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220.「天理教を信仰し始めて段々貧乏になっていくのはなぜでしょうか?」とド直球の質問をしちゃう深谷源次郎


はじめに


僕が飽きるまで、深谷源次郎氏(以下深谷氏)の逸話を取り上げるシリーズ第三弾です。



天理教を信仰し始めて段々貧乏になっていくのはなぜでしょうか?


深谷氏が、本席様に対して
「天理教を信仰し始めて段々貧乏になっていくのはなぜでしょうか?」
とド直球に質問し、それに対して本席様が応えられている「おさしづ」があります。

常人であれば「それを直球で聞いちゃうの?」と思ってしまいますが、そこは流石深谷氏、聞きにくいことでも疑問に思えば直接聞けてしまうわけです。

このように、先人が物怖じせず聞いて下さってたからこそ、僕達は聞きにくいことを聞かなくても良いという恩恵を受けています。(やったね٩( 'ω' )و)

しかも、その内容が原典である「おさしづ」に残っているとなれば、もうウハウハです。

ということで、早速そのおさしづを見てみましょう。

道に付てだん〳〵貧に落入る二付御伺ひ
さあ〳〵〳〵〳〵日々の事〳〵〳〵今一時どうせねばならん〳〵とは言わん。今の処というは、今日はこう〳〵と思う処ある。一人なりと一所なりと〳〵。内々成る処も思やんの処もある。日々の処も思う処がある。日々一人なりともという処続くよう。どうこもならんようになるで。今処内々の処も案じあるようなものやで。随分名も通る。どうせえとも言わん。後へ戻りたら、何にもならんで。随分々々じいとして〳〵も、今からや〳〵、世間から言うように成りて来るで。そこでじいとして居られんように成る。成りて来るで。今の処は心を配ばりて、楽しんで居るようの心定めてくれ。
明治20年10月

本部から発行されているおさしづの割り書には、「深谷源次郎伺」としか書いてありませんが、「河原町大教会史」には「道に付てだん〳〵貧に落入る二付御伺ひ」と割り書の詳細が書いてあります。

また、「河原町大教会史」に、このおさしづの大意として解釈が載っていますので、そこも引用させていただきます。

内々の者も案じてはいようが、どんな道も通らねばならん。しかし、これがために後へ戻っては、これまでの苦労が何にもならんことになる。末では必ず頼もしい道になって来るのだから、今はこの細道を楽しんで通る心を定めてくれ、とお励ましくださったのである。

「末では必ず頼もしい道になって来るのだから、今はこの細道を楽しんで通る心を定めてくれ」
ということですが、これを信じられるかどうかが、信仰者の大きな分岐点(壁)になるのではないかと思いました。

信仰の浅い方や未信者であれば、どんどん貧乏になっていく中を先を楽しみに神様信じることは、まぁ不可能だと思います。

むしろ、信仰のある程度深まった方であっても、いざその状況になった時に神様にもたれることは難しいかもしれません。

所謂、
「目に見える保証がない状態でも神様を信じて凭れることができるのか」
ということが問題なわけです。

深谷氏は、神様を信じ凭れ切っていました。
そのエピソードもいくつか簡単に紹介します。


神様が良いようにしてくださる


明治20年夏のことです。
商売道具の鍛冶道具を始め、布団までも質に入れてしまうほど困窮していました。そんな時、信者4、5名がおぢばがえりの途中に深谷氏の元へ立ち寄ってきたので、なんとか夕飯は準備出来ましたが、朝飯を用意する米もお金もありません。
神様のお話も終わり日付も変わった頃、そのことを妻ハナが源次郎に伝えると。
「ええわいなええわいな、なんにも案じることはいらん、神様があんじょうにしてくださるわい」(あんじょうに=良いように)
と言い寝てしまいました。
しかし、妻としては心配で眠れるものではありません。
そんな中、夜も明けてきたころ、突然一人の人が尋ねてきました。
話しを聞くと、急に仕事を注文したくなったので、夜が明けるのを待ち兼ねてきたということです。
その人が手付金5円を置いていったので、朝飯も食べられたし、鍛冶道具も布団も質屋から買い戻すことができました。

ここで注目したいのは、このお話は明治20年夏のお話ですので、本席様に
「天理教を信仰し始めて段々貧乏になっていくのはなぜでしょうか?」
と伺い、おさしづを戴いた明治20年10月より前のお話だということです

商売道具も布団も質に入れ
「ええわいなええわいな、なんにも案じることはいらん、神様があんじょうにしてくださるわい」
と言っていた深谷氏であっても、その3ヶ月後には、信仰していて段々貧乏になっていくことには、不安や葛藤があったことが読み取れます。

そんな不安と葛藤の中、本席様からおさしづとして神言を戴けたことは、深谷氏にとって、かなり大きな心の拠り所になったことも伺えます。

また他にもこんな話しがあります。


そんな神様を疑う精神はいかん!!


明治21年春のことです。
源次郎は鍛冶仕事を辞め、たすけ一条に邁進することになりました。
しかし、その姿を見ていた父源兵衛は悲しんでいたようで、
「源次郎が、ああして信心々々というて走り回っているのは結構やが、丹源(鍛冶仲間の一人)はこんなに零落して、家は質に入るし、食も止めては行く末が案じられる。それもまあよいとして、わしが死んでも葬式一つ出してもらえないようではいかにも口惜しいことや」
と悲観の言葉をもらすこともありました。
しかし、源次郎はそんな父に対して
「神様はどんな自由もしてくださいます。末の大道を楽しんでくださいませ。いま暫くのご辛抱をお願い致します。父上がお亡くなりになったときには必ず立派にお送り致します。それまでは死んでいただいてもならず、また死なしも致しません。どうぞご安心くださいませ」
となだめていました。
また、弟の悦次郎が父に安心して貰おうと、こっそりお金を隠していると、
「そんな神様を疑う精神はいかん」
と全額お道の御用に使うこともありました。
そんな中、明治24年1月13日に父源兵衛は出直しましたが、その葬儀は同16日に盛大に執り行われたそうです。

「そんな神様を疑う精神はいかん」
この言葉に信仰の真髄の一つが込められていると思います。

先程述べた「信仰者の分岐点(壁)」とは、まさに
「神様を一切疑わずに信じ切れるかどうか」
ではないかと思うのです。


これぞ「たんのう」の説明


このような深谷氏の態度について、河原町大教会史では以下のようにまとめられています。

「親神様の思召一筋にどこまでも実行していく」という神一条の精神と
「思召に縋って(すがって)精一杯つとめていれば、親神様はきっと一番よいと思召す結果をお与え下さるのだ」という絶対帰依の心から自ら湧き上がる喜びと明るさであった。

これこそまさに「たんのう」を端的に分かり易く説明した言葉だと思いました。

※補足
正確にというか、僕の悟り的に言えば、
親神様の思召にすがって精一杯つとめようがつとめまいが当人(の魂)にとって、一番丁度良い結果を親神様は与えて下さります。
しかし、たんのうするためには、親神様に対する絶対帰依の心は外せない要素だと思います。
ですから「思召に添って精一杯つとめていない」ことと「親神様に対して絶対帰依の心でいる」ことは共存出来ない(というか出来ていない)と思うので、実質的にたんのうするためには「思召に沿って精一杯つとめること」は必要なのではないかと現時点では思ってます。

「たんのうとは単なる諦めや我慢ではありません…(以下省略)」
みたいな説明より、僕はこっちの方が好きです。
(完全に好みですので異論は認めます)


今回の記事を書く中で、「天理教を信仰し始めて段々貧乏になっていくのはなぜでしょうか?」という伺いと、それに対するおさしづを掘っていくと、「結構源さん」とは、言い換えれば「たんのう源さん」だったんだなー、ということが見えてきて、更に
「結構≒たんのう」
かもしれない、という新しい気づきも得られました。

他にも色々思ったことがあったのですが、本編に書くにには毛色が違いすぎるので、少しだけおまけタイムで書こうと思います。


おまけタイム


どーも!「思ったことをただただ書くのおまけタイムが最適じゃん」と改めて思った男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!


※ただただ思った事を書くので、正しいかどうか、補足説明や言葉遣いなんかは一切気にしない方向でいきます。


「信仰者の壁をぶち破るのは戦士からパラディンへのクラスチェンジ」


「神様を無条件で信じて凭れられるかどうか」
ここには戦士からパラディンにクラスチェンジするばりの大きな壁が存在するんじゃないかと思った。

戦士でレベルMAXになったらいくら経験値を積んでももうレベルは上がらない、ここから更に成長するためには、クラスチェンジするしかない。
クラスチェンジするために必要なのは、単なるレベルだけではなく様々な条件が必要になってくる。スキルの習得やこなさなくてはいけないイベント、こういった複合的な条件をクリアして初めてクラスチェンジできる。

改めて言うが、信仰者のクラスチェンジは、
「神様を無条件で信じて凭れるられるかどうか」
ではないかと思う。

多くの信仰者は戦士だ。
弟の悦次郎のように、父に安心して貰おうとこっそりお金を隠している。(僕も間違いなくこっち側)
しかし、クラスチェンジした信仰者は源次郎のように、「そんな神様を疑う精神はいかん」という精神になる。

この両者の意識の違いは、
「念ずる者でも、用いねば反対同様のもの 明治29年4月21日」
このおさしづを彷彿させる。

戦士とパラディンは圧倒的に違う存在である。

ではクラスチェンジするために必要な条件は何か?

っていうことも色々と思い浮かぶけど、これを書いてたらかなり長くなってしまい一つの記事が出来てしまう分量になっちゃうので割愛。

ようするに、僕も将来的にはパラディンにクラスチェンジしたいって話しでした。

もし好評なら今後もこんな形を続けていきたいと思います。

本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!

ほな!

サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!