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一番硬そうな殻のそばに、急所はいつも潜んでいる

おはようございます、こんにちは、こんばんは、多田です。

まず今回の話題は、どの会社でも、どのコミュニティでもあるようなありふれた話です。

ある研修医は、とても人当たりのいい人です。上に話すときも気を使っているなぁと感じ、科を回り終わるときにはお礼の手紙やお菓子を置いていって、とても皆に好意的に思われているようです。
そして、もう一人の研修医はその子に対して「私は彼女みたいに仲良しこよしはしないので」と言い張る子です。周りからの評価は、……言及しないでおきますか。

僕は本心としては後者に近いのですが、「仕事」というお金を対価にもらうものを行う以上、人と上手くやるのも仕事だという意志を新社会人の時に立てて以降、「人を動かす」(著:デール・カーネギー)を新年度が始まる前の3月に読み直し、原則を暗唱するというふざけたことをやっています。
戦略的にまがいなりにも前者の子に近づく方が有用だと考えているので、ある意味一番ちっぽけでダサいかもしれませんね(笑)

ただ、後者の子は上の発言のようなことを思っていたとしても、何故それを口に出してしまうのでしょうか?
口に出すことによって彼女に何のメリットがあるのだろう。その子を見てふと思いました。

今回はそんなことについて考えてみたお話です。

まず自分も似たような言葉を言ったり、似たような感情になっただろうかと省みたとき、真っ先に思い出した文章が下記です。

「僕はかなりの安堵を込めて『なるほど』と言った。その『なるほど』にうわずった恥ずべき抑揚をつけて『映画か』という言葉が続いた」

「ティファニーで朝食を」 著 トールマン・カポーティ

これは「ティファニーで朝食を」のヒロイン、ポーリーが「嵐が丘」の話をしたときに、作家志望の男ポールが言い放った言葉です。
「嵐が丘」を小説ではなく映画でしか堪能していないことに対するポーリーの隠しきれない嘲笑が現れた文章です。

このような感情になることは皆さんありますか?
僕はしばしばあります。上の文章を律儀に覚えているくらいですから、当時の僕は結構共感したんだと思います。
きっと当時の僕は、小説というものが美しく崇高で、その二次作品としてできた映画というものを意識的/無意識的にせよ下に見ていたのだと思います。
振り返ってみるととても稚拙な思考だと思いますが、似たような考えは結構な人が思っているのではないでしょうか。
じゃなかったら「原作厨」なんて言葉は生まれませんし、「ティファニーで朝食を」を書いた作家カポーティは、映画化されたそれをみたときにブチ切れないでしょう(笑)

けど、なんでそんな気持ちになってしまうかと考えると、自分がそこに劣等感を感じているからこそではないかと思うんです。

自分のエピソードにおいては「自分が小説を理解しきれていないという劣等感から、小説は崇高=理解が難しいものである」という歪んだ理解をしているのだと。
冒頭の子の発言はもしかしたら人と仲良くするの得意なわけではない自分のコンプレックスの正当化なのではと思うのです。まぁ、違うのかもしれませんが、自分に当てはめてみると納得はできます。

そこに柔らかく脆い身があるからこそ、攻撃的な殻を見せつけることでそれを隠しているんじゃないかと思うのです。

まぁこれがおおよそ正しい仮定だったとしても、それを直すことは難しいと思います。人と上手くやれるのも環境や才能の一種ですし、得意ではあってもそこに対して少なくない時間、金銭、精神コストは払っているのですから。
芸術や創作の理解だって、時間をかけて幅広い背景知識を習得していくほかないのですから。

ただ、自覚しているか否かは大きな違いだと思います。
自分の感情が揺り動く他者の行動の裏に、自分の剥き出しの弱い価値観がある可能性が高いと考えられると、相手を攻撃するような行動も減り、かつ自分の外縁と内縁を確かめるチャンスにすらなるのですから。まるでボーナスチャンスですよね。

皆さんもどうでしょうか。他者が自分にとって嫌だ、ムカつくと思うような言動をしたとき、一度深呼吸してゆっくり蟹の身をほじくってみるの、案外楽しいかもしれませんよ!

今回はこれでお終いにします。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
ではでは!



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