【私見】 アイドル・SixTONES
SixTONES、結成9周年おめでとうございます。
まだ好きになって半年経つか経たないか、時間にしたらすごく短いけれど密度にするととんでもなく濃くて愛おしくて宝物の日々を過ごしている。
好きになって日々が豊かになったこと、SixTONESに出逢わなくても私の人生は淡々と問題なく進んでいっていただろうけど出逢えたことで1日いちにちが輝いていること。別に誰かに伝えなくてもいいようなことだけど、私はこの毎日がとっても好きなんだよと自分自身に伝えて奮い立たせるために、SixTONESについて日頃考えていることを記録する。
「アイドル」
アイドル、なんだよな。SixTONESって。
曲調とか醸し出す雰囲気とか、世の中はそういう分かりやすいところをもって「アイドル」を定義づけたがるし評価したがる。その定義から言うとSixTONESは「アイドル」に分類されづらいのかもしれない。好きになる前は私も彼らのことを「アイドルらしい」と思ったことはなかった。
だけどそんなことないよなと思う。目に見える形で表れる「アイドル」は曲とか衣装とか胸キュン台詞だとかそういうところだろうけど、厳ついファーやスーツに身を包んでいようが「クラブみたい」と初見の人に称されようがどうしてもおふざけモードに走っちゃおうが、SixTONESはどこまでも「アイドル」だ。
という話をするのに長い長い蛇足を挟む。うるさい自分語りだ。
祈り
よく「アイドルはそれを生業とする人にとっては人生だけど、ヲタクからしたら娯楽でしかない」といった類の言い回しを聞く。良くも悪くも、間違ってはいない。その通りだ。私たちヲタク側は彼らの人生の傍観者だし、いつだってその立場を降りることを選べて、彼らは例えば私一人が彼らの人生から離れたことを知らない。彼らはたくさんをさらけ出して私たちを楽しませてくれるけれど、私たちは「好き」とか「楽しい」とかそんな刹那的な感情を伝えることしかしない。酷いときには突然「嫌い」を宣言することすらある。
なんて無防備なんだろうと思う。申し訳なくなるくらいだ。こんなに善意と悪意が一緒くたになった言葉が届けられているのに、彼らは自身を守る術を持たない。こんな一般人の魂と比べてはいけないのは知っているけれど、毎日頑張って顔も声も知らない不特定多数の相手に楽しみを届けているのにその姿を見て傷つけられたり嘲笑ったりされる日々、私だったらすぐに投げ捨てる。
魂が高尚で清らかというのは前提に、彼らがアイドルで居続けられるのはなぜなんだろう。彼らが歌い、踊り、笑う姿を見ながら考える。
SixTONESの場合、それが「SixTONESだから」に他ならないとしか言えないように思えてくる。あまりに6人が6人に対する執念、執着を持っているから。殊更に6という数字を強調するから。
直近で印象的だったのはCanCamの北斗くんの「SixTONESが成功すればなんでもいいです」とBARFOUTの髙地くんの「SixTONES以外に執着がない」という言葉。必死に訴えかけるというより静かに強く祈るような質感の言葉で、その祈りが彼らにとって恒常的なものなのだと否応なしに感じさせられる。
それを見せつけられると、そこに対する理由を考えることはとんでもなく無粋で世俗的なことだと思わざるを得ない。
執着
でもどうしても考えてしまう。こんなに内に向けられた祈りに思えるものに、どうしてここまで強く同調してしまうのか。今が奇跡だから?彼らが祈ることは自分にとっても祈りになるから?どれも合っているようでどこか違う。
ここからは完全に私見で(ここまでもだけど)他の人からしたらまったくピンと来ないかもしれない(*)。だけど、私にとって彼らの祈りがこんなにも尊いものになるのは私がそこに憧れているからなんだと思う。
私は趣味があまりない人間だ。読書は好きだし、映画も好き、最近ではSixTONESのおかげでラジオも好きになった。けれどどれにも執着がない。現実の生活で友達はそれなりに、というか自分でこれだけいれば十分に幸せと思える程度にはいるけれど、誰かと恋愛をしたいと今は思わない。いろいろな要因はある自覚はあるけど、人に執着することも苦手だからだと言い聞かせている。
唯一「アイドルが好き」ということだけ譲れないまま、歳を重ねてきた。私も「アイドル」に執着している人間なのだ。
この先誰かのことを恋愛感情的な意味で好きになることがあるのかなという一抹の不安がないこともない。就職するとなったら仕事にしたいと思うほど好きなことはあるのか、とかも思う。3日に1回くらい。
でもそれよりもずっと不安なのは、「私の人生から『アイドル』という項目を取り除いたら、自分はどれくらいの薄さになるのだろう」ということだ。どうしたって人生で大事な時期のほとんどにアイドルがいたから。アイドルのおかげで出来たこと、彼らに影響されて決めたこと、得たこと、それらが全部違っていたら。そう考えることが一番怖い。
別に元気に暮らしているとは思う。けれどきっと今の進路を選んでないよなとか、この子と仲良くはなっていないよなとか、人生における重要な要素の出どころがヲタクなことが大半で、今の人生をそれなりに気に入ってしまっているからこれが違った世界線が怖い。
掬い
私の執着とSixTONESの執着の違いは(そんなの掃いて捨てるほどあるのは知ってます)、そこに実が伴っているかそうでないかだと思う。私にとってSixTONESを好きなことは人生だけど周りから見たらこれはただの娯楽で、きっともうしばらくしたら親や遠慮のない人に「いつまで現実を見ないのか」と咎められるようになるだろう。
彼らの「手の届く人たちに幸せを渡していく」という大きすぎる意義と、私の「自分が幸せ」という小さすぎる自己満足。私がそこに執着したところで誰も得をしない、自分のためだけの時間とお金の使い方。
私が彼らの永遠を願うことは、「彼らに幸せでいてほしい」という大義名分のもと、「それを感じて自分が幸せでいたい」という自分の欲求を満たすことでしかない。
彼らの純度の高い祈りは、私には出来ない。
濁ったものは清らかなものに憧れる。絶対に交わっちゃいけないものであるけれど、どうしようもなく憧れてしまう。
あんなにも真っすぐに「大事」を主張出来るものがあることに、それが自分のためであろうとも誰かのためにもなっていることに、憧れてしまう。
自分にはそれがないことをずっと知っていたけれど、それをどうにか隠して凌いできていた人生、他の人の尊い祈りを邪魔せずに見守ることしか出来ない。そう思ってきた。
なのにSixTONESは私のことを置いていかなかった。音楽で、言葉で、行動で、すべてで引き連れていこうとしてくれた。
あぁまたアイドルに救われてる。不甲斐ないなと思わないでもなかったけれど、どうしても抗えないままSixTONESを好きになった。
こんな濁りを受け入れたらいけませんよと思っても、清流は力強くて、ちっぽけな濁りなどすぐに飲み込んでしまった。
奇跡
のような6人だ。そのストーリー性(などとエンタメ風に昇華したくはないのだけどこの物語を始めてしまうととんでもなく長くなるから一旦許容して)を含め、偶然歯車が嚙み合ったように思えるのにそれが必然なのだと後から塗り替えていく強さのある結びつき方と、運命というほかない巡りあわせの数々、その裏にある努力と礼儀。
私は過去のSixTONESを直接知らないけれど、今のSixTONESにはどれだけいろんなことが味方しているのだろうと思うことが多々ある。人間がコントロールできないようなことから彼ら自身が掴み取ってきたことまで、すべてに毎日新鮮に感服する。
彼らはこちらを置いていかないけれど、いつだって真ん中にいるのは自分たちで、自分たちが楽しいこと、やりたいことを見せてくれる。それでいい。それがいい。こちらには何も気を遣わずに思いっきり楽しんでほしい。今が続いていくことは尊いことで奇跡だから。彼らが追いかけ続けるSixTONESとアイドルの概念を、そうして辿り着く境地を、私はとても楽しみにしている。
星、輝き
話を戻そう(ぺこぱ?)。「アイドルとは何か」答えのないこの考えに仕方なく終止符を打つ時、最終的に私は「星」と暫定的な答えを出す。比喩で終わるのはもやもやするのだけど、この言葉が今のところ自分には限界値だ。以前北斗くんへの沼落ちnoteを書いた時にも「北斗くんは星だ」と熱弁しているけれど、それとほぼ同じだ。
いつだってそこにいて、私たちが目を向ければ応えてくれる。輝きと翳り。瞬きすれば消えてしまいそうな儚さ。旅人を導くしるし。爆発。色んな矛盾する事柄を全て抱えている数奇な存在。人々に指されても隠れることも守ることもしない、輝きと同時に翳りや儚さのような脆さもさらけ出している、愛おしいもの。それが星、それがアイドル。
「アイドル」として取り沙汰されるのはパフォーマンス部分が多い。だけど私がSixTONESに「アイドル」をどうしようもなく感じるのは、「長年一緒にいるからこその空気感で進む会話、ツボやテンポの合い方」を見たときだ。
自我が芽生えきるかきらないかぐらいの歳でぽんと芸能の世界に飛び込んできて辞めたい日も経験しながらそれでもアイドルという道を選び続けてきて、かつて自分たちの意志ではなく集められた6人が、今度は自ら一緒にいることを選んでそれをなんとか保とうとしているという事実に、一度輝きだしたら寿命が来るまで燃え続けるしかない星のようなアイドル性を感じる。
私は当事者ではないから「どこで後に引けなくなったんだろう」と考えてしまう。最初はこんなに長くアイドルを続けるつもりなんてなかったかもしれない。だけど事務所に入って表舞台に出されてファンがついて仕事をもらって、そうしていく中のどこかでアイドルとして生きていくことを受け入れた時があったはずだ。そして受け入れた以上それを全うしようとする彼らは、アイドルでなくして何だろう。
人として
そして私が彼らのことを好きだと思う一つの大きな理由に「お互いがいることが当たり前のようで当たり前ではないことを知っていて、自分は相手に当たり前に愛情を注ぐけど相手からの愛情は当たり前ではないものとして受け取る」を全員が出来る、ということがある。だから彼らは友達ではあるけれど地元のツレとは感覚が違うし、仕事仲間で済むような弱い結びつきではない、「メンバー」という形容、いや「SixTONES」という形容しか当てはまらない関係値を持っている。
彼らの根幹には愛と義理があってお互いに対するそれが途方もなく大きいのに、それを自然に渡し合える。彼らの人間としての魅力の根源、だと私は勝手に思っている。
そこから派生して、知性があって思慮が深い。愛は知性がないところに宿らないし、浅はかな思考に乗る感情は届かない。
メンバーに、スタッフに、ファンにとどこへでもその愛や義理を渡しているように見えて、自分たちが守るべきものはしっかり見えていて無作為に安売りしない。そうして生まれる信頼と縁。
キラキラした衣装を着なくとも、甘い歌詞の曲を王子様のように歌わなくとも、これをもって人に触れることが出来るSixTONESは誰よりもアイドルだ。「誰かを笑顔に、幸せにする」というアイドルの基礎のようなことを、自分たちにしか出来ない方法を見つけて叶えていく。そんな眩い星に出逢えたこと、その星を見上げられる時代に生まれたこと、とんでもなく幸せだ。
天体観測
アイドルに執着してしまう人生はまだまだやめられそうにないけれど、SixTONESになら執着していてもいい気がしてくる。どこまで連れて行ってくれるんだろう。彼らから得た何かが、自分の人生において自分以外の誰かのためになるかもしれないから、と言い訳しながら今日も私は大好きな星を追い続けようと思う。
SixTONESという、一等星を。
(*)私は自分のこの考え方が全く好きになれないし、他の人もそうだろうなと思う。他者の人生で自分を満たそうとするのって本当にダサいよなと思う。そしてそれをこうして言葉にしてしまうことも。だけどどうしても今はまだこうしてSixTONESの祈りに憧憬を抱かなければ現在のそれなりに気に入ってる生活が、育ててきた感情がどこかに消えてしまいそうだから。いつかちゃんと、自分の人生に自分で胸を張れるものを手に入れたらこのnoteを消すつもりだ。
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