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237.「あほうは神の望み」ちゃんと説明できる?


はじめに


天理教に関わっていれば、「あほうは神の望み」という言葉(もしくは類似した言葉)は、一度は聞いた事があると思います。

この「あほう」というのは、愚かであるとか馬鹿といった意味ではありません。

しかし、しっかり説明できるかと言われたら、意外とできなかったので調べてみたところ、思っていた以上に「あほう」という言葉には深い意味が込められていたので、今日は「あほう」について書いていきたいと思います。



「あほう」=「本真実の心」「真心」


そもそも「あほうは神の望み」はどこが出典かというと、
「先人の遺した教話(五)誠真実の道・増井りん」
の中に出てきます。
早速内容を確認してみましょう。

先人の遺した教話(五)誠真実の道・増井りん
「神様、私どもはあほうでございまする」と申しましたならば、「さようかえ、 お前さんはあほうかえ。神様には、あほうが望みと仰しゃるのやで。利口のものはつけん。人が小便かけたならば、ああぬくい雨が降ってきたのやと思って、喜んでいるのやで。人が頭を張れば、あああなたの手は痛いではございませんかと言って、その人の手をなでるのやで」と、仰しゃる。「その通りに、優しい心になるのやで」とお聞かせいただいております。
人がきつい言葉を言えば、我れもきつい言葉にて、一言言われればその通り仕返しをするというのが利口やから、仕返しをするのやないほどに。あほうになって、その時には言われましでも、あほうになって言い返しをせぬように。叩かれても叩き返しをせぬようにするのが、これが本真実の誠、真心である。
(後略)


このお話の状況を想像すればするほど、「あほうになる」ということは凄い境地だということが分かってきます。

一言で言えば「超受け取り上手」ということです。

「小便をかけられる」とか「叩かれる」ているのに、喜んだり相手の心配をすることは中々出来ません。

ここでのポイントは、
「その通りに、優しい心になるのやで」
と言われているように「優しい心」だと思うのですが、
単純に
「優しい心になって、相手が嫌なことをしても許してやってくれ」
という意味では無いと、僕は思います。

一般的に教祖と増井氏の会話の流れで、
「優しい心になるのやで」
と言われると、
「腹が立つと思うけど、許してやってくれ」
「酷い事をされても許してあげる、優しい人になってくれ」
このように考えると思います。

しかし、教えを元に考えると、このような考え方では間違いです

ここの解釈で要になる教えは
「世界は鏡」
「心通り、皆世界に映してある」

この二つだと思います。

優しい心になれば、心通りの世界が目の前に広がりますので、「小便をかけられる」「身体を叩かれる」といった嫌がらせのような行動の中に、優しさが垣間見えてきます。

つまり、
そもそも腹が立たないんです。

この、腹が立たない優しい心が「本真実の誠」「真心」なんだと思います。

このように考えると、腹が立った時に
「腹を立てちゃ駄目だ、腹が立つけど優しい心になって、許してあげなきゃ」
と考えるのは、
案外間違いなのかもしれません。

おさしづに、

腹の立てるのは心の澄み切りたとは言わん。心の澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや
明治20年3月22日

このようにあります。

つまり、
腹が立つ原因は相手の行動ではなく自分の心です。
自分の心が澄んでいないから腹が立ちます。

火元を確認せずに水をまいても火は消えないように、
腹が立つ原因(心の濁っている部分)を見つけ、その心を掃除しなくては、優しくなれません。

という事なので、腹が立った時にすべきなのは、

1、何が原因で腹を立てたのかを考える
2、その腹を立てた原因が、自分の心の濁っている部分であると自覚する。
3、神様に心の濁っていた部分をお詫びし、心の濁りを教えて下さったことに感謝する。
4、腹を立てていた原因が「自分の心」であることが腑に落ちれば、そのような心遣いはしなくなり、次に同じ様な事が起こっても腹を立てなくなる。
5、優しい心になれる

このようなプロセスを踏めば良いんじゃないかと、個人的には思っています。



「あほう」の対義語は「人間思案」


更に、天理教辞典を読んでみると「あほう」の解像度が上がります。
早速読んでみましょう。

天理教辞典
あほう
阿呆。一般には、人をののしる言葉で、ばか、おろか、たわけ等と同意。知能が劣っているさま、また、そのような人や行動を指すが、天理教の教えでは、こざかしい「人間思案」を否定する意味において、つまり「こうまん」(高慢)という「ほこり」(埃)を払った低い心、素直な心、ひいては澄みきった心を表す象徴的な意味において用いられる。
人間の目に賢いと見えることが、神の目にも同じように見えるとは限らない。時には、神の思いに添って生きることが、人からは、あんなバカなことをして、と言われることもある。こうした神の思いに添った生き方を「あほう」と表現されたのである。
(後略)

天理教辞典のこの部分をみて下さい

天理教の教えでは、こざかしい「人間思案」を否定する意味において、つまり「こうまん」(高慢)という「ほこり」(埃)を払った低い心、素直な心、ひいては澄みきった心を表す象徴的な意味において用いられる。


これを読むと「あほう」って、めちゃくちゃ褒め言葉になってますね。

皆さん、これから素晴らしい信仰者に出会った時は
「あほうあほう、あほう者」
と言って褒めて上げて下さい。

教理が心に納まっていれば、きっと飛び上がって喜んでくれると思います。
(なお、このことに関するトラブルが起きても、当方は一切責任を負いかねますので、よろしくお願い致します)

横道に逸れたので、本題に戻ります。

僕が天理教辞典で面白いと思ったのは、
「人間思案」と「こうまん(高慢)」が密接に関わっているという点、
そしてこれが「あほう」の対義語として上げられている点です。

ここでいう「人間思案」「こうまん」というのは、
人間(自分)の考え>神様
このようやな考え方になる事、つまり、
神様の仰ることより自分の判断の方が正しいと思ってしまう。
このような心の状態だと思います。

人間の目に賢いと見えることが、神の目にも同じように見えるとは限らない。
時には、神の思いに添って生きることが、人からは、あんなバカなことをして、と言われることもある。こうした神の思いに添った生き方を「あほう」と表現されたのである。

このように天理教辞典では
「あほう」=人間(自分)の考え<神様
つまり、
人間(自分)の常識的な考えを捨てて、神様の思いもたれることが「あほう」だと記載されています。



「優しい心」忘れられ問題


よく、講話とか感話で使われている「あほうは神の望み」は、天理教辞典に書いてある
「人間思案を捨てて神様にもたれよう」
というニュアンスで使われてることがほとんどだと思うのですが、
「その通りに、優しい心になるのやで」
この言葉があまり重要視されていない現状は、結構問題なんじゃないかと思いました。

その理由は、「あほうは神の望み」は対人関係、特に未信者との関わりに対してのお言葉だと思うからです。
(「俺くらいの年ならバリバリ働いているのに、俺は何してるんだろう。」と、未信者と自分を比べての不足も、当てはまると思います。)

未信者からの非難や嘲り、またそれらへの不足に対して、
「人間思案を捨てて神様にもたれよう」
というだけでは、
「では神様にもたれるにはどうすれば良いのか」
が示されていないので不親切だと思いました。

こう言われるだけでは、
「自分の考えを捨てて、何も考えず神様の言う通りにするんだ」
「他人から何を言われても無視しよう、気にしないでおこう、だって自分は神様の仰る通りにしてるんだから」

このように、考える事を放棄して、とりあえずがむしゃらにやれば良いと思う人が出てくると思います。
またこのように考えて、
「神様の言う事にはついて行けない」
と思ってしまう人もいるかもしれません。

そうではなく、
「あほうになる」という事は
「優しい心になること」
「本真実の誠、真心になること」

このような心になることだと、出典の
「先人の遺した教話(五)誠真実の道・増井りん」
にはっきりと書いてあります。

この説明がないと、「あほうは神の望み」が結構マッチョな教えになってしまうと思いました。



今回、「あほうは神の望み」について調べて考えることで、初めて知った事や気付いた事が沢山ありました。

当たり前のように使っている教語であっても、元を尋ねて調べてみるのって大事だなーって、改めて思った次第です。


おまけタイム

どーも!あるあるを言いたい男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

学生時代を合わせると、10年以上炊事本部にお世話になってきた僕が、炊本あるあるベスト3を言いたいと思います。


第3位 週3でステーキ
現在炊本では週3でステーキが出ます。
噂によると、いきなりステーキが大量に閉店したので、余った肉が本部に回って来ているそうです。
厚さ10センチ、幅0.5センチの極厚ステーキが出てきます。



第2位 生産者さんの顔が見える
見える人には見えるし、見えない人には見えないらしいです。
神様と同じです。



第1位 春巻き多め
春巻き多いです。


本日も最後まで読んでいただきありがとございました!


ほな!


サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!