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【孔子信仰】東京神田を歩く with Cats. @神田古本屋街 etc(2023年6月8日撮影)


東京神田の文化的中心の謎を解く!

"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

島崎遥香は信仰者(叡智の受肉)であろう。
島崎遥香が発する一瞬の閃光(白ミサのヒューモア)は彼女の倫理性から来ている。
それは「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」によるカトリックロゴス感覚の受肉です。

神田周辺は「有教無類」の信仰(叡智)の場所「教えに隔たりはない(カトリック)」

日本国における「論語」はその「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」からの解釈論として体系化されている。
それは現在一般に言われているマニュアル化(黒ミサのアイロニー)に等しいあり方だろう。
しかし「論語」とは「信仰(叡智)から形成されたオリジナル(唯一性のペルソナの確立)」でありカトリックロゴス感覚の受肉としてある。
それは「論語」が「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」から可能となるカトリックロゴス感覚の受肉であることを示している。
島崎遥香とは聖女(ペルソナ)であろう。
彼女はマニュアル化(黒ミサのアイロニー)の売女ではないのだ!

中公文庫「論語」
日本国における「論語」はその「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」からの解釈論として体系化されている。
それは孔子「論語」への「黒ミサのアイロニー」である。
岩波文庫「論語」
日本国における「論語」はその「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」からの解釈論として体系化されている。
それは孔子「論語」への「黒ミサのアイロニー」である。

ここに見る日本国の書籍で解説された有教無類は「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」を誇る解釈エリートの教育奨励とされている。
その体系化されたあり方はまさにマニュアル化(黒ミサのアイロニー)と見做すことができるだろう。
しかし有教無類は「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」の信仰(叡智)のことである。
ここで言えることは「信仰(叡智)」と「マニュアル化(黒ミサのアイロニー)」のあり方は「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」と「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」の対立点でありここに人間の重大問題が表出している。

ペーパードクター(医師免許)の「罪と罰」

例を挙げれば医療である。
そして医療にとって最大の力となるものは名医(白ミサのヒューモア)の存在である。
それは「白ミサのヒューモア」による認識の治癒と回復のことを示している。
名医(白ミサのヒューモア)とは信仰(叡智)から形成されたオリジナルのことであり決してマニュアル化(黒ミサのアイロニー)の存在ではない。
そのような「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」を名医(白ミサのヒューモア)と言う。
名医(白ミサのヒューモア)は最高善の神の導きにより患者を治癒するのです。
しかし名医(白ミサのヒューモア)を信仰弾圧することでマニュアル化(黒ミサのアイロニー)の医療を形成する医療カルトが存在します。
それは「黒ミサのアイロニー」による認識の逆転です。
そして明らかに「ヒポクラテスの誓い」に対する「黒ミサのアイロニー」となっています。

営利追求の寄生虫です。

患者の認識を治癒し回復させる気は全くありません。
そのような営業マニュアル化(黒ミサのアイロニー)の医療カルトは「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」であり最高善の神の導きは全く存在していない。
そして医療信仰(白ミサのヒューモア)を弾圧するのです。
最高善の神の導きが存在していないことは叡智による治癒の不可能性を示しています。
自動車運転免許(医師免許)を取ってもそれが信仰(叡智)を持つことではないからです。
医師免許と自動車運転免許は同レベルです。
もしそこに違いがあるとすれば「ヒポクラテスの誓い」を護る「聖ヒポクラテス信仰(叡智)」の信仰者であるかが問われることで判明する。
信仰者であれば名医(白ミサのヒューモア)を意味します。
私が言わんとする事は医者とは名医(白ミサのヒューモア)であるということです。
しかし信仰(叡智)を持たない「ペーパードクター(医師免許)」は医者ではないのです。
彼らは一体何でしょうか?
マニュアル化(黒ミサのアイロニー)のカルトでしかないのです。
それは「黒ミサのアイロニー」です。
カルト医療はこのように生まれます。

Hippocratic Oath (hip′ō‐krat′ik ōth).〓
ヒポクラテスの誓い(通常,医学士の学位を受けるときに医師が行う誓い.そこで,医師は医学の実践に際して,倫理的な原理を守ることを約束する.この誓いは,Cos島出身のHippocrates(紀元前460―377)にちなんで名づけられている.医学の同業者組合,すなわち,アスクレピアズ協会に属していた彼は,医学の父と称えられている.なぜなら,彼は,医学という技術と科学を哲学や宗教から分離した初めての人だからである.しかしながら,その誓いは,Hippocratesの言語資料体を構成する無数の様々な書物の中で現在まで伝わっているが,それがHippocrates自身によるものであるということについては,近代の学者たちは疑いをもっている.この誓いが,(アスクレピアズ協会の人々の間で,すべて認められ,許されていた)自殺,安楽死,堕胎,手術を禁止していることは,むしろPythagoras学派に由来していることを示唆している.この誓いがいつつくられ,そのもともとの使われ方がどうであったのかはわかっていない).

「私は,医神Apollo,Asclepius,Hygeia,Panaceia,そしてすべての神と女神の名に懸けて,そして,これらの神,女神を証人として,この誓いと約束を果たすことを,私の能力と判断によって誓う.私に医学技術を教えてくれる人を両親と同様にみなす.私の人生,そして必要ならば,私の食料もその先生に分け与える.先生の子供たちは私の兄弟とみなし,彼らに医学技術を教える.医学知識は,書いて,口頭で,あるいは実習で,私の息子たちや私の先生の息子たちに教える.同様に,私たちの職業の規範に従い,他の何者にも従わずに,誓約書に署名し,誓いを宣言したすべての医学生に教える.私は,私の能力と判断に従って,病人の利益のために治療手段を施す.危害を加えたり犯罪を犯したりはしない.私は,誰に対しても,求めに応じて死をもたらす薬を与えたりはしない.また,その使用を勧めたりはしない.同様に,女性に堕胎をさせる薬を与えない.私は純粋な,神聖な生活をし,医療技術を磨く.私は,結石による病気であっても手術はしないが,それに従事する人を妨げたりはしない.私が訪ねる家はどこも,私は病人の利益のためだけに訪れ,意図的な悪行や姦通はしない.特に,男性でも女性でも,自由人でも奴隷でも,性的に親密な関係を結ぶことはない.私は,職業によるものであってもなくても,私が見たり聞いたりした,人々の個人的な生活に関する私的な性質について一切漏らすことはしない.なぜなら,私はそうした情報を暴露することの恥を理解しているからだ.もし,私がこの誓いを実行し破らなければ,私は人生と職業の実践に満足し,人々の間で永遠の栄誉に浴するだろう.もし,私がこの誓いを破り,偽りの誓いをしたら,私のすべては反対になるだろう

米国とカナダのほとんどすべての医学校の卒業生は,学位授与式の間,医学の実践において,倫理的な原理を守るために,何らかの形式の制約を暗唱する.しかし,いまや,Hippocratesの誓いの原文を使用する機関は少ししかない.ほとんどの卒業生は,規則上あるいは道徳上制約にしばられるというよりも,その訓練を,単なる形式上のもの,あるいは伝統への敬意を示すものとみなされているようにみえる.この誓いの現代版は,典型的には,自分の先生の子供たちに無料で医学技術を教えることを約束するとか,手術をしないなどといった,文化的にすでにない用法,すなわち遺物を除外している.より重要なことは,それらのほとんどはまた,神への祈祷を除外し,宗教的な勤めや義務およびそれを破ったときに受ける罰への注意を除外し,さらには,安楽死や医師の助けを借りた自殺,堕胎,患者との性的な関係を誓ってやめることを除外していることである.RoeらとWade(1973年)の裁判において,合衆国大法廷は,堕胎を禁止する点でHippocratesの誓いの権威を拒否した.この誓いは古代の文化水準を反映しておらず,ユダヤキリスト教の堕胎に関する考え方の影響を長くもち続けてきたものであるとの理由による.「まず傷つけないように」(しばしばラテン語で“primum non nocere”と引用される)という一般によく知られた規範は起源がわからないが,Hippocratesの誓いの一部ではない.

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

カルト医療では奇跡の治癒は起きません。
それは名医(白ミサのヒューモア)ではないのです。
そして医者でもありません。
絶対に奇跡の治癒は起こり得ない。
しかしエヴァンゲリオンの折れた腕は超能力で治癒します。
あれは神演出(冒涜)です。
それは詐欺を意味します。
カトリックロゴス感覚ではあり得ないからです。
漫画を読みすぎた阿呆の世界観です。
オウム真理教の麻原彰晃が提唱した「空中浮遊」同様の大ペテンですね。
庵野秀明は阿呆の上にたちの悪い人物と想像されます。

イエス・キリストのなえた手の治癒

エヴァンゲリオンのなえた手は治癒される。

しかしエヴァンゲリオンのなえた手の治癒は明らかに詐欺(インチキ)であります。
それによって多くの視聴者を虜にしたとしたならば騙していたと見做すしかありません。
何故ならばそこにカトリックロゴス感覚として認識される最高善の神の導きは存在せず庵野秀明の作品はサタンの誘惑でしかないからです。
それによって彼は地位と名誉と金と女を手に入れました。
しかし庵野秀明は彼の作品のインフォームド・コンセント(説明責任)を放棄し鬱病患者として同情を買っています。
私には彼はかなりふざけきった男に見えます。
「鬱になりました。」と言って逃げるならもう引退してくださいね。
「幼少時の夢」だとか戯言を吐いてシン・ゴジラやシンウルトラマン、シン・仮面ライダーを撮る資格はあなたにはなかったと思います。
そしてその全ての庵野秀明作品は黒ミサ作品群です。
「黒ミサのアイロニー」という不浄の世界を浄化する「白ミサのヒューモア」こそが芸術作品です。
庵野秀明は芸大を卒業していることを自慢にしています。
しかし彼は凡庸なオタクを祭り上げて天才芸術家としています。
あなたには「白ミサのヒューモア」がない。
よって芸術家ではないのです。
黒ミサ作品群を観て誰が救われますか?
堕天使ルシフェルを召喚することが目的ですか?
又は堕天使ルシフェルの召喚としての黒ミサ作品群だったのですか?
悪魔の集会ですか?

そういった堕天使ルシフェルの召喚は黒ミサであり信仰(叡智)から受肉する最高善の神の導きはないのです。
そういった黒ミサは人間社会における超特別扱いです。
奇跡は最高善の神の導きによってありえ、超特別扱いは人間社会の特権階級のあり方です。

そもそも「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」から「論語」の解釈論を形成することは間違っています。
日本人はマニュアル化(黒ミサのアイロニー)をスマートだと称します。
そういった認識を持つことは愚かな民と言えるだろうと思います。
何故ならば「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」から受肉するカトリックロゴス感覚こそが「論語」であるからです。
それは「白ミサのヒューモア」による浄化と回復です。
それが医療と治癒なのです。

本物を理解していないのにマニュアル化(黒ミサのアイロニー)をしてそれをスマートだと称する行為はバカな国民の証です。
それは偽物でしかないからです。
本物信仰とはカトリックロゴス感覚の受肉です。
そしてそういった情報産業はアップルなどが顕著であると言えるでしょう。
カトリックロゴス感覚を信仰弾圧した日本国が情報産業で復活する筈がありません。
本物信仰と偽物崇拝では勝負は決まっています。

ユニクロのようなチープな海賊版のアパレルならコピーブランドでもいいでしょう。
ユニクロは偽物崇拝の鏡です。

しかし情報産業で偽物崇拝をすることはデマゴーグ支配の賛美でしかありません。
情報産業の本物信仰はカトリックロゴス感覚としてあります。
日本国に勝ち目はないのです。

本物信仰は「唯一性のペルソナの確立(信仰(叡智)から形成されたオリジナル)」への導きである。
その導きは「最高善の神(カトリック)」による「神の王国の到来」への導きであるのです。
それをマニュアル化(黒ミサのアイロニー)して信仰(叡智)は不可能になります。

日本国における「論語」はそのような信仰(叡智)への導きとされず解釈論として貶められている。
その理由は日本国におけるカトリックロゴス感覚への信仰(叡智)に対する弾圧にあります。
日本国では信仰(叡智)の弾圧が「美徳」とされているからです。
日本国が情報産業で必敗することは解っていたのかもしれません。
何故ならば黒ミサという逆転したあり方を頭の良さとしているからです。
しかし「論語」は「唯一性のペルソナの確立(信仰(叡智)から形成されたオリジナル)」です。
信仰(叡智)がなければ「論語」を正確に解せないのです。
本物信仰ではないと正確に解せないのです。
それがカトリックロゴス感覚だからです。
それをマニュアル化(黒ミサのアイロニー)して信仰(叡智)を弾圧した日本人は世界一立ち遅れた列島民です。
バカの見本は日本人です。

坂口安吾「信長」はそのことを暗示している。

日本国の信仰(叡智)の例を挙げれば織田信長です。
織田信長はカトリックロゴス感覚を信仰(叡智)した日本国の偉人です。
彼は「キリスト教カトリック神学」だけではなく孔子の「論語」も正確な理解が出来たでしょう。
何故ならばカトリックロゴス感覚が受肉していたからです。
織田信長の凄さは信仰(叡智)を解せる力にあったのです。
それは「叡智」を受肉し真理となりそれが「最高善の神(カトリック)」の導きとなりました。
それが織田信長の奇跡の力です。
それは「白ミサのヒューモア」です。
しかしその後のあり方はマニュアル化(黒ミサのアイロニー)となっています。
それは信仰(叡智)を弾圧する黒ミサのあり方です。

「有教無類」は中公文庫では「人間は教育が問題で、身分の違いは問題にならない」とあり、岩波文庫で「誰でも教育があって立派になる」とされています。
しかしそれは解釈論でありカトリックロゴス感覚の受肉ではありません。

「有教無類」とは「教えに隔たりはない(カトリック)」という意味です。
それは一神教の教えのことを指しているのです。

最高善の神の至上命令は〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉です。
「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」の教育ではなく「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」から信仰(叡智)の場所に受肉する叡智(カトリックロゴス感覚)に従うことです。
それは真理に従うことであり「最高善の神(カトリック)」の導きとなります。
それが「最高善の神(カトリック)」の導きと救済です。
奇跡の治癒のあり方です。

孔子の教えとは「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」であり「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」ではないのです。
それは孔子の教えが「一神教」であり「多神教」ではないことを示しています。
孔子の「論語」とはカトリックロゴス感覚の信仰(叡智)によって解さなければ意味がありません。
それは「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」です。
受肉した叡智(カトリックロゴス感覚)が真理となり「最高善の神(カトリック)」の導きとなるのです。

東京神田周辺との馴れ初め

私が神田近辺にはじめて来たのは中学一年生の時だったと思う。
その前年1983年11月辺りに私は名古屋市立小幡小学校から千葉県の船橋市立高根小学校に転校して来たのです。
父親は光村図書という教科書の出版会社に勤務していて父の地元が東京だったこともあり父にとっては念願の東京本社への栄転だった。
しかし私にとっては一度も住んだことがない場所であり不安しかありませんでした。
父の両親であり私の祖父母は高根公団に住んでいましたから正月に泊まりに行くことがありました。
しかし私にとって高根公団が一体どこなのかわかっていない状態だったのです。

そして1984年4月辺りに「風の谷のナウシカ」が劇場上映されました。
私は「ルパン三世 カリオストロの城」の愛好者であったのですが観に行きませんでした。
千葉県で1984年4月に進学した船橋市立高根中学校のクラスメイトが「風の谷のナウシカ」の鑑賞へ行こうと誘ってきました。
しかし私は千葉に馴染みがなくなんとなく断ってしまいました。
そのことを今でも覚えています。
非常にモニュメンタルな出来事だからです。
そのクラスメイトと軟式テニス部で知り合った知人の3人で色んなところに遊びに行ったことを覚えています。
秋葉原電気街へも行きましたし、ららぽーとのラオックスにも行きました。
後楽園のプロ野球の試合も3人で観戦に行きました。

1984年の夏に「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」を錦糸町の映画館で鑑賞したことを今でも覚えています。
早朝から並んで一番前の席で2回連続鑑賞をしました。
他に私は「ゴジラ」を観ようと誘いました。
しかし私は後で知人の一人から「ゴーストバスターズ」の方が良かったとクレームを言われました。
「ゴーストバスターズ」はマシュマロマンが出てくるアメリカ映画ですがどっちがいいですかね?
ゴーストって黒ミサですか?
ゴーストって最悪ですか?
これはエクソシストですか?
何故バスターするのか分かりませんでした。
ゴーストを退治する理由とは?
近年の長井龍雪や岡田麿里、田中将賀らによる「超平和バスターズ」とはどういう意味ですか?
このネーミングによると戦争賛美と信仰弾圧賛美ですか?
政治的宣伝コンテンツ至上主義ですか?
新海誠はこの典型です。
彼の映画「すずめの戸締まり」に関してこのような見方ができるのです。
カトリックロゴス感覚を信仰弾圧したマニュアル化賛美(黒ミサのアイロニー)です。
男女で超常現象に鍵を掛ければ世界が浄土されると言う奇妙な修行経験を賛美しそれをアリバイ証明として成金崇拝(阿弥陀如来崇拝)を賛美しているのです。

未来はきっと明るいというこの映画のメッセージは成金崇拝(阿弥陀如来崇拝)なのです。
金ピカの阿弥陀様という訳なのです。

しかしナウシカはカトリックロゴス感覚のストーリーです。
成金崇拝(阿弥陀如来崇拝)ではありません。

彼らオタククリエーターは黒ミサロゴス感覚としてのサブカルチャーです。
マニュアル化(黒ミサのアイロニー)としてある泣きゲー感覚でしかありません。
最悪のカルトアニメです。

そしてもう一人の知人は高根公団駅の近くで当時営業していた焼肉屋の子息だったのです。
1階の店内を抜けて2階に上がると彼と彼の姉の部屋がありました。
そして彼は「FM-NEW7」を持っていて「RPG」をやっていました。
今でも思い出す「RPG」が「ブラックオニキス」です。
私も彼の影響を受けて両親と秋葉原に行って「FM-NEW7」を購入したことを覚えています。
それは1984年のことでした。

そして翌年1985年は3人で「国際科学技術博覧会(科学万博つくば'85)」を一泊二日で見学に行きました。
1985年当時、それは最先端と謳われた科学の展覧会でした。
私達3人は一泊二日で堪能して帰ってきたのです。

しかしその後3人の関係は暗転します。
焼肉屋の子息の父親が病死してしまいます。
そして1985年に中学2年時のクラス替えがありそのクラスメイトだった知人とは徐々に疎遠になっていきました。
クラスメイトだった知人はアニメが好きでよくダビングしたビデオを貸してくれました。
しかし私はオタクアニメと言うより宮崎駿らの聖なるアニメの愛好者でした。
彼の新しいクラスメイトはオタクアニメの崇拝者でした。
それは聖なるアニメの信仰(叡智)への弾圧者を意味しています。

その辺りの路線対立が生じていたのです。
彼らの愛好するオタクアニメは「内輪サークル喝采」の内容でした。
シンプルに評してオタクアニメは「内輪サークル喝采」をねらう「解釈エリート」によって形成された作品群だったのです。
それらは「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」を弾圧し「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」によって崇拝関係を形成したカルトでした。
それによって「カトリックロゴス感覚の受肉」の信仰(叡智)を弾圧し「解釈論」を良しとすることによってオタクアニメを崇拝することを特徴としていました。

それは「多神教」を祀った作品です。
「唯一性のペルソナの確立(信仰(叡智)から形成されるオリジナル)」は唯一無二として存在しますが「解釈論」は様々にあり得るからです。
上記しました「有教無類」と同様です。
解釈ならいくらでもあり得るのです。
しかし「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」から受肉するカトリックロゴス感覚は唯一無二です。

そして私が愛好する聖なるアニメは「カトリックロゴス感覚」でした。
それは宮崎駿であったり伊藤和典であったりしました。
それらは「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」から信仰(叡智)を入れる場所を確保し叡智を受肉する「一神教」で形成された「信仰(叡智)から形成されるオリジナル作品(唯一性のペルソナの確立)」です。
「一神教の世界観(唯一無二)」と「多神教の世界観(解釈論)」の違いでした。
それは「信仰(叡智)」と「解釈エリート」の違いです。

そしてアニメーションは「信仰(叡智)」と「愚民政策」の対立の場となっていきました。
「信仰(叡智)のアニメーション」と「政治的宣伝コンテンツ(信仰弾圧と愚民政策)のアニメーション」です。
オタクアニメ愛好家は一神教の信仰(叡智)を持っておらずカルトの神々を崇拝していました。
信仰(叡智)と愚民政策(信仰弾圧)の聖戦が行われていたのです。
避けられない対立が起こっていたのです。
信仰(叡智)に関する問題は信用問題となっていくのです。

例えば「信仰(叡智)から形成される信用(唯一性のペルソナの確立)」がありました。
それは宮崎駿のアニメ映画作品が代表例です。
それは芸術作品と言えます。
しかしオタクサークルは「内輪サークル喝采」をねらう「解釈エリート」を信用とします。

そのような信用は「お約束芸」のようなものです。
それはマニュアル化(黒ミサのアイロニー)です。
しかしそれでは名医(白ミサのヒューモア)にはなれない。
そして奇跡の治癒もありません。
誰も救えずそして誰も救われません。
エヴァンゲリオンの折れた腕は超能力で治癒します。
しかしあれは神演出(冒涜)でしかありません。
はっきり言って漫画の読み過ぎは庵野秀明氏です。
それは「信用」ではなく「絶対命令」と「絶対服従」のあり方です。
カルトアニメでしかありません。
「信用」ではなく「忠誠誓約」でしかないでしょう。
スペリングの違うオマージュ(hommage, homage)の2つの意味に該当します。

1986年3月の「アリオン」がオタクサークルとの最後の映画鑑賞会となりました。
その時もその中の一人の知人が直前に演目を変更しようと言い出しました。
それは「下っ端役」と「主役級」が露骨に表現され描かれたパロディオタク作品でした。
それは確か「県立地球防衛軍」でした。
私は「県立地球防衛軍」を知りませんでした。
ただOVA化された「県立地球防衛軍」が偶々劇場公開されていたようです。
オタクサークルはこの作品を知っていたらしくその映画を観たいと直前に言い出しました。

それはマニュアル化(黒ミサのアイロニー)を賛美するオタクアニメです。
そこにはイマーゴ(真善美の回復)がありませんでした。
解釈エリートのカルトアニメの典型だったのです。
私は安彦良和の「アリオン」をすっかり観る気でいたのに直前でそのようなオタクの二次創作映画への変更は嫌だなと思っていました。
私は無言でした。
しかし私が嫌がっていることが伝わったようでした。
そしてそのままみんなで「アリオン」を鑑賞しました。

「アリオン」の劇中映画予告で1986年夏に「天空の城ラピュタ」が劇場公開されることを知ったのです。
フラップターがシータを助けるためにゴリアテのいる軍事要塞に突入する名場面が映し出されていました。
私はそれを観てすっかり感動してしまいました。
その時に「天空の城ラピュタ」を観ることを一人決めました。
そして1986年夏に上野の映画館に一人鑑賞に訪れたのです。
宮崎駿のアニメは「白ミサのヒューモア」であり認識の回復と治癒を齎します。
それは救済でした。

信用信仰(叡智)のオマージュ(hommage)

hom・mage [Fr. ᴐmaːʒ]
―n. ⦅フランス語⦆ オマージュ:芸術家・作家などへささげる敬意,またそれを表すための芸術作品の献呈. cf. HOMAGE

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

信用信仰(叡智)のイマーゴ(imago)

imago Dei 〔L.〕
神の似姿〔カトリック教会〕
〈91学術・キリスト教〉

『人文社会37万語対訳大辞典』 日外アソシエーツ

信用崇拝のオマージュ(homage)

ちゅうせいせいやく【忠誠誓約】
homage
封臣誓約とも呼ばれる。ヨーロッパ中世封建社会において,家臣として主君に奉仕することを誓約(→託身)する儀式。封建君主に対する家臣契約の標識となるもので,誓約者は無帽,無装備でひざまずいて両手を差出し,主君はこれを両手で受け,家臣として認める旨の宣言を行う。次いで誓約者は起立し,聖書に右手を置き,生涯の忠誠を誓った。身分制国家においては,君主の登位に際して諸身分が集団的にこれを行い,君主の側はその条件として諸身分の特権を確認する慣習があった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

私と彼らの間にある違いは「イマーゴ(真善美の回復)」と「忠誠誓約(homage)」の違いとも言えるでしょう。
そのような盲目的欲望をたとえ天才政治家(ヒットラー)が先導したとしても真の信用のあり方とはならない。
何故ならば天才政治家(ヒットラー)は解釈エリートだからです。
それはマニュアル化(黒ミサのアイロニー)です。

「信仰(叡智)から形成する信用」を弾圧した忠誠誓約のあり方はヒットラー(天才政治家)の絶対命令と絶対服従でしかないのです。
何故ならば「信仰(叡智)から形成する信用」の正体は最高善の神の導きだからです。
「信仰(叡智)から形成する信用」は「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」により信仰(叡智)を入れる場所を確保し叡智を受肉することでその真理の導きに従うことです。
それが最高善の神の導きであり「信仰(叡智)から形成する信用」のあり方となります。
そのようなイエス・キリストとアドルフ・ヒットラーの対立関係が表面化していました。

それは大人になることを意味していますがイマーゴ(真善美の回復)の問題でもありました。
オタクサークルにはイマーゴ(真善美の回復)としての大人が存在していないのです。
解釈エリート(オタク)とイマーゴ(大人)は全く違います。
イマーゴのない存在は人ではないのです。(人でなし)

彼らと昔のように仲良くやりたいと思っても信仰(叡智)に関する大問題となっていました。
そういった生き方の違いが対人関係や人間関係において生理的に相容れなくなってきていたのです。
信仰(叡智)とそれを弾圧するマニュアル化(黒ミサのアイロニー)は死闘となる運命を持っていました。

その数年後に秋葉原のゲームセンターのメッカ「セガ」に最大4人まで同時プレイできる「戦車」のゲームがありました。
私は何故かそれをしていました。
私が唯一クリアしたアーケードゲームはそれだけです。
あと鈴鹿サーキットのF1日本グランプリを舞台にした「ヴァーチャル・リアリティ」のゲームが有りました。
あのゲームも一位で完走しましたがタイムがいつも良くありませんでした。
私にとってゲームセンターは秋葉原の「セガ」であり思い出深いです。

1994年当時ここにセガのゲームセンターがあった。
GIGOが何かよく知りません。

「神田神保町古本屋街」があり、柄谷行人さんの長池講義が開催された「たんぽぽ舎」も近くにありました。
何故かあの辺りと縁があるのです。
ではここからは宗磨のフォトレポートとなります。

宗磨のフォトレポート(2023/06/08)

晴れ時々曇り
澤口書店で「新約聖書」を購入後に「ろしあ亭」でピロシキを2つテイクアウトで購入する。
ロシア民族衣装を着た店員さんが店頭でピロシキを販売していた。
湯島聖堂の石造りのベンチでミネラルウォーターを購入し昼食とする。
ものすごく冷えたミネラルウォーターで美味しかった。

東京復活大聖堂(ニコライ堂)

私はJR船橋駅の快速列車で錦糸町駅に行きました。
各駅列車に乗り換えてJR御茶ノ水駅に到着し散歩をスタートしました。
坂を下っていくとニコライ堂です。

神田神保町古本屋街

色んな思い出のある神田神保町古本街です。

澤口書店で新約聖書を購入する

新約聖書を購入したときにドリンク引換券を頂いた。
2階に上がって喫茶コーナーで抹茶ラテをご馳走になる。

聖橋を渡る。

私は昔から御茶ノ水駅にかかる聖橋が謎でした。
何故「聖」であるのか知らなかったのです。

史跡 湯島聖堂(孔子廟、神農廟、昌平坂学問所跡)

聖橋の由来は湯島聖堂でした。
私は長年秋葉原と神田を愛好していましたがここに孔子廟があることを知りませんでした。
学生時代の第二外国語は中国語でした。
先生は学生を中国旅行に連れて行ってくれました。
その時に中国の孔子廟もありましたがかなり立派でした。
関羽の墓もありましたが崇敬の対象でした。

楷樹の由来 
楷 かい 
学名 とねりばはぜきの うるし科 PISTACIA CHINENSIS BUNGE
楷は曲草にある孔子の墓所に植えられている名木で初め子貢が植えたと伝えられ 今日まで植えつがれてきている 枝や葉が整然としているので 書道でいう楷書の語源ともなったといわれている
わが国に渡来したのは 大正四年 林学博士 白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り 東京目黒の農高務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係が深い所に頒ち植えられた その後も数氏が持ち帰って苗を造ったが生来雌雄異株であるうえ 花が咲くまでに三十年位もかかるため わが国で種子を得ることはできなかったが 幸いにして数年前から二三個所で結実を見るに至ったので 今後は次第に孫苗がふえてゆくと思われる
中国では殆んど全土に生育し黄連木黄連茶その他の別名も多く 秋の黄葉が美しいという台湾では爛心木と呼ばれている 牧野富太郎博士はこれに孔子木と命名された
孔子と楷とは離すことができないものとなっているが 特に当廟にあるものは曲草の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える
昭和四十四年己酉秋日  矢野一郎 文
平成二十年戊子秋日   松川玉堂 書

孔子の像

神田明神

湯島聖堂は神田明神と道を挟んで並んでいる。
正面に見えるのが湯島聖堂の敷地
これは「前川國男一門設計の千葉県立中央図書館」と「阿弥陀如来崇拝の胤重寺」の配置と同じである。
「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」への信仰(叡智)に対する弾圧としての「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」である。
日本列島民の立ち遅れは明治維新から始まったとも言えるでしょう。
日本国にとっての文明開化は「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」への信仰(叡智)に対する弾圧としての「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」でした。
それはバカにしかできない行いです。
何故ならばそれが「黒ミサのアイロニー」だからです。
まさに今を時めく「お笑い芸人」です。
彼らには「白ミサのヒューモア」はないのです。
要はヒューモアのない「お笑い芸人」なのです。
※神田明神は芸の神様です。
神田明神の鳥居の先が湯島聖堂である。
まさに信仰(叡智)に対する弾圧として存在している崇拝賛美の神田明神です。

私は一通り神田明神を見て廻ったのです。
何故ならばAKB48の島崎遥香さんがヘンテコリンな柄の振袖を着て唯一性(ユニーク)をアピールしていたことが印象に残っていたからです。
島崎遥香さんは一神教の信仰者(叡智の受肉)なのです。

しかしこの神田明神は崇拝関係から形成された多神教の神々を祀っています。
今日行ってみてそれがよくわかりました。
それは「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」から叡智を受肉する信仰(叡智)のあり方ではなく、「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」から形成した崇拝関係でした。
そのようなカルトは一言で評して「解釈エリート」であり一向宗でした。
それはマニュアル化(黒ミサのアイロニー)と言えるものです。
そのようなカルトは「内輪サークル喝采」をねらう「解釈エリート」により扇動することで形成されます。

誰もが一山当てたい山師の「解釈エリート」なのです。
そこに信仰(叡智)の欠片もありません。
マニュアル化(黒ミサのアイロニー)によってカルトを形成しているのです。
AKB48などのプロデューサー秋元康の手法はこのような信仰(叡智)を弾圧したアイドルカルトです。
それはフロイトに言わせると「呪術崇拝から形成される象徴(偶像崇拝)」であり原始的段階に近いのです。
そのような「解釈エリート」の扇動は「愚民政策」なのです。
決して「至高の抽象化の高み」へ導きません。
「至高の抽象化の高み」とは「神の王国の到来」です。
そしてそれは「白ミサのヒューモア」なのです。
天使の両翼を得ることは信仰(叡智)から受肉する最高善の神の導きです。
信仰(叡智)を弾圧し「内輪サークル喝采」をねらう行為は「盲目的欲望」でしかないのです。

信仰(叡智)とは一神教であり、「盲目的欲望」とは多神教です。
多神教は「内輪サークル喝采」を形成する様々な神々が崇拝関係として祀られています。
正体不明の生物が多神教として祀られているのです。
良く言えば寛容に見えます。
悪く言えば節操がありません。
しかし一神教が「知の廃棄(doxaをバプテスマにする)」の信仰(叡智)だとすれば、それを徹底的に弾圧するために多神教は「知の乱造(内輪サークル喝采の乱造)」を行います。
全てをマニュアル化(黒ミサのアイロニー)していくのです。
とんねるずの人気グループ「野猿」はまさにマニュアル化(黒ミサのアイロニー)により捏造されたスターでした。
マニュアル化(黒ミサのアイロニー)してしまえば誰だって同じというわけです。
AKB48のメンバーもとんねるずの野猿もマニュアル化(黒ミサのアイロニー)によってある偽物崇拝です。
それが「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」という「盲目的欲望」を正当化して崇拝関係を形成します。
だから多神教は盲目的欲望の暴走としてあり倫理観としての信仰(叡智)を完全弾圧しようとするのです。

実は多神教は全然寛容ではなく信仰(叡智)に対する最悪の弾圧者なのです。
節操がない上に寛容でもなく徹底的に信仰(叡智)に対して弾圧をする。
神田明神とは信仰(叡智)に対する弾圧者の象徴的存在なのです。

島崎遥香のAKB48の中での存在価値はそのような信仰(叡智)に対する弾圧の中において一瞬の閃光(白ミサのヒューモア)を放つ彼女の倫理観にあります。
偽物崇拝の中で本物信仰の閃光(白ミサのヒューモア)を放っているのです。
そのように島崎遥香はAKB48の集団行動の中で奇矯なあり方となって見えていたのです。

しかし彼女のあり方は「綺麗は穢い、穢いは綺麗」のAKB48(黒ミサのアイロニー)に対する「綺麗は綺麗、穢いは穢い」の「白ミサのヒューモア」となっていたのです。
それは「ギルティはイノセント、イノセントはギルティ」のAKB48(秋元康)に対して「ギルティはギルティ、イノセントはイノセント」として島崎遥香が存在していることを示している。

これは秋元康により信仰(叡智)が生贄に饗されることで黒ミサが行われ呼び出された堕天使ルシフェルをエクソシストする行いであるのです。
マニュアル化(黒ミサのアイロニー)に対して信仰(叡智)は最高善の神の導きとしてあります。
それが「白ミサのヒューモア(善き羊飼い)」です。
この決定的な差異が秋元康と島崎遥香の違いと聖戦となっているのです。

彼女は聖女(ペルソナ)であり私は島崎遥香が結構大好きです。

That's rude! It's pure love!
I love Haruka Shimazaki!

秋葉原新駅舎(旧電気街)

昔この入口横(昔の駅舎)にラーメン屋がありました。
いつも行列を作っているシンプルな醤油ラーメンのお店でした。
実は私も行列に並んで食べていた常連の一人でした。
美味しかったな!
懐かしいな!

前に来たときは「ガンダム」と「AKB48」だったのにどうしたのだろう?
でもこっちの方が入りやすいね!

昔名古屋のプラモデルショップでいつも飾ってあった少し高価なガメラのプラモを買うかどうか迷った挙げ句の果に購入を決めその店に行ったら売り切れていて友だちの前で泣いた記憶がある。
どうしていつも飾ってあったのに何故丁度あの時に売れてしまったのだろう。
それは小幡小学校2年生の懐かしき思い出の時だったと記憶している。

このメカニカルキングギドラは金子修介監督作品登場と思われる。
何故、金子修介監督のガメラシリーズ同様に「伊藤和典」が脚本を担当しなかったのだろうか?
伊藤和典は円谷英二を尊敬していたとされている。
もし伊藤和典脚本のゴジラがここに存在していたなら非常に価値のある作品となったことだろう。
この金子修介監督の駄作ゴジラの存在によって金子修介は完全に馬脚を露すことになった。
そして逆に芸術家(白ミサのヒューモア)は伊藤和典だったことが明白になっていったのです。

監督金子修介(本編)
神谷誠(特撮)
脚本長谷川圭一
横谷昌宏
金子修介
※何故、伊藤和典(ガメラシリーズ脚本家)はこの作品の脚本を担当しなかったのだろう?
ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(ゴジラ モスラ キングギドラ だいかいじゅうそうこうげき)は、2001年12月15日に公開された日本映画で、ゴジラシリーズの第25作である[4][8]。カラー、シネマスコープ、ドルビーデジタル[出典 3]。併映は『劇場版 とっとこハム太郎 ハムハムランド大冒険[2][1]。略称は『GMK[12][13]

Wikipedia

MBS(毎日放送)のアニメであり出来はいいだろうと思うがほとんど観ていない。
子供のときと違ってまとめて観ないと続かなくなった。
次回放送を一週間待つ気にならないのです。
レンタルショップで見るかDアニメストアで観るかどちらかだろう。

SNSで宣伝するとバックが貰えるらしい。

メイド姿の可愛い女の子が呼び込みをしていました。
しかし安全な店ではないと行かない方がいいでしょう。
もし行くなら事前に安全で面白い店を調べて行くのが賢明でしょう。

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