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#013 ホノルル ウォールアート考現学

物件の所在地は、ホノルル空港近くの、H1の北側。
マプナプナと呼ばれるエリアです。

AWA STREETという、細い道沿いにあります。
ガチャガチャした雰囲気の、路面状態の悪い倉庫街、というか工場街というか。
そうだなあ、さしずめ、昔の殺伐雑然としていたカカアコをさらに三倍くらいに増幅させてガチャガチャさせた感じ、とでも。 自動車整備工場なんかも多いかな。
つまり観光客が足を向けるところではありません。

その街を、カカアコのように再開発し戦略的にステキ化しようというマーケッティング企図、による壁画ではないと思うんです。
ああいう、プロまたはプロの卵による洗練されたグラフィックとは比較にならないほど稚拙なんですけど、むしろ逆にそれゆえの、何か強い訴求が感じられる。

建物のトタンの壁に描かれた絵

これ、一見して、ホクレア号を思わせますよね。
長距離の航海に耐える、古代ハワイイの大型の双胴カヌーを現代に復興させた、ホクレア号。

数えると、クルーは10人。いつの航海を描いたものなんだろうか。
いちばん前に立つ人が胸のところに掲げているものは、何なのか。
そもそも、周辺環境との脈絡なしにまったく唐突にこの壁画が存在しているのは、どうしてなのか。
ウォールアートにありがちな商業的な匂いが感じられないだけに、疑問はいくつも浮かびます。

ま本来、アートって巧拙の土俵で論じるものではなく触媒的な存在ですから、こうして誰かしら観覧者に着火点や気付きを与えることができれば、成功なのでしょう。

ということで、可能な限りの掘り下げを試みてみる回。

【石貨という文化】

まず調査の糸口になりそうなのは、
「いちばん前に立つ人が胸のところに掲げているもの」。
これ、玉なのか何なのか、どうやら光を放つ物体のイメージを与えられているようです。
わざわざ描かれているからには、相応にアイコニックな意味合いのものと察せられます。

そこでとりあえず当てずっぽうに「遠洋航海カヌー 玉」というキーワードでググってみました。
するとヒットしたのが、2012年に東京で開催されたこんなフォーラムのPDF資料(文書①)。

この中から、海洋エッセイストで、 アルバトロス・クラブ顧問の拓海広志氏による講演部分を、抜粋して引用します。

文書①の表紙部分のみ掲載。全文はこちらからどうぞ。

計測器の代わりに人間の五感を用いて航海する技術には私たちが学ぶべきことがたくさんあるのではないでしょうか?
それで私は大学を卒業してからも、そんな問題意識を持って各地の海をうろうろしていました。そうした中でミクロネシアのヤップという島にたどり着き、100年間ほど途絶えていた石貨航海を再現する「アルバトロス・プロジェクト」なるものを行うことになりました。

(中略)石貨とは、ヤップ島で流通する石のお金です。これはかつてヤップの航海者たちが南西約500キロにあるパラオ諸島までカヌーで渡り、そこにある結晶石灰岩を巨大な5円玉のような形に加工してヤップまで持ち帰ったものです。

石貨は島内の一定の場所に置かれたまま流通しますが、その価値は島民が共有する物語が決めます。つまり、どんな苦労をしてその石貨がパラオから運ばれたのか、あるいはヤップでどんなことに使われたのか。そんな風に流通する石貨は、正に航海民としてのヤップ人の魂の象徴ともいえるものです。その石貨を運ぶ航海が途絶えて約100年になるということで、それを再現してみようという話になった のです。

第26回KOSMOSフォーラム 統合的視点で見る「海」とは ~民族移動と文化の伝播~

この講演の中で触れられているアルバトロス・クラブは、1989年に設立されたNPO団体で、ヤップ-パラオ間の石貨交易航海プロジェクトが実現したのが1994年のことだそうです。
そのあたりの事情が、拓海広志氏ご自身のブログ(文書②)に詳しく紹介されています。

ちなみに石貨の素材である結晶石灰岩は、純白色に近い色をしているものが多く、ほぼ方解石の粒子だけからできていて、割れ口はその粒子がキラキラと反射するそうです。

ミクロネシア海域に、石貨という文化が存在した。
このことから、
壁面絵画に描かれている先頭のクルーが掲げているのは、結晶石灰岩による石貨をシンボライズした、ミニチュアなのではないか?
との仮説を立ててみました。

【石貨文化圏とハワイイ】

一方、そのミクロネシア海域からはるかに離れたハワイイを拠点とするホクレア号は・・・
と過去の航海履歴を調べてみますと、2007年の航海プロジェクトにおいて、パラオに寄港しているんです(この時は最終的に日本に到着しています)。
そしてもっと重要なのは、この時ホクレア号は単独航海ではなく、「アリンガノ・マイス号」という名の双胴カヌーに同行する位置付けであったこと。

なお、ホクレアはハワイイ語で「喜びの星」という意味。
アリンガノ・マイスはミクロネシアにおいて「木から果物を落とす強風」という意味らしい。

では「アリンガノ・マイス号」とは何なのか?
以下の引用文(文書③)を読んでみてください。

1976年のハワイからタヒチまでの航海が「ホークーレア号」の処女航海でした。(中略)
ハワイでは、800年前には遠洋航海が途絶えていたために、「ホークーレア号」の遠洋航海の実現するために必要な航海術がハワイには残っていませんでした。
「ホークーレア号」の処女海で、ハワイからタヒチまで導いてくれたのは、ミクロネシアのサタワル島に住むマウ・ピアイルッグという航法師です。
マウ氏への恩返しとして、航海カヌー「アリンガノ・マイス号」を寄贈することを目的に、「ホークーレア号」は「アリンガノ・マイス号」と共に、2007年(中略)ハワイ島カワイハエ港より、マーシャル諸島、ミクロネシア諸島、パラウ諸島へと向かいました。

文書③ Hawaii Nature Explorers 「ホークーレア号」アロハの掛橋(2007年6月11日の記事)

より詳細には、こちら(文書④)をご一読ください。
HAWAIIAN VOYAGING TRADITIONS による、この航海に関するオフィシャルの記録です。

忘れ去られていた古代ハワイイの遠洋航海カヌーを現代に復活させる実証実験であった、ホクレア号の1976年のポリネシアへの処女航海に対する、多大なる貢献。
それへの恩返しとしてアリンガノ・マイス号を贈られることとなった高名な航海者「マウ・ピアイルッグ」氏は、先に紹介した「100年間ほど途絶えていた石貨航海を再現する1994年のアルバトロス・プロジェクト」でカヌーのキャプテンを務めた人物でもあるのです。

ここで拓海広志氏の講演から改めて引用しますと、
「石貨は、正に航海民としてのヤップ人の魂の象徴」

だとするならば、ヤップの離島にあたるサタワル島の出身である、ハワイイとしては恩義あるマウ氏へのリスペクトとして、彼に贈呈する双胴カヌーの航海に石貨(のミニチュア)を乗せていくのはごく自然なことに思えますし、また同行する形のホクレア号も、おそらくそれに準じていたでしょう。

ですからこの仮説に基づけば、壁画が示しているのは、2007年の航海の、ホクレア号またはアリンガノ・マイス号の姿ではないのか?と考えることができます。
ただし帆の色からして、ホクレア号であることは間違いありません。

左がアリンガノ・マイス号、右がホクレア号  Photo by Mike Taylor(2007)

壁画や文書などから得られた複数の情報を、このように突き合わせて考えていくと、ここまで述べてきたような見立ても、可能性としてありうべきものと言えないか?

そう思うものの、あくまで帰納法的な推論にとどまっていて、肝心な出発点である仮説の設定そのものが大外れであるかもしれません。
この2007年の二隻の航海にまつわる石貨うんぬんのエピソードに関しては、いくら調べてみても、確証につながる情報に到達しないんです。

その一方で、これは邪馬台国の場所の謎を解き明かすのとは違ってせいぜい20年内外の話ゆえ、ホクレア号の関係者やこの絵を描いた当事者など、存命のしかるべき人に訊いてしまえば、仮説の真偽はたちまち分かること。
けれどもそれは、あまりに短絡的すぎてつまらないんですよね。こうしてああだこうだ考察すること自体が趣味なので。

【調査物件の存在事情】

そして最後に、周辺環境との脈絡なしにまったく唐突にこの物件がこの場所に存在している事情や、絵を介して訴えたいことについて。

想像するに、ホクレア号の遠洋航海プロジェクトや、それを含むハワイイ伝統文化の復興に、強く共鳴する市井の人(たち)が関わり、この場所を供出して、それらをアピールしているのではないでしょうか。
考えてみればホクレア号の母港があるサンドアイランドは、このマプナプナ地区からごく近い場所にありますし。


という具合で、掘り下げも結局のところ完全な結論にまでは至らず、すべて推論止まりに終わったものの、それでもたいへん楽しく、思いがけず知識の幅も広がり、勉強になる調査でした。

アートって巧拙の土俵で論じるものではなく触媒的な存在ですから、こうして誰かしら観覧者に着火点や気付きを与えることができれば、成功なのでしょう。
と文頭の方で書きましたが、こうしてまんまと乗せられてしまった次第。


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