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DO TO(5) 「あれから好きな画家は河原朝生」



「ここに描かれた男の人は、一体、どんな気持ちで流される家を見つめているのかしら?」と彼女は絵を指さしていった。それは私が全体に気を取られて見過ごしていた部分だった。私は目を瞬きしながら答えた。 
「ホームなのか、ただのハウスなのかという問題はあるけど、高みの見物かな?」
「そうかしら?」その声には明らかに違和感をほのめかす香りがただよっていた。彼女は絵に近づいて付け加えた。
「この人の心も一緒に流されているように思うわ」
「そういわれれば、そうかもしれない」彼女の言い草がやや大げさだと思いながら、私は穏やかな笑いをちょっと見せた。
「なぜ笑うの?」と彼女は真面目な顔で尋ねた。
「いやぁ、どうも僕にはよくわからないから…」私はこうつぶやくにとどめた。真面目な話は不得意だと言いたかったが、自分の欠点に胸を張る気になれなかった。すると彼女は「ウチは貧乏なのよね」と思い切った口ぶりでいった。 
「父は私を大学に入れるために、私たちの家を売ったの。だからこの絵を見ると住んでいた家との別れを思い出しちゃうのよね」そういいながら私の方を向く彼女の顔には、殉教者めいた精神の光がかすかにゆらめいているようだった。 
「そうだったのか…」
私の感想はこれだけにとどまった。二の句はつげなかった。適当な言葉が見つからなかった以上に、心にもない礼儀作法はしたくなかった。とるに足らない些細な問題と高をくくっていた自分自身の気持ちにも整理がついていなかった。彼女の言葉がしばらく心にやきついてはなれなかった。
ただ、しばらくすると臆面のない彼女の調子に苦々しさを感じた。社交上の意味において、やや侮辱の感があった。だから言い訳できる立場をもとめて、自分の非をそらせようとした。「自分だって金持ちではない」とも思った。私は自分の軽率なふるまいを正当化しようと、反発の気持ちにとらわれた。再び黙って絵に向かい合った。  
人類を破滅から守っているのは水位の侵入をうけつけずにすむ頂だ。安全な場所だ。そして悲劇が目の前を通る時にも、人はそれが見える場所に立ちながら、見ることを望まず、嫌な現実には目をつぶるものだ。同情は見届けなくては気が済まない興味の予防薬だ。その同情というものが、危険が姿を消してから生まれるというのは言い過ぎだろうか。環境問題も、伝染病も、かえって自分の利害を離れて客観的になるということがある。私は家が流されていく絵を前にして、欺きようのない自分の自己本位を鏡に映して見せられた気がした。 
もちろん私は利己主義と呼ばれることを好かなかった。傍観者に甘んずるつもりもなかった。むしろ、あの微笑は心の準備が出来なかったからだった。侮辱の念をはき出すために、傲慢の誘惑にかかってはいけないと思った。苦労や我慢と同等の経験を、自分が持てるように、ともに感じて、ともに心をくばることが、野心の塔にのぼって社会を見下ろすよりも、はるかに大事だと思った。 
そんな気持ちで絵を見つめ直すと、この絵は人生への深い認識を示しているようだった。シュールな表現に身を隠していた何か、彼女の立場が私の眼の中で強調された。それは二度と取り返しのつかない悲劇を悲哀に変えながらも、勝手に恨みっぽい情動だと断定できぬ現実の喘ぎがあるからで、目の前に広がる不条理が、新聞の一面大よりも見る人の心をゆすぶり、共感をもたらすからなのだ。要するに、これは見る者によって、深められ、完成する絵なのだろう。したがって、この絵の正確な意味を答えることは不可能だ。文学の多義性とは違う。驚きとか、悲しみとか、内側から感じることの仲立ちによって増幅する感情が、もろい人生の不協和音につつまれているのだ。そこに一時的なものとして切り分けることりできない、芸術的な目的への転化があるのだろう。

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