234.「貧に落ち切ること」について更に掘ってみた


はじめに

今まで、「貧に落ち切る」関連については、色々な記事を書いてきました。



今回、新たに気付いたことがあったので、自分用の記録メモついでに書いていきたいと思います。


貧に落ち切る必要はないのか?


こういう言葉をちょくちょく耳にします。

「教祖のひながたを形だけ辿っても意味は無い。教祖の心を辿らなくてはいけない」
「だから、現代で貧に落ち切る必要は無いと思う」

これは前半は仰る通りなんですが、後半の
形だけ辿っても意味は無い=貧に落ち切る必要は無い
としてしまう事は、いささか安直過ぎる気がします。

「貧に落ち切る」と言って思い浮かべるのは、天理教教祖伝逸話篇4「一粒万倍にして返す」です。

天理教教祖伝逸話篇4 一粒万倍にして返す
「貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。」

この逸話の「難儀なる者の味が分からん」というお言葉から、
難儀なる者の味(困っている人の心)が分かる事
が大切だと言う事が分かります。

しかし、世の中には、貧乏以外にも様々な「難儀」があります。
病気
人間関係
身体能力等々
金銭的困窮に限った話しではありません。

ではなぜ、貧に落ち切る事が、難儀なる者の味が分かることなのでしょうか?

別に「病気になる」でもいいと思いませんか?

この疑問の解像度を上げるために
「貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。」

このお言葉の「貧に落ち切れ」の部分を、別の言葉に言い換えてみたいと思います。


「病気になれ。病気にならねば、難儀なる者の味が分からん。」


「人間関係が悪くなれ。人間関係が悪くならねば、難儀なる者の味が分からん。」


どうでしょう。
なんだかしっくりこない気がしませんか?


おそらくしっくりこない理由は、病気になることや、人間関係で悩むことは、
「自分の意志だけではどうにも出来ないから」
だと思います。

自分の意思で
「今日中に病気になろう」
「今日中に人間関係を悪くしよう」
と思っても出来るものではありません。

しかし、それと比べて「貧に落ち切ること」


これは自分の意志で実行出来る。

自らの意志で、能動的に、実行出来るんです


厳密に言えば、病気になることも人間不信になることも、自分の意志で出来なくはないと思います。

しかし、そこに至るプロセスは、決して神様の思いに沿ったものではありません。

貧に落ち切る方法は、困っている人に施したり、お供えしたりすれば良いので、特に神様の思いに反するような事をする必要はありません。


でも「病気」や「人間関係」は違います。


もし自らの意志で病気になろうと思ったら、暴飲暴食やアルコールの大量摂取等、神様からお借りしている身体を粗末に扱わなくてはいけません。

自らの意志で人間関係を悪くしようとすれば、嫌われるために暴言を吐く、無視する等の方法で、相手の心にほこりを積ませてしまいます。

つまり、数多くある難儀の中で「貧に落ち切る」という難儀だけは、
神様の思いに反することなく、
自分の意志だけで、
能動的に、
難儀な状態に足を踏み入れる事が出来るんです


それは受け身ではない、自分から求める難儀です。


病気になりたい青年へ


ある友人が青年会の集まりで講話をする機会がありました。

その友人は、過去に大きな病気を抱えており、その講話では自分が神様に助けて頂いた話をしたそうです。

するとその講話後に、友人に対して年下の青年が、こう話かけてきました。

「僕も○○さんみたいに、病気を神様から助けて頂いた話がしたいので、神様に『どうか僕の身体に病気を与えて下さい』と毎日お願いしているんですが、全然病気にならないんですよね」

その言葉を聞いた友人はもちろん、その青年の考え違いを注意したそうなのですが、
「病気になりたい」
って願った事のある人は、実はかなり多いんじゃないかと思いました。


難儀の味を知りたい。
難儀の味を知れば、俺もその経験を元に、

お助けが出来るんじゃないか、
良い話が出来るんじゃないか、
実力が付くんじゃないか。


そんな幻想に捕らわれたことのある人は、少なくないと思います。
(僕も捕われてた事がありました)

しかし、そんな考えを持っている人に対して、ぼくは声を大にして言いたい。


「神様は、難儀なる者の味を知らなければいけないと言われている。
しかし、
そのために病気になれとは一言も言われていない。
病に苦しめとは一言も言われていない。
『貧に落ち切れ』と言われている。
貧に落ち切ることなら簡単に出来る。
寄付するなり、
人に施すなり、
神様にお供えするなりすれば良い。
だから、
尽くす覚悟が無いのに病気になりたいなんて言うな。」


「病気になりたい(難儀の味を知りたい)」
と言う人には、神様がハッキリと難儀を知る方法を示したお言葉があるということを、伝えていきたいです。


追記 難儀なる者の味ってどんな味?


記事の前半で、

難儀なる者の味(困っている人の心)が分かる事
が大切だと言う事が分かります。

と書きましたが、Twitterでやり取りする中で、大切なことを書き忘れていたので追記したいと思います。

「難儀なる者の味」この味ってどんな味なのでしょうか。

困っている人の、「苦しいとか辛いといった心」これももちろん、「難儀なる者の味」だと思いますが、それとは別に教祖は難儀の味がどんな味であるかを、しっかりと述べて下さっているのではないかと思うのです。

もう一度「天理教教祖伝逸話篇4 一粒万倍にして返す」を読んでみたいと思います。

天理教教祖伝逸話篇4 一粒万倍にして返す
「貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。」

この後半の部分、


「水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。」

これが「難儀なる者の味」だと思うのです。

この味は希望です。

辛い苦しい道中を歩んでいても、神様を離さなければ、一粒万倍になって返ってくる。

この味を知っているからこそ、人助けが出来るのではないかと思います。

助かるかどうか半信半疑では、神様に凭れて人助けすることはできません。

繰り返しになりますが、

「水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。」

落ち切った後に上がってくる。この喜びの味こそが、絶えることない希望を持ってお助けにかかれる力になると、僕は強く思っています。



おまけタイム


どーも!最近週一の更新もサボりがちな男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

更新をサボりガチな自分に喝を入れるべく、想像するだけで喝が入るような、厳しい状況を考えていきたいと思います。
(仏教本来の喝の意味と違う!というツッコミは大歓迎です)


1.レモン汁が目に入った瞬間、針に糸を通す。
レモン汁が目に入った瞬間に針に糸を通さなくてないけない状況を想像してみて下さい。
かなり厳しい状況なのが手に取るように分かると思います。
こんな厳しい状況に置かれたら、よほど精神を集中しないと乗り切る事ができないので、喝が入ること間違い無しです。


2.真冬に沸かしてから2時間経った湯船に浸かる
水風呂だと喝が入り過ぎて心臓が止まる恐れがあります。
ですから、沸かしてから2時間経ってぬるくなった湯船だと、丁度良いかんじの喝が入りますね。


3.解凍したお肉を再び冷凍する
一度解凍したお肉を、再び家の冷凍庫で冷凍することを想像して下さい。
叫びたくなりますよね。
これはきっと強烈な喝が入るでしょうね。

総喝
これだけ厳しい状況を想像するだけで喝が入ります。
ですから、来週からは毎週サボらずnoteを更新できそうな気がします(=゚ω゚)ノ


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!


サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!