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*環境を破壊した奴はヒョウ柄のパンツをはけ!!

今更ではありますが、…人間は生物の一員でしかないという自分の立場を忘れ、身分不相応にふるまって、森林や土地を荒廃させ水を汚し、地球の生態系を台無しにしてしまいました。さらに、戦争という最大の環境汚染まで引き起こしてしまいました。

世界は「生きとし生けるもの」の幸せを基準とすべきなのに、人間は今まで上辺の損得勘定で、社会を動かしてしまいました。人間のエゴの罪は重いです。

一方、産業革命で小金を貯めたヨーロッパの人々はその余力で園芸を楽しみ、園芸を発展させました。産業革命で失ったものを中和するかのように、人々の間に園芸がおこったことは、「自然(自然が教える大切なもの)を忘れるな」という神様の気の利いた計らい的交通整理だったのかも知れません。1990年代に日本でおこったニワカガーデニングブームも同じくバブル反省的ハカライだったのでしょうか?


以前テレビで見た南の島のドキュメンタリー番組で、釣りをしている老人が「若い時は狩りに出かけて、動物をとって食べた。体が段々老化して、今は食べたいと思わなくなった。ここで釣る一匹の魚で充分だ。」というのです。この老人は自分の本来的欲求の変化を感じ、心の声を聞く能力を失わなかったので、このように思ったのではないでしょうか?不相応な欲求を持つ人間は(人間の一部かも知れないし、ほとんどかも知れないのですが)本来的欲求の変化を感じる能力や、心の声を聞く能力をなくしてしまったと思えるのです。この能力こそが、人間が生きて行く為の「一番基本的な人間力」ではないかと思うのです。この能力の衰退につれて環境破壊も進んで行ってしまったのではないでしょうか?

人類は史上相当長期にわたって、一日の食べ物を得ることに、ほとんど一日を費やしてきましたが、社会が進歩し、「お金」という別の形に価値基準が移行すると、人々の関心が、胃袋に入らない分を少しでも蓄えることに移って行きました。南の島に住む老人は自然に接し、自然から教えられ(自然に自分を類比し)、純粋に自分で哲学したのだと思います。

「生きとし生けるもの」の範囲から自分が外れないようにするには、動物的な勘(感覚)と云いますか、本能と云いますか、直観力と云いますか(例えば、体が悪くなった時に無意識に効きそうなものを食べたくなるような漢方薬の原点のような)そういう力を付けることが、大切な訓練だと思います。

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その訓練の前にもう一つ通らなければならない道があります。人間は判断や直感を惑わす偏見(知らず知らずのうちに、身についてしまった「汚れちまった悲しみ」のような)で凝り固まっている訳で、そういうものから解き放たれた時に、本当の自分に出会う入り口に立つことが出来るのではないでしょうか?すべての科学や哲学はそのために存在するような気もします。そういう身の回りの偏見との戦いを終えた後に、「ヨロイ」を脱ぎ捨てることが出来ると思います。


人間たるもの、例えば日本に住んでいる普通の人は、「生きとし生けるもの」の観点からしますと、いくつかの偏見に邪魔された毎日を送っているのではないのでしょうか?その偏見を列挙しますと・・・
1. 生物の一種なのに他の生物と異なる生物的偏見
2. 500万年生きている人間なのに、現代人という時代的偏見
3. 男と女という性別的偏見
4. 世界の人類が数ある中で、日本人という民族的偏見
5. 宗教に属するという宗教的偏見
6. 社会的地位や裕福さ等の外的基準に関する社会的偏見
環境問題も原点は、これらの偏見から逃れ、純粋な自分(蒸留水的な自分)を取り戻すことかも知れません。とりあえず、環境を破壊した奴は、ヒョウ柄のパンツでもはいておけ!!動物的な勘を失わないためにも・・・・・。そのくらいは今すぐにでも出来るだろう!!!

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