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目を見て話さない遠慮をやめた

多分今日もあまり寝れないだろうと想像できる中でこれを書き残す。
今、私の生活環境は滅茶苦茶になっていて、そのうえで最近我が子が毎年年度末に繰り返しているメンタル不安定状態に突入した。
私はもういい加減家にいたくないので可能な限り毎日外出するようにし、
いきなりだがharuyoiのライブが名古屋で行われるのとそこに君島大空もゲストで来ると知っていたのでいきなり数日前に行くことにした。
実は人生初の泊りでの一人旅行になった。雪の降る夜の中で私は独りで鎖が外れた人間になっていた。

独りは寂しいのではなく心地よく守ってくれることでもあるのだと気づけた。
大分仕舞い込んで無かったことにしていた自分に訪れた感覚。

それが私を冷たいままで包みこんだ。

ちょっと全文がわかりやすいほうがいいので自分の投稿なのであえてスクショで画像として別の場で書いたものをここにも残す。


私の大きな変化のきっかけは完全に「君島大空」という存在である。
そして私は独りになることを決めたが、実はずっと独りになりたいと願っていたのかもしれないと気づけた。
私は独りのほうが私の納得する私で一番いられるのだという気付き。

私は自分を沈めすぎてなりたくない自分を貼り付けるのに慣れ過ぎてしまっていた。麻痺していた。こういうのがまさに呪いをかけているということだった。

なので最近、君島の曲の聴こえ方、質感が私の中では変わってきた。
逆に彼が内側で必死で叫んでいる側のものが見えるような感覚に変化しつつある。私は本人ではないので何を想い願い曲を作っているのかは知らない、それは実は本人自身にも理解できていないところも勿論あるのだろう、人間が作るものは人間の様に質を変えていく。


君島大空は季節を大切にしていそうな発言(特に夏)を度々しているので彼の事もシーズンで例えるとすれば、今の君島はシーズン2の渦中にいる印象である。
去年の1月に出たアルバムの最後の曲、『No heavenly』にシーズン2に突入するような片鱗を示し、『no public sounds』がかなり短期間で制作され発売され聴いて「完全にこれシーズン2に入ったな」と思えた。

そしてまだ今の彼はシーズン2だが、いつかシーズン3になるのだろう。
でも彼はどのようにシーズン3を自分で生み出すのかが私はとても気になっている。このままシーズン2の彼のままでいないのが君島大空な気がしている。というか君島大空は今後も変化し続ける、としか私というファンは思っていない。

だからいつの間にか好きになってから5年目になっていた。

君島は今年29歳なので、その節目は絶対に意識しているだろうという直感があるからこそ彼がシーズン3を生み出すのは今年なのかなという予想を勝手にしている。全然わからないが29という年齢はかなり意識しているのではないかと思う。正直、29から30はあまり変わらないように見えるが20代最後の年に彼はとんでもなく他人が予想できない事を既に目論んでいる気がしている。

この印象だけ未だに変わらないので今後も彼は外に放つ姿を変えつつもやはり本質的には涙を流しているような人間をし続けるのだという確信みたいなものしか私にはない。
これが見えているファンはどのくらいいるのだろう。
彼はいつだって片隅で涙を流しているような印象しかない。
その涙を掬い取って抱き締めてくれる人がいるのならばいいのだが
いないのだとしたら、その彼を見つけ何が何でもその彼に届いて抱き締めてくれる人が彼に到達してほしい。という願いしかない。
私は彼の歌を四六時中聴き続け、何故そんな自分だったのかという気付きを最近得た。

それは上に書いたような何時だって片隅では涙を流しているような人間を

私自身がやっているからだった。
この気づきはかなり大きかった。


話は名古屋に行った時の事に戻す。

私は自分の大きな変化と共に「君島大空ファンとしての自分」も
今年から変えていくことにした。

まず、今まではろくに目を見れないで話もろくにしないファンだったが
名古屋で一回それを試しにやめようと思った。
単に東京だと人数も多すぎたり、他のファンの話があまりにも長いことが多く待つ時間にも限りがあり途方に暮れる感しかないので基本的に私はやったことがない。
サインをもらって一言くらい感想を言い、帰っていくというのをほぼずっと
やり続けてきた。

しかし名古屋だったのと箱が小さかったのでこれは今夜試せるのでは?と
しかし本人が近くにいねえ!!行きづらいが行くかおおおお
と思っていたら別のかたが君島にサインをお願いしようとして
偶然近くにいる状態になったのでもうこれはやるしかねえ!と
私は声をかけた

※最近、君島呼びなのは「さん」をつけると打つ時間が余分にかかるからです。本当はさんをつけたいですが少しでも省きたく君島呼びをあえてしている。
申し訳御座いません…

とはいえ私は君島大空の話を毎日するくらいの狂ったガチ愛ファンなので
やはり本人が目の前にいると内心ぎょっとしかしていない。
しかも近ければ近い程自分よりも長身なので(何センチあるのか聞きたいのだが毎回聞きそびれている)基本的に見上げる感じで彼と話すのでそれもびびりの原因のひとつである(どこか威圧感を勝手にいだいてしまうのかもしれない長身だと)

しかし私は彼と初めて少し長く話してみることにした。
それはある種の克服でもあり実験でもあり、去年の新潮の寄稿文も読んでいたので君島大空の目を見続けて話したら彼はファンにどのような表情をみせてくれるのか、私自身で確かめてみたかったからだ。

まず最新のアルバムにサインを頂く機会をかなり逃し続けていたのでサインをお願いした。その上で真面目に特典等の関係でアルバムを10枚くらい持っているのでその話から当たり障りなく少し話を広げようと思った。
でもやはり次に発する一言が頭ではあるのに声に出すのを躊躇してしまう瞬間もあって、いやもうこれは駄目だ言いたい事をまとまりなくても即興で上手くつなげていこうと『no public sounds』を制作する上で影響もあったであろう映画『暁闇』の再上映を前日に観に行ったのでその話をした。

私はこの映画を『no public sounds』が出る前に観た。そして今回再上映されるということで出た後に観直したということになるのだが、映画の中の世界がガラリとかわったような衝撃を受けた。
この作品で思春期特有の報われなさ救われなさを強く感じていたのが新しい曲が生まれたことによってこの作品の中に優しさが完全に加えられた気がして観ながら驚いている自分がいた。
大きなスクリーンに広がる世界は薄明光線が見える空みたいだった。

君島さんが優しさの梯子をかけたのだな

という実感と共に
観ていた私自身にもその優しさが私の中に広がっていき満たしていった。

終演後に、監督にも同じ話をしたが監督もそうだったという話でうっかり盛り上がってしまった。

どうしようもなさが完全に拭えないままでエンドロールを迎えるような作品だった筈が、曲を足されたことによって(作中に曲を直接足したわけではないが)完全にこの物語に出てくる3人を包むような優しさを君島大空が生み出して3人に手渡してくれた、そんな映画に変わっていた。

そんな感想をざっと下手なまま話したがその話を君島さんは目を見て真っ直ぐ聞いてくれた。
私は彼が人を見る目をまともに見た。というよりも私という目の前にいる人間を見る時の目を初めて知った。

君島さん自身は話すのが得意ではなく人の目を見て話すのは過負荷という文を去年書いていたが、
私の目を見る彼の目は想像とは違い、真っ直ぐ人に向かう瞳をしていて
私の方もずっと見るのはきつかったので所々視線は外したりしつつ目を見て話したと記憶しているが、実際に少し長く話したら印象がガラリと変わった。
人に対してまっすぐでありながら優しさがこの人の中には確実にあって
それは人を見つめる瞳や発する声に込められているのだと。

そして話したのはたった数分という短い時間だったが
話が進むほど話ながら安心感があった。
この人は人の話にきちんと耳を傾ける人だなという
ただそれが一見かなりわかりづらくて人によっては相当話しかけにくい雰囲気に見える(まさに私がそうだった)だけで
大きな誤解のような印象が試したことによって見事に崩された。

やってみてよかった。

私が殆ど感想を伝えていたと思うが会話になっていたのは
君島さんがそれをしようとこちらを向いてくれたからであり

穏やかな不思議な数分間だった。

彼はこれからどんどん人に知られこんな風に話す機会も徐々に減っていくのだとしても

私はこの目と目をきちんと互いに見れた日のこと。
互いに声で想いを伝えあった夜を。
その時の君島さんの瞳も。
声も。

私は大勢のファンの一人だが

大勢のファンの一人を超えて人間として












宝物のように抱え
この先も忘れないのだと思う。

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