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研究をするということについて

おはようございます、こんにちは、こんばんは、多田です。

医師、もとい臨床医としては目の前にいる患者さんと向き合うことが第一命題ですが、もし医師としてのレールをなぞっていくのであれば、どこかで研究を行っていく場面に出くわすことは避けられないでしょう。
自分が今後どのような医師としてのキャリアを進むか、医師を続けていくかすらまだ明確に決定していませんが、研究という可能性もゼロではありません。

ただ、医師が研究をするということに対して僕はいくつかの懸念点を持っています。
それを先日僕よりもずっと偉く、道のりのずっと先を歩いている大学教授とお話しする機会がありましたので、反芻してここに記したいと思います。


・研究を臨床医がする意義と何なのか?

その教授は、研究をするモチベーションとして「患者を助けたい」ということを挙げていました。僕はこの理由が腑に落ちませんでした。
というのも「患者を助けたい」というモチベーションは研究を加速させる触媒ではあるものの、必要条件ではないのではと考えていたからです。

「私には特別な才能があるわけではない。ただ燃えるような好奇心が備わっているだけだ」

かのアインシュタインはこう話しており、これが真実なのだと僕は思っています。きっと研究によって、叡智のその先を啓くことにただ心震える、楽しいという根源的な感情があるのではないか、その結果の副産物が、子供を救える何かや教授という地位なのではないかと失礼な質問をぶつけてみました。

教授の答えは「どちらも内包するべき条件であって、個人的には不可欠である」ということでした。

実験データを見返して、自分の仮説に合致するデータを発見したときに「ふわふわとした不思議な浮遊感」を感じた、人生で何回かはそういった大きな高揚感を感じていると。
ただ研究とは非常にストイックな行為である。医学臨床では日々の診療が実績として積みあがっていくが、一方で研究では時間をかけて作った何かが全く無意味だったということがしばしば起こる。
患者を助けるという目的でのモチベーションは無いと医師が研究を続けるのは厳しいと思う。


・医師が研究をすることはとても中途半端だと思ってしまう

僕は上記と関連してもう一つの質問をぶつけました。
医学以外の研究は医師の(少なくとも臨床医の研究よりも)純粋な知への好奇心で行われていて、それと比較すると医師(臨床医)の研究は最終的には患者のためというものがあるからこそ、中途半端で不純だと思ってしまう。

例えるならば、良いか悪いかは別として純粋な知への好奇心であればダイナマイトは作れたけども、誰かのためということを先に考えてしまったら決してダイナマイトは作られなかったであろう、というイメージ。
大きな発見は「無垢で無意味な探索」から始まるのではないか?

教授の回答は以下の通りでした。
不純かどうかは主観だが、中途半端かと言われるとその通り。それは研究者として失敗しても医師として生きていけるシステム上のセーフティーネットがあるから。全時間を研究に費やす覚悟は生まれにくい。
また、目的があるから研究費の取りやすい似非医学研究が目立ちやすいという側面もある。
ただ一つ言えることは純粋なアカデミアではそのようなセーフティーネットが無いため、結果を残せなかった人間は無惨に淘汰されて、人生を研究に費やし、かつ運に恵まれた少数だけが生き残っており、見えているものは生存バイアスかもしれない。
その上であえていうと、医者が研究をするというのは極めて合理的な選択肢だと思う。
タレブの「反脆弱性」という本に出てくるが、作家のカフカは郵便局員だったし、アインシュタインは特許局の事務員だった。つまり作家活動や研究活動という「ハイリスクな仕事」と「安定した仕事」を組み合わせた人生を選ぶことで、たくみにリスクヘッジしていたことになる。それで比較的安全に大きな結果を出していることを歴史が証明している。


・叡智の外殻を押す、突き破る行為が、私が私じゃなくなるような気がして受け入れがたい

最後に以下のことをお話ししました。
研究者というものはとても楽しいものだと思います。知的好奇心を満たし、誰も知らない何かを発見するようなことは想像するだけで大きな興奮があると思います。
ただ、その広大に広がる叡智の裾野で新しい何かを採掘しているような自分を想像すると、寂しいような、自分が他の採掘者と変わらない代替可能な存在なのではないかと不安になると思います。
だから、それよりも自分は固有の自分であるという何かを確かめるようなエゴ(臨床医)に逃げてしまっていると自覚していますが、教授はどのような気持ちで研究をしているのか。

回答は以下の通りです。
自分が掘っているところが自分だけのものと思えるのなら、代替可能とは思わないのではないか?
確かに皆が掘っている分野を掘ると量産型の研究者となり、そのような感覚に至るかもしれない。ただ自分個人で言えば世界で自分しか掘らないところを見つけて掘ってきた。
同じような感覚で言えば、幼少期にファイナルファンタジーやドラクエといったRPGが大好きで、速いタイムでクリアしたりレアなアイテムを収集したりして楽しんでいた。ただそもそもみんなでそんなことして何か意味があるのだろうか?と思った記憶がある。
医者になり、研究者となってからは研究でレアアイテム的なもの(研究手法
とか)を見つけるとそれは本当に世界で自分しか持っていないレアアイテム
となり、もはやそれは自分を形成するアイデンティティの一部になる。


以上が質問し、回答してくれた内容をまとめたものになります。
遥か先を行っている人物がどのような視座を持って(仕事に限らず)行動しているのかが垣間見えて、自分の先の行動や選択の一助になりそうです。

個人的に言えば医学のトップである大学教授が、カフカのような作家と保険局のハイブリットな存在を好意的に肯定しているのがありがたかったです。
研究云々はさておき、自分が臨床医をやっていることと小説家を目指している状態は悪い選択肢ではないと間接的に言われたような気がします。

行動の方針を大きく変えることはせず、今やっている医師としての仕事、小説家になるための執筆を淡々とこなそうと思います。

ここまで読んでくださりありがとうございます。
随時更新しますのでまたよろしくお願いいたします。
ではでは!



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