見出し画像

「環境問題」は「心の問題」です!!

農薬関係の会社の方には申し訳ないのですが、最近、皆さんは肩身の狭い思いをされていることが多いようですね。今までの人口増加を支え、日本人を飢えから救い、中流意識の達成にも貢献したのは皆さんでした。そういう歴史的な貢献を無視して、一方的にあたかも「金に魂を売った人間」のように環境関係の色々な所から酷評されるのは不本意なことだと思います。


バブルの頃、東大工学部の卒業生が、本来工学部の卒業生が必要とされる研究機関やモノづくり系の会社に就職せず、金融機関に就職する卒業生のほうが上回ったと報じられ東大教授が嘆いていたのをよく覚えています。確かに、経済評論家の中には、「財テクをやらない奴は馬鹿だ!」と言っていた有名なH氏もいた、そんな淋しい時代でした。


化学がおかしな方向性に向かって行ったのは今に始まったことではないのですが、日本の場合、この頃を頂点として、日本がさらにおかしな方向に進んで行ったのではないでしょうか?この東大工学部堕落事件はそれを象徴する出来事であったと、私には思えるのです。そもそも発明や発見は、「良いも」のだったとしても、それを製品にするという時に文科系出身者が理科系出身者の「純粋さ」を無視してしまったのが発端かも知れません。

農薬肯定者の大半は、この議論に関して(勿論、程度の差はありますが)農薬のメリットとデメリットの比較をするのが常です。そういう発想ですべてを片付けてしまっています。結局「世の中のバランスの問題」だと言う。そこでは、安全性は一つのファクターだと認識されているようです。そこでは、幸せという「心の問題」を無視した議論になってしまいます。


化学的な影響にしても、農薬は発がん性試験、催奇性試験、繁殖性試験、内分泌かく乱性試験(環境ホルモン)等の試験にパスしてはじめて国から認可され、はじめて使用できるのですが、それに合格しているのだから心配ないというようなわけにはいかないのではないのでしょうか?国が調査して認可していても、今までろくなことがおこらなかったのではないでしょうか?結局、役人や政治家が関与した取り決めは、良い方向に向かったことは今まで少なかったのではないのでしょうか?


以前、新聞で読んだのですが、無登録農薬を使用したこともないのに、現在は使用禁止になったドリン系農薬(殺虫剤として認可後、土壌残留性が高く、発がん性があり、内分泌かく乱作用も疑われるとのことで70年代に登録が失効し、現在は使用禁止になっています)が検出された記事でした。30年も40年も前に認可された農薬に含まれていて、それが残留したとのことでした。
一体、誰が責任をとるのでしょうか?


認可された農薬に関しては、使う・使わないは、ある意味、その人の人生観や知識によると思いますが、生産物に表記されているのでしたら、消費者も買いたくない人は買わないのですから、意思表示が出来る訳です。花はそういう機会さえ与えられていないのです。全く困ったものです。報道も少ないですし、何とかならないでしょうか?

また、環境にこだわるのは、地球や人間に関する、そういう自然のメカニズムのことだけでなくて、植物も川や空気や宇宙や、全てが自然的に出来ているのではないかと思えるからなのです。環境保全型農業を実施していけば、安全な生産物はその結果として生まれると言っても過言ではありません。
人間が生きるということは、そういうことではないのでしょうか?

自分がその日に食べるもの以外を生産し、貯え、金という形で保管する時代になった時、そのことと人間の関係を、正しく認識し理解することを怠ったことが、全ての原因のような気がします。本当の「人間の幸せ」を哲学してこなかったのですね。やはり、「環境問題」は「心の問題」なのではないのでしょうか?


農薬や化学肥料を使わざるを得ない農業を育ててきてしまった教育(生産者に関わる事と、消費をする者に対しての事)の失敗ではなかったのでしょうか?心は教育のみによって改革され、「幸せ」という心のスケールと向き合うことが出来るのではないでしょうか?

環境問題は、そもそも、いわゆる知識層の人ばかりでなく、良心のカケラのある者なら、機会あることに、言及していかなければならない問題だと思います。「一番大切なことは、平和と環境です」とみんなの前でいうのは、当たり前すぎて恥ずかしい気もします。なぜなら、世の中の基本中の基本で、八百屋がキャベツを売るようなものですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?