナーを拒否していた。

リンチ(サタン(最高悪)の誘惑/doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)に依って「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を潰されたユリスモールは最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)を至上とする「純愛メシア信仰者(Holy Communion)」として「真の純愛」により最早トーマ・ヴェルナーを愛せないと感じていたからだ。

ユリスモールはトーマ・ヴェルナーを「真の純愛」で愛していた。

しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を潰されたユリスモールは最早純愛でトーマ・ヴェルナーを愛すことが出来ない信仰の躓きから、しかし「トーマ・ヴェルナーを純愛で愛していた。」故に「トーマ・ヴェルナーの純愛」を拒絶していた。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」がなければ「真の純愛」はなく、「真の純愛」があり得るのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」があり得るからである。

だからそれはユリスモールとトーマ・ヴェルナーの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「真の純愛」の形であったのだ。

そしてトーマ・ヴェルナーはそれを知っていたのだ。

最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)を至上とする「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を潰されたユリスモールはトーマ・ヴェルナーを拒否していた。

それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)を至上とする「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を潰され最早「真の純愛」によって愛すことはできないと感じている中でユリスモールはトーマ・ヴェルナーを真に純愛で愛していたが故に逆に「真に純愛」を貫徹するためにトーマ・ヴェルナーを拒否していた。

この作品はユリスモールとトーマ・ヴェルナーのお互いが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「純愛」を貫いた姿を描いている。

トーマ・ヴェルナーは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「真の純愛」を持ってユリスモールの潰された「信仰(Holy Communion)」を回復させるために殉教の投身自殺をする。

それは永遠の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の純愛の証なのだ。

そしてユリスモール自身が「ユリスモールからあるトーマ・ヴェルナーに対する純愛」と「トーマ・ヴェルナーからあるユリスモールに対する純愛」をはっきり認めたときに、その「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「真の純愛」によって「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は消滅したのだ。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「純愛」の存在を認め、その永遠の「純愛」を「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」としてユリスモールが受肉した時に「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)」を至上とする理性(自由の相互性〈相互愛〉)は回復(治癒)されるのだ。

そして彼らの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「純愛」は「永遠の命(Holy Communion)」になった。

その「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が「芸術作品〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」として制作されたのが大傑作作品である「トーマの心臓」なのである。

これは最大の「福音(メシア)」作品だった。

「永遠の純愛証明(Holy Communion)」が揺るぎない「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)」を至上として「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を回復(治癒)させる萩尾望都先生の芸術作品〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉であったのだ。

2

こう見ていくと斉藤由貴のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の赦し」は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)に対する「赦し」という意味となる。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」による「赦し」であり又同時に自らも赦される存在となるのである。

それは自らを自らで赦しているに等しい行為なのだ。

自らを自らで赦す行為が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に依っているならそれは最高善の神に赦されたことを示している。

しかし自らを自らで赦す行為が「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」に依っているならそれは「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」による容認であるだけだ。

最高善の神を否定するサタン(最高悪)の存在と同等である。

それは最高善の神に対する「敵対感覚〈原罪〉」を容認することを意味している。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪することの純粋な「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の至上性ではなく、「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の罪の許し」が「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」の在り方とされる。

前者は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の至上性としてある「純愛証明」であり、後者は「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)である「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であるのだ。

隣人愛/悔い改め

りんじん‐あい【隣人愛】
①キリスト教で、神の子たるべき同類の者への愛。
②身近な人々への愛情。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

repentance
悔い改め
〈91学術・キリスト教〉

『人文社会37万語対訳大辞典』 日外アソシエーツ

in・no・cent [ínəsənt]

in・no・cent [ínəsənt]〓
―adj.
1 〈人が〉純潔な,清浄な,無垢(むく)の;世間知らずの:〓
2 〈人が〉無罪の,潔白な;(…の)罪を犯していない⦅of …⦆:〓
3 〈行為などが〉悪意[悪気]のない:〓
4 〈事が〉無害の,毒にならない;〈病気などが〉悪性でない:〓
5 〈取引などが〉合法的な,公認の;(特に)禁制[密輸]でない.
6 ⦅話⦆ (…の)ない⦅of …⦆:〓
7 〈人が〉無邪気な,無心な,天真爛漫(らんまん)な;お人よしの:〓
8 (…を)知らない,無知の;(…に)気づいていない⦅of …⦆:〓
―n.
1 (心の)純潔[清浄]な人;潔白な[無罪の]人.
2 小さな子供,幼児:〓
3 無邪気[天真爛漫]な人.
4 新米,新参者.
5 おめでたい人,あほう,まぬけ:〓
6 ⦅米黒人俗/軽蔑的⦆ (黒人の公民権運動を支持する)進歩派の白人.
7 ⦅通例 innocents⦆ ⦅単数扱い⦆ ⦅米⦆ =bluet 1.
◊[文学・著作物]The Innocents Abroad『赤毛布外遊記』M.Twain のヨーロッパ旅行記(1869).
[c1200.中期英語<ラテン語 innocēns 無害な=in― IN―³+nocēns(nocēre「害する」の現在分詞)]
in・no・cent・ly〓
―adv.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

6 カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「純粋な愛」とプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の「傲慢と欲望の美化」について-聖者(聖女)と悪魔(魔女)

種蒔きの譬えの解釈

最高善の神の御言葉を美しい心で聞く。

新約聖書福音書に於いて「奈美さん」が『善い地の上に』蒔かれた者たちであるなら、斉藤由貴は『道端に』(蒔かれる)者たちであり『岩の上に』(蒔かれる)者たちであり『茨の中に』落ちる者たちである。

「純粋な愛」と「欲望の美化」は「福音(メシア)」と「特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」の違いである。

それは「最高善の神」と「サタン(最高悪)」の違いと成るのだ。

「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」とはプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉のカリスマの偽善でありその至上性が「教祖」とされる。

「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」はプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の典型的な在り方であり彼らは「完全犯罪(騙し抜き)」を「美徳」とする。

そしてそのために「権威」を武器とした「集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」が行われる。
過去のカルト集団の例を見れば明白である。

斉藤由貴は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」ではなく「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」であり「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」である。

そして「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」とは相手を「立ち位置の印象操作」する「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」のストーカー行為(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))であることを示している。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」は「他者に対する意識」に対する「立ち位置の印象操作」に拠ってありえる。

それは「完全犯罪(騙し抜き)」を目指す態度と思考である。

斉藤由貴が不倫騒動で「特殊詐欺女」であると非難された時の斉藤由貴の答弁は明らかに不自然だった。

斉藤由貴は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」ではなく「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であることを示していた。

福音(メシア)ではなく「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」だった。

「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」とは「擦れっ枯らしの女」だったということを示している。

斉藤由貴が演じた「トットチャンネル」の黒柳徹子も同様に「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」そのままであるだろう。

それは芸術家〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉の演技ではなく「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の「立ち位置の印象操作」であり「オレオレ演技役者詐欺」である!

斉藤由貴は得意げにやってのけて「特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)」を煽るのだ。

それが「特殊詐欺師ストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」の「特殊詐欺心理(超感覚(一方的自由の陰険))」である。

斉藤由貴はトム・ソーヤーの様に振る舞うがそれは「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の賛美と扇動による「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」である。

トム・ソーヤーの目的は「ペンキを塗り」を友人にやらせる策士としてあり「集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は行なっていない。
しかし斉藤由貴の目的は「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の詐欺行為であり「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」なのだ。

それは「人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」としての「人間動物」の在り方である証明となる。

ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)ではないのだ!

「ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の「偽善」は〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉の「人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」であり、「フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)」の「ペルソナ」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」より「ロゴス感覚」から「イマーゴ(真善美の回復)」を受肉する。

それは「真の人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」を意味する。

【エピローグ】「最後にそして永遠に」

萩尾望都タロット 世界 21 THE WORLD

1 「ユリスモール・バイハン」とは誰か?

1

船橋グリーンハイツで投身自殺した「奈美さん」の死は「トーマ・ヴェルナー」の死であったと私はずっと思っている。

そして彼女(奈美さん)の「ユリスモール・バイハン」が一体誰なのかという最後の疑問は彼女(奈美さん)が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の純愛を持ってその救済を願った「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上とした「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」であるだろうと想像する。

彼女(奈美さん)は其の人のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)の回復を願った。

彼女(奈美さん)が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の純愛(相互愛)の殉教によってその「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」を救済できると信じた。

それは「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」だと私は想像する。

そしてその「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」と「奈美さん」は永遠の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の純愛(相互愛)となって「永遠の命(Holy Communion)」を得る。

彼女(奈美さん)の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「相互愛」による殉教(Holy Communion)が成立するためにはその「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」があることが絶対条件となる。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が絶対条件であるが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を受肉した「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」はイエス・キリストと同じ資質の存在となるだろう。

彼女(奈美さん)がその「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」があることを知っていることから「知人」であると考えられる。

その彼女(奈美さん)の「知人」は誰であろうか?

彼女(奈美さん)はその「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上とした生き様が危機に瀕していることを完全に理解していた。

その理解は「奈美さん(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の相互愛」故にあり得たと私は想像する。

彼女(奈美さん)は「その愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の存在「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」に潰されていることを知っていた。

では彼女(奈美さん)の知人で「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上としているカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」は確認できるだろうか?

彼女(奈美さん)が愛した「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「愛する友人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」は一体誰だろうか?

私の知る範囲で「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)は存在しない。

私の同級生の中ではそのようなカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)は存在していなかった。

彼女(奈美さん)の兄はどうだろうか?

カルメラの思い出

彼女(奈美さん)の兄は彼女(奈美さん)を私に紹介してくれて非常にまともで誠実な人物だった。
変わったところを言えば「お菓子のカルメラ」を自宅で本人が自分で作って私にご馳走してくれたことがあった。

変わった砂糖菓子(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))だと感じたのでよく覚えている。

カルメラ

カルメラ
室町時代末期ポルトガル人が伝えた南蛮菓子の一種。ポルトガル語の caramelloから出た言葉だが,日本語では,その姿から「浮名糖」「浮石糖」ともいった。また「軽目焼」ということもある。現在のものは,ざらめ糖に少量の水を加えて煮つめ,先の丸い棒に重曹をつけてすり混ぜたのち,頃合を見計らって棒を回しながら膨張させてつくるが,伝来当時の品は,氷砂糖や卵白を使用するなど,いまのものより高価な品であった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

映画「じゃりン子チエ」のカルメラシーン

彼女(奈美さん)の兄については「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に於いておかしな印象はないのだ。

彼は怒って当然のことで怒るまともな人物だった。

無辜

む‐こ【無辜】
(「辜」は罪の意)罪のないこと。また、その人。「—の民」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

彼は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」で他者を攻撃する人ではなかった。

しかし私の周囲の同級生(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))はそうでもなかった。
彼らは相手(他者)を嫌がらせで挑発し激怒させ相手の方を「敵対感覚〈原罪〉」だと称するいやらしい認識(ゲーム)をしていた。

それは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」そのものだった。

明らかに自分が嫌がらせをしているのにそれを相手(他者)の異常性(敵対感覚〈原罪〉)にすげ替えるのだ。

明らかに彼らが「道理」に対して「敵対感覚〈原罪〉」だった。

それは自らを「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」にする典型的な姿だった。

では何故「INNOCENT」であるならば「無辜」であるのか?

それは「同語反復」でしかないだろう!

「トートロジー」と「循環論証」に拠って「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」は形成される。

循環論証

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa-神と聖書を冒涜する〈循環論証〉論理上の虚偽の一つ。
Aの事柄を論証するための論拠として用いられるBの事柄が、Aを論拠としていなければ論証できないという場合をいう。
例えば〈神は存在するということは聖書に書いてある。しかるに聖書は神の言葉である。ゆえに神は存在する〉という類の論証

「岩波哲学小辞典」 岩波書店

トートロジー(同語反復)

どうご‐はんぷく【同語反復・同語反覆】
①主語が述語と同一概念から成る命題のように、説明の用をなさない同じ言葉を無意味に繰り返すこと。
②定義する言葉が定義されるべきものをそのまま繰り返す定義上の虚偽。
③〔論〕(tautology)記号論理学で、要素命題の真偽にかかわらず全体が常に真となるような恒真命題。→トートロジー

『広辞苑 第六版』 岩波書店

トートロジー【tautology】
〔論〕
①〓同語反復に同じ。
②ある命題がその要素的部分命題の真偽いかんにかかわらず常に真と解釈される時、その恒真性をいう。記号論理学とくに命題論理の分野で、ウィトゲンシュタイン以来普及した概念。恒真命題。恒真式。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

トートロジー
tautology
文法的には同じ語の無意味な反復をいうが,論理学では,経験的知識の内容とはかかわりなく,必然的に真として成立する命題,ないしその関数関係をいう。常に無条件的に真であるから,⇨恒真式とも呼ばれる。また命題構造としては,主辞に含まれている内容を賓辞がただ析出するだけであるから,分析文とも呼ばれる。トートロジーの論理学的重要性は現代論理学の発展によって認められるようになった。記号論理学は結局,数個のトートロジーの公理式と,これらの公理からほかのトートロジーを導き出すための規則とによって構成された,巨大なトートロジーの体系である。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

tau・tol・o・gy [tᴐːtálədʒi|―tɔl―]〓
―n. (pl. ―gies)
1 トートロジー,類語反復:考えを不必要に繰り返して表現すること;特に言葉の不必要な繰り返し;例 widow woman.
2 〖論理〗 トートロジー.
(1)同語反復(文),同意反復(文):「人間は人間である」や「母は女親である」のように,述語が主語の繰り返しになる文.
(2)恒真論理式:「A または非 A」のような要素命題の変更にかかわらず常に真となる論理式;例 This candidate will win or not win.
3 (行為・経験などの)反復,繰り返し.
[1579.<後期ラテン語 tautologia<ギリシャ語 tautología.⇀TAUTO―,―LOGY]
tau・to・log・i・cal [tɔːtəládʒikəl|―lɔdʒ―]〓
―adj.
tàu・to・lóg・ic
―adj.
tau・tol・o・gous [tᴐːtáləɡəs|―tɔl―]
―adj.
tàu・to・lóg・i・cal・ly〓
―adv.
tau・tól・o・gous・ly
―adv.
tau・tol・o・gist
―n.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

tau・tol・ogy /tᴐːˈtɒlədʒi; NAmE ‐ˈtɑːl‐/
noun [U, C]
a statement in which you say the same thing twice in different words, when this is unnecessary, for example ‘They spoke in turn, one after the other.’
▶tauto・logic・al /ˌtᴐːtəˈlɒdʒɪkl; NAmE ‐ˈlɑːdʒ‐/ adj.
▶tau・tolo・gous /tᴐːˈtɒləɡəs; NAmE ‐ˈtɑːl‐/ adj.

『Oxford Advanced Learner’s Dictionary, Eighth Edition』 Oxford University Press

tautology /tᴐːˈtɒləʤi/
▶noun
(pl. tautologies)
[mass noun] the saying of the same thing twice over in different words, generally considered to be a fault of style (e.g. they arrived one after the other in succession).〓
→〓TAUTOLOGY
◾[count noun] a phrase or expression in which the same thing is said twice in different words.〓
◾<Logic> a statement that is true by necessity or by virtue of its logical form.〓
-DERIVATIVES
tautological /―təˈlɒʤɪk(ə)l/ adjective〓
tautologically adverb〓
tautologist noun〓
tautologize (also tautologise) verb〓
tautologous adjective〓
-ORIGIN
mid 16th cent.: via late Latin from Greek, from tautologos ‘repeating what has been said’, from tauto― ‘same’ + ―logos (see ―LOGY).
→〓TAUTOLOGY

●Oxford Dictionary of English, Second Edition revised

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」によって他者をいやらしく攻撃する連中ばかりだった。

怒って当然の人が逆に非難されるのだ。

其の中で彼女(奈美さん)の兄はまともだった。
そして妹はとても素敵だった。

彼女(奈美さん)には素敵な印象しかない。
それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」となっていた。

私が真剣に考える相手となるのはそのような「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によって素敵だと見做した人物である。

そういう人は生涯「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」として「永遠の命(Holy Communion)」として生き続ける。

そして彼女(奈美さん)は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のペルソナ(福音(メシア))だった。

しかしそれ以外の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「相互愛」の存在は確認できない。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))の存在ばかりだった。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「相互愛」と特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))は違うのだ。

そして「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「相互愛」は福音(メシア)であり「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」はストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))であるのだ。

何故なら「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」は他者を「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」により統治しようとする。

それにより特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の賛美と扇動を形成し「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を成立させる!

それは相手に対して自分を「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」により「超感覚(一方的自由の陰険)」だと認識させるための特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))の抑圧の追求が行われる。

私の知る限り他の知り合いに特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))はいたが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)はいなかった。

他の知り合いに誰一人いなかったと言って良いと思う。

それが彼女(奈美さん)のユリスモールが私ではないかと朧気に判断する最大の理由と言えます。

私は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のストーカー(集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))ではなく「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持ったカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)だからです。

※特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずる理性(自由の相互性〈相互愛〉)を「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としその福音(メシア)を齎す存在は稀有であるだろうからだ。

2

福音(メシア)は基本的「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「悔い改め」から「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」を改善してある叡智の在り方としての最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)のことなのです。

彼女(奈美さん)が船橋グリーンハイツの高層棟から投身自殺したことで其の遺体の損傷は激しかっただろうと私は当時想像していた。

私は近くを通りかかりカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を直観したが遺体の確認することはしなかった。

その感覚だけが全てであろうからだ。

しかし彼女(奈美さん)の死は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の投身自殺でありそれは殉教と言える。

それは私にとって「永遠の聖痕の徴の受肉(Holy Communion)」となった。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の殉教は最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)の殉教であり「最も崇高なもの」である。

2 カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「7(Ⅶ)」-「カトリックロゴス感覚エリート(Holy Communion)」

萩尾望都タロット 戦車 7(Ⅶ) THE CHARIOT

数字の符号一致偶像

中学卒業文集の「7(Ⅶ)」

2023年4月24日撮影
給食センターが出来ていて吃驚しました。
当時は毎日お弁当を持ってきていました。

卒業文集で将来なりたいものを最後のクラスの席に書くようになっている。
私は「FM-NEW7」と書いた。

これは富士通のパソコンの名称でありそれで遊んだ友達との思い出もあるが将来なりたいものは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「7(Ⅶ)」と言う意味であった。

将来のオールドコンピューターが将来なりたいものであるわけはないのだ。

「7(Ⅶ)」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり、「福音(メシア)」「愛徳」「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」そして「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の純愛」であった。

※「7」を使用した「富士通」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のある会社かもしれない。

※彼女(奈美さん)の兄も私の家で「FM-NEW7」で遊んだ一人である。

※「エルドラド伝奇」というゲームをした記憶がある。(最後までクリアしたゲームはなかった。私はそれほどゲームが好きではなかったのだ。)

FM-NEW7

3 私が「ユリスモール・バイハン」である理由

1

高根中学校の図書委員会

「トーマの心臓」の図書館

◊sev・en /sévən/
—a.
—n.
1 [the ~] 〖聖〗 ⦅使徒たちの補佐役に選ばれた「御霊(みたま)と知恵とに満ちた, 評判のよい」 (Acts 6: 3-5) Stephen など⦆ 七人.
2 《豪俗》 7 オンスのビール.
★⇨JUST SEVEN↙.

『リーダーズ・プラス』 研究社

彼女(奈美さん)は学生バックに「裁縫道具」や「筆入れ」と「封筒」に入った「両親一通」と「5人の同性の友人一通」の合計「7人」に向けた遺書を残していると新聞に記載されていた。

私の友人であった「彼女(奈美さん)の兄」へ向けた「遺書」の記載は新聞にはなかった。

私はそこに不可解を感じた。

そして私がここで言いたいことは数字の「7(Ⅶ)」から直観される「符号一致偶像」が「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を示していると感じた。

私が卒業文集に書いた将来なりたいものに「7(Ⅶ)」を敢えて入れたのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を示したものでした。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上とする「ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」をイマーゴ(真善美の回復)とする現れです。

「キリスト教カトリック神学(Holy Communion)」の三位一体のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)でありました。

それは特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)である「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」を嫌悪し禁ずる理性(自由の相互性〈相互愛〉)の「福音(メシア)」でありました。

「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」と「最高善の神」の聖戦であるのです。

特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪して「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」として存在する「7(Ⅶ)」の卒業文集でした。

そして彼女(奈美さん)の兄で私の同級生は友人だった。

今まで彼とは同じクラスになったことはないが「軟式テニス部」で一緒だった。

中学の軟式テニス部

2023年4月24日撮影(午前9時頃撮影)
軟式テニス部の整備用のローラーです。
はっきり言ってこれが一番嫌な仕事です。
しかし音楽バンドのリーダーだった男は私を目の敵にしてこの役目を押し付けました。
何人かが巻き込まれこの一番嫌なローラー引きを毎日やらされたのです。
音楽バンドのリーダーはそれを「ローラーズ」と言って嘲笑っていました。

「男子テニス部」の「虚飾の集合写真」である。

一緒に映画を観に行き遊んだメンバーの一人が抜けている。

私はユニフォーム着用ではなく下だけ緑の体操着の短パンを着用している。

それらは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を示している。

私の右の上下ジャージの男は私に「FM-NEW7」を勧め一緒に遊んだ焼肉屋の友達だった。

よく店の二階で遊んだ。

「つくば万博’85」にも3人で泊りがけで行った。

しかし彼の父親は病で死んでしまったのだ!

(今でも葬儀の席で憔悴した彼の姿を忘れることができない。)

だからこの時の彼もある意味非常に大変だった!

ジャージで並んだ写真である。

後に高根中学に入学する「奈美さん」は朝日新聞の記事によると「ソフトボール部」だった。

男子は野球部であり女子はソフトボール部である。

悪魔

テニス部には「悪魔」が居た。

北原の右が私を暴行し北原の家で罠を仕組んだ男だった。
(この男の自宅は2-6-1の螺旋階段側の2階にありそしてその真下の洋品店(学生服など)を商んでいた。)

北原の左で何故かこの時だけ腕を持ち繊細を装った「立ち位置の印象操作」をしている男がある。

女性アイドル並みのぶりっ子演技である。

この男が「音楽バンドグループ」の「リーダー」である。

北原の左右は並び方が可怪しい。

あり得ない関係なのだ。

これも「虚飾の集合写真」であることの理由の一つなのだ。

こいつは殺さなければいけない男であり、もし日本で「手袋決闘」が「合法」であればこいつを殺すために「決闘」を申し込むべき相手である。

「決闘」と言えば萩尾望都先生の「ポーの一族」で決闘のシーンがあるのはご存知だろうか?

エドガーの親族が「手袋決闘」を行うのだ。

手袋決闘

「ポーの一族」
手袋決闘

魔女

2023年4月24日撮影(午前9時頃撮影)
これが運動部活動の部室です。
しかし部室に入れるのは音楽バンドのメンバーだけで他の部員は外でバックを置いて着替えていました。
本当に馬鹿な話だった。
彼らは一生赦されないことをしたと私は思っています。
この部室の前は女子テニス部です。
当時はそうでした。
2023年4月24日撮影(午前9時頃撮影)
奥のプールの前が男子テニス部です。
当時はそうでした。

軟式テニス部の部室は「音楽バンドグループ」が占拠し他の部員は一切入れなかった。

では一体他の部員はユニフォームを何処で着替えたと思いますか?

「推して知るべし!」

みんな仕方なく外で着替えたんだよ!

そして何故か「音楽バンドグループ」だけが部室でゆっくりしていたのだ。

私はその「虚飾」が嫌だったので下だけユニフォームに着替えなかった。

わざわざ外でパンツになって着替えるほどの事でもない。

馬鹿馬鹿しいのだ!

しかしここでも暗に私(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))が「堕落の原因」とされ貶められていた。

ある時この「音楽バンドグループ」の「リーダー」に一人の部員が抗議を表明した。

その抗議に対して「俺に逆らうのか!」と「音楽バンドグループ」の「リーダー」は叫び声をあげた。

そして「音楽バンドグループ」の「リーダー」は怒声をあげながらその部員をテニスラケットで強烈に打ち据えたのだ。

そしてその時「音楽バンドグループ」の「リーダー」の木製のテニスラケットは粉々に砕け散った。

このショッキングな暴力(冒涜)の光景を今でも私は忘れることができない。

その印象は強く私の眼に焼き付いている。

その部員の身体は強打され骨折したかもしれないし骨にヒビが入ったかもしれない。

(この理不尽な事件で明らかに証明されたのは、その男の明らかな暴力性と男子軟式テニス部の顧問の先生の「ネグレクト(あざとい自閉)」だった。)

私はその時「音楽バンドグループ」の「リーダー」についてこう思った。

「君は結局は〈露骨な暴力〉だね。
それだけだ!
人間動物の冒涜チンパンジーだ!(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉」

そして顧問の先生は何も言わなかったことで完全にその事件を「ネグレクト(あざとい自閉)」したことが判明し終わった部活となっていたことが完全に明らかになった。

しかしその直後に「音楽バンドグループ」の「リーダー(加害者)」は意外な行動に出る。

私を待ち伏せしたかのように校内の廊下で普段はありえない会話を一方的にしてきた。

「音楽バンドグループ」の「リーダー(加害者)」は爽やかな笑顔で私に一方的に話し去っていった。

「D.Tは勇気あるよな!凄いよ!」と何故か爽やかな笑顔で自分がラケットで殴りつけた相手を称賛した。

「音楽バンドグループ」の「リーダー(加害者)」は私に向かってそれを私を待ち伏せして一方的に話し去っていった。

私は嫌な予感がした。

「なんだこれ」と疑問と不安を感じた。

あなたは加害者の身分で何をねじ曲げているのか?

加害者が何故被害者を爽やかな笑顔で褒め称えているのか?

「ネグレクト(あざとい自閉)」によって自分に都合のいい「既成事実化(アリバイ証明)」の「同意」を一方的に要求しそれを捏造する「他者」に対する「レイプ行為」だった。

それは「ネグレクト(あざとい自閉)」によって形成した自分に都合のいい「既成事実化(アリバイ証明)」が侵害された場合に逆に「被害者より加害者の方が繊細で傷つく」と陰険に主張する人間動物の冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の在り方だった。

おかしい話だった。

「繊細な加害者」という概念が〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉を完全否定する。

そして被害者の方が加害者意識を持たされ加害者の方が被害者意識を持ち「加害行為」の正当性(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を形成する。

それは「あべこべの被害者意識」であり「あざとさ」からある「逆ギレ(加害行為)」だった。

日本人の独自性はそのような「あざとさ」からある「逆ギレ(加害行為)」の在り方(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)だった。

それは日本文化(高根中学校)の独自性の在り方(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)は最高悪崇拝の在り方(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)でしかなかった。

またはそれは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」と言う「愚民政策」だった。

要は低能で劣等な在り方(愚民の在り方)であり「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」を「原始的段階に近い在り方〈一方的自由の陰険〉」へ貶す「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」が日本文化(高根中学校)の独自性の正体であった。

それは今更「私」と「音楽バンドグループ」の「リーダー」がさも「仲間(共犯)」であり私がそれを容認しているというような「立ち位置の印象操作」としてあったのか?

自分たちが行っている「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の主犯をまたもや私に擦り付けるために「仲間(共犯)」だと言い張るのだろうか?

部室に入れない被害者の一人である私を「仲間(共犯)」とすることは常識では無理であろう。

しかし「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の日本文化(高根中学校)ではそれが可能となるのだ!

それは「私」が「音楽バンドグループ」の「リーダー」を容認することで「私」こそが「堕落の原因」であったとする「立ち位置の印象操作」としてあったのだろうか?

私にしてみれば「音楽バンドグループ」の「リーダー」は明らかに「凶悪な加害者」だったよ!

「ふざけるな!馬鹿者!」

「死ね!」

しかしそれを私が「音楽バンドグループ」の「リーダー」に注意することは集団脅迫行為(冒涜性)の中では不可能だった。

それは学校の先生の役目だろう。

しかも相手は「露骨な暴力を振るう劣等な男(冒涜チンパンジー(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」だった。

私は「音楽バンドグループ」の「リーダー」の態度を訝りながら警戒しながら隙きを見せないようにポーカーフェイスを装っていた。

相手の因縁つけが怖いからだ。
(彼は特に私を嫌がらせの標的にしていた。だから彼のこの行動は異様なのだ!裏に何かあるのは間違いなかった。しかし私がそれを知ることはできなかった。味方がいないからだ。このような事態を自分だけで把握することなんてできない。何故なら誰も彼の計略を私に伝えることはなかったからだ。純愛のない中学校だったのだ。集団リンチに近かったがこれが「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」が形成する「Holy Communion」の公開処刑だった。)

何を言ってくるか分からない相手に警戒して当然だった。

これらのことは軟式テニス部の顧問の先生も知っている筈なのに一切黙って何もしなかった!
(当然だった高根中学校の先生も葬式ゲーム(葬式ごっこ)のプレイヤーだった。)

そして顧問の先生も私を「堕落の原因」として責任転嫁したような節がある。

たぶんそうだろう。

完全に軟式テニス部を「ネグレクト(あざとい自閉)」した顧問の先生(責任転嫁)だった。

学歴(大学名)だけが自慢らしい。

実に嫌な低能で劣等な先生だった!

入部当初にいた先生は二年時に転任された。

私は転任された顧問の先生に好感を持っていた。

しかしその後任の顧問の先生は「一橋大学(国立大学)」を卒業した独身男と言われていて父母(父兄)の間では評判だった。

しかしその実情は酷いものだったのだ。

学歴(大学名)を自慢したいだけなら「合コン」でやってください!

とんだ馬鹿男だった!

国立が自慢ですか?

一橋大学

その顧問の先生についての父兄の評判は「虚飾(大学名)」そのものだったのだ!

この国ではそんなに国立がいいらしい。

私は他国へ亡命したくなった!

私達の間では転任した前の顧問の方がずっと良かったと専らの評判だったのだ!

魔女

まじょ【魔女】
witch
超自然的な方法によって他人に災いをもたらす女妖術師。広義の妖術は,他人に対して超自然的作用により意図的に災いを及ぼす場合と,意図的ではない場合の両方を含むが,狭義の妖術 witchcraftは,後者の神秘作用のみをさし,意図的行使は邪術 sorceryと呼ばれる。しかし,一般には邪術を主として用いる女性をさす。ヨーロッパでは旧石器時代から魔女の観念があったことを示す遺構が残っており,魔女の歴史は古い。特に魔女が衆目を集めたのは,16世紀前後の⇨魔女狩りが激烈であった時代であり,そのときに処刑された者の数は数万にも及ぶといわれる。妖術師は男女両性にわたってみられるが,女性の場合のほうが多いといわれる。きわめて伝統的生活をおくる社会では,社会的規範から逸脱した者が魔女と呼ばれ,非難されることが多い。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
『魔女の夜宴』油彩(1798)ゴヤ画,ラサロ・ガルディアーノ美術館
魔女とその手下となる小鬼や小動物,魔法に関する論説(1621)の挿絵.大英図書館蔵

聖なる決闘

旧約聖書サムエル記「ダビデとゴリアテ」

私はダビデとしてゴリアテを倒す必要があった。

彼女(奈美さん)の兄は同じ学年の卒業生であり彼女(奈美さん)もこの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の文集を見ることはできた筈だ。

「7(Ⅶ)」に対する拘りの表明が彼女(奈美さん)の兄に対する遺書の存在を意図的に抜くことにあったと感じられる。

そうやって「2通」の遺書の合計人数を「7人」にすることで「7の数字」を「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」として示す。

「7(Ⅶ)」のメッセージを伴った「殉教」だと考えることはできる。

どうしても「7(Ⅶ)」を示したい理由があったのだ。

それは彼女(奈美さん)の「ユリスモール・バイハン」について「7(Ⅶ)」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に関する何かがあったと想像することができるからだ。

朝日新聞報道のバックの中身「裁縫道具」と「筆入れ」について-宗磨とは?

◗裁縫道具
a sewing kit
◗裁縫箱
a sewing box
◗裁縫ばさみ
(a pair of) sewing [sartorial] scissors

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

〓裁縫道具
sewing 「things [equipment].
〓~道具入れ
a sewing kit; a housewife 〖pl. ~s, ―wives〗.
〓裁縫箱
a sewing box.

『新和英大辞典 電子増補版』 研究社

⁺sew /sóU/ ★ew は例外的に /oU/ と発音する. 〓
—〓 (sews; 過去 sewed; 過分 sewn /sóUn/, sewed; sew・ing) 〓 〈…〉を縫う, 縫いつける; 縫い合わせる, 縫い込む.〓
〓〓
—〓 縫い物をする; ミシンを使う.

『ルミナス英和辞典(第3版)』 研究社

sew/sóʊ/〓
〖初12c以前;古英語 sīwian (縫う). cf. seam〗

『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店

◊sew¹ /sóu/
—vi.
*《黒人俗》 〈男が〉マスターベーションをする, マスをかく.

『リーダーズ・プラス』 研究社

◗筆入れ
a pencil case

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

ふでいれ【筆入れ】
a 「brush [pen, pencil] case.

『新和英大辞典 電子増補版』 研究社

ブラッシュアップ〖brushup〗
〘名〙(スル)
みがき上げること。学問などの再勉強や鈍った腕や技のみがき直し。また、一定のレベルに達した状態からさらにみがきをかけること。「留学で英語を―する」

『大辞泉 第二版』 小学館

brúsh・ùp
―n 《知識・技能を》上達させること,磨きをかける[記憶を新たにする]こと,ブラッシュアップ;小さな欠点[きず]の除去[修正],仕上げ;身づくろい〓


『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

※裁縫道具は「a sewing kit」でありsewは「SOU」と発音する。そして筆入れは「a brush case」であり「brush」はブラッシュアップ(磨く)を示している。「宗磨」という名前がおぼろげながら浮かび上がってくる。
ただこれは自分本位の「仮説」でありもし彼女のユリスモール・バイハンが私であった場合の「仮説」にすぎない。
もし彼女のユリスモール・バイハンが他者であった場合には不毛な憶測となるだろう。
※「宗磨」の名の由来について
名古屋市立小幡小学校の低学年時に学校の課題が出された。
当時両親に問うてみたところ返答はこのようにあった。
「宗」は「己(おのれ)」であり「磨」は「磨く」であるから「己を磨く」と教えられた。
ただこの名前の命名者は父でも両親(親類)でもない。
父親の早稲田大学在学中の同級生だった森さんという方だった。
父が言うには森さんは名家の方であるが今は斜陽の家となっているらしい。
森さんは昔は大きな屋敷に住んでいて家に川が流れ一緒に鰻を大量に釣ったと思い出話を語っていた。
私は森さんの家に一度だけ伺ったことがある。
森さんは酒に酔って「木刀をあげるから持っていきなさい」と言われたから持って帰った。
しかし木刀を使用する機会はなく後に森さんの申し出で返却した。
しかし私の父は私の名前を酷評するために当初の森さんが命名した名前の解釈を変更してきた。
父親に今更名前貶しを始められて吃驚した。
(父よ!あんたが名付けたわけではないよ。)
ただ私は小幡小学校の時に聞いた解釈が正解だと思っている。
多分それが森さんの意図に近いだろう。

昭和47年4月(昭和46年10月16日生まれ)
1972年札幌オリンピックの記念切手(アルバムより)

そして「裁縫道具」「筆入れ」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によって想像すると「女性」と「男性」もしくは「男女の在り方」である「最高善の神の下」の「永遠の聖夫婦(Holy Communion)」を意味していると考えることが出来る。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貫いたのが彼女(奈美さん)であれば「トーマの心臓」の「トーマ・ヴェルナー」であることを示している。

そしてそれは彼女(奈美さん)の「ユリスモール・バイハン」が「トーマの心臓」の原作とは異なるけれど「異性」だと想像する理由となる。

その「直観」が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」よりあり得るのはこのような想像によっている。

2

私が萩尾望都「トーマの心臓」を初めて読んだときに聞いていた音楽はヴィヴァルディの「調和の霊感」でありました。

何故この曲を選んだかはよく解らない。

それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の偶然だった。

いくらかの条件を鑑み私は彼女(奈美さん)にとってのユリスモール・バイハンとされる可能性はあるだろうと想像する。

私は私の知る限りその稀有な一人(純愛メシア信仰(Holy Communion))となり得るだろうと自認している。

少なくともペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)を侮辱し冒涜する人物が彼女のユリスモール・バイハンである筈はない。

私はそう判断する。

ヴィヴァルディの「調和の霊感」

新約聖書ヨハネの福音書  冒頭

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の光は闇に中にあって輝いている。

イマヌエル・カントの信仰

カント「純粋理性批判」の第二版序文である。

ここでは「信に場をえさせるために知を廃棄しなければならなかった。」とあります。

この示しているところは「信」とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり、それを貶め否定してある「知」を廃棄して「信」の場をえさせなければならないということである。

ここで解るようにイマヌエル・カントは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を信仰しています。

イマヌエル・カント「純粋理性批判」の第一版序文である。
形而上学は諸学の女王に位置した時代があったが落ちぶれてしまった。

しかしそれは形而上学を貶め否定した特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)の「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」によっている。

それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「時の徴」を貶め否定したオタク感覚〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉と同じである。
イマヌエル・カントの時代にも「最高善の神の学問」は「オタク学」に堕していたのだ。

宮崎駿が「イマヌエル・カント」だとしたら、庵野秀明や新海誠は「オタク学(ヘーゲル)」であるのだ!

そのことが此処に記されている。

其の理由は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「カトリックロゴス感覚のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」としての資質ある人物は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)を入れる場所の確保(イマヌエル・カント)」があることが第一条件となる。

少なくとも私にその資質があるかどうかはこの私の作品を読んで判断していただきたい。

マグダラのマリア

キリスト教美術資料
マグダラのマリア
キリスト教美術資料

彼女(奈美さん)の「純愛」はどんな事があっても揺るがない。例え彼女(奈美さん)が「マグダラのマリア」のように娼婦と呼ばれようとも。

3

しかし彼女(奈美さん)の死は私にとって実際に「ユリスモール・バイハン」の「トーマ・ヴェルナー」の「純愛」による「救済」となった。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する傲慢(敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))が露骨に起こっていた。

それは「トーマの心臓」にもその通りであるのはご存知だろう。

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa(サタン(最高悪)と魔女)

シェイクスピア「マクベス」の三人の魔女
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Pure love (Fair) is Malice (Foul), Malice (Foul) is Pure love (Fair). but Pure love (Fair) is Pure love (Fair), Malice (Foul) is Malice (Foul)."

「トーマの心臓」 

「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」と「Holy Communion」

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
Holy Communion
Holy Communion

4 純愛について一言申す(カトリックロゴス感覚〈カトリックロゴス感覚(Holy Communion)〉の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」)

"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Pure love (Fair) is Malice (Foul), Malice (Foul) is Pure love (Fair). but Pure love (Fair) is Pure love (Fair), Malice (Foul) is Malice (Foul)."

萩尾望都タロット 太陽 19 THE SUN

「純愛」とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてある。

しかし「純愛」をシェイクスピア「マクベス」の「三人の魔女の言葉(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」により堕すことが行われる。

それは「綺麗は穢い」「穢いは綺麗」とされるのだ。

これは「純愛は悪意」「悪意は純愛」となることを示している。

しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」では「純愛は純愛」「悪意は悪意」となるのだ。

それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉する「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」へイマーゴ(真善美の回復)する在り方を示している。

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して「敵対(バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」は超感覚(一方的自由の陰険)を至上の正当化とする「黒魔術」であることを示している。

その反対に「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に「世界」をイマーゴ(真善美の回復)させる「思想(信仰)」を「聖なる白魔術」と言う。

「敵対(バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」を超感覚(一方的自由の陰険)の至上の正当化とすることは「呪文」の類ではよく見られる光景である。

それは「黒魔術」の「呪術」であり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」に対し「原始的段階に近い在り方〈一方的自由の陰険〉」である。

それは「劣等」を武器(超感覚(一方的自由の陰険))とすることを意味している。
それは「カルト」であり「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」であった。

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa cult (kŭlt)

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
cult (kŭlt)〓
[L. cultus, an honoring, adoration].祭儀,礼拝形式,祈祷療法(教義または宗教的な教えに基づく体系化された信仰および儀式.従順な献身的な信者,指導者の非現実的な理想化,個人的な欲望や目的の放棄および伝統的な社会価値観の排除などの特徴がある).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
cult [kʌlt]〓
―n.
1 (ある特定の)祭儀,礼拝形式.
2 (特にある集団の人たちが表明する,ある人・理想・事物への)礼賛,崇拝;(一時的)熱狂,流行,…熱⦅of ...⦆:〓
3 (2のような)崇拝[礼賛,熱中]の対象.
4 ⦅集合的⦆ (同じ物・人・理想などに対する)礼賛者の集団.
5 〖社会〗 カルト:ある崇拝の対象を取り巻く,組織化された信仰と儀礼を持った集団;新興の宗教運動に対して用いることが多い.
6 邪教,異教;⦅集合的⦆ 邪[異]教徒.
7 (教祖的人物に由来するとされる)非科学的な治療法,祈祷(きとう)療法.
―adj.
1 cult の.
2 崇拝者の小集団の(ための)[を引きつける].
[1617.<ラテン語 cultus 居住,耕すこと,洗練,崇拝(colere「居住する,耕す,崇拝する」より)]
cúl・tic
―adj.
cul・tu・al [kʌltʃuəl]
―adj.
cult・ish
―adj. (一部の)信奉者のみに支持されている.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
カルト
cult
祭儀,儀式,崇拝を意味することばが転じて,特定の人物・事物を熱狂的に崇拝,礼賛すること。または,そうした行動をとる集団や教団をさす。アメリカ合衆国では,1969年のチャールズ・マンソンとマンソン・ファミリーのメンバーによる女優シャロン・テートらの虐殺事件,1978年に起こったジム・ジョーンズの教団「人民寺院」の集団自殺事件など,カルトがからんだ陰惨な事件が相次いだ。日本でも,オウム真理教による 1994年の松本サリン事件,1995年の⇨地下鉄サリン事件など,カルトが否定的にとらえられるきっかけとなった事件が発生した。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

朝鮮出兵

doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa
ちょうせん‐しゅっぺい【朝鮮出兵】 テウ‥
豊臣秀吉の領土的野心による、2度の朝鮮への侵攻。文禄・慶長の役。日本では朝鮮征伐、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼んだ。
㋐文禄の役。秀吉は明国経略の前提として朝鮮の服属を強要したが拒まれ、1592年(文禄1)加藤清正・小西行長を先鋒に兵15万余を朝鮮へ派遣。初めは連戦連勝し、碧蹄館に明の援軍を破るなどしたが、水軍は朝鮮提督李舜臣の軍に大敗、翌年明使沈惟敬(しんいけい)との間に和を講じた。
㋑慶長の役。1596年(慶長1)明皇帝からの書に「爾(なんじ)を封じて日本国王となす」とあるのを見て秀吉は激怒し、翌年再び朝鮮に兵を送ったが、遠征軍の士気揚がらず、98年秀吉の死を機に撤退。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

それは一向宗が「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」であることを示し、「マクベス」の三人の魔女も同様に「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」であることと同じである。

それはそのような「劣等」が支配し大威張りをする敵対であるのだ!

「劣等」の敵対に拠って最高善の神の王国である「世界」が荒廃するのは当然であった!

サタン(最高悪)

サタン
Satan
ヘブライ語 Sātānに由来し「敵対する者」を表わす。旧約聖書では「敵」「仇」など人間について用いられた例も多いが,『ゼカリヤ書』(3・1~2),『ヨブ記』などユダヤ教後期の聖典では,超人間的存在とされている。しかし,旧約聖書では,これもヤハウェによる試練として人間に課されるものであり,新約聖書にみられる超自然的「⇨悪魔」としてのサタンの観念は,善悪二元論に立つペルシア宗教の影響である。新約聖書では,サタンは神の計画の成就を妨げ,キリストを試し,信仰者を誘惑するものとされるが,ここでも神と二元的に対立するものではなく,最後には神の支配下におかれ,滅ぼされる。イスラム教でもユダヤ教,キリスト教,ゾロアスター教などの影響を受け,悪をなすシャイタン(サタン)を教義のなかにもっている。これらは古来文学や絵画などで描かれ,ルキフェル,メフィストフェレスなどは有名である。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

Satan
the Devil; Lucifer.
-ORIGIN
Old English, via late Latin and Greek from Hebrew śāṭān, literally ‘adversary’, from śāṭan ‘plot against’.

●Oxford Dictionary of English, Second Edition revised

ad・ver・sar・y [ǽdvərsèri|―səri]

ad・ver・sar・y [ǽdvərsèri|―səri]〓
―n. (pl. ―sar・ies)
1 敵,敵対者,反対者(↔ally).⇨OPPONENT〓
2 (試合・ゲームなどの)対戦者,相手(contestant).
3 ⦅the A―⦆ 悪魔,サタン.
―adj. (また⦅特に英⦆ ad・ver・sar・i・al[ædvərsέəriəl])
1 敵の,敵手の.
2 (原告・被告など)当事者の:〓
[1340.中期英語 adversarie<ラテン語 adversārius (adversus より;⇀ADVERSE)]
ad・ver・sar・i・ness [ǽdvərsèrinis|―səri―]
―n.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

ad・ver・sary /ǽdvərsɛri; ―s(ə)ri/
―n 反対者,敵対者,敵;〖法〗 《訴訟での》相手方,相手方弁護士;《ゲームの》(対戦)相手 (opponent);[the A―] 魔王 (Satan).
―a 反対する,敵の;〖法〗 利害の対立(する当事者)が関与する,当事者が対抗し合う,弾劾主義の.
ád・ver・sàr・i・ness /; ―s(ə)rI―/ n
[OF<L=opposed (ADVERSE)]

『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

adversary /ˈadvəs(ə)ri/
▶noun
(pl. adversaries)
one’s opponent in a contest, conflict, or dispute:〓
→〓ADVERSARY
▶adjective /ˈadvəs(ə)ri, adˈvəːsəri/
another term for ADVERSARIAL.〓
-ORIGIN
Middle English: from Old French adversarie, from Latin adversarius ‘opposed, opponent’, from adversus (see ADVERSE).
→〓ADVERSARY

●Oxford Dictionary of English, Second Edition revised

Lucifer /ˈluːsɪfə/

Lucifer /ˈluːsɪfə/
▶noun
1 another name for SATAN.
2 <literary> the planet Venus when it rises in the morning.
3 (lucifer) <archaic> a match struck by rubbing it on a rough surface.〓
-ORIGIN
Old English, from Latin, ‘light―bringing, morning star’, from lux, luc― ‘light’ + ―fer ‘bearing’. Sense 1 is by association with the ‘son of the morning’ (Isa. 14:12), believed by Christian interpreters to be a reference to Satan.

●Oxford Dictionary of English, Second Edition revised

Lu・ci・fer /lúːsəfər/
1 ルシフェル《堕落した大天使で,Satan と同一視される;Isa 14:12 の誤解から》〓
2a 〖ロ神〗 ルーキフェル《ギリシアの Phosphor に当たる》.
b (明けの)明星 (Venus).
3 [l―] 黄燐マッチ,《広く》摩擦マッチ (friction match) (=l~ màtch).
Lu・ci・fe・ri・an /lùːsəfÍəriən/ a Lucifer の,魔王のような,傲慢な.
[OE<L=light bringing, morning star (LUX, L fero to bring)]

『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

ルキフェル
Lucifer
ギリシアのフォスフォロスのローマ名で,明けの明星。曙女神の息子とみなされ,通常,たいまつを手にした青年の姿で表わされ,キリスト教の伝承では,ルキフェルは,「黎明の子,明けの明星よ,あなたは天から落ちてしまった」という『イザヤ書』 14章 12の章句に基づいて,堕天使の頭サタンと同一視され,もっぱらその別名として用いられるようになった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

旧約聖書イザヤ書 バベルへの嘲笑歌

アルバート・アインシュタイン

船橋旭高等学校の一年時の担任は吉岡先生であった。

吉岡先生は「物理」の先生でありアインシュタインを敬愛していた。

先生は初めの授業でアインシュタインの言葉である「シンプル・イズ・ベスト」を私達に教えたのだった。

アインシュタイン(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))に敵対したのはボーアだった。

ボーアはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に敵対する「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」であったのです。

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)とはイマーゴ(真善美の回復)を受肉することで「最高善の神の真理」を示すことになる。

アインシュタインの示したカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とは「光速度不変の原理」だった。

それに敵対して超感覚(一方的自由の陰険)が人によって立てられる現象が起こる。

それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対して超感覚(一方的自由の陰険)として「敵対感覚(罵詈雑言〈原罪〉)」が立てられることとなるのです。

「敵対感覚〈原罪〉」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に敵対して存在することで「罵詈雑言」を最高善の神に浴びせる関係となることから「最高善の神の真理」であることは絶対に不可能となる。

それは最高善の神に悪態をつく行為であり「最高善の神の真理」ではありえないのです。

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する「敵対感覚〈原罪〉」としてそれは付随的に存在することでカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の影響力を自らの超感覚(一方的自由の陰険)とする「立ち位置の印象操作」を行い社会的にその影響力を乗っ取ることが行われる。

だから「敵対感覚〈原罪〉」自体の中身は空っぽなのだ。

しかしカトリックロゴス感覚(Holy Communion)にはイマーゴ(真善美の回復)が必ず存在する。

その影響力は計り知れない。

その影響力を隠蔽し社会的に乗っ取るために「敵対感覚〈原罪〉」こそが「正当」だと主張する仕組み(仕掛け)が「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)に敵対する権威付けシステム」として存在する。

しかしそれは明らかな特殊詐欺である。

その仕組は呆れるほど低能で稚拙であるのです。

しかしそれを可能にするのが社会的信用(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)としての「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)に敵対する権威付けシステム」なのです。

それは非常に不毛であるでしょう。

何故ならばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に敵対することは「信用」を裏切る行為でしかなく特殊詐欺を示しているからです。

「信用」はイマーゴ(真善美の回復)としてあり、明らかな詐術はそれを破壊する「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」でしかありません。

彼ら詐欺師にとっては「完全犯罪」としての「騙し抜き」が「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の「理想」とされるのでしょう。

ここにゴッドハンド事件の一端を紹介いたします。

ゴッドハンド事件(毎日新聞スクープ)

例を挙げれば近年の「ノーベル賞」に於いて「アルバート・アインシュタインと量子力学の研究」がノーベル物理学賞を受賞しました。

しかしその関係性を端的に指摘すればアルバート・アインシュタインのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によってなされたイマーゴ(真善美の回復)の研究に対する「敵対感覚〈原罪〉」として「量子力学」の存在が認識されていた筈である。

だからアインシュタインにとって「量子力学」が特殊詐欺であることは明らかだったのです。

それは「敵対感覚〈原罪〉」にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)はありえないという道理から判断可能なのです。

アインシュタインにとって「量子力学」は明らかな偽物だと当然知ることが出来たのです。

だからアインシュタインは「量子力学」をカトリックロゴス感覚(Holy Communion)で執拗に攻撃することを試みたのです。

それを「偉大なる頭脳の激突」と評した書籍を私は朝日新聞の書評欄で偶々知り読んでみました。

そして「量子力学」と「量子コンピューター」に関する書籍も同時に図書館で渉猟しいくらか読んでみましたがそのあまりの中身のなさに驚くというよりそれが特殊詐欺だと知ることになりました。

「量子力学」は「張りぼての学問」であることが簡単に理解できるのです。

それは中身が空洞化しているのに「見栄え」ばかりが評価されている。

その「見栄え」とは「天才の思考実験」という「屁理屈(前衛詐欺)」でありました。

そしてその「SF(マンガ)の論証とその実証実験」は堂々と行われているけれど明らかにカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に敵対する「敵対感覚〈原罪〉」によってなされています。

それは基本的には「トートロジーと循環論証」による詐術であり、また「科学的思考(Holy Communion)」というカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の基本のロゴスの在り方〈「間違い」の「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉を否定していることで明確であったのです。

それは「天才の思考実験(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は「背水の陣」という「最悪の愚策」を意味しているのです。

「天才の思考実験(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」も「間違い」であればただの「戯言(阿呆)」であるのです。

しかしそれは「科学的思考(Holy Communion)」の在り方ではないのです。

彼らは特殊詐欺としてのカルト教団(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)でしかなかったのです。

「背水の陣」は「結果」が全てでありそこに「間違い」はありえません。

そこには科学信仰の神髄である「科学的思考(Holy Communion)」というカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰にまつわる「信仰の虚実」を突いた特殊詐欺が存在しているのです。

「信仰」に対する「敵対感覚〈原罪〉」としての「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」がその根本にあるということなのです。

しかし「良策(最善策)」とは「背水の陣」を「禁忌」とすることで成立する「信仰」から生まれます。

それが「最善策信仰(Holy Communion)」であり「背水の陣(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と決定的に異なっているのです。

「最善策信仰(Holy Communion)」は「科学的思考(Holy Communion)」のあり方と同様で「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」へ導かれます。

それが「最高善の神」の子メシアの導きとされます。

譬えるなら「織田信長」は「最善策信仰(Holy Communion)」であり「一向宗徒の一揆」又は「武田家騎馬軍団」は「背水の陣(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であるのです。

NHKの歴史書き変えにより武田勝頼は実は名将だったとか、一向一揆は仏教徒の一揆だとされています。

しかし「黒澤明の映画(影武者)」の方が「NHK大河ドラマ(歴史時代劇)」よりずっと的を射ています。

「一向宗徒」とは「末法思想」の「仏教」の在り方であり「仏陀」への「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」として存在しているのです。

NHKの「武田勝頼名将説」「背水の陣」を敷いて「織田徳川」に大敗した「長篠の戦い」をその人柄を強調して美化していますが無理があるでしょう。

武田勝頼は「人柄が良い」という主張の真偽は私には判別できません。
しかし「陰険」の在り方は「人柄の良さ」裏腹に存在します。
それは「偽善」の在り方と同じであり、「陰険の定義」とも一致します。
そしてそれは叡智(イマーゴ〈真善美の回復〉)を受肉しない存在を指し示し「武田勝頼劣等説」の根拠となるのです。

いん‐けん【陰険】
表面はよく見せかけて、心のうちでは悪意をもっていること。陰気で意地わるそうなさま。「—な男」「—なやり方」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ながしののたたかい【長篠の戦い】
天正3(1575)年5月三河(愛知県)設楽原における⇨武田勝頼と,⇨織田信長,⇨徳川家康の連合軍との戦い。勝頼は,天正2(74)年遠江(静岡県)の高天神城を陥れ,その勢いに乗って翌年長篠を囲んだ。城主奥平定昌(のち信昌)の要請により,信長と家康が出陣。極楽寺山に陣した信長は馬防柵を設け,3000梃の鉄砲隊で勝頼の騎馬隊を大敗させ,その後の築城法や戦術に画期的変化をもたらした。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

そのようなNHKの態度は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」でありNHKそれ自体の自己肯定感の在り方でしかない。

「酔っ払いの戯言」ですがそれがデマゴーグ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)となっています。

どうやら彼らは本気らしいのです。

彼らは「背水の陣」を本気で敷いているようなのです。

彼らを「皆殺し」にするしかイマーゴ(真善美の回復)はありえません。

それがメシア(聖織田信長信仰)です。

「最善策信仰」の「科学的思考(Holy Communion)」は〈「間違い」の「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によって「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」に至るのです。

それが「科学的思考(Holy Communion)」という信仰が「叡智」を得る道理であるのです。

しかし「量子力学」の「屁理屈(前衛詐欺)」は「超感覚(一方的自由の陰険)」として「天才の思考実験(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」となります。

それはまた「高感覚」として存在しています。
※スーパーセンスまたはハイセンス

そのような在り方は「科学的思考(Holy Communion)」を完全否定することで「天才の思考実験(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」として全てを超越して表出している。

だから「天才の思考実験(イノセント)」が「科学的思考(Holy Communion)」として「叡智」を得る道理は全くないのです。

ならば「天才の思考実験(イノセント)」とは何だろうか?

それは「科学的思考(Holy Communion)」ではなく「カルト(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の在り方です。

カルト(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)において「絶対の道理」とされるその在り方は「科学的思考(Holy Communion)」ではなく「背水の陣(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」となるのです。

「間違い」の存在しない「カルト」の世界観は「特殊詐欺」の「SF(マンガ)」でしかありません。

それを「娯楽」として楽しむ分には害は少ないでしょう。

しかしそれで「大掛かりな特殊詐欺」を働きその発覚を恐れて「無差別テロ」を起こす「カルト教団」は過去にいくらか存在した例があります。

私の青年時代に起こった「オウム真理教事件」はまさに「教祖」である「麻原彰晃」の「特殊詐欺」の発覚を恐れて無差別テロの凶行を起こした近代日本史上で最大の事件でしょう。

「量子力学」と「麻原彰晃」、「アベノミクス(安倍晋三)」は同程度であったのだ!

「安倍晋三」が「麻原彰晃」を処刑したとき私はどういうことか理解できず思案しました。

それは「安倍晋三」と「麻原彰晃」が同類であったからです。

ただシンプルに考えてみて「安倍晋三」による「麻原彰晃」の「処刑」は「背水の陣(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」のための見せしめとしてあったと言える。

そういった処刑は内ゲバとしての殺人です。

有名な「連合赤軍事件」を想起させます。

うちゲバ【内ゲバ】
新左翼の各党派間,あるいは一つの組織内での対立から生じる暴力抗争。「内部ゲバルト」の略で,ゲバルト gewaltはドイツ語で「力,暴力」の意。1960年代初め頃はおもに,全日本学生自治会総連合(全学連)の主導権争いをめぐり大学構内で各派が衝突するという形態だった。1970年代に入ると大学生だけでなく労働者も加わり攻撃が激化,計画的になり,自宅や路上で鉄パイプや斧などの凶器を使って対象人物を攻撃するようになった。死者は今日までに 100人以上に上る。内ゲバの思想的背景には,他党派の存在を認めないスターリン主義の「唯一前衛党」論があるといわれる。内ゲバは新左翼の全党派に及んだが,なかでも⇨革マル派と⇨中核派の組織をあげての抗争は 1970年の核マル派学生殺害事件を契機にエスカレートし,双方で多数の犠牲者を出した。革マル派は 1975年に中核派書記長,1977年には革命的労働者協会(革労協)書記長を殺害した。組織内の抗争では,1971~72年の⇨連合赤軍事件がある。(→ニュー・レフト)

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

れんごうせきぐんじけん【連合赤軍事件】
連合赤軍によるリンチ事件。 1972年2月から3月にかけて群馬県下で 12死体,千葉県下で2死体の合計 14死体が発見された。これは共産主義者同盟赤軍派と日本共産党革命左派京浜安保共闘が合同した連合赤軍が,71年8月から 72年2月にかけて同志を「規律違反」「日和見主義」「スパイ」の理由で処刑したもの。この事件では死者 14人(男9,女5),逮捕者は 17人となった。このうち最高幹部の森恒夫被告が一審公判前に獄中で自殺。他の一人は日本赤軍が 75年に起したクアラルンプール事件の際に超法規的措置で国外に脱出した。残り 15人については一審,二審とも有罪判決が出て,元最高幹部の永田洋子,元中央委員の坂口弘,元兵士の植垣康博の3人が最高裁に上告したほかは,すべて有罪が確定した。その3人についても 93年2月上告棄却の判決が下され,永田・坂口両被告に対する死刑判決,植垣被告に対する懲役 20年の有罪判決が確定し,未解明部分が多いながらも一応の決着がみられた。(→浅間山荘事件)

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

「麻原彰晃」の「処刑」は「見せしめの処刑(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であって「特殊詐欺」を殲滅する「聖なる雷(Holy Communion)」ではないと感じました。

はいすい‐の‐じん【背水の陣】 ‥ヂン
史記(淮陰侯伝)一歩も退くことのできない絶体絶命の立場。失敗すれば再起はできないことを覚悟して全力を尽くして事に当たること。「—を敷く」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

一向宗
(イッコウシュウ)
〓鎌倉時代、親鸞上人(シンランショウニン)が開いた、浄土宗の一派。浄土真宗。一向は、ひたすらの意味で、ただひたすらに念仏を唱えるからいう。

『新漢語林』 大修館書店

カルト
cult
祭儀,儀式,崇拝を意味することばが転じて,特定の人物・事物を熱狂的に崇拝,礼賛すること。または,そうした行動をとる集団や教団をさす。アメリカ合衆国では,1969年のチャールズ・マンソンとマンソン・ファミリーのメンバーによる女優シャロン・テートらの虐殺事件,1978年に起こったジム・ジョーンズの教団「人民寺院」の集団自殺事件など,カルトがからんだ陰惨な事件が相次いだ。日本でも,オウム真理教による 1994年の松本サリン事件,1995年の⇨地下鉄サリン事件など,カルトが否定的にとらえられるきっかけとなった事件が発生した。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

しかし結局「量子力学」は「シュレーディンガーの猫」や「量子もつれ」などの「天才の思考実験」により「アリバイ証明」を経て超感覚(一方的自由の陰険)を形成することで「正当化(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」に至っている。

その本質は先程指摘したように「敵対感覚〈原罪〉」として存在する。

そこに「最高善の神の真理」であるロゴス感覚(Holy Communion)は存在していないことは証明される。

今回「量子力学」を「敵対感覚〈原罪〉」であるとして否定したアインシュタイン(Holy Communion)の名前を超感覚(一方的自由の陰険)の「正当化(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)、スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉」に利用した「量子もつれ」の研究は「名称詐欺」である。

研究の中身は実はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)ではない。

これは「最高善の神の真理」ではないことを明確に示している。

それは「敵対感覚〈原罪〉」でしかなく無用の長物であり特殊詐欺の贋作であった。

「敵対感覚〈原罪〉」を形成する対象であったアインシュタインのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を利用するとはかなり悪辣である。

何故ならばその研究を「アインシュタインの研究証明」としているところが完全な詐術であるからだ。

ノーベル物理学賞の特殊詐欺は酷いものだ。

他の分野も同様と思われる。

ではノーベル賞とは何なのだろうか?

それは高額賞金を争う賞レースであり「愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の出来レースであるかもしれない。

神演出(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を大衆は望んでいるのだ!

確かに長嶋茂雄の読売巨人軍が優勝すれば神演出(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)だろう!

しかし実際は長嶋茂雄に纏わる神演出(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)は目を覆うばかりの惨状となっている。

それで大衆は熱狂していますか?

私にはそのような「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の在り方が「無辜の大衆」を喘ぎ苦しませる存在に見えます。

何故ならば「最高善の神演出(カタルシス)」とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の回復であるからです。

それは「カタルシス」という「イマーゴ(真善美の回復)」なのです。

「愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」による神演出(八百長)はイマーゴ(真善美の回復)の否定であり力道山の神演出(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)と同じである。

「力道山とシャープ兄弟の対決」はまさに神演出(八百長)であった。

あるテレビ情報番組によると「大衆は大喜びした」と言われている。
※それもまたプロテスタントデマゴーグかも知れない。

また他の多くの競技において神演出は愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)としてのローマのグラディエーター(八百長)を行っている。

それはオリンピア(Holy Communion)にも言えることだろう。

オリンピック(Holy Communion)の競技も神演出(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)が至上とされる。

それは「オリンピックの理念(自由の相互性〈相互愛〉)」を穢す行為でしかなく「敵対感覚〈原罪〉」でしかない。

「敵対感覚〈原罪〉」を行うオリンピック競技(Holy Communion)は不浄なものでありカタルシスというイマーゴ(真善美の回復)が起きることは絶対にありえない。

何故ならばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)から受肉するイマーゴ(真善美の回復)がカタルシスの本質でありそれが「最高善の神演出」であるからだ。

そのテレビ情報番組によると力道山はプロテスタント系の「国際基督教大学」へ受験し不合格となったらしい。

力道山の神演出はカタルシスというイマーゴ(真善美の回復)ではなく八百長による熱狂(敵対感覚〈原罪〉の扇動)であった。

それは愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)でしかない。

力道山は結局「神演出(八百長)」でありカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の回復ではないのです。

それは当然と言えば当然である。

またそのような明らかな神演出(八百長)は神聖なプロ野球を穢す行為ともなるだろう。

それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の回復に対する「敵対感覚〈原罪〉」を形成しそれに異議を唱えるものを逆に「敵対感覚(Holy Communion)」と名付ける。

イマーゴ(真善美の回復)に敵対する「敵対感覚〈原罪〉」は他者を貶めるだけで誰一人救済しないのだ。

彼らは「特殊詐欺」を競っているだけなのだ。

ノーベル賞は「贋作」であり特殊詐欺であった!

宮崎駿のルパン三世は「贋作」を嫌い「本物」しか盗まない。

特殊詐欺の神演出は愚民政策(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の八百長だったのだ。

要は死の商人(武器商人)であるダイナマイト製造会社がその正体でしかなくその化けの皮が剥がれているだけなのだ。

品性が知れたノーベル賞!

詐欺で受賞のノーベル受賞者!

双方とも「世界市民」を欺く「極悪人」である!

これはアインシュタインの「聖戦」だったのだ!

荒廃し堕落した「科学(カルト)」が現代であるのだ!

量子力学は「カルト(敵対感覚〈原罪〉)」であり「学(科学的思考)」ではない。

「カルト(敵対感覚〈原罪〉)」は「学(科学的思考)」に敵対するだけの劣等である。

「学(科学的思考)」に「敵対感覚〈原罪〉」として「カルト(敵対感覚〈原罪〉)」であるのだからそれがインチキであったのは当然のことだった。

「特殊詐欺」で大衆を愚民政策により騙し抜くこと「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)へ敵対する権威付けシステム」の在り方がここに示されている。

「神の数式」の「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」について

「数式」と「思考実験」と「超感覚(一方的自由の陰険)による実証」という在り方は典型的な「特殊詐欺」である可能性が高い。

理科学研究所の面々の「理知面」の正体は実は「特殊詐欺師」の「猿知恵面」であるように私には見える。

「神の数式」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)へ敵対する権威付けシステム」としてあったのだ。

それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対して「数学者(物理学者)」を「超感覚(一方的自由の陰険)」とした在り方(スーパーエリート)に過ぎない。

「受験生(スーパーエリートの卵)」を超感覚(一方的自由の陰険)とした「スーパーエリートの在り方」を選択した「碇シンジくん」が主人公として活躍した「シン・エヴァンゲリオン」は日本アカデミー賞を受賞した。

もし「碇シンジくん」がその超感覚(一方的自由の陰険)で「数学者(物理学者)」をスーパーエリートとして選択していたら「シン・エヴァンゲリオン」の「終焉」はまた違った非常に滑稽な様子に変わっていたと想像できる。

それは完全に出来の悪いギャグアニメとなっていただろう。

出来の悪いギャグアニメとは醜悪なだけであるのだ。

一見爽やかに終焉したと見えるがそれはイラストレーションの画力(レトリック)に過ぎないだろう。

何故ならば内容は何だったのだろうかと疑問しか起こらないからだ。

「敵対感覚〈原罪〉」だけで制作した大長編アニメ映画が結局その内容が空っぽであることが判明し最後はイラストレーション(画力)で爽やかに終焉した。

映画監督の才能がないと言えば才能がない話で終わる。

しかし何故か庵野秀明は高評価されている。

この高評価は完全に「特殊詐欺」で大衆を愚民政策により騙し抜くこと「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)へ敵対する権威付けシステム」に過ぎないだろう。

大人 将来何になりたい?

子供 スーパーエリート!(数学者(物理学者)!又は受験生(スーパーエリートの卵)!)

それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を完全否定する「敵対感覚〈原罪〉」を持った「虚飾の学問(カルト)」であったのだ!

一言で評すれば「特殊詐欺専門学校」である。

「特殊詐欺専門家」が「特殊詐欺」で荒稼ぎするのである。

何故「専門学校」であるかと言えば一般に「大学」には「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」があると言われているからです。

それならば「特殊詐欺犯罪学(Holy Communion)」を専攻する「大学」の「学者(Holy Communion)」となるべきだろう。

しかし残念なことにそれは「大学」のイマーゴ(真善美の回復)であって「実際の大学(特殊詐欺専門学校)」にはそのような「崇高は学者(Holy Communion)」はほとんど存在しない。

「特殊詐欺」の片棒を担ぐ存在が「大学存在(特殊詐欺専門学校)」である場合が多々見られる。

テレビタレントのような「職業教授(特殊詐欺専門家)」が「学者」と言われている。

「量子コンピューターの研究」に関しても東京大学の発表は多分インチキだろう。

「特殊詐欺専門学校(東京大学)」の「特殊詐欺専門家」が「特殊詐欺」で荒稼ぎしているのである。

目を覆いたくなる程の「学問の荒廃と堕落の惨状」であり、それが「世界の学問(Holy Communion)」を蝕んでいるのだ。

その主犯は「スーパーエリート(カトリックロゴス感覚(Holy Communion)へ敵対する権威付けシステム)」であるのだ!

最高悪崇拝だ!

悪魔主義(Holy Communion)と悪魔崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)は決定的に違っている。

それは悪魔主義にはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の回復へ向かうカタルシスがあるからだ。

悪魔主義はイマーゴ(真善美の回復)を信仰しているのだ!

それが「エドガー・アラン・ポー」と「ジークムント・フロイト」の共通点である。

先程「手袋決闘」に関して登場した萩尾望都先生の「ポーの一族」は「エドガー・アラン・ポーの名前」に因んで「エドガー」と「アラン」、「ポー」という人物名が登場している。

それは作家の「エドガー・アラン・ポー」を示しているのだ。

※日本の大学は専門学校から大学に名称変更しただけである。

私大は全くそうであり、特に東京大学などの国立大学は元々官僚養成機関であり学問(科学的思考)の場ではないのだ。

よってその根本的在り方は特殊詐欺(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であることを示している。

例えばSF(マンガ)を実証するという荒唐無稽な研究が行われ実際にノーベル賞を受賞している。

それはSF(マンガ)を「論証」又は「実証」することにおいてそれをSF(マンガ)により行うことを意味している。

これは「トートロジーと循環論証」による「虚偽論理の在り方」である。

日本で有名な「スーパーカミオカンデ」の「観測装置」は「観測」というより「超感覚(一方的自由の陰険)」を生み出す「SF(マンガ)」となっている。

巨大な地下空間に観測装置を建造したと吹聴しているが実際は「観測」ではなく「SF(マンガ)」によって可能になる「センサー」であった。

「観測」と「センサー」の違いが大きい理由を明確に示す必要があるだろう。

簡単に言えば「観測」は自然の変化の測定であり、「センサー」は知ろうとする対象の情報を扱うことのできる信号に変換する素子とある。

よってスーパーカミオカンデは「観測」ではなく「センサー」といえます。

ここを巧みに突いた特殊詐欺がカミオカンデ詐欺事件だろうと思います。

センサー(超感覚(一方的自由の陰険))が察知したと言い張ればいいだけであるのです。

そこには観測(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))が全く存在していない。

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対して敵対する「敵対感覚〈原罪〉」としての荒唐無稽な「SF(マンガ)」があるだけなのです。

あなたたちは売れない小説家にでもなってください。

萩尾望都「マンガのあなた*SFのわたし」

手塚治虫と萩尾望都の対談である。
しかし私はここに違和感を覚える。
手塚治虫は男性キャラクターと女性キャラクターの違いをことさら論うが「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の在り方というカトリックロゴス感覚(Holy Communion)について全く触れないのだ。
「SF(仮説)」は舞台設定であってそれが一般の公立高校を舞台にしていても一般の公立中学校を舞台にしていても宇宙空間を舞台にしていても同じなのだ。
萩尾望都先生の「ポーの一族」も「11人いる!」も「トーマの心臓」も舞台は「SF(仮説)」と言えるだろう。
しかし作品は「SF(マンガ)」ではない。
それは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の演劇(芸術作品)なのである。
SF(仮説)は信仰から形成されるオリジナルであり、残りはただのマンガということなのです。
例えば萩尾望都がSF(仮説)なら庵野秀明はSF(マンガ)です。
そしてマンガとはコミックマーケットであり悪徳商法です。
コミックマーケットは狭義には晴海で行われる同人誌即売会ですが広義にはマンガ産業を指します。
そしてマンガ産業は低俗であるのです。
信仰があるものは「至高の抽象化の高み」に至り芸術とされます。
信仰からオリジナルを形成するとはそのようなことを示しています。
ジャンル分けとは萩尾望都に言わせれば「SF(仮説)」か「SF(マンガ)」のどちらかなのです。
私見ですが秋田書店の「マンガ」は「SF(仮説)」と言えるのではないでしょうか?
ジャンプやマガジン、サンデーと違ってチャンピオンは信仰から形成されたオリジナル作品が多いと感じます。
例えば「小山田いく」の作品はとても好きでしたし手塚治虫先生の作品も多く出版されています。
私は以前契約社員をしていてJR飯田橋駅に通勤していました。
そこから数分九段下駅の方に歩いて行った通り道にあったビルが秋田書店でした。
契約社員が終了した数年後に国立国会図書館へ向かう途中に立ち寄ってみました。
秋田書店のエントランスまでは入れましたよ。
展示物などないか受付の女性の方に聞いてみましたがないと言われました。
好きだったSF(仮説)の出版社を訪れることができたことは思い出になりました。
毎年夏休みになると母の実家である新潟の家に行きました。
年上の従兄弟が「小山田いく」のマンガを持っていて私はいつも借りて読んでいました。
懐かしい思い出です。
最近メルカリで何冊か「小山田いく」のSF(仮説)を購入してみました。
ただやはり印象深いのは「スクラップブック」と「星のローカス」です。
あと「ぶるうピーター」ですね。
「ぶるうピーター」のシーンでは愛する人の前でスカートを履いているシーンが印象深いです。
何故かと言えば普段はズボンしか履かないヒロインが愛する男の前だけスカートを履くのです。
学校では女学生は皆スカートを履いていたので最初はピンときませんでした。
これはスカートが「セックスシンボル」とされていることを示しています。
小学生でもスカートの女生徒は多く、中学校と高校の女学生はスカートが制服でした。
専門学校と大学はどうだったかな?
会社ではスカートを履いてくると露骨にセクシャルハラスメントをする男性社員がいるので危険みたいでした。
女性社員は注意しているようでした。
「純愛」と「セクシャルハラスメント」は対立概念です。
しかし「ぶるうピーター」のスカートのシーンはよく出来ていました。
それは「純愛」を表現するシーンです。
スカートをセックスシンボルではなく「女性として相手を愛すること」のメッセージとして使用していました。
普段スカートを絶対に履かないヒロインは硬派な女性であり「セックスシンボル」には決してならないことを示しています。
しかし通じた男性に対しては女性として愛することを示すためにスカートを履くのです。
これはセックスシンボルを否定した愛の表現であり純愛信仰だと言えます。
ここで織田信長がお市の方から小豆を送られて危機を脱した逸話を思い出します。
これは「スカート」が「小豆」となっているところがポイントです。
スカートも小豆も「セックスシンボル」であるけれどもそれを否定した愛の表現は純愛信仰なのです。
織田信長に対してお市の方は「貴方を女性として愛する」とメッセージを送ったのです。
それによって織田信長は浅井長政の裏切りを理解したのです。
「ロコモーション」に関しては小学生が登場人物で印象深かった。
それも「純愛信仰」がテーマだったと思います。

もくしぶんがく【黙示文学】
apocalyptic literature
前 200年頃~200年頃にユダヤ・キリスト教文化圏で書かれた一連の宗教的文学ジャンルの総称。未来の出来事,特にこの世の終末のときのありさまについての秘密の知識を超人間的な手段で知り,これを象徴によって人々に語り,最後まで忠実である人々を神が劇的に救済するという匿名の(ときに高名な預言者の名を借りた)書物が中心。宗教的圧迫や政治的苦難を社会的背景として生れ,民衆の間に広がった。また⇨エッセネ派や原始キリスト教に深い影響を与えた。聖書正典としては旧約の『ダニエル書』,新約の『ヨハネの黙示録』が代表的。その他聖書,外典を問わずこの文学に属する文書または断片は少くない。これらの文学の解釈をめぐっては,未来を預言するとするもの,荒唐無稽とするものなどさまざまな立場がある。 19世紀以来この種の文学が復活し,現代の SFにもこの傾向がみられる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

もくし‐ぶんがく【黙示文学】
(Apocalyptic Literature)終末時の神的秘密を象徴・幻などによって啓示する文書。前2世紀~後2世紀のユダヤ教・キリスト教に多く、新約聖書のヨハネ黙示録や旧約聖書のダニエル書がその典型。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ダニエルしょ【ダニエル書】
Book of Daniel
旧約聖書中の一書(一部アラム語)。ヘブライ語の旧約正典では諸書,近代語訳では預言書のうちに入れられている。内容はネブカドネザルによって捕囚の身となったユダヤの青年貴族ダニエルについての伝承とダニエルに与えられた幻の記録。第1部(1~6章)は三人称で語られ,その中心である6つのエピソード(ダニエルによる王の夢や謎の解明,ダニエルや若者に起きた奇跡)はイスラエルの神の知恵と力,イスラエルの民の不屈の信仰と知恵を示すものであり,第2部(7~12章)は一人称で語られ,ダニエルの見た幻はペルシア時代からアンチオコス・エピファネスの時代にわたる国家,権力者の闘争,ユダヤ人の苦難,そして神にそむく者たちの没落,メシア時代の到来,世界審判,神によって聖徒に与えられる永遠の国を黙示している。成立年代は前6世紀にダニエルがバビロンで書いたとされていたが,現在は前2世紀アンチオコス・エピファネスの迫害時にダニエルの名をかりて書かれたとする説が有力。ローマ・カトリックの旧約聖書では,ユダヤ教やプロテスタントでは聖書外典とされる『⇨アザリヤの祈りと三童の歌』,⇨スザンナ,⇨ベルと竜がダニエル書に含まれる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ダニエル‐しょ【ダニエル書・但似耳書】
旧約聖書中、黙示文学を代表する一書。預言者ダニエルの著と伝える。紀元前180~165年の頃に成り、律法の尊重と終末時における死者の復活・審判とを説く。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ダニエルしょへのついか【ダニエル書への追加】
The Rest of Daniel
旧約聖書外典の一つ。ギリシア語訳セプトゥアギンタに入っているが,ヘブライ語原典にはない『ダニエル書』の付加部分。「⇨アザリヤの祈りと三童の歌」「⇨スザンナ」「⇨ベルと竜」の3部から成る。おそらく前2~1世紀頃成立したもの。ダニエルを主人公とする物語であるが,それぞれ独立している。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ヨハネのもくしろく【ヨハネの黙示録】
Apokalypsis Iōannou; The Revelation of John
新約聖書最後の書。 Apokalypsis(黙示)は啓示と同義。内容はヨハネに伝えられたイエス・キリストの啓示としての幻視を中核とする物語で,ヨハネから小アジアの7つの教会へあてられている。ヨハネはローマ帝国の迫害にさらされているキリスト教会に対し,さまざまなイメージを伝えつつ,バビロン(ローマ)の陥落,キリストの再臨,キリスト教会の最後的な勝利即キリストの 1000年の支配,サタンの決定的な敗北,最後の審判,新しい天と地との出現を預言し,希望を固くし苦しみを克服するように説いている。「主イエスよ,来りませ」という結びの言葉にはアルファであり,オメガである輝く明けの明星としてのイエス・キリストの再臨への希望が強く表明されている。著者ははっきりわかっていない。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
パトモス島で『ヨハネの黙示録』を書くヨハネ(部分,14世紀絵画,シュテーデル美術研究所蔵)

松本零士の作品は宇宙を舞台にしていますが主役は人間(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))です。

勘違いした馬鹿な科学者!

トチローが死ぬ前にあなた達(機械伯爵)を仕留めます!
※劇場版銀河鉄道999においてトチローは宇宙病にて死す。星野鉄郎はトチローの意思を継ぎ機械伯爵を仕留める。

この場面は織田信長が末法思想(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を崇拝する一向宗徒の頭蓋を破壊した聖戦を想起させる。

カミオカンデ
KAMIOKANDE
岐阜県飛騨市神岡町の神岡鉱山の地下 1000mに設置された素粒子物理研究のための観測装置。カミオカンデは神岡陽子崩壊実験 Kamioka nucleon decay experimentの略称だったが,その後改称して神岡ニュートリノ検出実験 Kamioka neutrino detection experimentの略称となった。素粒子物理の実験家である⇨小柴昌俊が 1979年に提唱,1983年に完成した。円筒形のタンクに満たした 3000tの純水中を高速の電荷をもった素粒子が通過するときに発する光(チェレンコフ光)を,タンクの壁に取り付けた直径約 50cmの光電子増倍管で捕え,そのデータから素粒子の軌道やエネルギーを決定する。当初はすべての力を統一しようという素粒子の⇨大統一理論から予測される陽子崩壊現象を検出するのが目的だった。太陽など恒星内部の核反応から発生する⇨ニュートリノを検出できる能力もあったため,1987年2月大マゼラン星雲で起こった超新星爆発(→超新星 1987A)で発生したニュートリノを 11個検出するのに成功,この業績で小柴は 2002年のノーベル物理学賞を受賞した。さらに太陽ニュートリノ観測にも貢献,ニュートリノ天文学創始のきっかけとして,また加速器を使わない素粒子物理実験の代表として画期的な実験装置である。 1996年4月には規模を5万tに拡大した次世代装置⇨スーパーカミオカンデによる観測が始まった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

かんそく【観測】
observation
⇨観察し⇨測定すること。天体観測,野外観測など通常は自然の対象についての観測をいう。これに対し対象を制御された条件下において測定することを⇨実験という。なお,慣用的には量子力学的体系の測定における原理的な問題を観測の理論と呼んでいる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

かん‐そく【観測】 クワン‥
①自然現象の推移・変化を観察・測定すること。天文学・気象学などの用語。「天体—」
②様子を見て、事の成行きを推し量ること。「希望的—」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

かんそくのりろん【観測の理論】
theory of measurement
古典物理学における測定は測定による影響を原理的にいくらでも小さくすることができるのに対して,量子力学における測定は,観測の行為そのものによって生じる影響を本質的に含んでしまう。量子力学の論理自体にかかわる観測の問題は,その初期からあらゆる物理学者を巻き込み,現在でも完全な解決は得られていない。正しくないとされているが,最も古典的な N.ボーアの考え方は,微視的対象である被測定量と巨視的物体である測定装置の間に制御不可能な相互作用が働いて結局は測定が実現できるとするものである。 J.D.フォン・ノイマン,E.シュレーディンガー,E.P.ウィグナーなどが,それぞれ観測の理論を提唱しているが,いずれも一長一短で万人を納得させるものはない。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

センサ
sensor
知ろうとする対象の情報を,扱うことのできる信号に変換する素子。具体的には物理量を計測する場合に,その物理量を測定に適した信号に変換する器具の一般名称をいう。人間が視覚,聴覚などによって得られた情報に基づいて行動するように,機械は,機械の感覚器であるセンサにより情報を収集し,収集した物理量を測定可能の信号に変換し,処理を行う。最近の自動機械には,多種類のセンサが用いられている。変換する物理量により,寸法センサ,変位センサ,力センサ,速度センサ,流量センサ,温度センサ,光センサなどに分類される。センサに要求される条件は,高感度,広域動作範囲,目的以外の量に影響されないこと,高速応答,安定な動作,堅固な構造,低価格などである。日常の生活の中で測定の必要度の高い物理量のセンサとしては,温度センサ,光センサ,圧力センサ,ガス,溶液などの組成を調べる化学センサ,磁気センサなどがある。構成する材料の面からセンサを分類すると,物理量の変化による半導体素子の性質の変化を用いる半導体センサ,生体物質を用いるバイオセンサとして,酵素センサ,微生物センサ,免疫センサなどがある。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

センサー【sensor】
温度・圧力・流量・光・磁気などの物理量やそれらの変化量を検出する素子、または装置。さらに検出量を適切な信号に変換して計測系に入力する装置を指す場合もある。検知器。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

sensor (sen′sŏr).〓
センサー(温度,光,磁気,運動などの物理的刺激に反応し,インパルスを認識,記録,運動,制御などに伝える装置.⇀sense).
→neuromorphic sensor

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

日本の大学に「学問の歴史」はほとんど存在しない。

歴史が短い上にその歴史の大半はカルト教団として存在しているからだ。

そしてその発祥も学問というより特殊詐欺(官僚養成機関)として存在したと考えられる。

何故ならば「学問(科学的思考)」ではなくそのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)へ敵対する権威付けシステムとして創設されたカルト教団であったからだ。

日本の大学(特殊詐欺専門学校)は「学問(科学的思考)」を完全否定する「敵対感覚〈原罪〉」で形成されたカルト教団に過ぎない。

「官僚」とは「学者」ではなく「国家に奉仕する特殊詐欺専門家」にすぎない。
故安倍晋三の祖父岸信介がその代表格と言えるだろう。

岸信介は「官僚(特殊詐欺専門家)」であった。

そして岸信介は「学問(科学的思考)」を専攻する「学者(Holy Communion)」へ「敵対感覚〈原罪〉」を持った日本カルト教団(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の教祖であった。

岸信介が「統一教会」の文鮮明と繋がりが強いことは「TBS報道特集」にある通りだろう。

岸信介は東京大学出身の官僚であり特殊詐欺専門家であることは周知の事実である。

日本の国立大学(特殊詐欺専門学校)には「真の大学(Holy Communion)」は存在していないのだ。

少なくとも「国立大学」こそが「特殊詐欺専門学校レベル」である。

何故ならばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)により特殊詐欺犯罪学(Holy Communion)を専攻することが大学成立の第一条件となるからだ。

特殊詐欺のカルト教団(科学・医療)の存在に蝕まれる日本の現実に生きなければならない無辜の人々にメシアの再来が今待望されている。

「最高善の神の医者(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」と「人の医者(カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム)」は「ヒポクラテス信仰」と「カルト」の違いとなる。

萩尾望都先生はイマーゴ(真善美の回復)としてカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を持つ作品を制作される。

それは患者(読者)の治療の目的がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)から受肉するイマーゴ(真善美の回復)の治癒であることを示している。

「魂の浄化(Holy Communion)」と「魂を穢す(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の認識が治療には必要なのだ。

そしてそのような作品を「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」という。

一方で「カルト」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に敵対することでイマーゴ(真善美の回復)を完全否定する存在となる。

そこにあるのはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」でありそれは「カルト療法」として存在している。

アートとサイエンス

art¹ /áːrt/
―n
1a 芸術,美術《絵画・彫刻・建築;広義では文学・音楽も含める》〓
b 《新聞・雑誌などの》図版,さしえ,イラスト;《俗》 手配写真;《俗》 ピンナップ写真.
2a 《特殊な》技術,技芸,芸;技能職〓
b 人工 (opp. nature),技巧,わざとらしさ,作為;熟練,腕,術,わざ;[ᴼpl] 術策,奸策,手管〓
3 [pl] 学問の科目,《大学の》教養科目,一般教育科目《中世では文法・論理学・修辞学・数学・音楽・天文学;現代では語学・文学・哲学・歴史・論理・科学など;⇒LIBERAL ARTS》;[pl] 《古》 学芸 (learning)〓
―a 芸術品[芸術家]の(ための);芸術的手法で作られた.
―vt 芸術的に見せる,芸術風にする〈up〉.
[OF<L art― ars; ‘put together, join, fit’ の意から]

『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

アート
⇨サイエンス

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

サイエンス
[英] science
[同義語] 【科学】
日本語に訳すと科学であるが,サイエンスと表記される場合は自然科学を意味することが多い。また,医療の本質を巡る議論においては,アート(art:芸術・技術)と対比させて医療における自然科学的知識の体系を指す。
(271007)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

ヒポクラテスの誓い

「私は,医神Apollo,Asclepius,Hygeia,Panaceia,そしてすべての神と女神の名に懸けて,そして,これらの神,女神を証人として,この誓いと約束を果たすことを,私の能力と判断によって誓う.私に医学技術を教えてくれる人を両親と同様にみなす.私の人生,そして必要ならば,私の食料もその先生に分け与える.先生の子供たちは私の兄弟とみなし,彼らに医学技術を教える.医学知識は,書いて,口頭で,あるいは実習で,私の息子たちや私の先生の息子たちに教える.同様に,私たちの職業の規範に従い,他の何者にも従わずに,誓約書に署名し,誓いを宣言したすべての医学生に教える.私は,私の能力と判断に従って,病人の利益のために治療手段を施す.危害を加えたり犯罪を犯したりはしない.私は,誰に対しても,求めに応じて死をもたらす薬を与えたりはしない.また,その使用を勧めたりはしない.同様に,女性に堕胎をさせる薬を与えない.私は純粋な,神聖な生活をし,医療技術を磨く.私は,結石による病気であっても手術はしないが,それに従事する人を妨げたりはしない.私が訪ねる家はどこも,私は病人の利益のためだけに訪れ,意図的な悪行や姦通はしない.特に,男性でも女性でも,自由人でも奴隷でも,性的に親密な関係を結ぶことはない.私は,職業によるものであってもなくても,私が見たり聞いたりした,人々の個人的な生活に関する私的な性質について一切漏らすことはしない.なぜなら,私はそうした情報を暴露することの恥を理解しているからだ.もし,私がこの誓いを実行し破らなければ,私は人生と職業の実践に満足し,人々の間で永遠の栄誉に浴するだろう.もし,私がこの誓いを破り,偽りの誓いをしたら,私のすべては反対になるだろう」

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

イマーゴ(真善美の回復)

imago, pl. imagines (i‐mā′gō, i‐maj′i‐nēz)〓
[L. image].
1 成虫(昆虫の変態の最終段階で,卵,幼虫,さなぎを経た後に完成される.成虫体).
2 =archetype (2).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

カルト

cult (kŭlt)〓
[L. cultus, an honoring, adoration].祭儀,礼拝形式,祈祷療法(教義または宗教的な教えに基づく体系化された信仰および儀式.従順な献身的な信者,指導者の非現実的な理想化,個人的な欲望や目的の放棄および伝統的な社会価値観の排除などの特徴がある).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

何故ならば「敵対(バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」を超感覚(一方的自由の陰険)とする「思想」が「カルト」の正体だからだ。
※「バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」とは「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」である。

それは「錬金術(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を想起させる。

「敵対感覚(バベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))」で「純金」を「錬成」することは「非科学的(カルト)」を示している。

「鋼の錬金術師」はコミックの世界だけなのです。

「トーマの心臓(Holy Communion)」

しかし萩尾望都先生の「トーマの心臓(Holy Communion)」は現実に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」となった事実(聖なる白魔術)をここに示し書き残したいと思いました。

萩尾望都先生、ありがとう。

2023年2月14日初版第1刷発行

バレンタインデー
St. Valentine’s day
ローマ時代のキリスト教殉教者⇨ウァレンチヌスの祝日。2月 14日がこれにあたり,この日には友人や恋人の間でカードを交換したり,贈物をする習慣がある。この習慣は古代ローマの豊穰祈願祭ルペルカリアと関連があると思われるが,ウァレンチヌスとは元来無関係であった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

Val・en・tine [vǽləntàin]〓
―n.
1 ウァレンティヌス,バレンタイン:Saint,(?―c270);ローマのキリスト教殉教者;祝日は2月14日.
2 (また Valentinus)ウァレンティヌス,バレンタイン:ローマ教皇(827).
3 ウァレンティヌス,バレンタイン:男子の名(▶ラテン語で“strong”の意).

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

val・en・tine [vǽləntàin]〓
―n.
1 バレンタインの贈り物:Valentine Day に時に匿名で異性に送られるカード,通信文または贈り物;通例,通信文は恋文であるが,時に風刺的なものやこっけいなものなどもある.
2 1を贈る相手[恋人].
3 (物・人に対する)愛情を表した文章[芸術作品,記念の品]:〓
4 ⦅通例 V―⦆ 恋歌(love song).
[1450年以前. 中期英語,Saint VALENTINE の祭りにちなむ]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

St ˈValentine’s Day /ˌsnt ˈvæləntaɪnz deɪ; NAmE ˌseɪnt/
noun
the day (14 February), when people send a card to the person that they love, often without signing their name on it

『Oxford Advanced Learner’s Dictionary, Eighth Edition』 Oxford University Press

萩尾望都タロット 月 18 THE MOON

洗礼者ヨハネとイエスに降る神の霊

キリスト教美術資料
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」

新約聖書 ヨハネの福音書

ことばは、神であった。

天から降ったパン

はじめに、ことばがいた。
ことばは、神のもとにいた。

パンの講話

天から彼らにパンを与えて食べさせた。

別れそして永遠に

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