1月に思うこと

田舎で育った。同じ敷地内にあった父方の祖母の住む古い母屋には家の中に竈があった。

普段の夕食は主に母が、私達家族の住む新屋で作る。台所の熱源は勿論、ガス。一般的なガスコンロを使っていた。
それとは別に、普段の簡単な朝食など、祖母は祖母で日常の料理を、竈を使って作っていた。山で採れるタケノコのあく抜きや、裏の畑で採れた野菜を煮るなど重宝していたようだが、竈が大活躍するのは年末年始である。

その竈で一升のもち米を何回も蒸し、親戚中に配るだけの鏡餅を作るため、臼と杵で何升もお餅をつくのである。その日は近くに住む親せきが集まり、お餅をつくことも、形を作ることも手伝う。勿論、大勢でつきたてを食べることも。その際に、お正月に食べるのし餅も同様に何枚も用意する。

そして年が明けると、鏡開きの日には、小豆を煮て大量のぜんざいを作る。小豆本来の美味しさとたっぷり目に入っているお砂糖の甘味で、普段そんなに好んで食べないぜんざいを沢山いただくのが常だった。
竈を使って提供される料理の時、下準備をするのは祖母だ。母と共に近くに住む伯母にも手伝ってもらい、もち米や小豆など、大量の食材を準備をする祖母は生き生きして楽しそうだった、ように見える。実際は大変だったと思うが。

毎年当たり前のように、繰り返される行事。
私にとって竈に薪をくべて、それが燃える時の匂いは懐かしいものだ。
でも、当たり前は当たり前ではない。

今となっては父方の祖母も既に亡くなり、古い母屋も取り壊されて、竈はない。薪をくべた後のパチパチとした音を聞くことも、その匂いと共に竈で作った何かを食べることも、もうかなわない。


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