見出し画像

5/19ヘイトデモと管理する警察について

5月19日の日曜日、「日の丸街宣倶楽部」というレイシスト団体が、埼玉県蕨市でヘイトデモを行うということで、カウンターに行ってきた。
蕨や川口など埼玉県南部でクルド人を中心とした外国人差別が激しくなっていることについては、以前『ニューズウィーク 日本版』のコラムに書いた。
https://www.newsweekjapan.jp/fujisaki/2024/02/post-65.php

日本における差別に対するカウンター行動といえば、いわゆる「しばき隊」から派生した「C.R.A.C」系の運動が有名だ。しかし私は、その「C.R.A.C」史観からみれば、「あまりうまくいかなかった」とされる「左翼系」のカウンター行動に参加していた。

差別デモのカウンターに行くのは、ほぼ10年ぶりだろうか。昔のことを思い出しながら向かう。

レイシスト5人・カウンター100人・無数の警察官

現場につくがレイシストが見つからない。ヘイトデモへの参加者がほとんどいないのだ。のちに聞いたところによると5人だったらしい。ぞろぞろと歩いているのはほとんどが制服の警察官。たまに違う服装の人がいても、その人もまた警察官。警察官だらけでレイシストが見えない。翻る旭日旗だけが彼らの存在を物語っているが、カウンター側のコールにかき消されて何を言っているのか全く分からない。

一方のカウンター側は100人ほどはいただろうか。男性が多めの印象だが、女性が少ないというわけではない。「ヘイトデモやめろ」のシンプルなコールが自然発生的に沸き起こっている。

驚くべきことに、圧倒的な人数の差があるにもかかわらず、カウンター側はコールにまったく手を抜くことは無い。逆にレイシスト側は、自身の主張をアピールすることそれ自体を放棄しているようにみえた。

レイシストたちに対する明らかなオーバーキル。しかし同情はしない。レイシストの差別コールは、1デシベルでも街に轟かすべきではない。このような目に合うと知らしめることで、差別デモへの参加を萎縮させることもできる。

一方、警察官の多さは異常だった。デモの周囲を取り囲むだけでなく、駅前やデモのルートに先回りして大量の人員が投入されている。そしてレイシストもカウンターいない道路を無駄に交通規制し、街の平穏を乱していた。

駅前を占拠して交通の邪魔をする警察官たち

カウンター側は、このような警察の規制に対しても怒っていた。別日にはカウンターに対して「ザコども」と発言した警察官もいたそうだから、日本政府の外国人政策を考えても、警察はどちらかといえば差別側に立っていると考えてよい。「警察はレイシストを守るのか」という批判がカウンターの中から上がっていた。私も、無駄に横断歩道を止めて渡らせない警察官に対して抗議を行ったが、聞く耳を持たず。

デモを守ることでデモの邪魔をする警察官たち

ところで、このような大量の警察官が「レイシストのデモを守るために」動員されていることがレイシストをつけあがらせることにつながる、というカウンター側の批判については、若干の異論を述べておきたい。

このデモほど人数差が極端ではないが、私は彼我の立場が逆転したデモ、すなわち右翼側のカウンターによって攻撃されるデモに参加したこともある。その経験からいえば、いかにデモを守るという建前があったとしても、大量の警察官がデモの周囲をうろついている状況はけしてデモにとって好ましいことではない。街頭からデモは隔離されるし、デモでアピールしたいことは何も伝わらない。

レイシストたちは、デモが解散してからも、一人一人警察官に囲まれて駅へと護送されていく。これを警察官を護衛に従えているようだとして批判する反差別側もいる。

しかし、「護衛」されている側にしてみれば、これほど居たたまれないこともない。私が彼らの立場ならいっそ、仮にカウンター側に取り囲まれて罵声を浴びせ続けられたとしても、それでもいいから警察官はどいてくれと思うだろう。

デモが終わったあと、解散地点から若干離れている路上で、恐らくレイシスト側だと思われる男性が警察によってずっと隔離されていた。

なぜなら日本のカウンターは優しいので、命まで奪われることはないだろうという予測はたつし、警察に囲まれてコソコソするよりも、自分たちの敵たる「反日」に対して、直接的に対峙することこそ自分たちの主張をアピールすることに繋がる。そうでなければ、街頭に立つ意味はないと考えるからだ。

日本の権力機関に蔓延する管理することへの欲望

もちろん大量の警察官が結果的にレイシストデモの邪魔になっているからといって、警察が反差別側の味方だということにはならない。警察に差別へのシンパシーがあったとしても、それ以上に彼らの行動は管理することへの欲望に規定されている。

警察はとにかく、「トラブル(だと彼らが考えるもの)」を恐れる。トラブルの可能性をゼロにするために、警察官は市民を徹底管理する。休日にわざわざ手当てを払ってまで大量の人員を投入し、デモ隊がとっくに通り過ぎた道をいつまでも管理し続ける。税金の無駄遣いここに極まっているが、それよりも市民たちが自律的に行動することで発生する「トラブル」が怖いということなのだ。

考えてみれば、日本の衰退を招いている悪しきイデオロギーの一つに、この管理への欲望がある。日本の権力機関はとにかく管理をしたがる。外国人を管理し、ボランティアを管理し、家族を管理する。そのせいで非人道的なだけでなく「国益」にとっても不合理な入管政策が行われ、能登の復興はすすまず、多様な家族形態を否定したり共同親権を推進したりすることで結婚・出産へのインセンティブをさげ、少子化はとまらない。

ヘイトデモがほぼ不発に終わったのは喜ぶべきことだが、日本の警察の管理への欲望は異常である。そんなことを帰り道に考えた。

管理への欲望を考えるうえで、排除ベンチしかない公園は象徴的かもしれない

帰りに、警察に封鎖されて入れなかった出発地点の公園にいってみる。遊具も何もない、排除ベンチがあるだけの小さなスペースだ。ゴミ箱もなく、ベンチの周囲には吸い殻が散乱していた。こういうのも根拠なく外国人のせいにされて差別の理由づけにされるのだろうと思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?