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*花の人「シーボルト」(教科書で教えない話)


プラントハンティングは日本と関係があり、日本植物の園芸化とヨーロッパへの紹介の多大な功績を残したのは、オランダ東インド会社の医師シーボルトでした。日本にとってのシーボルトは、伊能忠敬が創った日本地図を持ち出そうとして追放になった「シーボルト事件」で有名ですが、実は、ヨーロッパの園芸や花の生産を今日のように盛んにしたのはシーボルトの功績に負う所が大と言っても過言ではありません。

彼は医者であり、日本にとっては鳴滝塾を開き、医学の発展に尽くしたような印象がありますが、オランダにとっては日本研究の祖であって、特に植物の研究が評価されています。

オランダ政府は、当時日本が必要としていた西洋医学を教えるということで、日本に対して印象を良くし、本来の目的であった日本研究をシーボルトに託すというギブアンドテイクの発想です。

ナポレオン帝政下で衰えたオランダの国力を回復する国家財政立て直しのために、鎖国の間、唯一許可された貿易を長い間独占していたのですが、その利益が大きかった日本との関係を深めるために、日本についての地理・社会制度・文化・物産などについての総合的な自然科学的な調査は国家的使命であったようです。

元々、子供の頃から、植物学と動物学に興味を持ち、医者の家に育ち、彼は優秀であったのですから、シーボルト程この仕事にふさわしい素質(かなりマメな性格)と能力(学術的なことはもとより、分析力にたけている)を持った人材は少なかったに違いありません。シーボルトの目に映った日本は、国全体に生活に役立つ有益な植物と美しい装飾用植物で満ちた庭園のようで、日本人は有能な花卉栽培者であって(彼の認識では盆栽を創るお爺さんも含まれていました)草花について知識があると評価しています。日本も素材的には、彼の期待に十分応えるものを持っていたと言えます。
また、彼が日本に来なければ日本の植物の世界への紹介は開国後の明治になってからとなりましたから、日本の花をその祖先とするオランダの花のいくつかの種類についての誕生も遅れていたに違いありません。現代の皆さんが飾っているあの綺麗なオランダの大輪ユリも見られなかったかも知れません。現在のユリはシーボルトがオランダに球根を持ち帰ってから、15世代~20世代の改良種で、彼が持ち帰ったカノコユリやスカシユリ、また別経路で入ってきた山百合などをその祖先としていて、これらのユリを根気強く改良していくことで新品種を生み出しました。恐らくシーボルトが日本に来なければ、現代に生きている皆さんは、カサブランカの美しさを目にすることもできなかった筈です。その基礎は、シーボルトの熱心な日本植物の研究と紹介の努力にありました。

彼は、1844年から王立園芸奨励協会の会長に就任し、オランダ王立園芸奨励会年報を発行し、株式を募集して、種子や苗木の販売をヨーロッパに向けて開始しました。

オランダ国内でも1870年頃から温室での花卉栽培が開始され、徐々にオランダは名実ともに、世界の花の国と呼ばれる国となって行きました。世界に名だたる花大国オランダは、自然あふれる江戸時代の日本なくしては生まれませんでしたし、史上最大のプラントハンター「シーボルト」なくしては、ありえませんでした。花で「人の心に優しい時間を届ける」、その素晴らしいことの近代での原点は日本であったことを誇りに思う今日この頃です。花の流通史におけるエポックメイキングな出来事は、意外にも私たちの身近にあったのです。

シーボルトの書いた本を読んでいますと、どんなにシーボルトが日本の花の美しさ(特にユリや紫陽花は大絶賛)に感動していたかが分かります。また盆栽についてもヨーロッパの人々に想像できなかった矮小化、変形化または成長よりも抑制に価値を置くなどその文化の高さと奥深さを不思議な趣味とも絶賛しています。

参考文献:シーボルト(板坂武雄著:吉川弘文館)、シーボルトの21世紀(大場秀章編:東京大学総合研究博物館)、日本の植物(シーボルト著:八坂書房)

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