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DO TO(3) 「あれから好きな画家は河原朝生」


2018年9月6日 午前10時

今日は休日だった。空は青く、空気はさわやかだった。私は音楽を口ずさみながら洗濯物を干していた。九月の穏やかな日差しは一切を活気づけて、平和で、すがすがしい匂いが部屋の中にぷんぷんしていた。なんともいえない爽快さだ。洗濯物が片付くと、その後で濃いコーヒーを飲んだ。カフェインに胸焼けしたためしはなかった。額に汗した身体なので腹は減っていた。しかし、芸術のためならば一日くらい絶食で通すことができた。たとえ腹の虫がしずまらなくても、評論家たるもの芸術に役立つならば、朝ごはんなんか食わなくっていいんだ。 
そう思って布団に寝転がって、熟睡し、午後になった。疲れが取れると、身体に落ち着きが出て来て、心もたるんだ気分になる。横になった身体はそのままで、頭だけを起こした。そして、冷たくなったコーヒーを口にした。こうして寝床に体を横たえるのはたとえようもない気分だ。半径一メートルから動く必要がない快感だった。それは手にマメを作り、足にタコを作る労働のつぐないとして受けて然るべきものだった。
ただマイペースでかみしめる回復の時間が、退屈という豊かな実りとなって、身体的な代償を求めてきた。手を伸ばし一冊の画集をつかんだ。私は思い出したように座り直して、本棚を整理しはじめた。よく読む本とあまり読まない本に分類をはじめた。眼の回る勢いで、本を出したり、入れたりした。ただ、よく読む本も、読まない本も、公平に寝床から手が届く位置にある。私はその両方に挟まれている。だから、あくまでも、これは退屈しのぎであり、分類のための分類だ。
本はその日の気分次第で移動し、変更され、また元に戻ったりするのだから千変万化だ。もちろん、そんな気まぐれはよくない。その場しのぎの整理はよくない。本の内容は複雑ではあるが、正しいものが正しい場所にある分類があるはずだ。それでもまだ気に入らず、気になる気持ちに抑えがきかないのなら、そうしたものを読む仕事が一方にある。私は好きなことを好きなようにしていた。
そういうわけで、午後は河原朝生の画集を読むことにする。見るのではない。読むのだ。この場合の読むとは、画家のテクニックを理解するために、どんな色を混ぜて、どういう風に筆をのせていったかを考えるのだ。私は河原朝生を読み直した。あっさりと描いているようで、意外と厚塗りだ。ただ下に塗った絵の具の層は見えていい感じだ。私は思わず「これイイ」とつぶやいた。その声に、はっとして身震いをした。私の眼の前には存在しない人物の声が頭の中で再現されたのだ。
今の私はひとりぼっちでなにもない人間だ。しかし、記憶はあの頃のことでありありと満たされていた。「なんかイイよね、これ」とエリはいっていた。あの昔の感動が呼び覚まされるようだった。どんな具合に描いたかよく見ようと、顔を近づける彼女の横顔がうかんだ。上品な卵型をした顔、はっきりとした目、遠慮がちな笑顔が想いだされた。かつて絵と向かい合ったときの、あの記憶の波がよみがえってきた。私には、もう一度あのように会えるかもしれないという期待があった。私は画集を広げて、記憶の広がりに身をまかせた。


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