我が「トーマの心臓」譚(連載No.13)-純愛信仰と信仰弾圧の中で起きた『殉教』(朝日新聞篇)
朝日新聞の紙面にカトリックメッセージは存在するだろうか?
実名報道とカトリックロゴス感覚のメッセージの違いとは?
実名報道は非常に解りやすい手法である。
何らかの事件性が存在することを明確に示す手法であるからだ。
これはハト派的良識(社会正義)と言えるものであるだろう。
朝日新聞の実名報道はハト派的良識(社会正義)を示している。
では毎日新聞のカトリックメッセージとは何だろうか?
それはデマゴーグと報道のあり方に関わっている。
明確に報道できない内容をメッセージとして伝えることを意味しているかもしれない。
ただデマゴーグは「知の鵜呑み(doxaによるレイシズム)」を命じる。
しかし報道は「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」を至上とする。
そしてそのようなカトリックメッセージは「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」から受肉する。
朝日新聞の実名報道は明確なハト派的良識(社会正義)であるが「知の鵜呑み(doxaによるレイシズム)」でもあるだろう。
ただこの実名報道はデマゴーグではない。
「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」としての真理とも言えるものです。
しかし記事の情報内容とその内容の表現力の問題が出てくる。
毎日新聞の記事には「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」から成立するカトリックメッセージが存在する。
これはかなり高度なマスコミ技術であろう。
では朝日新聞のマスコミ技術はどうだろうか?
そのあり方を検証していきたい。
ちば版の分析
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毎日新聞の記事は事実関係を正確に記述するスタイルであるでしょう。
それはステディーな記事と言える。
それだけ見ると正確なだけで何の面白みもない。
しかし毎日新聞は紙面において信仰を至上としている。
だからそのステディーな記事だけではなく信仰を意識することによって紙面から発せられるメッセージが伝わってくる。
それがカトリックロゴス感覚のメッセージとコミュニケーションでありマス・コミュニケーションである。
何故ならば「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」であるからです。
カトリック信徒の原敬はこのような信仰の紙面を創ったのだろうと思います。
それが毎日新聞が信仰の新聞社である所以だと思います。
朝日新聞の紙面全体を見渡してみて感じることは「信仰」の欠落感であるでしょう。
しかしハト派の良識(社会正義)を主張している。
そこにある欠陥は「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」による報道感覚の欠落であるでしょう。
しかし朝日新聞のハト派的良識(社会正義)は際立っていると言えるでしょう。
それは信用に値するか?
それは信用に値しないか?
それはハト派的良識感覚(社会正義)であり一見ではカトリックロゴス感覚に近似的なものと見える。
しかしそれはカトリックメッセージとは言えないだろう。
それが「実名報道」に表れている。
それはハト派的良識感覚(社会正義)ではあるでしょう。
しかしそこに信仰を至上とする視点の欠落があり、決してカトリックロゴス感覚を至上とする新聞社とは言い難い。
ハト派的良識感覚はエリート意識としてあり、一方でカトリックロゴス感覚は信仰者のイクトゥスとしてある。
これは大きな違いとなるでしょう。
ハト派的良識感覚(社会正義)のエリートと信仰者のカトリックロゴス感覚は対立概念となるのです。
最高善の神の選民はカトリックロゴス感覚を持つ信仰者であり、ハト派的良識感覚(社会正義)は人間社会の選民とされるからです。
何がエリート(選民)であるか?
朝日新聞は知識人エリートの新聞社とされた。
一方で毎日新聞はイデオロギーに拘ったイデオローグの新聞社とされた。
ここに逆転が起こってしまったのです。
「崇拝」と「信仰」がイデオロギーに関して逆転をしてしまったのです。
崇拝は「知の鵜吞み(doxaによるレイシズム)」であり「拘り」として形成されます。
カルトはこのような状態を指します。
それは「必死」と言える状態と言えます。
狂信的カルトは文字通り死へ誘います。
信仰は「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」であり「バプテスマ」です。
バプテスマはカトリックロゴス感覚を受肉します。
それは「カタルシス」とも言えます。
このように「浄化された場所」に最高善の導きが受肉するからです。
イデオロギーは崇拝であるか?
イデオロギーは信仰であるか?
毎日新聞はイデオロギー新聞として攻撃されました。
それが毎日新聞に起こった経営危機の正体です。
これは信仰弾圧の在り方であり「赤狩り」として毎日新聞は謀殺されました。
信仰弾圧の在り方としてそのようなイデオロギー批判が行われたのです。
これが日本に起こった「バビロン捕囚」だったのです。
先ほども指摘しましたが毎日新聞のイデオロギーは信仰(純愛信仰)であります。
それは「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」である。
そのイデオロギー(純愛信仰)が徹底的に信仰弾圧されることで毎日新聞は凋落していきました。
それはTBS(東京放送)の凋落とほぼ同じ在り方だろうと思います。
しかしそのような信仰弾圧のローカスは悲劇ではありますが奇跡を起こす「殉教」と見做されるでしょう。
それが現在の毎日新聞社系の在り方なのです。
一方で朝日新聞は知識人エリートと見做されるようになりました。
それは朝日新聞が毎日新聞と違って信仰の新聞社ではなかったからでしょう。
「天声人語」はカトリックロゴス感覚だろうか?
「天声人語」はハト派的良識(社会正義)だろうか?
単に人の世のエリートの言葉を聞けと言うなら「知の鵜呑み(doxaによるレイシズム)」でしょう。
また「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」を命じるならそれはメシアの言葉であり最高善の神の選民への導きとなります。
最高善の神の選民であるか?
人の世のエリートであるか?
これは毎日新聞紙面のカトリックロゴス感覚の至上性と朝日新聞紙面のハト派的良識感覚(社会正義)の至上性の違いと言える。
ただ「知の鵜呑み(doxaによるレイシズム)」がハト派的良識(社会正義)であり「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」がカトリックロゴス感覚という構図は非常に危険である。
ハト派的良識(社会正義)は崇拝関係(カルト)となり、カトリックメッセージはカトリックロゴス感覚の純愛信仰となるからである。
それが朝日新聞崇拝と毎日新聞信仰の違いとなっていくだろう。
朝日新聞は危険なカルトとなってしまうかもしれない。
ただ朝日新聞には夏目漱石が居たという事実が大きいだろう。
夏目漱石の「則天去私」はカトリックロゴス感覚であると言えます。
「天声人語」は「則天去私」でしょうか?
もしそうなら最高善の神の王国への導きとなるでしょう。
これは夏目漱石信仰と原敬信仰という形になるかもしれない。
しかし夏目漱石は朝日新聞の作家というより国民作家であるでしょう。
そして夏目漱石には東京大学のエリートという側面があります。
夏目漱石にカトリックロゴス感覚信仰(最高善の神の選民)を見るか東京帝国大学崇拝(人間社会のエリート)を見るかで人が知れてしまうでしょう。
何故ならば「夏目漱石」という固有名詞の存在は事後的なものでありヘーゲル的な在り方となります。
それはヘーゲルに言わせるとイエス・キリストも同様であり事後的にキリスト教が広まったことで証明された在り方の一つとされます。
しかしそれは崇拝関係の説明でしかありません。
カントは自らの内にある信仰を入れる場所を説きました。
それは事後的な崇拝の在り方ではなく信仰者の在り方です。
夏目漱石の文学は「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」により受肉した知性の存在でありそれはカントが言う理性の在り方と学者の在り方へ繋がっています。
ここに夏目漱石の見方が二つ存在しています。
「ヘーゲルの事後的崇拝関係」と「カントのバプテスマ的学者」の在り方です。
この両者の対立は東京大学崇拝(阿弥陀如来崇拝)と学問信仰(仏陀信仰)の聖戦となります。
それは一向宗徒と聖織田信長信仰の聖戦とも言えるでしょう。
「朝日新聞の夏目漱石信仰」にある二つの側面には「人間社会のエリート(阿弥陀如来崇拝)」という「躓きの石」があるのです。
ただ朝日新聞の記者が夏目漱石信仰を持って記事を書く事は美徳とされているように感じる。
その一方で毎日新聞の紙面は原敬信仰(カトリックロゴス感覚)を至上として書かれている。
仮に朝日新聞の記者に夏目漱石信仰があったとしても朝日新聞の「紙面」として夏目漱石信仰は至上とされないと言える。
何故ならば朝日新聞は「夏目漱石信仰」ではなく「ハト派的良識(社会正義)」を至上としているからである。
ただこれは微妙である。
朝日新聞の記者に夏目漱石信仰があり朝日新聞の紙面にも夏目漱石信仰はありえるかもしれない。
ただ毎日新聞の紙面は「原敬信仰」を至上とし、朝日新聞の紙面は「ハト派的良識(社会正義)」を至上としている。
朝日新聞にとって社員と言えども夏目漱石は一介の物書きに過ぎないのだ。
では朝日新聞のハト派的良識(社会正義)とは何だろうか?
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★実名報道
朝日新聞は実名報道をしている。
朝日新聞が実名報道をする理由はハト派的良識(社会正義)によっていると考えられる。
カトリックロゴス感覚の至上性ではなくハト派的良識(社会正義)となっている。
ただ人を純愛信仰で解さないことは信仰弾圧と見做される。
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朝日新聞の記事は実名報道されているということの重大性があるだろう。
そしてスクールバックの中身の関する記述が他の新聞社と明らかに違っていることに注目すべきだ!
朝日新聞は「裁縫道具や筆入れ」という事実を敢えて記載している。
しかし産経新聞は「文房具や教科書」という事実を記載している。
この全く趣の違う表現は何だろうか?
普通に考えて「裁縫道具や筆入れ」は「男女関係」にまつわる表現だと考えられる。
北原奈美さんの遺書に特定の異性に対するカトリックメッセージがあったのかもしれない。
それが闇に葬られたのかもしれない。
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ここには「性教育」において「男女関係」の言葉遣いをどうするかについて書かれた記事が掲載されている。
また小中学生を対象にしたコンクールの表彰の記事がある。
これは先程指摘した男女関係にまつわる表現としての「裁縫道具や筆入れ」のことを暗示しているのかもしれない。
この自殺事件の遺書は男女についてのことが書かれていたのではないだろうか!
それが純愛信仰にまつわる男女のあり方についての記述であったなら彼女の自殺は最愛信仰による「殉教」であった可能性があると私は感じる。
朝日新聞と私との関係
自殺事件の当時私は朝日新聞の愛読者でした。
両親が朝日新聞を購読していたからです。
何故両親が朝日新聞を購読するのか理由は聴いていません。
当時の代表的新聞は読売新聞と朝日新聞そして毎日新聞でした。
読売新聞と朝日新聞なら朝日新聞を選択する感じだったのだと思います。
そして毎日新聞に関して父親はいつもこのように語っていました。
「毎日新聞は左翼側に行き過ぎた!」と主張していました。
私は毎日新聞も読んでみたかったけれど両親は保守的でどうしても駄目でした。
仕方なく私は朝日新聞一筋となっていったのです。
ある時知り合いの家が新聞の勧誘を受け毎日新聞に変わったと言ってきました。
その人は毎日新聞内の人気新聞企画だった島田雅彦の「瞠目新聞」を私に勧めてきました。
何故ならば当時私は島田雅彦の小説を何冊か読んでいたからです。
そこでは文学イベントの予告が行われていました。
芥川賞受賞者の奥泉光などが登壇する予定でした。
私は芥川賞作家は読まないことが多く未だに奥泉光の作品も読んでいません。
しかしその時芥川賞受賞作品「ノヴァーリスの引用」が流行っていました。
私は興味を覚えて毎日新聞購読者ではないけれどハガキを送って応募しそのイベントに参加しました。
私は何も読まずふらっと出掛けて行きましたが隣りに座った男性が真面目に候補作の単行本を全て抱えていました。
反文学賞の候補作品を全て買って持っているようでした。
こいつは随分真面目なやつだと思って見ていました。
あの当時毎日新聞と縁があるとしたらそのイベントぐらいだったと思います。
しかし朝日新聞は長く購読していましたが特に何もなかったですね。
島田雅彦「瞠目新聞」の反文学賞イベント
1993年3月21日(日)東京池袋メトロポリタンプラザ
私は朝日新聞の愛読者でしたが知人の家が毎日新聞を購読したことでこのイベントにハガキを送って参加しました。
その数年後に近畿大学東京コミュニティーカレッジで開催される島田雅彦や奥泉光の講義を受けることになります。
当時柄谷行人先生は近畿大学に居られました。
関井光男らによって文学グループが形成され柄谷行人先生もそこに居られたのです。
当時柄谷行人先生は近畿大学国際人文科学研究所所長の肩書となっていました。
でも柄谷行人先生はすぐに辞めてしまったようです。
「NAM(ニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント」は失敗に終わりその後に柄谷行人先生の自宅近くで開催される「長池講義」が始まる時期でした。
ただそういった文学サークルが近畿大学内に存在し島田雅彦や奥泉光らは学生相手に講義をしていたのです。
私は近畿大学東京コミュニティカレッジ(四ツ谷)でしたがそこで講義を受けていました。
もちろん柄谷行人先生の講義も受けました。
島田雅彦は現在法政大学の教授をしているらしい。
奥泉光も現在近畿大学の教授をしているらしい。
彼らは反文学賞を謳っておきながら芥川賞の選考委員となり自身も様々な文学賞を受賞している。
彼らを詐欺師と言いたい人も多いだろうね。
このようにこの毎日新聞のイベント参加はその後の私のあり方にとって大きな影響を持つことになったのです。
※「神聖喜劇」で有名な大西巨人は生涯に渉って「文学賞」を拒否した作家として有名である。
つづく
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