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夜空から降り注ぐ星のはなし

世界にはどれくらい言葉に出来ないことがあるんだろう。

たとえば夕焼けの中公園に向かって危なっかしく自転車を飛ばす小学生を見たときの気持ち。たとえば中学時代仲が良かった友達とのLINEの履歴が数年前になっていたときの気持ち。

たとえば、好きという気持ち。

幼い頃の私は、言葉に出来ないということが怖かった。言葉に出来ないということはすなわち自分の中でも理解しきれていないことで、それを人に解ってもらえるとは到底思えなかった。解ってもらえないことを語るのに時間を費やした末に「ごめん分かんないや」と切り捨てられることが何より怖くて、それが起こってしまうと私はいよいよ独りになる気がしていた。
だからどう説明すれば良いのか分からない気持ちを言葉にすることは恐ろしいことで、私は諦めていた。

そんな私の閉ざした心をノックしてくれた人がいた。
言葉にすることは難しい。苦手だ。そう思っていたのに、その人は私の書いた文章を読んで
「言葉が足りないでしょう?どうしても言葉にしたいけど言葉が足りない。でもあなたはきっと言葉にしないと死んじゃうのね」
と言った。そんなことないと思ってポカンとしている私にその人は笑って
「言葉にすることを諦めないで。あなたが言いたいことを丸々解ってくれる人はいないかもしれないけど、あなたが想ったことを知りたい人はいるのよ」
と優しく加えた。すごく詩的なひとにもらった大切なことば。

だから私は今も、自分の中で湧き上がっては言葉に出来ずに萎もうとする感情を誰かに伝えたくて、ずっと言葉を探している。


北斗くんを好きになって、あぁ彼は言葉にすることを絶対に諦めない人なんだと思った。
一緒にしたいという意図は全くなく、私のそれと彼のそれは違うものだという認識を強固に持った上で言うが、彼もまた「言葉にしないと死んじゃいそうな人」なのかもしれない、と感じる。それほどまでに北斗くんの言葉は丁寧に緻密に、ときに不器用に紡がれている。

これは、北斗くんを好きになって1年にも満たない人間が、どんなに言葉を尽くしても足りない「松村北斗さんの言葉が好き」という想いを誰かに伝えようとあくせくする記録だ。




選んで見せてくれること

北斗くんは言葉以外にもたくさんの表現を持っている。歌、ダンス、演技、どれを取っても北斗くんの表現はとっても素敵だ。本当は素敵、なんて言葉に収めたくはなくてこれをなんとか言葉にしようとしている日々なのだが、一言で表せと言われたら私はこの言葉を選ぶ。本当に素敵なひとだから。その話を始めるとキリがないので今は言葉の話だけにしておく。(日々の言語化の試みはTwitterを訪れていただけると脳直ツイに混じって時折見ることができます)

こんなにたくさん自分を表現するための豊かな術を持っているのに、言葉というものを選び取ってそれを紡いで人と触れ合うことに心血を注いでいるように思う。

言葉を選ぶ北斗くんが好きだ。歌もダンスも演技も、彼の想い(時には演じるものの想い)を伝えるに不足はないものだろう。だけど私はそれを過不足なく受け取れる自信がない。

私にとっては全部が大好きで、いろんなところに勝手に意味を見出して、北斗くんはこんなことを伝えたいのかなと彼が表現するものに輪郭を描こうとする。自分が思う線を描いて一歩キャンバスから離れて頷いてみせるけれど、果たしてこれは本当に北斗くんが伝えたいことだろうかという疑念はどれだけ彼を知っていようと、彼を想っていようと、晴れることはない。
私は間違っているのではないか。彼が伝えたいことはきっとこんなことではない、これは私の自己満足の絵だ。そう思ってキャンバスを真っ黒に塗りたくろうとする。

アイドルに限らず、表現者が魅せてくれるものについて正解なぞないことは知っているつもりだ。こちらに解釈の余地を残して器用に創られているものだから、好きに受け取ればいい。その解釈を盾になにか理想を押し付けたり自分と違う解釈を突き放したりすることさえなければ好きに楽しんで良い、そんな優しさに包含されたもの。

だけど好きになってしまったから、知りたい。掴みたい。北斗くんが表現したいものを、少しでも感じたい。私は北斗くんのフィルターを通して届けられるものが大好きだから、北斗くんが何を想ってそれを創ったのかどうしても知りたくなってしまう。北斗くんが北斗くんだけの思考を辿って、北斗くんだけのやり方で伝えてくれるものを出来るなら北斗くんの思惑通りに受け取りたい。
そんな少し傲慢な願いを抱いてしまう私に光りを宿してくれるのが、北斗くんの言葉だ。

北斗くんの言葉は、私が真っ黒に塗ってしまったキャンバスを、素敵な絵に変えてくれる。
私が描いた線を否定することはなく、それをもっと綺麗なものに、儚いものに、壮大なものに変えてくれる。

自分が考えたことではとてもじゃないけれど足りない角度からの言葉を北斗くんからもらうと、ストンと心が落ち着く。でもそれは私の考えていたことを消し去るわけではなく、「そうだね、あなたのその考え方はそれでいいよ。ところで僕はこう思うんだ、どうかな?」といった具合に優しく提示される。好きになる必要はないけれどシェアできたら嬉しい、という温度の言葉をくれるのだ。

何かを観て、聴いて抱く感想は十人十色、千差万別だからどれが正解だとかどれが優れているとかそんなことは一つもないと分かっているのに、いや分かっているから、北斗くんの考え方に近いものを得たいと思ってしまう。大好きで憧れている人の眼差しを通して見る景色の美しさを欲してしまう。そんな欲望を北斗くんは否定しない。だから私は自分の想いを持ったうえで北斗くんの想いを受け止めることが出来る。押しつけがましさがないのに説得力があって、誰のものとも混ざらないのに喧嘩もしない。時にこちらと同じ立ち位置からの「好き」を教えてくれる。たぶん無意識なんだろうけれど、北斗くんの紡ぐ言葉はそんなあたたかさを持っている。


考える、楽しいこと

北斗くんは難しい言葉をたくさん使ってほら見ろということをしない。理解することは簡単なはずなのに、どうしてその言葉が出てくるんだろうと毎度不思議に思ってしまうような唯一無二の言い回しをしている。
言葉のことを恒常的に考えている人ではないと出来ないことだと思う。

少し知的に見せようとすればいくらでも見えるような外見、内面両方のポテンシャルを持っている北斗くんが、それに頼ることなく自分で言葉を選んでいるという証がそこかしこに見えるあの瞬間が、あの行間が、どうしようもなく好きだ。小難しい言葉を使って賢く見せることは自分の満足感を高めてくれるのかもしれないけれど、伝わらなくて取り零してしまう想いが多くなる。どうしても普段使っている言語に落とし込めない言葉は人を選ぶから。解りたいけど解らない、北斗くんが紡ぐ言葉はそんなもどかしさを感じさせない。
優しく全員に届くように、目を見て話してくれるように、うんうんと相槌を打って聴きたくなるような読みたくなるようなことばをくれる。北斗くんが選ぶ言葉は「知っている」ものだ。なんだこれと焦ったり、自分とは違う言語次元で生きているのだと突き付けられたりすることのない、穏やかなことばたち。

そうやって一人でも多くの人に届くような言葉を選んでいる、ということだけで十二分に素敵なことだけど、北斗くんの場合はそれだけじゃないから私は彼の言葉を一言でも聴き逃したくない。

やさしさと遠くまで届く強さをもった言葉とは別の種類のワードセンスの心地良さが北斗くんの言葉にはある。
ラジオを聴いている人にとってはもうこれは説明不要だろうけれど、北斗くんの語彙はとても可憐な豊かさだ。それが渦巻く脳内がどうなっているのだろうと無粋なことを思わず考えてしまうほどに瞬発的に出てくる言葉がその時にあまりにもピタッとハマるもので、それを感じる度に「そうこれだよッ…!」と心が粟立つような感覚を覚えて好きのメーターがまた一つ上がる。

特に毎回新鮮にひっくり返ってしまうのは比喩の使い方の豊かさだ。パッと出てくる例はいくつかあるのだけど、ここで挙げ始めると長くなっちゃうからやめておく。でもきっとめちゃくちゃに好きだったものも忘れてしまっていて、忘れてしまうことってやっぱり寂しいけれどそれでも大好きだなと感じたことは消えないからいいんだと思える。

作品に対する想いとか自分の考えとかを話すとき・書くときはすごく私の深いところまで届いてじんわり広がって、ゆっくり噛み締めてやっと自分の心からフィードバックが為されるような言葉をくれてそれももちろん大好きだけれど、その場のテンポと楽しさでパッと出てくる語彙の豊かさと日常性に私は憧れを覚える。馴染みのある言葉を馴染みのない使い方をするひと、というのはいつも言葉で表現することを考えているひとだということだと思う。

その場で表現したいことをほかの誰かが経験したことのある感情に寄り添う形で届けれくれる北斗くんの言葉を、私はやはり優しさと呼んでしまう。当たり前に北斗くんにとっては無意識の所業でしかないだろう言葉に「こちらが解る言葉を使ってくれているんだ」という感動を覚えてしまう。
これは私の想像でしかない話だが、彼の引き出しの中にはきっともっといろんな語彙があって、中には私の経験では追いつかない言葉もあるんだろうなと思う。だけど北斗くんはそれを振りかざさない。それを持っていることを殊更に主張することはないけれど、北斗くんが選んでこちらに届く言葉が北斗くんだけのチョイスだと感じる。たくさんのことが滝のように溢れる頭の中でこれを伝えるならこれだ!と選び取られた語彙がいつだってこちらにとってもそれだ!となるもので、言葉を通してひとつ何かを共有出来たと錯覚する喜びがある。
あくまで皆が理解できるような言葉で話してくれるのは「伝えなきゃ」という心が作用しているのだろうなと思うとその繋がりを求める心に美しさを見てしまう。

こんなふうになんだかそれっぽい言葉を並べてみたけれど、正直ラジオやYouTubeや北學やその他たくさんの媒体で北斗くんのこういうバラエティ色の強いというか会話の中で軽く発される言葉を目にしたり耳にしたりしたときに感じる「好き」は「こんなに知的に面白いひとが存在するんだ……!わたし、このひとの話し方好きだ……!聴いてて(観てて)楽しい……!」という、北斗くんの放つ大好きな語彙に全く見合うことのない芯の弱い感想だ。尊敬とか憧れとか興味とか、いろんなことを脇に追いやってしまう「楽しい」に由来する「好き」があることが、北斗くんの言葉を大切に聴きたい理由のひとつだ。


丁寧な長さ、それってつまり愛

そして北斗くんは話が長い。自他共に認めるこのことが、私には北斗くんの誠実さに思える。日本アカデミー賞のスピーチでの愛らしい失敗談をラジオで話していた時(好きになりたての頃切り抜き聴いてました土下座)、北斗くんが「俺って丁寧で長いじゃない?」と言っていた。あぁ好きだと思った。その長さに自覚的なことはもちろん、それが丁寧さに由来するものであることも自負しているのだ、と感じてしまった。言葉に向き合っている人なのだと。実際、この丁寧な長さによる発言は「目の穴から、耳の穴から…零れそうなくらい嬉しいです。」だった。穴を取りこぼさずに一つずつ確認するように辿る思考があり、それが言葉として表出していた。
咄嗟に話題を振られたときに慌てて出てくる言葉に現れるその人の思考の端くれを覗いてしまったようで少しルール違反かなと思うけれど、いかに普段言葉を構築することに尽力しているのかが見え隠れするその瞬間に、私は好きを募らせる。
その場で頭をフル回転させて話していることもたくさんあるだろうが、北學とか振られることが分かっているインタビューとか言葉を用意しておける場での言葉はいかに誤解がないように、いかに自分の伝えたいことに当てはまるように伝えられるかを軸に構成されているように思える。
私はアイドルの松村北斗しか知らないから、北斗くんが普段どんな風に言葉を紡ぐのかを知らない。だけどアイドルとして選ぶ言葉がこれほどまでに深いのは、自分の言葉で(そして言葉以外の表現で)伝えることに対して誤解を生んでしまうこと、それと同時に自分の言葉や考えが否定されることに対する恐れがあるからなのかな思う。
なんて切ないことなのだろう。私が大好きな言葉を、私に寄り添ってくれる言葉を届ける理由に北斗くんが苦しんだかもしれない過去がある。こういう優しく慮って、自分のことは自信なさげにどこか過小評価するような言葉を「選ばざるを得なかった」道を歩んできている。

アイドルのような表舞台に立つ職業を選んでいなければ触れる必要のなかった痛みに触れ、それを笑い話のように昇華させることでしか自分が傷ついたことを優しく伝えてそこから自分の心を救うことが出来ない立場にあるからこそ、北斗くんの言葉はここまで丁寧なのかなと思ってしまう。
自分の心を守るためのバリアを何重にも張ることで初めて自分の世界を構築しているその姿が、切なくもありだけど愛おしくもある。時々そんなに重ねなくても大丈夫だよと伝えて抱きしめてあげたくなるようなほどに、北斗くんの言葉は慎重で細やかだ。リアルタイムで喋るときにほんの少し粗削りな言葉が出ても、それを即座に訂正したり、あるいはもうそこまでまとめてエンタメにする方向に舵を切ったり、聴く側が傷つかないようにするのと同時にその跳ね返りの破片が自分に刺さらないように飛びのく。かと思えば深くこちらの善性を信じて委ねるような言葉を放つから、私は北斗くんのことが大好きだから出来る限りの北斗くんが描く善性通りで在りたいと思うけれど、ほかのところからの跳ね返りに傷ついてしまわないか心配になる。
その器用な不器用さがたまらなく愛おしい。そして北斗くんが自分を守るために選ぶ手段が言葉であることが嬉しい。


好きを辿る

北斗くんの言葉に救われたことがあるということも、私は北斗くんの言葉が大好きだということも事実なのだけど、たとえば何か一つ飛び抜けて私にとっての救いだった言葉があるのかと問われるとよく分からなくなる。
いつだって北斗くんの言葉が私の中に浸透するのはすごくゆっくりで、北學を何度も読み返したり、話していたことを何度も脳内や口の中で転がしてみたりして漠然とその「好き」の輪郭をやっと掴む。触れた瞬間に好きだということは分かるのに、それがなぜなのか、どこが好きなのかを見つけることはとても難しい。

ひとつには「私が普段思っていることをサラッと言葉にしてくれるところ」ということがあるのだが、それより深いところを辿ろうとするともう「北斗くんから放たれた言葉だから」という何ともぼんやりとしたものになってしまう。北斗くんの中で構築されたというだけで私にとっては大きすぎる価値がある。それは恐らく私が松村北斗という人がまるまる大好きで、その大好きの根底には「考え方が好き」があるからだと思う。その考え方が随所に散りばめられ、本を読んだり映画を観たり、その他さまざまに経験することで蓄積されて自分に馴染むまで使い込まれた知性と温度と湿度に溢れた言葉が、すごく好きな語り口で使われていたら、そりゃあ好きになってしまうだろう。

特効薬のようにその言葉を受け取った瞬間にそこへの「好き」が定まることなんてなくて、「なんか好きだけどこれはなんだ?」を積み重ねていくことで私は北斗くんの言葉を語る。その答えは時に聡さであり、知性であり、優しさであり、豊かさであり、人柄であり、感性である。けれど結局、北斗くんだから、ということなんだと思う。他の人が同じことを言っても響かない。北斗くんが今まで紡いできた物語があるから、それを北斗くんが語る意味があるから、私は北斗くんの言葉に好きを見出す。

だから「北斗くんの言葉が好き」ということはすなわち彼の物語が好きだということで、要するにシンプルに「北斗くんが好き」ということだ。
人を好きになるということはとても煌めく奇跡だと思うけれど、私の場合その奇跡に導いてくれるのは大抵その人の言葉だ。北斗くんという人への好きを辿る出発点が北斗くんの言葉で、好きだなと思うところを辿っていった終着点も北斗くんの言葉。私が松村北斗という人を知るために切り取って与えられるものが言葉で、それを一つひとつ拾って眺めて心に仕舞っていくことで私は北斗くんを好きになれる。
言葉は、北斗くんが見せてもいいと判断してくれたものの結晶だ。私はそれ以上を知ることは出来ないし、その知らない部分を勝手に想像で補うようなことはしたくない。
だから私にとっては北斗くんがくれる言葉は本当にかけがえのない宝物なのだ。


夜、流星を想うとき

これは私が「お迎え渋谷くん」を観ながらしたツイートだ。渋谷くんと愛花先生が離れた場所にいてお互いを想うシーンだった。

「好き」という気持ちを言葉にすることは相変わらず難しい。どうにかして北斗くんの言葉が好きですよと伝えようとしているのだけど、どこか独りよがりになってしまったり、自分の熱ばかりが先行してしまったりしているように感じる。

だけどもしかしたら、もっと簡単なことなのかもしれない。夜、帰り道にふと空を見上げたらくっきりとした三日月が見えて、その瞬間になぜか北斗くんのことを考えた。夜風が心地良くて足をぶらんと投げ出して自転車で下る坂道でふと北學の言葉を思い出した。

「好き」ということはその人のことを想うことだ、と私は思う。
北斗くんがこちらを想って言葉をくれているのだなと感じるときそこには愛があるように、私たちがなんとか北斗くんに想いを伝えようともがいているときそこにはどうしようもなく大きな感謝や憧れや愛があるように、その人を想っていることを言葉にすることはとてつもない愛だ。不思議なほどに純粋で神秘的ですらあるこの営みは、しかし決して終わることがないのだろう。だから余計に愛おしくて、どうにかして精度を高めて、密度を高めて少しでもたくさん伝えたいと願う。

北斗くんを想うとき、私の脳裏にはなぜだかいつも夜が浮かぶ。生活の中で「夜」を実感するとき、北斗くんのことを想う。
北斗くんが夜に瞬く星から名づけられているからなのか、北斗くんの持つあたたかな静けさが夜のようだからなのか、夜になると北斗くんの言葉がいっとう宝物に感じられるからなのか、はたまた私が夜を好きだからなのか、分からない。
もううるさいほどに言ってきたことだからまたダラダラと書くことはしないけれど、私にとって北斗くんは星だ。夜を明るく照らすようで、だけど瞬くと次の瞬間に見失ってしまいそうな儚さ。そこで輝いているだけでこちらを導いてくれるような、眼差されていることに自覚的なようでいて不意に無防備な姿を見せてくる愛おしさ。

(私にとって北斗くんは星、というお話はこちらの沼落ちnoteから↓)

その星から降り注ぐことばを、私は流れ星を眺めるように受け取る。刹那的に流れていってしまう、瞬間の輝き。そこに思わず願いを託したくなるような、必死に祈りを持ち込んでしまうようなヒカリ。それを見るために何日も前から天気を気にして待ちわびる懐かしさ。それを見ると少しラッキーでしあわせな気持ちになれて、これが見れたから明日からも頑張れるかもしれないと思う。また次の流星が見られる日まで、あの星に恥じないように真っすぐに生きていきたいと思わせてくれる。そしてまた、流れ星を見て記録をつける。何月何日何曜日、好きだよと、地平線に降っていった流れ星とずっと夜空に輝く星に告げて、いつまでも終わることのない、好きなひとへの言葉を探す旅をまた続ける。

北斗くん29歳のお誕生日おめでとうございます。ずっとずっと、大好きでいたいひと。ずっとずっと、憧れとともに見つめるひと。
ずっとずっと、世界でいちばん幸せでいてほしいひと。どうか笑顔溢れる素敵な一年になりますように。

おめでとう、輝くだいすきなほし。


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