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天の海に

 ひんやりとした空気が足下を流れてゆくにしたがって、すこしずつ意識は明瞭になった。硬質な感触が靴底から伝わるが、この場所へ至る経緯は記憶から抜け落ちている。目をあけてあたりを見わたそうとして、そこがまったくの暗闇であることを知った。ひとつの明かりも灯されない空間に、どことも分からないまま、立ち尽くしていたのだった。
 幾度かまばたきを繰り返すうち、暗く滲む闇は、あるいは深い深い藍色をしているのではないかという思いが浮かんできた。ほとんど黒に近い藍色が、背中のほうから前方へと流れているようだった。そこで、足下の冷気は闇の温度であると察せられたのだった。深い藍色をした闇が、ひややかな流れとなって向こうへ続いている。
 ライラックは、闇がむかう方へと歩きはじめた。くるぶしをひたしていた闇は次第に腰のあたりまでかさをまして、いつしか冷涼な帯のように彼を包もうとするのだった。
 ――どうやらここは川なのだ。彼は唐突に理解した。水面は、もう胸の下までやってきていた。けれども、おそれや焦りといった感情は鳴りをひそめ、かわりに穏やかな安堵が脳の奥をみたしていくのを感じた。
 ライラックは、すでに歩くことをやめていた。全身を覆う流れに抗うことなく、いずこかへゆくのだという漠然とした思いがあった。
 いつのまにか閉じていたまぶたをあけたとき、彼は息を呑んだ。ほとんど黒と変わらなかった闇は青い光を帯びて、ところどころに眩しいほどのかがやきを宿しているのだった。まるで、いつか星の降った夜のようだとライラックは思った。無数の星の光が指先を、頬を、通り抜けては遥か遠方へと消えてゆく。星灯りがからだを透過していくうちに、心臓のあたりがじんわりとあつくなっていた。心臓はあついのに、からだのほかの部分は冷えきっている。溶けだしているのだ、とライラックは思った。やがてこの星たちと同じように心臓だけを残して、あとはすべて溶け去って、そうしてこの川の一部となる。きっと、そうなるのだ――。

 まぶたの上に光がおどって、ライラックは目をあけた。レースのカーテンを透かして落ちる朝日は、あたたかな透明をしていた。階下からやわらかいカモミールの香りがただよっている。とん、とん、ときこえるのは、昨日の朝に収穫したカブを切る音だろうか。湯が沸く音もかすかに混じっている。ゆっくりと寝具から足を引き抜いて、彼は身支度を整えた。

「おはよう、リリィ。すっかり雨は止んだようだね――」



天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隠る見ゆ

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